ここしばらくの間ある本を探している。一冊は書籍、一冊は雑誌。今日は朝からオフィスで探しはじめたが、掃除も兼ねることになり、午前中の3時間、オフィスの掃除と整理をした。綺麗になったなあという達成感がまったくない。かわりばえがしない。むしろ、手を付けなかった方がよかったとも思える。いまさらなのだが。やたらと、本やモノが多すぎるのだ。だから、本がときどき無くなる。そういう経緯はよく分かっているけど、片づけられない習性は、これまでのところ改められた試しがない。結局、探している本も雑誌も見つからなかった。作業は徒労だった。本を上げ下げしているときに、ふと思ったのが、本は物質=マテリアルにすぎないということ。本は何冊も重ねると、ずっしりと重いし、持ち運びがやっかいだ。逆に言うと、わたしは、普段は、本は知識の源泉であり、価値があると考えている。物質のなかに掛けがえのない価値を見出しているのだ。わたしたち研究者は、学生は、無生物に対して高い精神性を与えていると言ってもいい。それは、ある意味で、アニミズム?Ameria Henare たちが編集したThinking through Thingsという本を読んでいる。物質は、人間ではない存在として捉えられ、人間=主体によって客体として扱われてきたのだが、そうしたヨーロッパ的な捉え方は、非西洋の諸社会における人間と物質の関係を考えるときには有効ではないというようなことを言っている。物質やモノには、物質であることを超えた意味や価値が付与されているのではないだろうか。古谷嘉章さんの「物質性の人類学に向けて:モノ(をこえるもの)としての偶像」『社会人類学年報vol.36 2010』(抜刷をいただいた)は、物質性をめぐる人類学の研究の篤実なレヴューであり、物質であることを超えて物質について考えるための重要な手引きである。
【感情原論】
ヒトは感情をどのように、何のために、手に入れたのだろうか。進化論は、感情は、生物が、繁殖上で有利を得るために、進化の過程で手に入れた特質であると説明する。人は、他の生き物に比べて、豊かな感情表出を行う。さらには感情の表出を介して、複雑な社会関係を発達させてきた。人はまた、他の人間個体の感情表出のありようの解釈の延長線上に、動物の表情から情動を読みとる力を身につけた。犬がしっぽを振るとき犬の喜びを見出し、けたたましく吠えるときに犬の怒りを読みとってきた。さらに、人は、無生物のなかにも、感情のようなものを読みとる。人は、風がわなないたり、植物がしおれてしょんぼりしていると表現する。そのようにして、人は、人以外の存在の感情をも読みとってきた。はたして、そうした言い回しは、比ゆ的な表現なのであろうか、はたまた擬人表現なのであろうか。いずれにせよ、一般に、人は、人以外の存在にも、人と同じような特質があることを読みとってきたのだと理解される。
【プナン、獣と天の感情】
ところで、ボルネオ島の狩猟民プナン人は、人以外にも、野生動物や天候現象のなかに、特定の感情を読む。それらは、つねに、不快に感じ、怒っていると捉えられる。プナンは、野生動物に、もっぱら怒りの感情を読みとるし、天候もまた怒ると考える。プナンは、どうして人以外の存在のなかに怒りや不快の感情だけを読みとるのだろうか。はたして、彼らは、動物や無生物に、人間の持つ感情をあてはめて捉えようとしているのだろうか。いや、実際には、それとはまったく逆のことが行われているのではないだろうか。プナンは、人と人以外の諸存在のすべてに情動があって、不快を感じ、怒りを爆発させると考えているようなのである。そういったことについて、以下では考えてみたいのである。
【それはアニミズムか?】
動物が喋ったり、樹木が語ることをほんとうのこととして信じることは、人間社会における古い形態の宗教であると捉えたのは、タイラーであった。タイラーは、人が精神を持ち、人以外の存在には精神がなく物質的存在にすぎないとする、デカルト的思考を受け継いで、人間の持っている精神を人以外の存在にあてはめて捉えるような信仰を、アニミズムと名づけたのである。しかし、そうした人の性質を人以外の存在に投影する、投影図式的なアニミズムは、上述した、非西洋社会における、動物や無生物などの人以外の存在に、人間的な感情表出を読みとる事態を理解する上で、十分ではないように思われる。なぜならば、たとえば、プナンは、人以外の存在のうちに、人間的な感情を読みとろうとしているのではなく、動物や天候現象が不快を感じ、怒りを露にする、行為する主体であると捉えているように思われるからである。プナンは、人以外の存在のなかに、あらかじめ情動のようなものが備わっていて、だからこそ、感情を表出させるのだと考えている。
【ふたたび、プナン】
プナンは、人が動物をさいなんだり、動物と戯れたりすることが、天候の激変を引き起こすと考えている。人の粗野なふるまいに対して、動物は怒り、天へと駆け上がり、その怒りに同調するようにして、雷鳴がとどろき、嵐がおき、大雨となり、洪水が起きるとされる。ある場合には、雷神が怒って、天候の激変が引き起こされるとも説明される。
【二つの事例】
