たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

文化は精神の現代名である/観点が主体を生む

2010年05月31日 23時39分26秒 | 自然と社会

①.「自然」というカテゴリーに言及した瞬間、そのカテゴリーは、自然に対する対概念として立ち上がるがゆえに、自然と文化の二分法を強化することになる。したがって、ヴイヴェイロス・デ・カストロ(VdC)は、文化とは精神(超自然)の現代の名前なのだという。この問題は、アニミズムへと接続される。結局のところ、タイラー流のアニミズム(およびその延長線上に位置づけられるデスコーラのアニミズム論)は、まずは、文化(人間)と自然を切り分けた上で、人間のもつ精神(魂)を人間以外の存在に投影しているという点で、問題含みである。人間の社会性を人間以外の事物に投影するものとして解釈されるようなものとしてのアニミズムは、喚喩(隣接しているもの)の隠喩というほどのことにすぎないのだ。こうしたアニミズム批判は、VdCによって、デスコーラのアニミズム理解に対して与えられたものであると理解することができよう。→2006年のデスコーラの論文には、VdCのこの点に対する反論が行われているようである。

②.観点(見方)というのが対象を生み出すというようなソシュール的な理解(=主体がまずいて、そのことによって観点(見方)が固定される)に対して、アメリカ先住民の観点主義では、観点(見方)こそが主体を生み出す。そこでは、観点(見方)によって活動がなされるものであればどんなものであれ、主体となる。だから多くの社会で「人」を意味する語は、たんに人によって使われるのではなく、イノシシやホエザルやビーバーが自らを言及するときに、「人」という語が使われることになっている。それは、人というよりも、人格と呼んだほうがいいものなのかもしれない。そのようにして、アメリカ先住民社会においては、人間以外の存在は、人間と同じように見ている(という意味で再帰的な主体なのである)のだが、いわゆるその意味における「人」が見ている「もの」がまちまちである。わたしたち人間にとって血であるものが、ジャガーにとってはとうもろこしのビールに見えるし、わたしたち人間にぬた場のように見えるものが、イノシシにとっては大きな儀礼小屋なのである・・・続く。

以上、本日の研究会の粗雑なまとめとして(VdC, Cosmological Deixis and Amerindian Perspectivism, Animism-the first part of Multiculturalism)。


研究会の後、雨のしとしと降る昏き夜に

2010年05月30日 01時30分31秒 | 自然と社会

いったい、何年ぶりだろう。昨日、もう数年訪れたことがないかつての学舎に、研究会(パネルの予行会)のために出かけた(写真)。雨が降って肌寒い土曜の夜、その街は、人が多くもなく少なくもなく、心地よい雰囲気を発していた。酒を飲み、酩酊のうちに。冷めないうちに書き留めておきたいことがある。研究について。

第一に、「自然と社会:動物と人間の連続性」というパネルのタイトルは、繊細さに欠けるという指摘がなされた。動物と人間を、そのまま自然と社会に置き換えられるのかという問いと同時に、連続性、連続的なるものという不確かな事柄がどれだけ語られているのかという指摘は、全体をつうじて、そのとおりかもしれないと思う。

第二に、その点にも関わるが、デスコーラに収斂する議論の問題。デスコーラの図式はひじょうに静的なもので、社会学のパーソンズ的な図式ではないのかという見方については、再検討しなければならないだろう。また、ヴィヴェイロス・デ・カストロではなく、なぜデスコーラなのかという点が説明されなければならない。さらには、ラトゥールに触れていないのはなぜなのか。彼を無視する積極的な意図が説明されなければならないとされた。いずれにせよ、わたしたちの議論のベースをなしているデスコーラ。彼のモデルの評価について考えなければならない。

第三に、自然と社会の二元論を反省する上で、存在論という枠組みを用いても、結局、文化を語ることへと回収されてしまうことに対する危惧がある。存在論、認識論、文化の問題。そういった議論の先に、人類学の近年の存在論者たちが見ている大きな批判の枠組みを見渡さなければならない。
それは、相当重いテーマである。

