たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

宗教人類学研究会(2017年6~10月のラインナップ)

2017年06月18日 12時47分44秒 | 宗教人類学

以下、宗教人類学研究会の2017年6月~10月の予定です。
どなたでもご参加いただけます。

◆第3回研究会 【日時】2017年6月19日(月)18:20~20:20
【1】 L. Chuluunbaatar (National University of Mongolia/Invited Visiting Scholar at Rikkyo University)
"Studies of Mongol Shamanism."
【2】 Takehiro Sato (Rikkyo Univeristy)
”The Way of the Shamanship-Sensing the multiple sounds of Shaman-
 *This seminar will be held in English.

◆第4回研究会 
【日時】
2017年7月8日(土)14:00~17:00
立教大学異文化コミュニケーション学部公開講演会「シャーマニズムを真剣に受け取る」
http://www.rikkyo.ac.jp/events/2017/07/qo9edr000000n50v.html

◆第5回研究会 【日時】2017年7月22日(土)17:30~19:30
著者を囲んで~石倉敏明・田附勝『野生めぐり:列島神話の源流に触れる12の旅』を読む~

◆第6回研究会 【日時】2017年10月13日(金)16:00~19:00
『信念の呪縛』から宗教研究を問い直す

*すべて立教大学池袋キャンパスにて開催します。
*詳細は、各回のページでご確認ください。


【研究会案内】宗教人類学研究会 第1回研究会

2017年03月22日 17時53分25秒 | 宗教人類学

【日時】
2017年3月31日(金)14:00~18:00

【場所】
立教大学池袋キャンパス 15号館(マキムホール) 10階 M1008

【テーマ】
堀一郎 『日本のシャーマニズム』(講談社現代新書、1971)を読む

【問い合わせ先】
初参加の方、質疑など、お気軽に下記にお問い合わせください。
・奥野克巳 katsumiokuno[アットマーク]rikkyo.ac.jp 
・佐藤壮広 callsato[アットマーク]gmail.com
*スパムメール対策のため、[アットマーク]を@に代えてください。

宗教人類学研究会のHP

 


談志が死んだ

2011年11月29日 15時23分19秒 | 宗教人類学

桂米朝『地獄八景亡者戯』を取り上げようと思っていたのを、談志師匠の訃報を受けて、再び、『らくだ』に戻して、本日、宗教人類学の授業内で上映した。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/6df63dcab9ac78ca28f331768bfdfeeb

談志は、落語を主語に語る噺家である。人類学を主語に語る~人類学はこうだああだ~我々人類学者にとっての鏡ではないか。いや、人類学に限らない。あらゆる分野、領域の求道者の鏡だ。
子どものころから落語に取り憑かれ、落語を勉強し、落語を解剖した挙句、落語を全く新しいものにつくりかえたといっても過言ではない。彼の求道精神の現れの一つが、『立川談志ひとり会第三期第23集・談志の五大落語家論』。そのなかで、談志師匠は、志ん生、文楽、三木助、圓生、そして、彼の師匠である小さんを解剖し、じつに饒舌に語っている。30歳のときの録音だ。志ん生、文楽、圓生のものまねが色っぽい。それぞれの師匠たちになりきっている。はは~ん、ここまでして、先達そのものの内側に入り込み、そこから落語に近づこうとしているのだなあと思う。

『立川談志のゆめの寄席』では、往年の噺家や芸人の録音の前に、談志の解説が付いている。その第6集第3夜「鈴々舎馬風」。本名、色川清太郎、二枚目風の名前だとさ。談志は、噺家の本名を全部諳んじることができたという。彼の解説で、馬風を聞く。馬風が、スゴイ!と思える。第8集第4夜。寄席のモンスター・林家三平の解説、「源平盛衰記」に続いて、三平急逝直後の高座
「立川談志『三平さんの思いで』」が収録されている。談志も言うように、これがすごくいいのだ。三平の思い出とものまね、最後に涙を誘う。談志が凄いのは、談志が死んだとしても、『談志の思いで』をできるような噺家がいないことかもしれない。誰かやってほしいね。

『談志百席第1期第10集「慶安太平記」』。談志師匠最晩年の仕事。悪声だな。でも、う~ん、唸るな。

寂しいな、合掌。


霊性と世俗のハイブリッド

2011年11月28日 22時27分20秒 | 宗教人類学

ほんの弾みで、高崎の白衣観音を見に(拝みに)行った。今から20年以上前に、Nくんと連れ立って、その県の向こうにいるある人を訪ねて行く途中に、遠くから眺めたことがあったが、真下から見るのは初めてだった。デカかった。おおっきいねという声が、辺りに飛び交っていた。高さは41.8メートルあるという。大人の男の25倍ほどか。昭和11年に建立されたという。間近で見ると、柔和な顔をされている。子どもの頃、会うといつも驚くほどのお小遣いをくれた伯母に似ていると思った。観音様、観世音菩薩像。それは、日本の至る所に祀られている。大船にも大きな観音様がいらっしゃる。観音信仰は、日本人の精神の襞に深く染みついている。観音様は、凡夫に、現世利益をもたらすとされる。白衣観音の大きさは、人びとの世俗的な欲望・願望の大きさと深く結びついている気がした。

 


シャーマン、ふたたび

2010年12月16日 10時57分10秒 | 宗教人類学

シャーマンは、人の心を、人の病を、目に見えない世界との関係のなかで、立ち直らせるサポートをする。
彼/
彼女は、霊能力と呼ばれる力を借りて、隠れた真実へと接近し、荒んだ心、病んだ心をストンと落とす。
現代のスピリチュアルカウンセラー・江原さんのやり方を見ると、シャーマニックな力がどのようなものであるのかがよく分かる。

http://www.youtube.com/watch?v=R9VXhgvo6uk
http://www.youtube.com/watch?v=Ad6RM1whl0s&feature=related

2010年秋学期、宗教人類学の講義より

参考
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/31d729756b7e51b4a5074c3312286995

写真は、檳榔樹の占いをするカリスのシャーマン。最近、わたしにカリス語を教えてくれた盲の女性がなくなったと聞いた。冥福を祈る。


インターネットのなかの呪術

2010年12月11日 08時49分47秒 | 宗教人類学

昨日、授業で、インターネットのなかの呪術の話をした。

呪術は、アフリカや東南アジアの辺境社会で行われているのではなくて、わたしたちのすぐそばで、過去に行われていたのではなく、現在でも行われているということの例証として。この話は、ほぼ毎年やっている。