乾季に魚とりに出かけたときのことである。男たちは銛や投網であり余るほどの魚を手に入れた。それでもなお魚をとろうと、川の上流に向けてカヌーを漕ぎ出した。そのとき突然、遠くで雷が鳴った。その雷鳴は、必要以上に魚をとりすぎて、魚をさいなんだためだと解釈され、魚が怒って、それに共鳴した天が怒ったのだと考えられた。男たちは、その場で魚とりを中止して、キャンプに引き返した。また、夜中に突風が吹き、雷鳴がとどろき、大粒の雨が降り出したとき、狩猟キャンプにいた男たちは、その荒天は、昼間にしとめられて持ち帰られたブタオザルを、わたしが写真撮影しようとしたときに、ある男が親切心から、ブタオザルにポーズをとらせて、なぶりものにしたことに原因があると考えた。ブタオザルが、人の粗野なふるまいを不快に感じて怒り、雷神と嵐の神が、その怒りに応じて天候の激変をもたらしたのだと解釈された。
【獣を怒らせるな】
プナンは、動物たちが怒らないように、しとめられた動物を前にしたときには、その本当の(種の)名前を呼んではならないというルールをもうけている。狩猟から持ち帰られた動物は、別名で呼ばれなければならないのである。なぜそうしないと動物は怒るのかというわたしの質問に対して、あるプナン人は、動物たちも人と同じだからだと述べたことがある。人が気安く名前を呼ばれたら気分を害するのと同じように、動物もまた機嫌を損なうのだという。他方で、プナンは、喜んでいるとか、悲しんでいるといった情動によって動物の感情表出を語ることはない。気分を悪くしているであるとか、怒っていると語るだけである。プナンによれば、動物はもっぱら怒りの感情を持つ存在なのである。そして、その原因はつねに、人間の側の粗野なふるまいにある。
【他者としての獣】
動物は、人にとって他者である。プナンは、他者である動物の情動に敏感である。そうした社会心理は、狭い小屋のなかで身を寄せ合って暮らすプナン人たちのなかで、つねに強く意識されるものである。人間の他者だけでなく、動物の他者の情動に対して、プナンはきわめて敏感であろう。そのように考えるとき、わたしたちは、はたして、プナンが、人以外の存在に対して、人が持つのと同じような性質をあてはめて理解していると捉えていいのだろうか。プナン社会の人と人、人と人以外の諸存在との関係のあり方を探ることによって、投影図式的な捉え方の先に進んでゆかなければならない。つまり、タイラー的なアニミズムのその先に。
【怒るプナン】
話を前に進めるために、プナンにとっての「怒り」について書いてみたい。夫を亡くして二人の子どもを抱えて途方に暮れていた寡婦が、彼女のとは別の共同体の複数の男に身をゆだねるという出来事があった。寡婦の共同体のメンバーは、寡婦を責めるのではなく、男たちの所属している共同体に対して、怒りを露にした。逆に、言われもない怒りを突きつけられた男たちの共同体は、寡婦の所属する共同体に対して、怒りをぶちまけた。二つの共同体は対峙して、一発触発の危機的な状況に陥っていた。また、あるときよそ者たちが、ロギングロードから、プナンの居住空間を横切って、川に抜けようとしたことがあった。よそ者たちが通った後、プナン人の女性たちは、そのよそ者たちに対して怒り始めた。あいつらの目的は何だ、子どもをさらうためだったのではないか。その怒りは感染し、女たちはめいめいに槍や山刀を持ち出して、騒然とした雰囲気になったことがあった。怒りは増殖し、女たちは、なぜあのとき男たちがよそ者を吹き矢で殺さなかったのかと、口々に唱えて、怒りを爆発させた。
【怒るとはどういう事態か?】
「怒る」は、プナン語でmelasetであり、「怒り」は paneuと表現される。paneuは、熱い(暑い)という意味であり、「喧嘩」も意味する。つまり、怒り(喧嘩)は、熱い(暑い)状態を示している。それらの語は、人だけに用いられるのではない。ブタオザルとカニクイザルが、ジャングルのなかで出くわしたのを目撃したハンターは、「怒っていた(喧嘩していた)」と述べた。ブタオザルは、左手で、カニクイザルを威嚇して蹴散らしたという。熱い(暑い)という語は、天候でも用いられる。太陽が日中にギラギラと照りつけるさまは、太陽が怒っているために、熱い(暑い)のである。
【動く、人以外の諸存在】
怒りとはもっとも目につきやすい、際立った感情表出であり、そうした情動は、人だけでなく動物や天候にも備わっている。このように、人以外の存在もまた人と同じような存在であり、同じような内面的な仕組みを持っているのだと捉える考え方は、プナン人の間に広く行き渡っている。プナン語には、「川」を指す固有の語はない。川もまた「水bee」である。水が集まって流れると川になる。それが大きくなると「大水jaau bee」となる。jaau とは大きいこと、大きくなることを指す。jaau nyi は勃起である。プナン語では、そのように、言葉をつうじて、自然現象の動きが示される。また、プナンの民話のなかで語られるように、小屋はかつては動いていた。このことは、直感的に、狩猟キャンプが、短い周期で畳まれて、人とともに移動するということを表現するものだと思われる。あるとき、小屋は、イモリに踏みつけられて、それ以来動かなくなったのだと語られる。このことは、小屋のような無生物も、原初的には、人と同じような生命体として活動していた(いる)ということを示している。