第四に、自然と社会を語るために、なぜ、デスコーラやヴィヴェイロス・デ・カストロが参照されなければならないのか、そもそも、その積極的な理由は何なのかという点についても考えておかなければならないのかもしれない。
デスコーラは、マルクス主義的な観点から出発して、その後、存在論へと至った。その経緯についても、押さえておく必要があるのかもしれない。

わたしたちは、限られた時間のなかで、早速、次の集まりの日取りを決めた。来週の月曜の朝から、ヴィヴェイロス・デ・カストロの存在論を探り、ラトゥールを読むことにした。とりあえず、大急ぎで。


多自然主義、存在論その他

2010年05月28日 23時48分36秒 | 自然と社会

昨日研究仲間で読書会をやった。その後に別のメンバーも加わってスカイプで議論をした。内容は全体的には覚えているが、細かい点は記憶が蘇ってこない。なぜか。12時間近くにわたって食を忘れて没頭したせいではあるまいか。長い間やりすぎて効率が、著しく低下したにちがいない。パネルの前にすでに議論でヘトヘトに疲れてしまっているような感がある。いったい何を得たのだろうか。その点を整理しておかなくては、今後は、なおさらのこと思い出せないのかもしれない。Viveiros de Castro のCosmological Deixis という論文を、ほんとうに理解しているのかというのが出発点であった。再読であるが、以前本当に理解していたのかどうかきわめて怪しい。それだけ含蓄の深い論文である。途中までしか読み進むことができなかったが、大きくまとめるならば、相対主義とか普遍主義というような文化をめぐる議論は、西洋のある見方を踏まえて行われているというようなことが述べられている。それは、一つの自然があり、多くの文化があるという「多文化主義」の考え方である。アメリカ先住民は、これとはまったく逆に、文化は普遍的なものであり、自然が多様なかたちで現われるという(「多自然主義」)。西洋思考では、文化を一つ一つ区切って、その間の交渉が行われるというような事態が起きる。その上に、相対主義とか普遍主義というような議論がなされている。しかし、アメリカ先住民の世界では、そういったことはありえない。多自然主義者たちは、多様なかたちで存在する精霊や動物と交渉する。いわゆるコスミック・ポリティクスが行われるという。また、この論文を読んで、ヴィヴェイロス・デ・カストロが、それ以前に出たデスコーラの論文の「自然を対象化する三つの様式」を批判し、それに応じて、デスコーラが修正を加えて、「同定化の四つの様式」を提起したのではないかということも分かった。「存在論」に関してもわれわれは議論をした。それは、基本的に、実践を伴う。さらに、そのタームの使用には、より強烈なクリティシズムの匂いが嗅ぎ取れる。社会や社会的なるものが、西洋においてつくりだされた概念であり、わたしたちは、それを疑ってみることはないが、デスコーラの存在論の「同定化の四つの様式」は、社会という大きなくくりにおいては作動しない。その可変的なモデルは、コレクティブというより小さな集合において考えることができる。そういった意味で、存在論というタームは、既存の概念やそれを生み出した西洋思考に対する何らかの挑戦であるのかもしれない。荒っぽいが、備忘のために。