日本呪術協会という団体がある。
http://www.noroi.net/

数年前に、卒論で呪術研究に取り組んだ学生がいて、この協会を取り上げた(ほぼ毎年、卒論では、誰かが呪術を扱っている)。彼女は、呪術の体験談を語ってくれる方を紹介してほしいと、電話を入れたらしい。山中の代行業も見せてもらえるということが分かったという。大阪駅から、車で行くというような話を聞いた。

わたしも数年前に、自費で、ワラ人形セットを購入した(写真)。

ワラ人形セットのパンフレットを見ていたら、本格的な丑の刻参り(山中14日間の丑の刻参り)の成功率が書かれていた。
●病気、もののけ撃退     ・・・45% 
●仕事、金銭などの悩み    ・・・71% 
●魔除け、厄除け、開運祈願 ・・・73% 
●恋愛、略奪愛の成功     ・・・81% 
●浮気の防止          ・・・73% 
●浮気相手の撃退       ・・・79%

ある学生の弁。このなかで、浮気の防止の成功率が73%というのはちょっとヘンではないだろうか?パートナーがまだ浮気してない状態で、しないように丑の刻参りをしてもらうということだとすれば、成功率が73%というのは分かるけど、丑の刻参りをやって、100人に27人(27%)の相手が浮気をするようになったというのは、どういうことだろうか。それは、まったく逆効果を生み出した呪術だったということ?なるほど。

こうした点を含めて、今後呪術を調べるのは、だ!・・・・かもしれない。


『らくだ』

2010年11月26日 17時01分38秒 | 宗教人類学

ここ数年間、死と葬儀というトピックについての講義(宗教人類学)の最後に、談志師匠の『らくだ』を見ている。今日、その回だった。その試みは、講義としては、医療によって判定され、行政によって管理される現代の死とは異なる、江戸町民文化における死との向き合い方に関して、落語をとおして、想像力をもって捉えるというのが、だいたいの趣旨であるが、それよりも、教養としての話芸に触れ、知的センスを養うという面のほうが強い。それにしても、談志師匠の熱演よ。わたしが『らくだ』を聞いたのは(CDで)、志ん生、可楽、小さんの話芸だが、そのなかでも、談志師匠のものは、とびっきりスゴイと思う。第一級作品だ。死骸として登場するらくだの生前の乱暴狼藉ぶりが、話の向こうに、まざまざと浮かんでくる。酒を酌み交わす場面での兄貴分と屑屋の立場の逆転は、見事だ。以下、余分かもしれないが、話の概略。

長屋に住む図体のでかい、らくだとあだ名される嫌われ者の家を兄貴分が訪ねていくと、当のらくだが、フグにあたって死んでいた。兄貴は弔いを出してやりたいと思うが金がない。ちょうどそこに、「くず~い」と、屑屋の声がする。兄貴分は、屑屋に家財道具を売り払って金をこしらえようとするが、売れるようなものなどらくだの家には何もない。兄貴分は、仕方なく、屑屋の仕事道具一式を取り上げて、長屋の月番のところに行かせる。月番から、らくだが死んだことを喜んでいるので、なんとか香典を集めてくるという約束を取りつけて戻ってきた屑屋に対して、兄貴分は、今度は、大家から、弔いのために、酒と肴をもらってくるように命じる。兄貴分は、大家に断られたときには、「死骸のやり場に困っているので、カンカン踊を踊らせる」と言わせるという秘策についても伝授する。案の定、酒と肴を断られた屑屋。そのことを聞いた兄貴分は、屑屋に死骸を担がせて、大家の家に運びこみ、カンカン踊をほんとうに踊らせる。驚いた大家は、酒と肴を出すことをようやく承知する。その後、屑屋は、棺桶代わりに漬け物樽を出すように八百屋に使いに出され断られるが、カンカン踊の話をすると、八百屋は、勝手に持って行ってもいいという。屑屋が、らくだの家に戻ると、大家からの酒と肴がすでに届けられており、屑屋は、兄貴分に勧められて酒を飲まされる。屑屋は、三杯を飲むまでは、なんとか断ろうとしていたのだが、逆に、兄貴分が酒を勧めなくなり、注がなくなったことに反発するようになり、酒の勢いをつうじて、屑屋と兄貴分の立場が、その後、ころっと入れ替わってしまう。今度は、兄貴分が、長屋の女所帯に使いに出されて、剃刀を借りてくる。死に支度をさせた上で、死骸を漬け物樽に入れて、二人で担いで、芝を出て落合の寺へ。しかし、その途中で、樽の底が抜けて、死骸をどこかに落としてきてしまったようなのである。彼らは、道を引き帰して、らくだの死骸を探そうとする。酔っ払っているせいか、橋の下で酒に酔っ払って眠っている願仁坊主を間違って拾って来て、それを、そのまま火のなかへと放り込んだのである。熱さで目を覚ました願仁坊主。二人が、死人なのに口を聞くなと言って殴りかかると、願仁坊主の頭に瘤ができる。それを見て、あ、らくだだ。

『立川談志 ひとり会 落語ライブ92~93 「らくだ」「幽女買い」』竹書房

 


『宗教の人類学』

2010年11月05日 08時36分43秒 | 宗教人類学

出版!

吉田匡興・石井美保・花渕馨也共編
『宗教の人類学』(シリーズ来るべき人類学③)
春風社、1905円+税

序 宗教をたぐりよせる

第I部 日常の中の宗教性
1 信じるもの/おこなうものとしての<宗教>ー現代北インドにおける「改宗仏教徒」の事例から
2 モノの消費のその向こうにーバリにおける顕示的消費競争と神秘主義
3 トンチボのいなくなった日常ー宗教装置の置換と遍在化する宗教

第II部 他者表象としての宗教と揺らぎ
4 「ファンダメンタリスティック」という選択ーカトリック世界における名付けと名乗りと生き方のポリティックス
5 結婚しない女と嫉妬する精霊ーーコモロにおける精霊憑依と人生の生き方

第III部 現実をずらすものとしての宗教
6 呪物をつくる、<世界>をつくるー呪術の行為遂行性と創発性
7 呪文の成り立ちーことばが開く<世界>の可能性

第IV部 宗教を俯瞰するー迫りくるものとしての宗教性
8 アニミズム、「きり」よく捉えられない幻想領域
9 スピリチュアルな空間としての世界遺産ーケニア海岸地方・見事件だの聖なるカヤの森林