【ふたたび、アニミズムについて】
南米先住民の事例を踏まえて、ヴィヴェイロス・デ・カストロは、アニミズムとは、人と、動物や精霊、無生物を含めて、人以外の諸存在が自らに持っている再帰的な関係が論理的に等しいことを表現するものだと述べている。このアニミズムの考え方は、プナンにも適合的である。そこでも、人と人以外の諸存在が、同様に、自己に対する再帰性を持っている。それらはともに、動き、大きくなり、不快に感じ、怒る存在として現れるのである。
【最後に、アンチル諸島の先住民に拠りながら】
こうした考え方は、目新しいものではない。レヴィ=ストロースが『構造人類学2』で取り上げた事例を見てみよう。白人たちは、アンチル諸島の先住民が自分たちと同じ身体を持っていることを疑うことはなかった。白人たちは、先住民の魂が自分たちと同じものであるのかを、ことあるごとに試したという。これに対して、アンチル諸島の先住民たちは、逆に、ヨーロッパ人たちが自分たちと同じように魂を持つ存在であるということを疑うことはなかった。しかし、彼らが気を揉んだのは、白人たちが自分たちと同じ身体を持っているのかどうかということであった。先住民たちは、白人を水のなかに溺れさせて、死体が腐らなかったり、別のものに姿を変えないことによって、自分たちと同じ身体を持つ存在であることを証立てようとしたのである。このように、アンチル諸島の先住民たちは、見かけの点で違っている存在であっても、すべてが、同じような魂の持主であると考えていたのである。この点が、プナンの動物や天候などの、人以外の諸存在の情動を論じるときの出発点となる。プナンもまた、人以外の諸存在もまた、人と同様の内面的な性質を持っていると捉えているからである。
論文の執筆を前に進めるために、出発点として。
なぜいま、きみはわざわざそこに行ったのか。これまで何度もその近くまで行っていながら、きみは、いままでそこを通るのを慎重に避けてきた。有名な菓子屋のある四つ角から、大通りを少し上がったところにある住居ビル。扉を押すと、その勢いで、急な階段を駆け上がることになる。一階には部屋はなかった。なぜそうした構造になっていたのか、つらつらと考えてきた。一階は店舗だったのかもしれない。二階の手前にある部屋に、彼女は住んでいた。きみは、四半世紀の時を経て、そのビルがあるはずだと信じてその場所を訪れたが、それはなかった。通り過ぎたのだろうかと思ったのではないだろうか。きみはすぐさま引き返してみたが、なかった。なかったのかどうかも、定かではない。どこにあったのかさえ、たしかではない。ビルの前にあった、鄙びた八百屋も見当たらない。通りの全体の雰囲気はき記憶のなかにあるものと同じだが、細部が違っている。通りを経て向かい側に、きみが彼女とよく行っっていたトロピカルな雰囲気の喫茶店があったが、それは、まだあるのだろうか。オーナーは、親切な女性だった。きみは、通りを渡るために、長い信号を待った。横断歩道の向こう側で、ケータイで話しながら、信号が変わるのを待つ女性がいた。きみは、その女性を、一瞬、彼女と見間違ったのかもしれない。横断するときに、きみがまじまじと顔を見つめたとき、その女性は怪訝な顔をきみに向けた。きみは、細い路地に入って、あの喫茶店を探したが、見当たらなかった。そのあたりは、小ざっぱりした住宅街だった。ことによると、路地を一本間違えてしまったのかもしれない。そうきみは思ったのだろう。そのうちに、きみは道に迷い始めた。突き当りがあって引き返したあたりから、ますます分からなくなった。どれくらいの時間歩いていたのだろうか。そのうちに、きみは、小さな児童公園に行きあたった。年老いた男性が、ベンチで日向ぼっこをしていた。その公園を通り抜けると、大きな通りに出た。その向かい側には、彼女が住んでいたはずの雑居ビル群があるはずだった。南中前の冬の太陽の光が、きみの目に突き刺さり、目くらましをした。それは、車が通らない、音のない大通りに静かに注いでいた。
フリオ(・コルタサル)的な断片。
今日の京都は穏やかな冬晴れ。
先週(?)降った雪が、まだ少し残っている。
東京に比べて、肌寒い感じがする。
嵐山の法輪寺に、獣魂供養塔があるというので行ってみた。
法輪寺の入り口に、いきなりドデカイ獣魂碑があった(写真)。
わたしが直接見たもののなかで、最大級のものである。
碑の裏には、大正14年に建立されたことが記されていた。
向かって左側に、建設者(寄付者?)の名前が記された碑もあった。
京都獣肉商組合の獣魂碑建設委員が建てたものだと思われる。
法輪寺の石段を上って、左手の電電宮の敷地の一角に、獣魂供養塔が建っていた。
獣魂碑ではなく、供養塔として建てられているのに出会ったのは、はじめてである。
こちらのほうは、昭和24年4月13日に建造されたもので、東京中央区日本橋室町二丁目一 日本畜産株式会社との裏書があった。
