たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

【おしらせ】来たるべき人類学構想会議 第4回の集い (2013.10.26.)

2013年09月30日 09時53分59秒 | 大学

 

「来るべき人類学構想会議」では、2013年10月26日(土)に、第4回の集いとして、春風社「来たるべき人類学」シリーズ5巻の刊行を記念して、合評会とディスカッションを行います。

ご関心のある皆様のご参加を歓迎いたします。

【タイトル】
「来たるべき人類学」は可能か?
―シリーズ「来たるべき人類学」全五巻刊行記念―

【概要】
 
 日本の大学では、「人類学」は今、だいたい、文化人類学という科目名で、専門課程や教養課程で教えられています。それは、もともとは、人間をめぐる学術探究の総称のようなものであって、くっきりとバウンダリーがある学問領域ではなかったようです。人間や人類に関する諸現象を見つめる学問的な精神こそが、人類学だったのです。

 ポストモダンという、学問に対する反省を含む嵐が吹き荒れた後、人類学とはいったい何であったのか、これから、どこに向かおうとしているのかということを、いま、一度、考えてみたいという思いを持ってスタートさせたのが、春風社のシリーズ「来たるべき人類学」です。

 これまでの5年の間に、(狭義の)人類学者だけでなく、動物行動学者、霊長類学者、考古学者、経済学者、宗教学者、言語学者、社会学者などを含めて、中堅・若手の総勢47名の研究者たち(1956年~1984年生、生年不明1名)の寄稿により、「来たるべき人類学」シリーズ5巻が、2013年に完結しました。

第1巻 『セックスの人類学』 2009年4月
第2巻 『経済からの脱出』 2009年11月
第3巻 『宗教の人類学』 2010年11月
第4巻 『アジアの人類学』  2013年4月
第5巻 『人と動物の人類学』  2012年9月

 今回は、総合司会に、近藤祉秋さん(『人と動物の人類学』の共編著者)、レヴュワーに、上村淳志さん(『セックスの人類学』)、田中正隆さん(『経済からの脱出』)、相澤里沙さん(宗教人類学)、山口裕子さん(『アジアの人類学)、溝口大助さん(『人と動物の人類学』をお招きして、シリーズ全5巻の合評会を行い、人類学の可能性と未来について議論します。

【日時】
2013年10月26日(土)14:00~18:00(参加費無料)

【場所】
桜美林大学四谷キャンパス 地下ホール
JR 四谷駅、東京メトロ丸の内線、南北線四谷駅より徒歩3分
http://www.obirin.ac.jp/access/yotsuya/index.html

 【関連URL】
http://anthropology.doorblog.jp/

【世話人】
池田光穂(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター)、奥野克巳(桜美林大学)、内藤寛(春風社)

【問い合わせ先】
okuno@obirin.ac.jp

くまのからさぬきへ

2013年09月27日 18時32分41秒 | 大学

西武の夜行バスは予定よりも遅れて横浜Yキャットを発し愛知県から紀伊半島を南下し那智勝浦に着くとやがて熊野で第一部隊の道案内をしてくれた宿泊所所有のバスが到着しそのバスに揺られて那智大社に詣で飛沫をあげる神でもある那智の瀧を拝み青岸渡寺を拝観し新宮へ移動し中上健次の墓参りをし中上の小説ゆかりの秋幸の家や佐倉の屋敷などの場所を訪れ速玉神社を参詣し佐藤春夫記念館を見学した後に毎年の熊野大学の開催所でもある宿泊所に到着しリラックスした雰囲気のなかで熊野大学の主催者でもある方々から中上の小説や中上の思い出話を聞き翌朝早くには発心門王子に向けてバスで出発し午前中は熊野古道を散策し辿りついた熊野本宮大社では神職による本宮大社についての話をうかがい大斎原の大鳥居を拝み宿泊所に戻って蟻の熊野詣のレクチャーを拝聴し熊野信仰への理解を深め台風18号によって時折襲ってくる激しい雨音を聞きながら夜明け前まで飲み起きると雲行き怪しいなかバスで出発し中辺路を経て紀伊田辺駅に到着した後特急くろしおで大阪に出て第一部隊はそれで解散となった.