  わたしは8章を書かせてもらった(アニミズム、「きりよく捉えられない幻想領域」)。

 エスノグラフィーなし、獣魂碑から認知考古学、南米先住民の世界、幻想文学、岩田慶治へ・・・、既存のアニミズム論批判風のエッセイのようなものになった。

 共編者によると、「第8章で奥野は、かつて宗教の起源とされた、ヒトではない存在にも霊魂が宿るとするアニミズムを論じます。先史考古学や認知考古学、さらに南米原住民諸社会におけるアニミズムをめぐる最近の議論を参照して、人類史を射程に収めながら、アニミズムがこれまで長く考えられてきたように、人間性をヒトではない諸存在に投影した結果得られたものではなく、ヒトが人間的な知性を獲得した結果、ヒトもヒトではない諸存在も共に人間的な存在として現れざるを得ない事態を反映したものであることを論じます。そのうえで、ヒトから非ヒトへの能動的な働きかけの経験ではなく、むしろ非ヒト的存在がヒトと対等に、あるいはそれを圧倒するかのようにヒトに向かって働きかけてくる経験がアニミズムの中核にあるとの見通しが示されます」という紹介がなされていた。

 驚いたのは、読みやすい文章表現、少しでもましな論述にするためにかける編者の執念・情熱である。わたしの文章は、段落ごと前後を入れ替えられ、添削されて、修正に次ぐ修正を重ねた。締め切りギリギリまで、いや、締め切りが過ぎてからも、ここはこうしたほうがいいという指摘メールが飛んできた。思考とエネルギーを注ぎ込み、いいものをというパッションをハビトゥスとして持たなければならないということを学んだ気がする。いまさら遅い?いやそうでもないと思う。しかし、無念なことに、わたしの原稿のなかに、さきほど、脱字を発見してしまった。


アニミズム問答

2010年09月29日 08時03分11秒 | 宗教人類学

【文化人類学専攻の学生・片部 杏(かたべ あん)と、文化人類学の先生・K-TMのアニミズム問答】

片部 杏:獣魂碑とか鳥獣供養塔とかってのは、いったい何なんですか?

K-TM:ありゃ、石の碑をつうじて、動物に対する供養の念を表すという、地球上でも珍しい現象じゃぞ。
            
アーメン観自在菩薩アッラーアクバル。

片部 杏:原当麻駅前にも、でっかい豚霊碑ってのがありました。

K-TM:ほう、文化人類学専攻の学生なら、そういうのを見たら記録をとれと言っておいたはずじゃぞ、と
            
ってきたか?

片部 杏:はい、これです。

K-TM:よしよし感心じゃ、どれどれ。ほほう、昭和の戦争以降、従来のようにコメ作りだけで経済が立ち
      行かなくなって、畜舎を立てて家畜業を専業化したのじゃな。農協が中心となって、高品質の
      豚
を仕入れた。それが昭和37年のことか。その5年後には、年間1万頭を出荷したとな。その
      ことを祝して、この碑を建てたようじゃな。おっ、この隣に畜霊塔というのもあるな。

片部 杏:ええ、それは、豚霊碑より一回り小さく、昭和18年に麻溝搾乳組合によって建てられたようで
      
す。

K-TM:どうやら、動物の霊を弔うという思いが、このあたりの畜産業者によって受け継がれていたようじ
      
ゃな。

片部 杏:で、これって何なんですか?

K-TM:動物霊に対するアニミズムじゃよ。ある人は、生き物に対する供養行事は、アニミズムを背景と
       しつつ、長い間の仏教思想に培われた精神の結果だといっておる。また、別の人は、日本で
       は、花や魚や迷子郵便に至るまで、アニミズムが願主の意向を受けていたるところで供養碑
       などに結晶化しているといっておる。

片部 杏:へ~。

K-TM:供養の対象を生き物だけでなく、無生物にまで広げてきた日本人の行動から推し量ることがで
                きるのは、日本人が、死んでしまった存在、かつて愛着や情愛を傾けた存在に対するアニミス
       ティックな想像力に拠りながら、日常の現実を組み立ててきたという事実じゃ。

片部 杏:は~、で、アニミズムって何ですか?

K-TM:19世紀の名付け親のタイラーは、人間以外の存在に魂や霊の存在を認める考え方のことだと
       いっておる。

片部 杏:いわゆる精霊信仰ってことですか?

K-TM:いかにも。アニミズムについて考えるためには、アニミズムについてどういう具合に議論がされ
       
てきたのかを考えるのが肝要じゃ。最初に、19世紀のアニミズム論だが、文化人類学を中心
                になされたのじゃ。アニミズム論は、
宗教の起源論に関わっておった。文化もまた進化すると
       いう考え方を基礎にして、アニミズムは、宗教の原
初形態と考えられたのじゃ。でも、20世紀
       
になって文化進化論が批判されると、しだいに、アニミズムをめぐる議論も下火となったのじ
       ゃ。

片部 杏:ってことは、われわれは、いまだに19世紀のアニミズム論を生きてるってことですか?

K-TM:ちょっと、そんなにあわてるでない、そうでもあるし、そうでないとも言えるのじゃが、もう少し先を
       見ておこう。新しいアニミズム論を提言したのは、じつは、文化人類学者じゃない。動物行動
       学や霊長類学などの進化科学、進化論や認知科学の影響を受けた心理学、考古学などが
       一体となって、宗教の起源論およびアニミズム論をリードしてきたのじゃ。

片部 杏:それで、それで?

K-TM:今日の認知考古学では、いまから6~3万年前ほどに、宗教が出現したとする見方が優勢なん
       
じゃ。ミズンによれば、現生人類の出現に先立つ約20万年の間、石器を用い、言語を操って
       いたとされるネアンデルタール人の脳では、社会領域、技術領域、博物領域などの脳内の諸
       領域が分化していた。そのため、彼らは、ありのままでしか物事を捉えることができなかった。
       「石」を見たなら見たなり、「木」を見たら見たなりのものとして理解することができたが、それ以
       上のことを行うことはなかった。ところが、現生人類の脳には、それぞれの領域を隔てる壁が崩
       れて、ニューロンが組み換えられた結果、それらをつなぐ新たな回路がつくられ、その回路を
       とおして、諸領域を横断する流動的知性が作動するようになった。そうした高次の知性の発達 
       によって、現生人類はいくつもの意味の領域を重ね合わせて、比喩や象徴を使えるようになっ
       たんじゃ。現生人類の脳は、さまざまな存在に対する知識を結び合わせて、「石」や「木」など
       の無生物にも、人間と同じように意思や意識のようなものがあると考えるようになっ。そのことは
       現生人類においてはじめて、目に見えない超自然的存在に対する敬意や畏怖が出現した
       とを示しておる。あくまでも仮説じゃがな。