東京の畜産会社が、いったいどういった経緯で、京都に獣魂を弔うための碑を建てたのかは不明である。
この5年間で、時間を見つけて、10以上の獣魂碑を巡ってきた(以下のURL参照)。
まだまだ少ないのかもしれないが、おぼろげながら分かってきたことがある。
動物の魂を弔うためにいしぶみを建てるという慣行は、とりわけ、日本の近代化以降の畜産業、漁業などの食肉の産業化と関わりがあるようだ。
その意味で、獣魂碑は、産業アニミズムかもしれない。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/55a35983e5e790fa493d6a3f8fb3d757
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/88cbad714f4d184a17d02790e9672c64
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/1b7f15a096fb9251b5ade06dff8f35f2
最後に、整いました。
獣魂碑とかけまして、駅弁大学とときます。
そのこころは、日本全国どこにでもあります。
これもイマイチやな。
【狩猟民プナン】
プナンは、ボルネオ島に暮らす人口約1万人の狩猟民および元狩猟民である。ブラガ川上流域には約500人のプナンが定住・半定住して暮らしている。1960年代にサラワク州政府の政策に応じて、プナンはそれまでの遊動生活を徐々に放棄し、川沿いの居住地に住むようになった。かつてプナンが遊動していた熱帯雨林では、1980年代になると、商業的な森林伐採が開始され、プナンは木材企業からの賠償金を手にするようになり、次第に現金経済に巻き込まれるようになった。彼らは、そうした現金で今日、主食のサゴ澱粉や米などの食料品を購入している。彼らはまた、近隣の焼畑民の不法伐採やヤシ油の植樹などのクーリーとして、幾ばくかの現金も手に入れている。プナンは、1960年代から、政府の役人、近隣の焼畑民などから焼畑稲作の手法を学び、現在では、米作りを行うようになってきている。しかし、米の収穫は、畑地管理が十分でないため、多い年もあれば全くない年もある。そのため今日でも、狩猟が彼らの生業の中心である。周囲の森の野生動物の肉は、自家消費されるとともに、木材伐採キャンプや近隣の焼畑民に売られて、その見返りに、プナンは現金を得ている。
【野生動物と飼育動物】
ブラガ川のプナンにとって、動物とは野生動物のことである。飼育動物は、唯一、狩猟に用いる猟犬である。民話のなかで、プナンは猟犬を近隣の焼畑民から手に入れたことになっている。最初、猟にはトラを用いていたが、手なづけることができず、犬を用いるようになった。プナンは、犬以外に動物を飼育しない。家畜化された動物は、野生動物よりも劣位に位置づけられる。他方で、野生のイノシシを檻に入れて家畜化しようと試みた人がいたという話が伝えられている。そのイノシシは、檻を破って逃げてしまい、人びとはそれを捕まえて食べてしまったという。かつては、プナンは、ニワトリの肉も卵も食べなかったとされる。現在では、近隣焼畑民からニワトリの肉と卵を分けてもらって、食べることもある。今日、プナンがなんらかの方法でニワトリを手に入れて育てることがある。しかし、卵や肉を食用にするために買っているのではない。ただ餌をやり、遊ばせて、飼うために飼っている。
【動物譚】
プナンの民話は、動物譚の宝庫である。かつてクマだけに尻尾があり、ほかの動物たちには、それが格好よく見た。動物たちは、クマのところに駆けつけて、尻尾をねだった。クマは気前よく、尻尾を次から次へと動物たちに分け与えた。最後にテナガザルがやってきたときには、クマに尻尾の手持ちがなくなっていた。それで、今日、クマとテナガザルには尻尾がないという。クマは、人がケチであってはならない、寛大な心を持つべきだという、人の範を垂れる存在として知られている。スガガンとプナン語で呼ばれる小動物は、臭い屁をひることで知られていて、そのため、それを食することができないプナンもいるほどだが、民話のなかでは、スガガンは、かつて、人を含むすべての動物の頂点に君臨する王だった。あるとき、スガガンが、人に大木を切り倒すように命じた。人びとは共同で大木を切り倒した。いったい王様は何を作ろうとなさっているのかと噂しながら。カヌーか家か?そこへ王がやって来て、自分のために耳かきをつくるように言ったとき、人びとは、あんな大きな木からそんなちっぽけな耳かきをつくるなんて、なんてことだと囁き合った。その後、スガガンは王位を滑り落ち、今では臭い屁をひるだけの動物になってしまった。他にも、悪事を働いて、一生糞を転がすだけになったフンコロガシや、逆さまに眠ることになったコウモリの話などがある。民話のなかで語られるのは、かつて人と動物が人間性を共有していたが、人間性を失った存在が動物になった、こうした顛末である。
【動物の生態】