自然と社会1.5

2010年05月24日 11時04分40秒 | 自然と社会

かつて非常勤講師をやっていたことがある大学で行われた(特に名が付けられていない)研究会に出席してきた(キャンパスは、以前は隅々にまで手入れが良く行き届いていたが、昨今のコスト削減のためか、少し荒れている感じがした:写真)。ちょうど一年間続いた<自然と社会>研究会を引き継ぐかたちで、有志によって、フィリップ・デスコーラの『自然の社会で(In the Society of Nature)』の読書会が立ち上げられたからである。参加者の主要な関心は、デスコーラの2006年の「自然と社会を超えて」で提起されている<存在論>そのほかの議論へと至る、いわば出発点である1986年出版の、博士論文をベースにしたエスノグラフィーの読解にあるように思えた。その20年の間に、デスコーラは、どのようにして、新たな理論枠組みを提起することへとたどり着いたのか。原点へと立ち戻るならば、その着想の芽を見出すことができないだろうか。どうやら、そんなところに、この読書会の趣旨はあったようだ。デスコーラが、アマゾニアのアシュアール・ヒバロでフィールドワークを行ったのが、1970年代の後半のこと。彼は、1980年代前半にもてはやされた<象徴形態論>(自然をその上に観念が行使される対象として見る)、さらには、<生態学的還元論>(あらゆる文化の表れを自然の「自然な」作用の兆候として説明する)のどちらかの一方の立場に与することに抵抗して、象徴(=観念)と技術(=物質)の間のダイナミックな相互作用の観点から、近代文明から隔絶して、周囲の自然環境とともに生きるアシュアールのエスノグラフィーを試みたようである。「一般的な序」の冒頭で述べられている、自然に関する見方は、後の『自然と社会』(1996)の問題意識を先取りしているように思える。その見方の一つ目は、①自然を社会のもう一つの生きた片割れとして見るものであり、そこでは、宇宙がそれに語らせる人びとの幻想的な声をつうじて物語を語る。もう一つの見方は、②自然を人間行動の領域の外部で起きる一連の現象であると見るものであり、数式化に従属するような寡黙なフュシスだという。デスコーラは、その二つを同時に結び合わせることができるのが人類学者の特権であるというような言い方をした後で、面白いことを言う。前者、すなわち、所産的な自然観を有するのは、合理主義的な伝統に固執し続ける人であり、後者、すなわち、能産的な自然観を有するには、エキゾティックな思考体系のがまん強い学習者にならなければならないと。わたしたちは、忍耐強く、先住民社会の人たちの声に耳を傾けるならば、風や鳥が何かを語っている人びとが言うことが、じつは宇宙がそのことを言わせていることにほかならないと気づくようになるというのだ。なかなか面白い指摘である。この部分は、研究会の後半で取り上げられた、<存在論的遭遇>の議論ともリンクしているように思える。存在論を、可変的な<コレクティヴ>(=諸人格がある集合体につながれているあり方)の対象の理解の様式であると捉えるならば、忍耐強く観察すれば、その同定化の様式が、時と場所に応じて、ずれてゆくのである。しかし、それは、<存在論的遭遇>にはちがいないが、イデオロギーの「改宗」というような事態と似ていなくもない。<コレクティヴ>という概念は、<社会>という概念に代わって提起された、それに代わる新たな概念である。デスコーラが説くように、<社会>という概念は、邪魔だし、厄介なのかもしれない。大雑把に言うならば、ある<社会>の特性なるものが、不変的なものとして表象されるが、それは、学問が生み出した、その意味で、バイアスがかかった概念の可能性がある。社会的現実は存在論的現実に従属しているのだと、デスコーラはいう。また、加えて、ここでいう存在論は、つまり、デスコーラの存在論は、もう一人の論者ヴィヴェイロス・デ・カストロの存在論とどうちがうのだろうか、また、どの点で同じであるのか。そのあたりも気になり出してきた。とりあえず、荒っぽい個人的な覚書として。


道がない

2010年05月21日 23時45分47秒 | 自然と社会

唐突ではあるが、わたしは道によく迷う。歩いても車でも、道をよくまちがえる。人生の道も、かなりまちがえていると思う。しかし、ふと想う。道とは何ごとか。ある特定の場所がある。道とは、そこに行くための空間である。あるいは、家がある。その隣に家を建てる。その二つの家の前には、あるいは二軒の家を結ぶ道ができる。そのようにして、建物があってはじめて道ができる。もともと道などなかったのだ。場所と場所を結ぶものとして道ができたのではあるまいか。道路地図なるものを、いったい誰がいつ作ったのだろうか。方位をベースにしながら、上を北に下を南に、右を東に左を西に。建物や事物などが、その配置図のなかに位置を占めるようになる。わたしたちは、鳥の眼によって、その地図を眺める。A地点からB地点へと地図の上を移動するように、実際の空間を、道をつうじて移動するのだ。そういったことをやっている鳥になったわたしたちは、じつは、ずいぶんと滑稽なことをやっているのではあるまいか。狩猟民プナンの歩き方、位置取りの仕方を見ていると、そういうふうに思える。彼らの歩き方の基本は、目標物があれば、それに向かって一直線に進むというものである。一途である。障害物があったとしても、山刀で叩き切り、最短距離を進む。もちろん、プナンには方角・方位はない。鳥の眼をもたない。あくまでも、人間の眼をもって、直線距離を進もうとする。そこには、徹底して、道はない。道はそのときできたとしても、すぐに植物が繁茂し、存在しなくなる。では、彼らは、いったいどのようにして、自分の位置取りをするのだろうか。彼らは、もっぱら川の上下(上流と下流)を意識しながら、自分の居場所を測りながら、位置取りをしている。大きな川に注ぎ込む小さな幾つもの川。ブラガ川に注ぎ込むアレット川とクレンゴット川。いま自分は、アレットとクレンゴットの間を上流のほうに向かっていて、これからクレンゴットを越えて対岸に出ようとしているというふうに。位置取りはするものの、ジャングルのなかに道があるわけではない。人が通った跡は、数日で消えてしまう。さらに、プナン語の道は、マレー語からの借用語である。野鶏の通り道があるという言い方は、プナンはしない。このあたりを野鶏が通るかもしれないので、罠を仕掛けるという言い方をする(写真は、罠猟)。はたして、道とはいったい何なのか?道というものが、あらかじめ人間世界に存在していたわけではないのだろう。できの悪い道論として。


