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たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



昨日から今日にかけてのクライシスの話。この週末に、遅れている原稿をなんとか仕上げなければならないなかで、下書き原稿の入っている16GBのUSBが、急に動作しなくなった。ランプが点き(写真)、ディスク表示はあるけれども、Oバイト表示になって、中身を開くことができない。いろんなパソコンで試してみたが、どれでもダメで、どうやらUSBフラッシュメモリが壊れているということくらいは分かった。しかし、どうしたらいいのか、その対処法が分からず、とりあえず、原稿に関しては、メールで提出した以前のバージョンをダウンロードして、なんとか修正を加えつつある。気になるのは、USBのほうだ。そこには、2005年以降のすべてのデータが入っている。原稿やレジメなどのワードファイル、授業で使っているパワーポイント、さらには、フィールドで撮った全デジタル写真、そのほかの資料がたっぷり・・・・もちろんバックアップなんか取ってないし、今後の授業や月末提出などの学校関係の資料などなどが収まっていて、開くことができないと、ほんとうに困ったことになる(泣。6年前にも、急にUSBが開けなくなって(たぶん2GB)、困ったことがある。そのときは、復旧見積もりしてもらったら、かなりの高額(5,6万円)だったので、内容の重要度に照らして、復旧依頼をしなかったのだけれども、それ以降、二度とそんなことは起きないだろうと高をくくっていて、バックアップも取らず、次から次へとすべてのデータをそのUSBに詰め込んできた。あ”~。お手上げだ。パソコンは人の仕事をやりやすくするために作られたはずなのに、仕事の量を増やし、さらには、人をピンチに陥れる。なんと皮肉な。今日は大学に、赤ん坊のころから、左手にほにゅう瓶を持ち、右手でパソコンをいじっていた(?!)というMちゃんがいて、データ復旧について、パソコン上で調べ方を教えてくれた。データ復旧会社2社に電話をして、そのうち1社に依頼してみようと考えた。会社経営が成り立つほど、データ障害は起こりうるのだ。あ~、オソロシイ。パソコン関係のデータに関しては、<論理障害>と<物理障害>というカテゴリーがあるようだ。どうやら、わたしのものは、MBR(マスターブレートコード)の破壊や消失などによる(という説明があるが、どういうことか分からない)論理障害のようであり、さきほど、データ復旧を専門に扱う福岡の会社に媒体を郵送して、復旧可能かどうか見てもらって、見積もりを取ることにした。というわけで、その論理障害が軽度のものか重度のものかも分かっていないし、復旧できるかどうかも分からないので、わたしとお仕事でご一緒している方々のなかに、このブログを見ている方々がいらっしゃればの話として、期限などに関して、温かなご厚情を期待しつつ。オランダー日本のサッカーのキックオフって、もう始まっているんだっけ?がんばれニッポン。アーセナルのファン・ペルシーのファンですが。