プナンは、狩猟のときだけでなく、果実を取ったり、茣蓙や籠などの材料である籐を手に入れるために、時には、涼を求めて、頻繁にジャングルのなかに入る。その際、男たちは、いつでもどこででも獲物に立ち向かえるための装備を身につける。ライフル銃と山刀を、つねに身につける。彼らは、そうした活動のなかで、森の動物の生態に向き合ってきた。リスは、樹上でいっせいに交尾をするという。そのため、リスは、一般に、エロティックな動物であると考えられている。プナンは、サルという動物分類をもたないが、樹上に住む、ブタオザル、テナガザル、リーフモンキー、カニクイザル、赤毛リーフモンキーの5種を、同じような種類として認識している。プナンの観察によれば、それらは縄張り争いをすることがあり、そのなかでは、ブタオザルが最も強いのだという。ブタオザルに次ぐのはテナガザルだという。それらは、つねに左手を使って相手を威嚇したり、攻撃したりするともいう。地面を歩く鳥のうち、セイランは糞をしてその上に坐っていることがあり、プナンの正式名はクアイであるが、彼らは、時々、その鳥のことを「アニ(糞)」とも呼んでいる。
【獰猛な動物、半獣半神の動物】
他方で、ジャングルのなかには、不意に人を襲う動物もいる。そのうち、彼らがもっとも恐れるのはヘビ類である。ボルネオのジャングルは、ヘビの多様な展覧場でもある。毒ヘビは藪のなかから突如現れたり。樹上から落ちてきて、咬みつく。プナンは、ヘビを見ると、すぐさま刀で頭を切り落とそうとする。毒ヘビに咬まれて命を落とした人がいる。ブラガ川にはワニはいないが、ワニが潜んでいる川があるとされる。そこでは、水浴びが禁じられる。また、半獣半神とされる動物がいる。その代表格がトラである。実際には、トラはいないのだが、それは岩穴のなかに住み、人を襲ってむさぼり食うと想像されている。オランウータンも周辺にはいないが、それは、大きな人間のような存在が、森の木々を渡り歩いているというイメージのなかで捉えられている。オランウータンも、人を超えたパワーを持つ半獣半神なのである。そうした超自然的な力をもつ動物の延長線上に位置づけられるのが、トリである。すべてのトリが予兆の鳥とされていて、プナンは古くから、鳥の聞きなしを行ってきた。その声は、意味を運ぶとされる。鳥の聞きなしの慣行は、近隣の焼畑民が起こしたブンガン教が迷信であるとして退けた結果、今日では重んじられていないが、部分的に行われている。
【イノシシ猟】
狩猟は、プナンが、動物に向き合う最大の機会である。彼らは軽装で、肩からライフル銃を提げて、ジャングルに入ってゆく。複数でジャングルに入る場合には、尾根ごとに分担を決めた上で、下方から頂を目指す。基本的には、単独行動で、狩猟を行う。彼らがつうじょう狩猟の対象とするのは、イノシシである。まずは、イノシシの足跡があるのかどうかを探す。残っている足跡を確認して、イノシシが通った時刻を推量する。今しがたなのか、昨日の今頃なのか、あるいは、ずいぶん前のことなのか。足跡を追って、イノシシが何を求めているのかを確かめた上で、ふたたびやってくるかどうか、そのチャンスが迫っているかどうかを判断する。プナンはまた、足跡からいろいろな情報をキャッチする。それが大型のオスが残したものか、子連れのメスのものか、という情報を得る。さらに、ヌタ場があれば、そこにイノシシがやって来るかどうか、その場に坐って、しばらく様子を見ることがある。
ハンターたちは、ジャングルのなかでは、大きな物音を立てないように歩き進む。それは、動物の動きをいち早く察知するためと、動物が人の立てる物音を感知して逃げてしまうのを防ぐためである。イノシシが果実を齧る、コッ、コッという音は、遠くまで響くことがある。そうした音がすると、ハンターは、ライフル銃に銃弾を補填した上で、腰をかがめて、イノシシに気づかれないように気遣いながら、そちらの方向に静かに向かってゆく。イノシシを見つけると、十分な距離まで近づいて、ころあいを見計らって、ハンターは、首や前足の付け根のあたりに狙いを定めて、射撃する。一発でしとめることができる場合もあるが、手負いのイノシシが逃げる場合もある。ハンターは、すぐにその後を追うが、血痕から、傷の程度を推し量る。多量の血が流れている場合には、比較的ゆっくりと追跡する。どこかで倒れている確率が高いからである。他方、的がはずれて、イノシシが重傷を負っていない場合には、イノシシは軽やか逃げ去り、追い切ることができないこともある。そうした場合には、他のハンターを頼んで、複数で追い詰めていく場合が多い。
このように、プナンのハンターは、主に、視覚と聴覚に頼りながら、イノシシを追跡する。他方で、イノシシは、嗅覚と聴覚にすぐれていると、プナンはいう。イノシシは、人の匂いがすると、さらには、人のいる物音がすると、その場を立ち去るという。だから、ハンターは、つねに風下に立つようにするし、風上に立ってイノシシを追跡してはならないという。プナン人は、しかしながら、自らの身体の匂いを消すような何らかの手法を用いることはない。ただし、ある男は、狩猟に出かける前に一切の食べ物を口にしないのは、食べ物の匂いがイノシシに人の存在を知らせないためであると、わたしに語ったことがある。いずれにせよ、プナンは、ハンティングトリップの直前には、食べ物を摂取しない。プナンは、イノシシが近づいてくるために、何らかの匂いをつけるということもない。風がどちらからどちらに吹いているのかを確かめるために、ハンターはときどき立ち止まって、タバコを吸って、その煙で道取りをすることがある。