畜霊碑

2010年05月20日 08時48分42秒 | 人間と動物

3年生専攻演習の上溝フィールドワークの二日目。晴れて暑かった一日目とはうって変わってあいにくの雨。そのために、5月にしてはかなりの肌寒さ。上溝の市場開設記念碑を見に行った。市場が開設されたのは、明治3年、いまから140年ほど前のことである。そのころから上溝は、周辺の市場として、賑わい始めた。たくさんの人が、このあたりに住んでいた。上溝を歩くと、飛び地的に、墓場があるのが目につく。寺の敷地には、墓がひしめきあっている。あちこちに、大小さまざまな社があり、神々の場がある。上溝には、死者(の霊)や神が座す別の次元への入口が、そこここに見出せる。その意味において、そこには、かつて人間が暮らしていた確かな証があると感じられる。マンション群に覆われた現代の空間においては見出すことができないような、異次元との交信のための場が、いたるところにあると言い換えてもいいかもしれない。そのことによって、落ち着きや、安らぎのようなものが感じられる。

さらに、そのあたりは、太平洋戦争後に、養蚕業から畜産業へと産業の転換が計られた土地であり、人びとの
暮らしを支えてくれる生き物に対する供養塔の類を、たくさん目にすることができる。歩いているときに、JAの敷地内の道路脇にある大きな「畜霊碑」を見かけた。許可をもらって写真を撮り、裏面に刻まれた文字を写しとった。表には、「神奈川県知事 津田文吾書」とあった。死霊や神だけでなく、獣の霊へと思いをつなぐ場所、それらの異次元の存在と交信できる場が、そのあたりにはあちこちにある。

相模原は畜産団地として全国に名を知られその生産数は五十億円を突破し本市農家の基盤となっている。とくに関係者一同先人の労苦を偲ぶとともに犠牲となった家畜の霊を慰めるため碑を建て今後の畜産の隆盛を祈念

相模原市酪農家一同
      養豚家一同
      養鶏家一同
      食鶏家一同
上溝肥育牛組合
相模原市農業協同組合
株式会社北相高崎ハム
昭和四十五年九月彼岸建立
相模原畜霊碑建設委員会 委員長 小泉保雄

相模原市内のその他の家畜の霊に対する碑は以下。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/9f43676ce35b71f196bec87c062d838a