片部 杏:ほう、人類の認知の進化のなかに宗教の起源があるってことですね。そうした認知進化の過程
       で生み出された観念と実践は、タイラーならば、人間以外の存在のなかに魂や霊を読み取
       る、アニミズムと呼んだ現象だということですね。

K-TM:そのとおり、わかってきたじゃないか。アニミズムは、現生人類が認知進化の過程で流動的知
       性を獲得した結果、目の前にある事物や事柄だけでなく、それとは別次元に存在する事物や
       事柄との関係のなかで、日常の現実を組み立てなおしたり、日々の問題を解決したりする手
       立てとして立ち現われたということじゃ。もしそうだとすれば、タイラーのアニミズム理解は、そ
       れでいいのじゃろうかということになる。

片部 杏:えっ、どういうことですか?

K-TM:南米の先住民のトーテミズムやアニミズムの調査研究からは、タイラ的なアニミズムとはずいぶ
       ん違うアニミズムが報告されておる、じゃ、このあたりの話からしていこうかな。

片部 杏:お願いします。

K-TM:ちょっと難しいが、デスコーラという南米のアシュアルを調査した人類学者は、身体性内面性
       という概念を用いて、世界に関する情報を持たない状況下で、主体が自分自身とそのほかの
       存在との差異と類似を発見する仕組みについて考える思考実験をやったのじゃ。アニミズムと
       いうのは、彼に言わせると、動物や神、精霊やその他の無生物といった非人間的存在が、人
       間との間で、身体性は異なるが、内面性において類似しているという事態を意味している。つ
       まり、デスコーラによれば、人間と間が、異なる身体性をもつが、類似する内面性を有す
       ることなのじゃ。

片部 杏:どういうこと?お化けと人間は、身体は違うけど、内面は同じだということ?たしかに、お化けは
       足がないし、人間は足がある。でも、感情の面では、お化けは人を羨んだり、復讐してやろうと
       する。ははん、そういうことで、アニミズムってのは、異なる身体性と類似する内面性か。デスコ
       ーラって、けっこうやるじゃん!

K-TM:南米のアラウェテ社会を調査研究したヴィヴェイロス・デ・カストロも、よく似たことを言ったんじ
       ゃ。
動物、精霊、人間は、内面的・精神的には同じあるが(=連続的)、身体的・物質的には
       異なる(=非連続的)と、南米先住民は考えていると。この点を踏まえて、ヴィヴェイロス・デ・
       カストロおじさんは、南米先住民社会において、アニミズムは、間存在物に対して、人間
       の性質を投影する営みではなく、動物と人間が、それぞれが自らに対してもっている再帰的な
       関係が、論理的に等しいことを表現するものだという。わかるかな?

片部 杏:う~ん、難しいな・・・

K-TM:カストロおじさんは、こうもいう。タイラー流のアニミズムでは、人間と人間以外の存在との断絶
       
が前提とされて、両者がまず「きり」よく分けられた上で、人間のもつ特質としての精神や魂が
       間の上に投影されている。それに対して、アメリカ先住民のアニミズムでは、人間と
       
間は、そもそも内面性において通じており、そうした相互の内面性の連続性こそが、アニミズ
       ムなんじゃと。その意味で、間存在物への人間の性質の投影という、タイラー流のアニミ
       ズム理解は、そこでは役に立たないことになるのじゃ。

片部 杏:なんかわかったような、わからないような・・・

K-TM:要は、タイラー流のアニミズム理解じゃ、アニミズムの本質は捉えきれてないのじゃないかとい
       う問題提起だな、これは。認知考古学がいうように、人間と無生物や動物の間に連続性を見
       出す知性のあり方が、現生人類の脳の組織の組み換えで生まれたのだとすれば、その知性
       は、人間と人間以外の存在を「きり」よく分けたうえで、自己の内に魂を想定し、それに引き続
       いて、人間以外の存在のなかに人間がもつ魂の存在を読み取るというような、順を追って得ら
       れたのではなくて、人間のなかに魂を見出す過程も間のなかに魂を見出す過程も同時
       に起こったのではないかということなのじゃ。逆にいえば、タイラー流のアニミズムは、人間と非
       人間を切り分けた上で、間のなかに人間様の魂や霊を読み取っているということになる。

片部 杏:タイラーは、人間だけに精神を認め、そのほかの存在と分けて考えたデカルトの考えを引き継
       いで、そのほかの存在に人間がもつ精神を読み取ろうとしたのがアニミズムであって、そういう
       理解じゃ、アニミズムのなんたるかに届いていないってことですかね?

K-TM:ま、そんなところじゃ。

片部 杏:じゃ、われわれは、タイラーじいさんに付きあって、学問をして、回り道をしてたってことになるん
       じゃないですか?学問をしなくともわれわれはアニミズムを知っている、人間が生きていること
       
が即アニミズムだということになる?

K-TM:そのとおりじゃ。われわれ人間は、学問を経由せずともアニミズムを生きとるんじゃ。川上弘美
       の小説『蛇を踏む』では、主人公のサナダヒワ子は公園に行く途中の藪で、蛇を踏む。秋の蛇
       なので、歩みがのろかったという。踏んでから蛇に気づいた。蛇は「踏まれたらおしまいです
       ね」と言い、どろりと溶けて形を失った。そして、人間のかたちが現れた。人間になった蛇は、
       50歳くらいの女性となって、ヒワ子の部屋に住みつくようになる。自分のことを、ヒワ子の母だと
       名乗り、以前からそこに住んでいたように至極自然に膳を並べ、ヒワ子とビールを酌み交わ
       す。ヒワ子は、その人間が蛇であると気づいている。その後、ヒワ子の勤め先の数珠屋のおか
       みさん・ニシ子もまた、蛇と関わっていることが分かってきた。その蛇は、ずいぶん歳を取って
       いて死期が近い。ニシ子は、蛇の世界はほんとうに暖かいという。何度もあちら側に行きそうに
       なったともいう。あるとき、ニシ子はその蛇を踏みつぶした拍子に怪我をする。死んだ蛇は埋め
       られた。数珠の納品先の願信寺の住職もまた、蛇に関わっている。蛇を女房にしていたことが
       あるという。家の切り盛りはうまい、夜のことも絶品だという。子どもは産めないが卵を産む。その
       うちに、ヒワ子の部屋の蛇は、カナカナ堂で仕事中のヒワ子を訪ねてくるようになった。部屋に
       戻ると「ヒワ子ちゃん、もう待てない」と言って、ヒワ子の首を絞め始めたのである。その後の格
       闘。結論も何もないまま、話は終わる。