また、イノシシの耳はすぐれていると、プナンはいう。わたしは、彼らの猟についてゆくときには、たいてい長靴を履いて、棘のある植物にひっかりながら、音を立てることが多く、いつも、彼らの足手まといになった。そうした、イノシシの嗅覚と聴覚の優位性に対して、プナンによれば、イノシシは視覚の点では劣っているという。夜中に行われる油ヤシのプランテーションでの待ち伏せ猟は、懐中電灯の光をあててもイノシシが気づかないという習性を利用している。イノシシは、目が弱いのである。逆に、イノシシは、目が見えないため、無我夢中で突進してくることもある。これも夜の待ち伏せ猟でのエピソードであるが、待ち伏せをしていて眠り込んでしまったハンターが、突進して来たイノシシに体当たりをされて、けがをしたことがある。
【犬猟】
ライフル銃が導入される以前から今日まで行われている猟犬による狩猟について。プナンは、ジャングルのなかに、数匹の犬を放つ。ハンターは、単独か複数で、犬の後について森に入る。ハンターは、ライフル銃、槍、槍が先についている吹き矢で武装する。猟犬には、それぞれ、人名とは異なる犬名がつけられていて、つね日頃から、ハンターの呼びかけに応じるように訓練されている。イノシシの匂いを嗅ぐと、犬は興奮して喉を鳴らす。獲物を見つけると、犬たちは吠え声をあげるようになる。猟犬は数匹で、しだいに獲物を追い詰めてゆく。猟犬は、イノシシの首や前足の付け根のあたりに食らいついて、振り落とされないようにしがみつく。ハンターはやがてその現場に達し、獲物に十分に近づいた後に、犬にイノシシから離れるように命じ、次の瞬間、槍で急所を突き刺す。わたしが見たものでは、子イノシシが猟犬に噛み付かれたのを、ハンターが無理やり離れさせて、山刀で止めを刺したということがあった。猟犬は、イノシシとの格闘で絶命する場合もある。それだけ、イノシシの力はすごい。吹き矢で、イノシシに毒矢を飛ばすこともある。その場合、イノシシは、たいてい、矢を受けてなおも走り続ける。ハンターは犬とともに手負いのイノシシを追い、毒が回って倒れたところで、槍で止めを刺す。
【おびき寄せ、罠を仕掛ける】
ジャングルのなかでいっこうにイノシシに出くわさない場合に、獲物の対象を代えることがある。地面を見て進むのではなく、樹上を見上げて、サルやトリを追うようにする。遠くから聞こえる鳴き声に、プナンは耳を澄ます。ゆっくりとゆっくりと、鳴き声のする場所に近寄ってゆく。サルたちは、イノシシとちがって、目がいいとプナンはいう。人の姿を見つけると、それらは逃げる。人が樹上にサルを見つけた場合、獲物の様子をうかがいながら、低姿勢で獲物へと進んでゆかなければならない。サルは、集団で行動する。人を発見した場合、サルたちは、鳴き声で、危険が迫っていることを仲間に知らせるので注意しなければならないともいう。ブタオザルを狙う場合、子を抱いているメスが狙い目であるとされる。「抱かれる(トゥキバブ)」子の肉は、この上なく美味なのである。
大きなトリは、樹冠の上を、雄大な羽音を立てて飛ぶ。飛行機の機械音ではなく、しなやかな風音を起こす。イノシシとシカなどの大型獣以外の獲物には、つうじょう、散弾を用いる。トリが樹上を駆け抜けて行き、それを獲物とする場合には、プナンは、そのトリをおびき寄せるために、鳴きまねをする。彼らの鳴きまねは、トリに鳴き方にそっくりである。トリは、仲間がいると思って、戻ってくるのだという。わたしは、そうした狩猟を何度か目撃したことがある。遊動民の時代には、ハンターが樹上に上ってトリの鳴きまねをしておびき寄せ、吹き矢で射止めたという話が残っている。プナンの男はみな木登りの名人である。木の幹の裏側に手を回し、足を木に垂直に突き立てて、するすると登ってゆく。細い枝でも、木のしなやかさを確かめながら渡ってゆく。木から落ちてけがをしたり、死んだという話はない。マメジカをおびき寄せるのに、草笛を用いる方法がある。その悲しげな音色を聞いてマメジカが近寄ってきたところをしとめるという猟法である。このように、プナンは、動物の持つ聴覚的特性を巧みに利用して、獲物をおびき寄せて捕らえようとする。
狩猟で獲物がなかなか取れない場合や、近くに小動物の足跡が見られる場合になどには、罠猟が行われる。罠は籐を用いて、輪が獲物の足にからまって吊り上げる仕組みになっている。野鶏などの小動物が狙われる。獲物の通り道を狭めるために(獲物が通り抜けられないように)、木枝があたりに敷き詰められて、獲物を導くけもの道がつくられる。そこに罠猟が仕掛けられる。日に一度の割合で罠がチェックされる。罠に掛かった獲物がまだ生きている場合には、止めを指された後に、罠が解かれる。
(罠猟に掛かった野鶏)