蠶霊供養塔

2010年05月18日 23時20分23秒 | 人間と動物

本日、相模線上溝駅周辺で3年生ゼミのフィールドワークを行った。学生諸君と別れて歩いていると上溝JAの敷地内に社のようなものがあったので、立ち寄ってみた。蠶影神社(こかげじんじゃ)としてあった。養蚕の神を祭る社なのかもしれない。よくみると、小さな本殿の脇に、蠶霊供養塔(さんれいくようとう)なるものが建っていた(写真)。蚕の霊を供養している塔である。1メートルにも満たない小さないしぶみであった。その裏面には、昭和六年十月十六日建立という文字が刻まれていた。いまから79年ほど前のことである。いしぶみや神社の写真撮影をさせてもらう許可を得るのと、何か話を聞かせてもらえればと思って事務所に入って名刺を渡すと、そこにいた女性はわたしのことを知っていた。大学の卒業生で、私の授業も受けたことがあるという。吹き矢の実演を覚えてますよとのことだった。彼女が取り持ってくれて、上司に話をしてくれて、職員の方たちから話を聞くことができた。蠶影神社そのものの設立の起源は不明であるが、いまでも毎年1月に、豊蚕祭というのを、神殿の前で、JAの関係者が行っているとのことであった。このあたりは、かつて養蚕業が盛んな土地柄であって、そのことから、蠶影神社が勧請されたということは、十分に予想される。盗難を恐れて、神殿のなかにはご神体は安置されておらず、それは、通常は、事務所のなかに置かれているとのことであった。蠶霊供養塔については、偶然、JAに用事があって来られていた年輩の女性に話を聞くことができた。彼女がこのあたりに嫁いできた昭和39年頃には、「おかいこ」と称する行事、すなわち、蚕の霊の供養が行われていたという。その後、昭和40年代まで、このあたりでは、どうやら蚕の霊の供養が行われていたようである。それが、どういった催しであったのか、どういう意味を持っていたのかという点に関しては、明らかにならなかったが、かつて<絹の道>沿いの養蚕家が多かった相模原で、蚕の霊を弔っていたという事実が浮かび上がってきた。JA上溝のみなさん、ご協力有難うございました。


国際メール詐欺にご用心

2010年05月12日 18時40分05秒 | フィールドワーク

昼過ぎにマレーシアの友人から、"Uegent Request"と題する一通のメールが届いた。マレーシアからナイジェリアのラゴスに来ていて、タクシーのなかにバッグを忘れて、お金や書類や貴重品が無くなって、ナイジェリアに足止めされて困っている。緊急に、ウエスタン・ユニオンをとおして、1950ドル用立てて送ってくれないかという内容だった。おお、なんたる災難、なんとかしてあげなければ、と一瞬思った。今日はあまり時間がないな。しばらくして、しかし、その人は、だいたいこんな長文のメールを書かないし、”I”が全部小文字の”i"で不自然だし、最後の一語も"Cheers"というのはその人に似つかわしくないとも思った。日本国内の共通の友人に、そうしたメールが届いてないか電話で聞いてみた。届いてないという。疑わしいのであれば本人に電話してみて聞いてみたらというので、早速電話をすると、いまクチン(マレーシア)にいるという。金を送ってほしいというメールが届いたと伝えた。聞くと、友人からも、そうしたメールが届いたという電話があったという。誰かが自分のホットメールを盗んで騙っているようだ、わたしは大丈夫だということだった。う~ん、危うく騙されるところだった。以下、メール詐欺の原文。

Dear:
How are you doing recently? May this emergency appeal finds you well.I'm sorry i didn't inform you about my travelling to Africa for a Programme.It has been a sad and bad moment,the present condition i found myself is so intoxicated to explain.I felt so ashamed and devastated because i am stranded and stocked in Nigeria,i forgot my little bag in the Taxi where my money,documents and other valuable things were kept,hint of embarassment to my personality.I'm so confussed right now i don't know what to do or where to go.
 
I need your urgent help.I want you to please loan me the sum of $1,950 to enable me sort-out myself probably confirm my basic travelling allowance fees back home.In case you couldn't come up with all the requested amount due to the short notice kindly go ahead and send me any amount you can afford at this time and email me the transfer details i'll be so grateful to receive the money.Be rest assured i'll return the money back to you as soon as am back to malaysia.I want you to understand my tight and critical situation at the moment,i know you will never disappoint me that is why i have contacted you in this regards and please as you endeavor to help me with this money i don't mean you should disclose my predicament to anybody for my personal reasons till when am successfully back home.Anyway,it is not compulsory that you should help or send me the requested amount but if my situation and our good relationship touches you i want you to quickly proceed to any of the WESTERN UNION MONEY TRANSFER station or post office around you and transfer me the money as soon as you have receive this email.Western union money transfer is the most convenience and safe for me to receive the money here without any delay or problem.
 
Below is the information where to send me the WESTERN UNION MONEY TRANSFER.
 