片部 杏:それって、アニミズムなのですか?ま、なんとなく分かりますけど。話の内容もわかります。

K-TM:その本のあとがきを書いている松浦寿輝は、こんなことを言っている。
たくさんの動物や植物が
       入り乱れる川上弘美の物語世界では、種と種との間の境界が溶け出して、分類学の秩序に
       取り返しのつかない混乱が生じてしまう。一つの種からもう一つの種へと、存在は自在に往還
       できるかのようである。彼女の作品の登場人物たちは、誰も彼も勝手放題に自分を動物化し、
       植物化し、しまいには生物と無生物との境界も消え去ってしまう。わたしたちが眺めている世
       界の風景には、ふつうは「きり」がある。それは、「きり」良く分類され、例えば人は人であり、蛇
       は蛇であって、それらカテゴリー間の混同はありえないという明瞭な了解がそこで営まれてい
       る安穏な生の持続を保証している。世界は、基盤のマス目のようにかっきりと「きり」分けられて
       いるのが常態なのだ。川上は、この「きり」の概念を崩壊させる。わたしたちを取り巻く世界は、
       直観的には、「きり」分けることがない存在から成り立っているのではないだろうかと。

片部 杏:そっか、じつは、わたしたちは、人間とそれ以外の存在を「きり」よく分けて、非人間的存在に
       人間的な性質を見てとっているわけではないのですね。アニミズムとは、人間
と人間以外の諸
       存在が、きちっと「きり」分けられることなく、溶け合って、交差する幻想のようなものなのです
       ね。そうした幻想文学に、われわれは直観的に
はまりこんでゆくことができるのは、そうした幻
       想能力を、認知の進化の過程で、現生人類が獲得したからですね。
 だから、人間は、アニミ
       ズムを生きてきたということにもなるのですね。

K-TM:そのとおりじゃ。励みたまえ、霊界研究。

片部 杏:はい、ぼちぼち。

上のアニミズム想定問答は、奥野克巳 近刊 「アニミズム、『きり』よく分けられない幻想領域」吉田・石井
花渕共編著『宗教の人類学』、春風社の主要論点を取り出して、再構成したものである。

(写真は、ボルネオ島・カリス社会の「精霊と闘わせる戦士の木像」)
 


アイヌのイヨマンテ

2010年07月09日 22時34分49秒 | 宗教人類学

本日の文化人類学の授業で、アイヌのイヨマンテ儀礼を取り上げた。その儀礼は、熊猟において持ち帰られた子熊を人の子以上に丁重に飼い育て、やがて、成長した熊を殺害し、その肉をふるまう儀礼である。つまり、それは、熊の姿で人間の世界にやってきた神を丁重にもてなした後、神を神々の世界に送り返すために行われる。人間にもてなされた熊=神は、神の世界に戻った後に、他の神々に人間の素晴らしさを話し聞かせると、他の神々も、熊となって人間の世界を訪れるとされる。そうした見取り図を示した上で、解説を加え(中沢新一、「映像のエティーク」のなかのイヨマンテをめぐる記述)、ビデオ(1931年、BBC)を見せた。

それは、飼い育てた熊を残酷な方法で殺害し、肉をみなで食べるという内容の儀礼なのであるが、わたしとしては、なぜアイヌの人びとが、そうしたことをしなければならないのか、そういったことを行うことによって、何を表現しようとしているのかを、受講者たちが、真剣に考えているのかどうかを確かめたかった。ビデオを見たすぐ後に、
どれほど理解してくれたのかについて<小テスト>を行った(「何が分かったのかについて簡潔に書きなさい)」。全体として、見取り図をなぞるような内容のものが多かったため、わたしとしては、その点において、不満を感じたのであるが、なかには、いろいろと頭を働かせて考えようとしているものもあった。以下、記録として。

【???】

「イヨマンテの儀礼をする時には、本当に多くの人たちが協力し合っているということが分かりました。大人から子供が全員の力を合わせてイヨマンテの儀礼をしていました。熊に対する攻撃をする時でも集団で攻撃をしていました。イヨマンテは、動物に関して独特の考えを持っていて、文明の違いが分かりました」(LA2)という理解が、一応のところ、考えようとしているという点で、ここで取り上げなければならないほどに、表面的に、わたしが解説した見取り図を
繰り返すだけのものが多かった。しかし、この学生の理解は、イヨマンテそのものに届いていない。そうした奇妙なやり方を、たんに「文明の違い」に還元してしまっている。

「今の私にとっておかしい所もたくさんあるが、それは文化の違いであり、人間の開き直りではないと信じるしかないと思った」(LA2)というかたちで、彼らのやり方を、けっして、文化の違いに還元してはいけない。

さらに、「ただ自分の意見としては動物を殺す、物を壊すといった行為を神と神の世界に返すなどの理由をつけてやっているにすぎないのだと思いました。人間は神という理由があれば平気で残酷な事をする人だなと思ったのが正直な感想です」(LA2年)。ひぇ~、正直すぎるよ。考えようとしているけど、まったく分かっていないではないか!イヨマンテは、残酷な行為のたんなる宗教的な理由づけという意見。わたしは、教えることがいやになる。いや、もう少し忍耐を持つべきか。

同じような内容のものとして。「どうしても感情論的に見ると、人間の子供以上に大切に育てた熊を殺して食べるなんて、残酷だと思ってしまいました。これはあくまで儀礼なので、アイヌの人々は心を痛めたりしないのでしょうか?儀礼に参加していた人々がみんなが、熊から少しも目をそらさずに、熊を見つめていたのが印象的でした・・・」(LA3)。やはり、残酷だと感じる域をやはり一歩も出ていないですね。「熊から少しも目をそらさずに、熊を見つめていたのが印象的だった」ということの意味を考えてみてほしいのです。なぜ、そうした華やいだ雰囲気のなかで、飼い育てた熊を殺すのでしょうか?残酷かもしれないけど、あえてその残酷さを目にすることによって、彼らは何をしているのでしょうかということを。そうした儀礼でしか表現することができない、
人間の実存のあり方が、そこでは表現されているのではないでしょうか。