熊野古道

デジカメチェックしたらこんな写真入ってた,まったく知らなかった

私はと言えば台風が東へ向かっているという報を聞きつつそのままバスで淡路島を経て高松に向い激しい雨にびしょびしょに濡れながらホテルにたどり着き翌朝は台風一過カラっと晴れたもののどうやら高松に向かうべき第二部隊には台風18号が襲いかかったらしく乗ろうとしていた特急サンライズ号が運休になっていたたようでその朝には新幹線で出発したらしいが富士川の河川水位が高くそこを越えられないらしく横浜までいったん引き返し夜の便で再出発することになったということであったがその間私はと言えば高松出身の菊池寛の記念館を訪ねずらっと並んだ授賞作家の肖像の展示を食い入るように眺め本場の讃岐うどんを食べにうどん屋を3件梯子した後にローカル私電・琴平電鉄に乗って一足先にコテージに到着し第二部隊が到着するのを待つも部隊のメンバーがようやく到着したのは夜明け間近の午前3時すぎであり第二部隊に疲労の色見え予定は変更され翌日は部隊が金刀比羅宮に行くもコテージに留まり卒論途中経過をわりとていねいに読みその夜には検討会を行った後に飲み始めたのがやや遅かったがそうこうしているうちに朝になり再び琴平電鉄に乗り高松へと出てそこから瀬戸内海を岡山へと渡り新幹線に乗り継いで新横浜経由で都内へと戻ったのである.

琴電・長尾駅の朝

6泊7日の第一部隊と第二部隊との旅は終わりおそらく私の夏もこれで終わった.


中上健次に耽る

2013年09月03日 11時20分41秒 | 文学作品

2013年8月中上健次に耽った.
『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』の紀州熊野三部作.
『岬』はいまから20年ほど前に読みはじめた瞬間に挫折し長い間放ったままだった.

母と姦夫に父を殺されたエレクトラが弟オステレスと母殺しを企てるギリシャ悲劇とは逆方向に、竹原秋幸の兄・郁男は母・フサに復讐を遂げる前に自殺する.
『岬』の最初からその事件と郁男の残像が主人公・秋幸と「路地」に住む人たちに昏い影を落とし続ける.
『岬』では、母はまだときという名だし、郁男は兄と呼ばれるだけで、竹原秋幸の人格に大きな影響を与える実父・浜村龍造はほんの一瞬登場するだけで、男としか言及されない.
性と血と暴力を深いところで原動力としつつもそれによって苦しめられる人びとは、次第に、名を与えられ、遠くから近くへとやってくる.
中上の性をめぐる描写が際立っているように感じる.
例えば以下のような表現を含めて.

この時だった。大溝に、ソーセージを入れたコンドームが流れてきた。色めきたった。豚小屋の向こうのアパートか立て売りのあたりか、それとも町方の家のどこかに、昼も夜ももだえる若後家がいるのだ、と結論した。一言、声を掛けてくれればいいものを、と安雄は言った。

安雄は、その後、古市という男の足を3回突き刺して殺害してしまう.
その事件の後、秋幸の姉・美恵が精神に異常をきたす.

『岬』において与えられていた主題がある.
秋幸が母・フサの連れ子として、亡き先夫との子らである郁男、芳子、美恵のもとを離れて、竹原繁蔵の後添えとなって暮らしており、秋幸はそのどちらの父(亡き先夫と繁蔵)とも違う、浜村龍造という二の腕に刺青を入れた男の子どもであることが、『枯木灘』において、次第次第に膨らんでいく.
『枯木灘』の最後で、秋幸は、浜村龍造の次男、つまり自分の異母弟を殺してしまう.

『地の果て 至上の時』は、秋幸が大阪の刑務所に3年服役して、ふたたび紀州へと戻るシーンから幕が開き、秋幸は、木こりとして、町の暮らしから遠ざかって暮す六さんの小屋で一泊する.
このノマディックな六さんのことが私は好きだ、気になる.

実父・浜村龍造にとっての「路地」について考える秋幸のことば.

秋幸は考えた。路地の中でフサの私生児として生まれた秋幸とまるっきり違う目で浜村龍造は路地をみていたのだった。路地では文字の読み書きを知らない者らが住み、女らがつつしみを忘れて大手振り交接し平気でテテナシ子を生む。秋幸もテテナシ子として生れた。男らは気力なく幽霊のように行き、人が生き続けるのに必要な誇りや自信など皆無だった。だが秋幸は町の動きからはじき出された者らの分泌する人肌のぬくもりの中で育った。他所から流れて来た者には、危害を加える恐れがなく自分より無能なら、あたうる限り優しく親切だったが、知恵があり元気がある者に対しては排除し、閉め出し、あらん限り噂の種にした。

秋幸は、ケガを追った六さんをたまたま浜村龍造の家に運び入れた縁で、浜村龍造と近づくようになり、路地に育った、身内として、実父の手下して働くことになる.
龍造と「兄やん」秋幸は、伝説の人物・浜村孫一の血につらなり、路地の復興への野望によって結びつく.
やがて父と子の関係は随所で反転し、対立を孕むものへと肥大する.
その絶頂において、浜村龍造は、突然、自殺する.

そもそもフィクションとして書かれた物語は多様な解釈に開かれている.
あたりまえである.
そのことを踏まえれば、私は、竹原秋幸の物語を漂うことによって、内側から、書くことに対する動機のようなものを与えられた気がする.
とはいうものの、書けないし、誰もいきなり中上健次にはなれない.