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日本文化人類学会の研究大会の開催に合わせて人獣科研の合宿を行った。
http://www2.obirin.ac.jp/~okuno/man-and-animal.html
メンバー全員はそろわなかったし、研究発表をきっちりとやるというのでもなく、雑談・放談入り混じっての、ゆるゆるな感じの意見交換のための懇談会という趣だったが、研究会のように口頭発表を聞いてがっかりするというようなこともなく!、まとめの向けてのウォーミングアップのようなものながら、ブレがないかたちで方向づけをすることができたので、こんなやり方もなかなかいいなあと、改めて感じた次第である(写真:Mちゃん、差し入れ有難う)。まとめに向けた課題に関する見通しはここでは触れないとして、もうすぐ出かける予定の、わたし自身の調査研究のための覚書として、獣と人に関して思いついた点に関して
書き留めておきたい。第一に、もともと科研のサブタイトルが「コスモロジーと感覚からの接近」であり、感覚については個人的に関心があったのだが、切り口が得られず困っていた。あるメンバーの調査地での触覚をつうじた獣との関係の捉え方に学んだ点がある。そこでは、触れることをつうじて、獣への親密性を獲得するだけでなく、逆に、獣からの攻撃を受けてケガをする場合もあるという。そうした触覚による獣への接近は、狩猟をゲーム(獲物ではなく、遊びのゲーム)として見る見方へとつながっている。他方で、狩猟民プナンにとって、獣は、基本的には、触れてはならない、接触してはならない存在であり、忌避され、遠ざけられているがゆえに、狩猟はゲームのようなものとして捉えられるのではなく、獲れるか獲れないかという<運>の問題に還元されて語られることになっているように思われる。プナンは、極力、獣に触れないために、その温もりをとおして、動物性というものを感じることがない。別の角度から言えば、触覚による接触が極小化されている。狩猟民には、彼らが獣を飼育しないために、基本的には、動物との触覚を介した関係性が構築されることがないのかもしれない。プナンの事例観察をつうじて、こうした点に関して、もう少し深めてみたいと思う。第二に、獣が有する心や魂、あるいは主体の問題とも関連するが、人は、種や類として獣を捉えるのではなくて、獣をそもそも個体として捉えているのではないだろうかという問題提起があった。マテーリアとなり、種として消費される肉としての獣は、もともとは、人間にとって、個別的な関係の対象だったのではないだろうか。農耕牧畜民から遡り、狩猟民にとって、例えば、イノシシを種として捉えているのかというと、じつは、そうではないのかもしれない。種に魂があるわけではない。個々のイノシシに魂がある。こうした点に関しても、調査をつうじて、探ってみたいと思う。最後に、その他の話題。わたしたちは、人間から出発して人と獣の関係を見ていて、人による獣の捕食だけしか視野に入っていない。逆の、人が獣に襲われて食べられる事態が欠けている。人と獣の関係を考えるさいには、とりわけ、獣と人の人類史を視野に入れるならば、トラやサメ、ゾウに襲われる人について考えることも必要ではないかという意見が出された。さらには、ペットというのは、人による操作対象に情愛が注がれて、そのことが肥大化する極端なあり方の蔓延化現象という意味で、検討すべき重要なテーマではないかという意見が出された。



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ここ数週間、あらゆる事柄を後回しにして、われわれはまるで恋人同士のように空いている時間を見つけて、自ら本番前に燃え尽きてしまうことを望むかのように、むさぼるように読書会や勉強会を開いてきた。いまとなっては、たまりにたまった仕事などのことがやや気にかかるが、昨日、われわれのパネルは、なんとか終了した。3時間にわたる長丁場。事前に何度か予行会をやってみて、内容が複雑多様で、一貫性に欠けるのではないかという課題が浮かび上がり、民族誌というキータームを軸に再調整してきたのであるが、そんなことはさておき、昨日のパネルの熱まだ覚めやらぬ状態で、批判やコメントの断片、個人的な感想などを幾分ごた混ぜにして書き留めておきたい。まずは存在論について、それは文化という概念が少々分かりにくくなってきていることに対するオルタナティブとして提起されたという指摘。われわれはその用語を用いてパネルを組み立てた。「プナンが動物に魂がある」という伝聞調は存在論ではない。それは表象である。「プナンにとって動物には魂がある」という言い方が存在論なのではないか。ところで、動物と人間の連続性を問題とする分科会の全体をつうじて、われわれは自然と社会を切り分けた上で、人間を自然物へと投影するような、タイラー流のアニミズムの枠組みから一歩も外に出ていないのだろうか、いや、意図としてはその点を突き抜けることにあったのだが、そう見えなかったのだとしたら、われわれの試みは、遺憾なことに、まだまだ出発点に達していないことになる。しかしながら、われわれの試みが、静的な対象の分類という、こういった問題を論じる際に取り上げられるような行き方ではなく、働きかけや交渉に焦点を当てながら組み立てられていたということに対する評価には、たいへん勇気づけられた。加えて、エスノグラフィックな描写のあり方を、最近小説を書いた迫力のある先生から評価された点についても、われわれは同じく励まされた(「剽窃しないように自ら注意したい」と言われていた)。しかしながら、人間と間の連続性というテーマを、近年、西洋の自然科学だけでなく人文科学もまた強調する傾向があり、デスコーラやVdCなどを多用するやり方は、日本のアカデミズムの欧米植民地状況を示すものであり、それに対して、人間と動物の連続性に関しては、日本国内にも数々の立派な蓄積があるわけで、それらをネグレクトするのには不信感を抱いたという指摘は、じつにもっともな話であると思った。さらには、これまでの予行会でも、複数の人たちから指摘されてきたことではあるが、<動物と人間>に<自然と社会>の代表権はあるのかという問いは、無生物を取り上げるべきだという、今回フロアから提起された注文へと直結する。それもまた、もっともな話だと思う。動物と人間だけでは、自然と社会は語れない。全体をつうじて、わたしは、一方では、VdCの試みに関する理解が、まだ十分に行き届いてないのではないかと思った。多自然主義やパースペクティヴィズムは、まだアカデミズム内での市民権を得ていない。第一に、そうした点をよりいっそう深める必要性を感じた。他方では、対象への感情移入、間のなかの精神・魂というようなものの人間側の読み取りに関して、わたし自身が、まだ十分に汲み尽くせていないことを痛感した。まずは、それらに挑むことから、再出発するべきなのかもしれない。ゴールは、そんなものがあればの話であるが、カーブの向こうのトンネルのまだずいぶん先である。
http://www.jasca.org/meeting/44th/proceedings.html#1h
http://www.jasca.org/meeting/44th/H-02_H-071.pdf
今日はこれから、別の研究合宿に出かける予定。