「アイヌにしてみれば、自分たちがより良く生きるために必要な儀式なのだろう。しかしボクは『逆の立場だったら』と考えてしまってしかたがない。人間が、もし他の星へ行って人間を食す高度な生命体につかまり同じことをされたら・・・どうしてもそんな考えばかり頭にうかぶ。あの映像を見て、それしか考えられなくなってしまった」(総文2)。物事の本質を理解するのに、その空想力は邪魔である。

こうした相対化をまだ体得していない見解の数々から、一歩踏み込んで考えようとしているが、まだまだ足りない意見として。その意味で、
イケテナイ理解に属するものとして。ビデオを見た感じだと、熊がかわいそうにしか見えませんでしたが、話を聞いたり、文章を読んだりして、熊の姿で人間の世界にやってきた神を丁重にもてなし、送りの儀礼(イヨマンテ)を行って神々の世界にお帰り頂くものとして解釈されていたということを知った。資料に書いてあった通り、かわいがっていた熊を殺し、丁寧に解体してあげることは、残酷だと思われるのは、とても分かりました。しかし、生き物に対する慈悲は残酷を否定するというのは、とても難しいことばだなと思いました」 (LA4)。慈悲を実践するだけでは、残酷の先にある事柄の本質を曇らせてしまうということですよ。そこを踏み込んで考えてみなければならないのです。

【○○○】
さて、次に、理解を示してくれたもの
「例えば、身近な所で言えば日本人は魚などを食べる時骨をしゃぶるくらいキレイに食べる。このことについて私は父に『日本人は食べ物(動物)にも神がいて、自分達が生きていく上で殺して食べなくてはいけない。だからこそ敬意を表していただくんだ』と聞いた。動物をペットとして見る事が多い今、とてもショッキングな映像ではあったが、同時に”人間というものは本来どういう動物なのか”を思い知らされた。そして現代人が眼にする事のない動物の”殺し”の現場を見て学ぶアイヌの子供達は、より感謝と生きていくという事を学べるんだと思った」(LA2)。うん、お父さんのことばも助けとなって、イヨマンテ理解のいいところまでイケテイルと思います。

「現在の私たちは動物を殺すこと=残酷として背を向けている。しかし何物も自然からの贈り物であり、それらのおかげで私たちは生きている。イヨマンテは、『自然に感謝する』という当たり前な、しかし現代の私たちには忘れがちなことを思い起こさせてくれるものだった。また、アイヌの人々はイヨマンテを行うことで(自分たちと関わる全てのものに)神として送り出していたことから、それが礼儀(エチケット)だと考えていたことが分かった」(LA3)。そう、私たち現代人は、スーパーで肉を買うから、自然が恵みを与えてくれることに対する感謝の気持ちを忘れてしまっているのです。そのことをイヨマンテが思い起こさせてくれるのですよね。

同様の意見として。「イヨマンテの儀礼というのは、何も知らない人から見れば、ただのむごいだけの儀礼かもしれません。しかしその行為の一つ一つにはとても深い意味があるということを知りました、熊を神の化身として丁重にあつかい、その後神々の世界に返すために盛大な儀礼を行い、その熊を殺す。この儀礼の中で、わたしはアイヌ民族の日々生きていけること、食事をできることへの自然に対する深い感謝の念を感じました。現代に生きる私たちは、食事ができることが当たり前で、生命を殺し作った食べ物を平然と捨てる。私たちとアイヌ民族、本当に野蛮なのはどちらか?深く考えさせられる儀礼でした」(LA3)。しっかりと分かっている。

きちっと理解している答案として。「この儀式は、自分達にめぐみを与えてくれる自然神に対して、アイヌの民族の人達の礼儀、思想の一部なのだという事がわかった。一見残酷に見えるこの儀礼の中には、自分達のために利益を与えてくれる物達へのアイヌの人達の思いやり、感謝を表す一つの方法なのだということが理解できた。なぜ?子熊を自分の子以上に可愛がって育てるのに、最終的に殺してしまうのかという事に対しては、その熊の器を借りてやってきた神に対して、心づくしのおもてなしをして、あちら側の世界(神々が本来あるべき場所)に気持ちよく帰ってもらうための行動なのだと言う事なのだと思った。アイヌの儀式を通して、命を捧げてくれる物達へ、人間は本来どのようにあるべきなのかを教えてくれた」(LA2)。そのとおりだと思います。

「今の私には”神”そのものの存在自体よく理解していないので、生き物を殺すということは、あまりにも残酷だと思ったが、このアイヌの人々の考えにもとづいて行われたイヨマンテは、人間と自然と生物を一つの輪でつなる
ような、共に生きているみたいな神聖な儀礼と思えた。また、殺すというよりも”神”をまた元の世界に戻すために全てのモノに対してこのイヨマンテを行うアイヌの人々の心もまた清らかなのかなと感じた。”イヨマンテ”を行うことで、礼儀正しさを考えるアイヌの人々はイヨマンテ自体をエチケットとして考えているのだから、全てに対して”はだか”だなあとまぢまぢ感じました」(LA3)。「人間と自然と生物を一つの輪でつなげてような、共に生きているみたいな神聖な儀礼」、ほう~、なるほど、人間が自然(熊・神)によって生かされ、自然(熊・神)に人間が礼儀正しくふるまうということで、すべて共に生きているということを表しているってことですかね。

同様の理解として。
「イヨマンテは、人間として自然・動物たちと向き合うことの真実を伝えている。人間はいろいろなものに支えられていて、キレイ言ではなく、そこと人間はどうつながっているのか。今の人間が忘れてしまった、また避けていることをつきつけてくれる。」(LA3)。

「神を送り返す、また来てもらい肉や毛皮を持ってきてもらうという熊送りのイヨマンテ。神を人間に豊かさを与えてくれるという、ある意味都合のいい解釈に感じたが、そこには熊をはじめ全ての自然に人間は生かされているという自然崇拝の形を見た。小熊を育てるという点は、より大きくして肉を得るという利己的な面があるように思えたが、それよりも神をもてなす、感謝する、そして家族の一員として人間も神(自然)も同列にあり、だからこそ礼を尽くすことで対価としての豊かさを得ようという考えもあるように思った。このようなアイヌの自然観、あるいは世界観をイヨマンテから理解することができると私は考えた。」(LA2)。都合のいい解釈をしていたり、利己的な側面に対する疑いを抱きながらも、イヨマンテには、人間と神の交換のなかで、礼を尽くす面もあることを読み取っている。  