『中央公論』2011年2月号の特集は、「大学の耐えられない軽さ」。ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』をもじった絶妙のネーミング。でも、エッセイは、日本の大学の抱える諸問題の告発といった趣だ。立花隆、吉見俊哉、利根川進などの論陣が、いいたい放題言っているが、どれもナルホドという感がある。それほどまでに、いま、日本の大学は問題だらけで、イケてないのだ。大学の軽さといったら「耐えられない」のではなく、「耐えがたい」レベルにまで進行している。
中央教育審議会の2008年の『学士課程教育の構築に向けて』という答申は、その評価は分かれるかもしれないが、少なくとも、その後の大学学士教育の立て直しのベースラインになってきたし、よく読むと、教育について真正面から取り組み、配慮の行き届いた提言を含めている点で、けっして侮ることはできないものだと思う。
その20ページから22ページにかけて、「単位制度の実質化」に関する課題が述べられている。要点をまとめてみよう。日本の大学は、欧州型ではなく、アメリカ型の「単位制度」を採用している。1単位の学習時間は45時間と定められており、それは諸外国と比べて低くはない。しかし、大学生は学外の勉強をほとんどしておらず、平成18年の総務庁の調査では、平均3時間半である。こうした学習時間の実態は、単位制度が実質化していないことを示している。そこで改革の一つの方向としては、学習時間の45時間を確保するために、講義であれば15時間の確保が必要であり、ここには定期試験を含めてはならないとしている。
さらに、答申された学習時間の確保による単位制度の実質化を前へと進めるためには、「各大学では、学習時間などの実態を把握した上で、その結果を教育内容・方法の改善に生かすことが必要である。また、教育課程の体系化を含めた上で、きめ細かな履修指導と学習支援の実施も求められる」と、されている。つまり、答申は、大学独自の学習の実態を把握した上で、それを改善に生かすように求めているのである。さらに、経済的困難を抱える学生が増加し、学習に専念できない状況についても十分に認識しろという文言まである。その答申は、行き届いている。
わたしが勤務する大学でも、2011年度より各授業科目における授業実施回数に関して、「定期試験期間を除く15週授業」を行うことになったとの報告が、大学の当局からあったのは、約一か月前の先月の半ばのことである。中教審の2008年の答申のなかで、「講義であれば1単位当たり最低でも15時間の確保が必要とされる。これには定期試験の期間を含めてはならない」と示されているという。そのため、各学期の授業期間終了後に定期試験期間を一週間設定し、休講にともなう補講は、原則として土曜日および6限目などに実施することになった。学期15週制になった2年前と同じく、またもや、一方的なお達しだ。しかし、この通達は、上に書いたように、改めて答申を読み直してみるならば、ハッタリであることが分かる。
15週の外に定期試験期間を設けるということだけで、はたして学習効果が高まるのだろうか。教員の労働投下量の点でいえば、一週間増えるわけで、定期試験を必ず行うことは必要とはされない以上、15週内のレポート提出などの措置によって、成績評価を行うことはいくらでも可能だ。そうした対処が、はたして、学習効果を高めるのにプラスに働くのだろうか。単位制度の実質化は達成されるのだろうか。そうした課題をめぐって、教育の現場におけるディスカッションは欠かせないはずだ。
要するに、たんに定期試験期間を15週の授業期間外に設ければ、それで済むというようなことなのではない。少なくとも、答申はそう述べている。学習時間の把握と学習支援などの、より踏み込んだ取り組みが求められているのである。ある大学の責任者は、国立大学も含めて、新年度から新学事歴で行く流れにあり、それには逆らえないので、理解と協力を願いたいと述べた。なんたることか!理性の府たる大学が、その対極にあるような、世の中の「流れ」を優先するとは。とにかく、今の大学は、そんなもの(=非理性)で動いているということだけは確かである。この軽さには、もはや、耐えがたいものがある。今後、この耐えがたさが、ますます悪化するのではないかと心配である。
(性の人類学定期試験風景)
2000年代の初め頃に、文化人類学のテキストを作らないかというお誘いをいただき、友人たちに声をかけて四人組を結成して、分担を決めて本づくりを目指したが、その後1年経っても1年半経っても(わたしを含めて)原稿のできる兆しはまったくなく、熱海の温泉に浸かりながら、こんな怠惰な集団無責任体制では本づくりなどできないから解散しよう、と空気の読めないわたしが提案し、提案に賛成やら反対やら分からない雰囲気ながら、お断りの電話を入れる心づもりで東京に戻ると、新しくこの本の担当になられた編集者の方から、これから頑張りましょうという、思いもかけなかったお電話をいただき、引っ込みがつかなくなったというか、新たに鼓舞されるままに、もう一度四人組で連絡を取り合って、そのうちわたしと北方の理論肌の先生が編集を責任を持って担当することになり、友人や友人の友人に書かないかと声をかけ、全部で10章立てとし、文化人類学のテキストにこれまでなかったような、各執筆者のフィールドワークの実際の記述を含めてトピックを論じるという方向を決めて本づくりを再開したのだが、その後、執筆者のほとんどがお互いの性格や癖などを知っていたため巧く行ったのかもしれず、時には、北方から時々聞こえてくる厳しいお言葉にフンドシを締め直し、編集者の方のサポートもあって、あれよあれよという間に、今度は、1年くらいで原稿がだいたいのところ集まり、2005年春に刊行するという運びになったのであるが、その後、教養のテキストとして多くの大学で採用されて、2刷、3刷・・・と6刷まで重ね、このたび、増補版を出すことになった(この6年間に、定職をもっていなかった執筆者も、全員めでたく定職を持つようになった)。