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先週の金曜の夕方のことである。車を走らせていたところ、数台前の車から次々に車が大きく右に迂回して何かそこにある物を避けていたが、やがて分かったのは、それが道路に投げ出された猫の死体だったということである。歩道には10人ばかりの子どもたちがいた。何をしているのか分からなかったが、数人の子どもたちは、大きな声で笑っているようだった。轢死した猫と莫迦笑いする子どもたち。全くちぐはぐな、ぞっとするような光景であった。しかし、そのとき感じた違和の原因を確かめなかった、いや、確かめることができなかったため、わたしにとっては、それが現実であったのか、わたしの事実誤認であったのか、そのあたりが今となってははっきりと分からない。記憶というのは、じつにあやふやなものだ。さきほど、先週土曜日の研究会で読んだ、デスコーラの「自然と文化を超えて」(Descola, Philippe 2006 "Beyond Nature and Culture)を取り出して、まとめ直そうと眺めていて、論文の細部の記憶がすでに大きく抜け落ちてしまっていることに気づいて、ついでに、その前の日の記憶を辿り直してみたのである。ほんの数日前の記憶でさえ、どんどんと失われてしまっている。それでもなお、もがきながらも、デスコーラの論文について、まとめておきたい。

その論文を読んで分かったことのひとつは、パースペクティヴィスムとはアニミズムの一種だということである。少なくとも、デスコーラはそう考えている。考えてみれば、ごくあたりまえのことである。
VdC(ヴィヴェイロス・デ・カストロ)は、アメリカ先住民のパースペクティヴィスムにおいては、<見る>ことによって主体が生み出され、その意味で、人間も人間以外の存在(精霊、動物など)も、自らのことを意識する(再帰的な)主体となりうるという。興味深い民族誌データを揃えた上で、VdCによれば、アメリカ先住民たちは、主体=文化が単一であると考えている。VdCによって、こうしたパースペクティヴィスムは、「単一の文化、複数の自然」(文化が誰にとっても共通のもので、自然が多様であるとする考え方)へと、スリリングなかたちで高められているように思う。それに対して、デスコーラによるパースペクティヴィスムに対する反論は、高い志に貫かれているようなものではない。そういうふうに読める。デスコーラは、たしかにパースペクテヴィズムというようなものはあってもおかしくないが、それは、世界内存在との関係を、身体性(物質面)においては分断しており、その一方で、内面性(魂)においては類似している、アニミズムを複雑化させたもので、民族誌データによっても保証されない理論立てを用いて、アニミズムについて考えるのは行き過ぎだという。若干、拍子抜けしたような印象を受けた。デスコーラは、ジャガーは、自らを人間であると捉えているが、他の動物が自分のことを人間であると考えていることに照らして、ジャガーも自分自身を人間ではないということに気づくということがあるのではないかというような、ちょっとなんだか分からないようなかたちでのパースペクティヴィスム批判を展開している。