シャーマンとしてのスピカン

2010年07月06日 23時43分04秒 | 宗教人類学

身の周りで相次いで起こる死が、カリスの少年イドリスをおかしくさせていた。何かにおびえ、夜にはうなされるようになり、高熱が続いた。イドリスは、ひんぱんに、この世のものではない存在を見るようになった。女性シャーマン(バリアン)が呼ばれて、夜通しの儀礼が行われた。シャーマンは、イドリスの家族と協力して、精霊との闘いを制して、イドリスを落ち着かせるのに見事成功した。イドリスの高熱も同時に引いた。
http://www2.obirin.ac.jp/~okuno/raorao-mauno.htm

それは、江原啓之さんが、突然、最愛の息子を亡くし、意気消沈し、絆を失いかけたある家族を癒してゆくプロセスによく似ている。わたしたちは、以下の映像にとにかく圧倒される。
スピリチュアル・カウンセラーの江原さんは、死んでしまった男の子と交信し、彼を自らに憑依させて、磁場の異常で入ることができない家へと導き入れる。家族は、目に見えない息子を温かく迎え入れ、江原さんを通して彼が発したことばに情感を揺さぶられ、しだいに、癒されてゆく。
http://www.youtube.com/watch?v=0vet88Hbq7g
http://www.youtube.com/watch?v=s-rQgiROipY&NR=1
http://www.youtube.com/watch?v=v1EBaYCWWE0&feature=related

シャーマニックな能力とは、人類がもつ潜在的能力である。シャーマンは、世界のこちら側とあちら側を往き来しながら、世界のこちら側に生き、苦しむ人びとの問題の解決にあたる。わたしたちは、こうした解決の仕方を、頭ではなく、全身(魂)で理解できる。わたしたちは、シャーマニズムを、学問以前に知っている。


本日(2010年7月6日)の文化人類学の授業より。

(写真は、魂を身体に植えるカリスの男性シャーマン)


交わる此岸と彼岸

2010年04月26日 13時22分51秒 | 宗教人類学

腰に挿した山刀でシャーマンは悪霊を叩き切って床にバッタリと倒れる。病気を患った者の家族はあらかじめ用意してあった織布をシャーマンにそおっと掛けて(写真:カリスのシャーマンによる儀礼)、サイチョウの羽で7回叩いて、シャーマンを覚醒させる。シャーマンは、その後、叩き切った悪霊の正体について語り始める・・・

それは、カリスのシャーマニズムにおいて、シャーマンによる
悪霊の殺害と観客が見ている現実が交錯する瞬間である。わたしはこれまで、ただ独りシャーマン的な存在だけが、世界のこちら側とあちら側その両方の世界を経験していると思っていた。しかし、そういった理解は正しくないのではないか。そうではないのだ。人びとの間で、悪霊や祖霊たちが跋扈する世界のあちら側と現実に暮らしを営んでいる世界のこちら側は、きちっと切り分けられていないのではないだろうか。それらは相互に重なり合う。こちら側でもあり、あちら側でもある場所に、わたしたちは暮らしている。そのような認識こそが、全体として、シャーマニズムを支えてきた。

人が死んだときなど、
現実空間にひんぱんに入り込んでくるスピリチュアルな存在がいる。逆に、夢見によって、生者たちは、スピリチュアルな世界に入ってゆく。スピリチュアルとは、この場合、精神的(内面的)かつ霊的であるような領域のことである。あの世や霊の住む世界などあるわけがないと言って抑圧することによって、わたしたちの世界秩序は、合理的・科学的なものとして立ち現れる。いやむしろ、合理主義・科学主義によって、世界を秩序づけることによって、世界のこちら側だけで完結しようとしてきたし、その反対にあちら側を胡散臭いものとして遠ざけてきたのではあるまいか。

そうした見方をあらかじめ植えつけられてきたわたしたちにとって、じつは、現実と非現実、世界のこちら側とあちら側とが曖昧なかたちで
交わり、そのことがヒトの脳のなかに構造化されていることを「再」発見するまでには、長い時間がかかる。


公開シンポジウム「キリスト教と人類学」を終えて

2009年01月24日 22時49分10秒 | 宗教人類学

公開シンポジウム「キリスト教と人類学~多様な文化との関わりから~」が行われ、さきほど無事終了した。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/57cde30c40fe5255eefdaa469f682d90

小雪舞う天候で、出足を心配したが、出席者リストを見ると、学内外から、40名近くの方の参加があったようだ。発表者、アルバイト学生を含めると、50人強規模のシンポジウムとなった。昨年6月末の「セックスの人類学」に比べると、半分の規模であったが、今回のシンポジウムは、半日のものであり、単純には比較はできないものの、学内の学生の参加が少なかったことは、少し残念であったが。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/2b3297e59000a3df343cb8b39e7b3964

主催者でありながら、キリスト教の門外漢であり、自ら、シンポジウムの大筋から脱線したヘンテコな発表を行った者として、シンポジウム全体をまとめることは不可能なので、一参加者としての個人的な視点から、感想めいたことを書いておきたい。

要は、このシンポジウムで何が分かったのかであるが、その一番に、K先生が言っていたように、「キリスト教徒である人類学者にとっての異文化研究」である人類学のなかで、キリスト教とは、置き去りにされてきたテーマであるという点を掲げておきたい。

マルタのキリスト教会で、エクソシストを養成しながら、迷信や俗信とされる邪視信仰に真正面から取り組んでいる事態の調査からは、「被害者」の視点だけから災因論に接近してきた人類学に対する補正の必要性が見えてくる。韓国は、たんに
キリスト教を受容する国ではなく、神学校の卒業生の就職先の確保のためなどもあって、キリスト教の海外布教の発信先ともなっている。イスラーム世界におけるキリスト教徒の対話をベースにして、世界的な広がりを見せる文明間対話を視野に収めた上で、桜美林の孔子像立像は、宗教的文化の寛容さを示すものと見ることができるのではないか、その上で、大学の開かれた教育実践へとつなげるべきではないかという建設的な問題提起も行われた。このような報告が示しているように、キリスト教を介して、人びとの宗教実践に踏み込むことは、たしかに、人類学の宗教研究の新たな貢献になりうるだろうと思われる。