Receivers Name: **** ******
Address: 45 Methodist Church Avenue
City: Ikeja
State: Lagos
Zip Code:23401
Country: Nigeria
 
After you have sent the money email me the western union transfer details such as:
 
MTCN(Money transfer control number)
Test Question: Code?
Answer:  Ann
Amount Needed: $1,950 USD
 
I'll check my email soonest to pick up the western union transfer details to enable me return back home with the next available flight,i need the transfer # MTCN (money transfer control number) as soon as possible.Thanks for your kind help!

Cheers, ****


うたかたの皐月に

2010年05月10日 22時54分38秒 | 音楽

最近、週に一度くらいの割合で、オフィスから、スクールバスに乗って淵野辺駅前のカフェか、車で少し遠出して八王子の鑓水にあるヨーロッパ中世風のカフェに出かけて、珈琲とスナックやケーキでねばりながら、授業の準備をしたり、読書をしたりしている。今日は、遠出をして、青々と茂った新緑をくぐり抜けて、多摩美大近くのカフェに行ってきた(写真)。ゼミのフィールドワークの準備のために、その近くにある<絹の道資料館>も訪ねるつもりだったのだけれども、あらかじめ調べないで出かけたので、月曜で休館だったのは残念だった。しかし、そのあたりには、日本の農村の原風景としての里山が広がっていて、ぐるぐるっと回っただけだが、生業の息づかいのようなものを感じることができて、じつに心地がよかった。カフェでは、いつもじつによく本が読めるのだが、おそらくわたしの読書法は間違いだらけである。とりわけ、小説は読み出してからしばらく中断してしまうと、後になって内容が分からなくなるので、とにかく他の諸事を後まわしにして、我を忘れて読書に浸ってしまう。今日は、読みたいものが山ほどあるにもかかわらず、文学に手を出すのには禁欲になって、学術書を読んだ。なぜか学術書は、小説とは読み方が違う。コツコツと積み上げながら読まなければ、勢いだけでは分からないからだろうか。目下、わたしが取り組んでいるのは(=取り組みたいともがいているのは)、ドゥルーズである。自然と文化をめぐる問題は、どりわけ、未開社会におけるその問題の検討は、われわれを、自然をめぐる膨大な西洋形而上学の思考のある領域へと向かわせる。おそらく、そうした問題に最も接近したのが、ドゥルーズではないかというような予感だけが、わたしのなかで先行している。しかし、この哲学者は、よくいわれるように、じつに難物なのである(×ヾ#л℃○)。読むと、まったく暗澹たる気持ちになる。分からない。いまのところ、もっぱら入門書を読んでいるだけであるが、今日、小泉義之の『ドゥルーズの哲学』(講談社現代新書)を読んでいて、ようやくなんとなく仄かな光のようなものが、一瞬だけれども見えて、視界が開けてゆきそうな気がした。わたしの思い過ごしかもしれないが。ついでながら、今年はショパン生誕200年だそうで、最近、7枚入ったショパンのCD集を買ったが、わたしはバラードの一番の美しさのなかにあるパッションが好きだ。クリスティアン・ツィマーマンの美と才知溢れる演奏。
http://www.youtube.com/watch?v=RR7eUSFsn28&NR=1 


乱れ読みの果てに

2010年05月09日 11時03分23秒 | 文学作品

1987年発表の『コレラ時代の愛』と2004年発表の『わが悲しき娼婦たちの思い出』の中間点の1994年に発表された、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『愛その他の悪霊について(旦敬介訳、新潮社)。

この本のなかでも、いたたまれない愛、愛の孤独というべきものが、いくぶん突拍子もないかたちで立ち現れるが、ひとつのテーマとして作品のなかに組み込まれている。タイトルが、短編集のようで、なんとなくピンと来なかったのでこれまで遠ざけてきたが、文学作品としての完成度はきわめて高いことは言うまでもない。顔に白い斑点のある灰色の犬が市場の迷路に飛び込んできて、4人の通行人に咬みついたところから物語は始まる。咬みつかれたうちの一人が、12歳の少女、シエルバ・マリア・デ・トードス・ロス・アンヘレスであった。狂犬病だけでなく悪霊憑きの徴候を彼女のうちに見て取った父である侯爵は、まずは医師に相談するが、娘に治癒の見込みがないことを知り、その後、司教を頼って、娘を修道院に送り込む。司教は、36歳のカエターノ・デラウラ神父に、悪霊払いの判断を含めて、シエルバ・マリアの処遇を委ねる。若き神父デラウラは、修道院長が綴ったシエルバ・マリアの記録簿に目を通す。