次に、デスコーラは、対象と身体性と内面性を分かち合い、一体化するようなトーテミズムに関して取り上げている。研究者たちは、
トーテム動物やそれとの関係に眼を奪われてきたが、身体性と内面性に関して、トーテミズムをもっている人たちは、より精密なかたちで、動物と人間のつながりを描写しているのだという。また、デスコーラが1996年の論文では取り上げていなかった類比主義については、以下のようなものだという。すなわち、結合する諸関係が最初に想定されていて、それを探し出す力を用いて、脆弱な要素を編成することだと。最後に、自然主義とは、17世紀のルネッサンス期の、原因がなければ何事も起こりえないというような秩序と必然性の場としての自然科学の出現だけでなく、その後、19世紀に、そのカウンターパートとして立ち上がった、社会人文科学をも含むものなのだという。そうした西洋思考の主要な流れは、今日では、「単一の自然と、複数の文化の共存」という考えへと結晶化してきている(このタームは、ラトゥールから引いてきたのかもしれない)。自然主義とは、内面性において非連続的である一方で、身体性において連続的であるような、対象との関係に基づく思考のあり方である。

その後、デスコーラは、これらの「4つの同定化の様式」が、それぞれ排他的でなく、時と場所に応じて可変的なものであるという点に触れた上で、人間と間が、それをとおして現実を感知し解釈する枠組み(=4つの様式)のことを存在論と呼ぶと述べている。デスコーラは、
存在論が作動する基盤として、「社会」の概念に代えて、「コレクティヴ」という概念を提起している。社会は、人間だけに関わる存在と規範についての独立した領域であり、社会的であることが説明されなければならない。コレクティヴの概念を提起した上で、ふたたび、4つの同定化様式を、人間と間を含みながら再検討しようとしているのではないか・・・続く。



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神々があるときすっと降り立つようにざわめくようにそれは。
なぜこんな長い間それを聞き過ごしてきたのであろうか。
それはしだいに場所を占めわたしを
空っぽにしてゆく。

リパッティ ショパン ピアノ・ソナタ 第3番 ロ短調 作品58 第1楽章
http://www.youtube.com/watch?v=nwdllqgXqyA

(写真:マルタ・アルゲリッチ ショパン ピアノ・ソナタ 第2番&第3番)



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今日からもう6月。
30点満点で、持込可で、文化人類学の中間テストを行った。

得点分布は以下のとおり。

30点 11人
27点 40人
24点 42人
21点 45人
18点 43人
15点 27人
12点 22人
9点     9人
6点  1人
3点  1人

平均点 20.32点

範囲は、「文化人類学とフィールドワーク」と「家族と親族」。
問題は、例えば、こんな感じ。

 【8】ヌアー社会の結婚に関して、間違っているものはどれか

1. 花嫁代償としてウシを30頭贈った後に夫が死んだ場合、未亡人は、夫の兄弟と一緒に生活する。その間に生まれた子どもは、亡き夫の子どもと認められる。

2. 女性が自分の名前でウシを30頭用意し、花婿として結婚することができる。性交渉を行うのは別の男性であるが、その男性と花嫁の間に生まれた子どもの父親は、30頭のウシを贈った女性である。

3. 女性婚の場合、性交渉を行うのは別の男性であるが、生まれた子どもは二人の母親を持つことになる。


4. ヌアー社会では、ジェニター(生物学的父親)が無条件にペイター(社会学的父親)になるのではなく、妻に婚資を贈った人物がペイターになり、そのペイターの生死や性別は問われない。

答えは、3.

(写真は、試験風景)



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