日本社会におけるキリスト教の受容は、はたして、コンテクスチュアリゼーション(土着化)という文脈で捉えていいのかどうかということに対する議論も行われた。そのタームは、キリスト教中心主義的な色合いを帯びているのではないか。それに代えて、いったい、どのような観点から、キリスト教を異文化との関わりに捉えればいいのか。その議論は、けっこういいところまで行ったが、時間切れとなった。

「キリスト教と人類学」という主題設定は、キリスト教と異文化という主題に比べて、幾分ねじれている。その意味で、その問いの追及は、単純な土着化論を超え出てゆく方向性を孕んでいるようにも見える。議論は時間切れとなったが、少しではあるが、議論の行く先が見えたような気がする。

以上、あやふやなまま、個人的な覚書として。個人的には、たいへん勉強になったシンポジウムであった。発表者の先生方、参加者の方々、アルバイト・スタッフに感謝します。

(写真は、ボルネオ島カリス社会で、墓場に向かう前につくられた死者の十字架:本シンポジウムのポスターの写真)


公開シンポジウム「キリスト教と人類学」

2008年12月11日 08時46分13秒 | 宗教人類学

公開シンポジウム

キリスト教と人類学
~多様な文化との関わりから~

日時:2009年1月24日(土)12:30~18:00
場所:桜美林大学町田キャンパス・明々館408教室
http://www.obirin.ac.jp/001/030.html

現代日本では、宗教には、危ない、怖いというイメージがあると言われています。それは、カルト教団による反社会的な事件が私たちを震撼させ、また、世界各地で、宗教・民族紛争が続発していることに関わっているのかもしれません。そのため、現代日本では、とりわけ、若年層の宗教離れが深刻化していると言われています。日本のキリスト教は、そうした宗教離れだけでなく、さらには、人類社会の平和構築と維持にどのように取り組んでいくのかという大きな現実的課題にも直面しています。

キリスト教学は、これまで、キリスト教信仰の世界大の広がりに関しても、様々な角度から取り組んできました。他方で、人類学には、キリスト教学にはないフィールドワークという手法が、その学問の基礎に深く組み込まれています。人類学者は、宗教の実践者たちの暮らしの真っただなかに身を置きながら、彼らにとっての宗教の意味を読み解こうと努めてきました。人類学はまた、キリスト教が根づくようになった地域の土着の信仰や習慣などについて調べ上げた上で、人びとの教義解釈や信仰実践の濃淡やゆらぎにも目を向けるだけでなく、原理主義から神秘主義、シンクレティズムにいたるまで、宗教形態の実相を明るみにしようとしてきました。

キリスト教精神に基づく教育を理念とする桜美林大学で行うこのシンポジウムでは、地球上の多様な文化との関わりにおいて、キリスト教が具体的にどのようにあるのかに関して、事例報告をした上で、キリスト教を取り巻く課題などについて、総合討論を行いたいと思います。キリスト教学と人類学の協同作業をつうじて、キリスト教を含む宗教を、よりよく理解するための何らかの手がかりが得られればと願っています。

第I部  日本におけるキリスト教
外来宣教師による日本布教の特色  井上大衛(桜美林大学)
日本のキリスト教の土着化  三谷高康(桜美林大学)

第Ⅱ部  宗教人類学の視点
今日の宗教起源論とその意義  奥野克巳(桜美林大学) 
ブラジルにおける日系宗教への回心  松岡秀明(淑徳大学)

第Ⅲ部  東アジアにおけるキリスト教の現在
岐路に立つ韓国のキリスト教  秀村研二(明星大学)
台湾先住民の終末医療とキリスト教  中生勝美(桜美林大学) 

第Ⅳ部  キリスト教世界の多様性
タイ山地民ラフとキリスト教    片岡樹(京都大学)
マルタにおける悪魔学再編  藤原久仁子(大阪大学)
キリスト教徒とムスリムとの対話  鷹木恵子(桜美林大学)

2008年度桜美林大学・国際学研究所主催
桜美林大学・リベラルアーツ学群キリスト教学専攻共催
桜美林大学・リベラルアーツ学群文化人類学専攻共催

問い合わせ先:
iis2008@obirin.ac.jp

 


キリスト教と人類学

2008年07月20日 22時09分30秒 | 宗教人類学

かなりひょんなことから、宗教人類学のシンポジウムを、キリスト教との関わりにおいて組織するようなこととなり、最初は、これは、かなり困ったことになったと思っていたが、厄介をお願いしながら、宗教学やキリスト教学の先生方に話をうかがったり、幾つかの本を読むうちに、そのような企画そのものが、じょじょに、けっこう面白いのではないかと思えるようになってきた。というのは、宗教人類学と呼ばれる領域自体が、じつは、はっきりしないというか、そもそも、かなり怪しい研究群だと思えるのだが、今日、宗教人類学の研究対象とされる宗教的な諸実践(シャーマニズム、呪術、オカルト、シンクレティズム、宗教f儀礼、トーテミズムなど・・・)は、西洋のキリスト教に対して、非西洋の未開「宗教」、「宗教」以前の野蛮な数々の実践などを取り上げることによって、次第にかたちをなしたという歴史的事実があるからである。西洋における倫理であり、道徳であり、日常のリズムである社会的事実であり、政治的な力であるキリスト教の精神と生活を土台とすれば、地球上の多様な文化のありように触れたとたんに、キリスト教世界で行われているものと同系・同様の特色をもつ諸実践を、とりあえずは、「宗教」と呼ぶことができたであろう。さらに、キリスト教から遠く隔たった誤ったり、未明であると思えるようなものに、偽宗教であるとか、原始宗教その他の名前を付けたり、キリスト教とローカルな実践が混淆したものを、習合であると読み取ったことは、自然のこととして、理解できる。また、ヨーロッパでは、キリスト教は、長らく、人びとの生活から切離されるものではなかったのだが、啓蒙主義時代(18世紀)以降に、一つの知的システム(=宗教)として捉えられるようになった。その背景には、魔女狩りや民間宗教などの差別化があったとされる。そのようなことは、宗教をめぐる人類学研究のなかで、すでに明らかにされていることであり(花渕馨也「宗教と呪術」『文化人類学のレッスン』所収)、わたしがいまさら、驚きをもって述べるべきことでもないのだが、いずれにせよ、上で見たような宗教をめぐる概念の成立のプロセスの根っこの部分に、キリスト教の精神と実践が密接に関わっているのだとすれば、キリスト教がどのようなものであるのかということについて考えてみることは、大元を問い尋ねるという意味で、いまとなっては、宗教人類学の重要な課題となりうるのかもしれない。

(写真は、プナンの女の子)