中上は、文庫版『岬』の後記でこう書いている.

 「黄金比の朝」は一年半前に書いた。
 吹きこぼれるように、物を書きたい。いや、在りたい。ランボーの言う混乱の振幅を広げ、せめて私は、他者の中から、すくっと屹立する自分をさがす。だが、死んだ者、生きている者に、声は届くだろうか?読んで下さる方に、声は届くだろうか?


レインフォレストからメトロポリタンへ

2013年09月02日 17時02分10秒 | フィールドワーク

クアラルンプールからの夜行便で本日の午前成田空港に着いた.
9月になって少しくらいは涼しくなってるかと期待したがなんじゃこの東京の酷暑は.
クアラルンプールよりは確実にアツい.

今回の調査では「ヤマアラシの胃の石(porcupine date/stone :箭猪棗)」に関して「マルティ・サイテッド・エスノグラフィー」の手法ですなわち定点観察ではなく場所を転々としながらインタヴューなどを行った.
そもそもの出発点は今年の3月の調査の時点でたいていは一日中ブラブラと過ごしていてたまにあれば労賃を稼ぐ仕事をするという旧石器時代さながらのフォレジャーのような暮らしをしているかのように見えるプナンの一人の男性が昨年のクリスマスの前にヤマアラシの胃の石を見つけて売ってそのお金でローン払いではあるが4輪駆動車(Hilux)を購入したということに驚いたことだった. 
プナン人に旧石器時代から現代へのゲートウェイを可能にするようなヤマアラシの胃の石について調べてみようと思いたち仲買や需要などの実態に迫るためにサラワクの華人の調査研究を続けている文化人類学者'I'さんに声をかけた.
我々二人はエンド・ポイントとしてのプナンの棲むサラワクのレインフォレストからヤマアラシの胃の石を扱う仲買人の棲む地方都市さらには最終消費地でもあり場合によっては(東南アジアの華人たちへの)中継地でもあるクアラルンプールまでを歩いた.

商業的な木材伐採後裸になった土地の油ヤシのプランテーション化は油ヤシの実を好んで食べに来るイノシシを先住民が狩って周辺住民を含めて食料の供給を可能にしたという点においていまから考えるとプナン人たちにとっては部分的に幸運であったのだと言えるのかもしれない.
イノシシだけでなくヤマアラシもまた油ヤシの実を好物として食べに来る.
そのことによってプナンは車が買えるほどの大金を手に入れることができたわけである.
いやプナンがローン支払いという未経験の新たな苦悩を引き受けることになるならば車を手に入れることは必ずしも幸運なことではないかもしれない.
だとすれば上で挙げた拙速な結論の見通しはいまのところ慎むべきなのかもしれない.

油ヤシプランテーションの拡大がヤマアラシの増加を少なくともヤマアラシの狩猟数を増加させたようである.
プナンによればかつてはヤマアラシを捕まえても胃の石は捨てていたという.
2000年代になってからヤマアラシの胃の石の価値が知られるようになり焼畑民や華人に売られることとなった.
その時期は油ヤシのプランテーションで狩猟がおこなわれるようになった時期と重なる.

ビントゥルから車で4時間のプナンの村に'I'さんを連れていくと老若男女が部屋いっぱいに集まってきた.
いきなりのプナンの猥褻きわまりない交感言語の使用に'I'さんはまじめに答えそれが大きな笑を引き起こした.
私は腰がずっと痛くおまけにパンツや着替えを町に忘れたので'I'さんから借りた.
吹矢で獲ったリスを手で触った'I'さんに「げっ歯類は触ると危ない」と言ってその後深く心配させてしまったかもしれない.
小屋に泊まったときだろうか私だけがダニにやられた.

我々は夕方から猟について行きヌタ場の前で待ち伏せをしてほんの一時間ほどでイノシシを一頭しとめる場面に出くわした(写真). 
夜行性のヤマアラシも多くはこうした待ち伏せ猟によって捕まえられる.

ヤマアラシの胃のなかに石(中国語ではナツメ)はどのようにしてできるのだろうか.
石ができることは一種の病気だという見方がある.
ミリの漢方薬店でなめさせてもらうとかなり苦い味がした.
クアラルンプールにはインドネシアやボルネオからヤマアラシの胃の石が集められていた.
クアラルンプールの漢方薬局では緊急用と称してパウダーにしたうえで売られていた.
免疫力を向上させ癌やデング熱に効くという.
その1グラムあたりの値段は日本円でなんとおおよそ2万円もする.
それは一般庶民が買えるような値段の薬ではない.
この高値がプナンに車を買うことを可能にしているのだろう.

覚書として.