修道院では、シエルバ・マリアが収容された朝歩きまわった場所、触れたものすべてに悪魔払いをしたということだった。また彼女と接触した者には全員、肉断ちの精進や浄化の儀式が課せられた。最初の日に彼女の指輪を盗んだ修練女には果樹園での強制労働が課せられたという。さらには、記録簿によれば、少女はその手で首を切った子山羊を大喜びで八つ裂きにし、味付けした睾丸と眼球に夢中になって食らいついた。アフリカのことばなら何語でも、アフリカ人たちよりもとすらすらと話せるばかりか、畜生とすらことばが通じるという才能を大いばりで見せびらかした。ついた翌朝には、二十年前から庭の彩りとして飼われていた十一羽の金剛インコがわけもなく全部死んでいた。また、彼女は自分のものではない声で悪魔的な歌を歌って使用人たちを魅了した。そして、修道院長が自分を探していることを知ると、彼女の目にだけ見えないように姿を消して見せた、云々。

シエルバ・マリアに対決させられたデラウラは、やがて、シエルバ・マリアとの出会いを心待ちにするようになり、異端審問をつづけられなくなる。

司教の最終的な判断では、デラウラは異論の余地なきキリスト教の権威をもって悪霊と対決すべきだったが、その埒を越えて、見当違いもはなはだしく、悪霊どもと信仰の問題を論議するにいたった。

それゆえに、司教はデラウラ神父を追放する。やがてデラウラと、そのひたむきな愛を知ることになったシエルバ・マリアはお互いに惹かれ合うようになる。シエルバ・マリアは、やがて、そのかなわなかった愛のために死に、他方で、異端審問にかけられて有罪となったデラウラは、ライ病院の看護人として、失意の日々を送ることになるというのが、大まかな話の筋である。作品の着想と展開が、読者をまったく飽きさせることがない点で、ガルシア=マルケスに拍手である。★★★★

5月2日の朝日新聞の書評に紹介されていた、辻原登の『闇の奥(文芸春秋)の内容にいたく興味をそそられたので、買って読んでみた。コッポラの映画『地獄の黙示録』の元本であるコンラッドの『闇の奥』と同名のタイトルである。太平洋戦争末期に、矮人族(小人)を探している間に、ボルネオ島で忽然と姿を消した人類学者・三上隆の消息を訪ねて、ボルネオ、紀州、チベットへと関係者たちは
旅をする。その意味で、コンラッドの『闇の奥』に似てなくもない。

全体をつうじて、わたしには、人びとの情緒面の陰影の描き方が十分でないと感じられる。いいかたを換えれば、小人伝説に賭ける人類学者とその足跡を辿ろうとする人びとの想いが、なんとなく物足りない気がする。ボルネオについて言えば、作者は現地について知らないのではあるまいか。掲げられた参考文献をたよりに書いているように思える。「マカン・シリーを食べる」という表現が出てくるが、マカンは食べるだから「シリーを食べる」が正しい表現なのだが、そうした点が、作品としては、いくぶん興ざめに感じてしまう。

ただし、作品のあちこちには、興味深い考え方の断片がたくさん散りばめられている。出水祐二は語る。

みなさんは空想と現実は別のものと考えておられるでしょう。とりわけ大人はそうです、そうでなければ生きてゆくのに支障が出ると考えています。ほんとうにそうでしょうか。私は果物屋ですから、果物の例でいいますと、果物の芯は空想で、果実が現実なのです、芯が時間の中で果肉を生んでゆきます。空想がふくらんで現実をつくるのです。決してその逆ではありません。

ほ~、空想が現実をこしらえるのだ。その通りだと思う。

太古、いまのインド大陸を構成する巨大な島が北に動き、ユーラシア大陸にぶつかり、その衝撃で隆起したのがヒマラヤ山脈とトランス・ヒマラヤです・・・(中略)・・・大昔、ヒマラヤはその全域にわたって活発な火山活動を展開していて、その波は下に降り、インドシナ半島となって張り出し、さらにマレー半島やほかのいくつもの細い半島となり、スマトラやジャワ島、ボルネオやフィリピン諸島、そしてついに小さな島々となって消えてゆくのです。ミカミの夢は、このダイナミックな降下運動を逆にたどって、地球上でもっとも天に近い場所に行くことでした。

こういった類の民族学的な壮大なロマンティシズムを、久しく聞いていない。それがゆえに、なんだが新鮮に感じる。人類学的なロマン主義を衝き動かす精魂のようなものが、この物語の底にはあるような気がする。★★★

A・カルペンティエール『時との戦い(鼓直訳、国書刊行会)。心臓が止まりそうなほどウットリするような文学経験というのは、こういう本を読んだときのことを言うのではないだろうか。カルペンティエールのまなざしは、「時間」に注がれている。「種への旅」という一篇は、キューバの領主マルシアルの生涯を、時間の継起を逆流させて語る物語である。それは、作品のなかで、流れ行く時間に対するある種の抵抗となる。各段落で語られる物語はそもそも時間軸に沿って語られるのであるが、物語は全体をつうじて、死から若き日々、誕生へと一気に時間を遡行する。時間との抵抗のうちに、いまとここの目線から、過去の出来事をめぐる語りが沸き起こってくる。訳文もすぐれているのだと思うが、文章の一つ一つが粒粒と輝いている気がする。

彼は起きぬけに病床の父を見舞い、その手にキスをした。侯爵は気分が良いのか、ふだんのもったいぶった様子でお説教を始めた、はい、パパ、いいえ、パパという合いの手が、ミサの侍者ではないが、数珠の玉をくるように果てしなく続く質問にはさまった。マルシアルは確かに侯爵を尊敬しているが、その理由は誰にも見当がつかないだろう。それは、侯爵が背が高くて、舞踏会の夜になると、胸に勲章を飾り立てて外出するからである。そのサーベルや袖章が羨ましいからである。クリスマスにアーモンドや乾しぶどうの詰まった七面鳥を一羽たいらげて、賭けに勝ったことがあるからである。あるとき円窓の部屋を掃除していた混血女の一人を捕え、鞭をくれるためだと思うが、抱き上げて居間へ連れ込むのを見たためである。カーテンのかげに隠れていたマルシアルは、間もなく前をはだけた女がなきべそをかいて出てくるのを見て、いい気味だと思った。壁の棚に戻された菓子皿をよく空にするのは、この女なのだ。

マルシアルは、やがて、母の肉のなかへと遡行する。

飢えと乾き、暑さと寒さ、それに痛み。マルシアルの知覚がこれら最小限のものに引き下げられるや否や、もはやどうでもよいことだったが、光の世界にも見放された。自分の名前さえ忘れてしまった。不愉快な塩といっしょに洗礼式が遠のいてゆき、嗅覚や聴覚、視覚すら必要としない身になった。彼の手はさわり心地のよい形をまさぐった。完全に、敏感な触覚だけの存在になっていた。外界は毛孔のすべてを通して入り込んでくる。彼は、巨人の影がぼんやりと認められるだけの目を閉じて、息絶えつつある、温かく湿っぽい肉のなかにもぐり込んだ。その肉は彼をすっぽり包んだと感じる同時に、生へ向かって動き出した。

軽やかななかにも、味わいと重さを感じさせる、なんたるスゴイ文体ではないか。この「種への旅」が、時の流れに逆流して遡行する時間を主題とするのであれば、「聖ヤコブへの道」は、循環する時間(主人公が、巡礼の旅の経験をつうじて、他者から吹き込まれたいい加減さを、別の巡礼者に注ぎ込むという時間の循環性)、「夜の如くに」は、反復する時間(戦士の思いが、トロイア戦のギリシャ戦士、新大陸征服戦のスペインの戦士などなど別の時空において、繰り返すという反復性)を扱っているのだといえる。表現者として、この域に達するのは並大抵のことではない。★★★★★★