『文化人類学のレッスン 増補版:フィールドからの出発』(奥野克巳・花渕馨也共編、1900円+税)である。旧版『文化人類学のレッスン:フィールドからの出発』の10章に加えて、霊長類学の先生による「霊長類と文化」と題する章が、新たにレッスン11に加えられたことによって、異文化だけではなく、ヒトを超えた地点から人間を考えるという人類学に一歩進んだことになる。詳しくは、以下のホームページを。
http://www.gakuyo.co.jp/book/index.php?id=34021
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/2fabb6a1635f80e6ae1440e1f2b6f31d
2月研究会案内
【日時、場所】
2月2日(水)
9:30~18:30
Paul Nadasdy
“Gift in the Animal: The ontology of hunting and human-animal sociality"
(American Ethnologist, Vol. 34, No.1, pp.25-43)を読む
<第二回>
◆桜美林・四谷キャンパスY301
http://www.obirin.ac.jp/001/a028.html
2月3日(木)
9:30~11:30
Paul Nadasdy
“Gift in the Animal: The ontology of hunting and human-animal sociality"
(American Ethnologist, Vol. 34, No.1, pp.25-43)を読む
<最終回>
12:30~18:30
・動物と人間の民族誌:ボルネオ島・プナンにおける人獣の近接の禁止・・・奥野克巳
・動物は自然で、人間は文化か?:自然と文化の二分法再考・・・・・・・・・・近藤祉秋
・人と動物、まみえず:ボルネオ島・プナンにおける狩猟の身体・・・・・・・・・・奥野克巳
◆桜美林・四谷キャンパスY304
http://www.obirin.ac.jp/001/a028.html
*参加希望者は、あらかじめご一報ください。
奥野克巳
katsumiokuno@hotmail.com
【後援】
科研費基盤研究(B)(海外学術調査)
「人間と動物の関係をめぐる比較民族誌研究」
(通称、人獣科研)
星野智幸『俺俺』新潮社★★★★★★
昨年末、新聞紙上で、この本に高い評価を与えている人が多かったので、興味をもって読んでみた。星野智幸。初めて読んだが、スゴイ、と思った。同年代で、こういった作家がいたのか!サッカーの巧い選手がブラジルにありあまるほどいて、彼らがいろんな国の国籍を取得して、ついには、どこの国の選手もブラジル人ばかりになってワールドカップを戦う場合、国対国ではなくなる、自国と他国の境界がぼんやりしている・・・という話のなかの、ブラジル人を自分=俺に置き換えてみて、自己が他者に移籍し、逆に他者が自己になっているというような話。さて、ほんとうの粗筋。主人公の俺は、ファストフードで隣の男の携帯電話を盗んで、その男の母に、図らずも俺俺詐欺を働くことになる。その後、息子に間違えられた俺は、しだいにその男になってゆく。俺は、居心地の悪い職場である家電量販店の人間関係を離れて、顔かたちがそっくりな複数の俺との「俺山」での暮らしに居場所を見出してゆく。そこでは、3人の俺の共同性が築き上げられて、俺は、電源がいつもオフになったような至福感を抱くようになる。俺はますます増殖し、世間のいたるところで、俺たちに出くわすようになる。そうなると、俺と俺以外の人びと、つまり、自己と他者の境界は、ますますあやふやなものになってゆく。俺は彼らであり、彼らは俺なのである(この作品に、3人称は出てこないのであるが・・・)。俺自身も、やがて、自分が誰であるのかを見失ってゆく。「何もかも、茶番だった。ただ均衡を保つためだけに、俺自身の中身とは何の関係もない、その場の出任せだらけのでたらめな会話をクソ真面目に交わしただけ。何でこんなことをしているのか。生きるために、こんなことをずっとし続けなくちゃいけないのか」と、俺は独白する。この作品で語られているのは、非正規雇用が不安を生み出し、ケータイがコミュニケーションの主流となり、どこにいっても同じような情景があり、そこでは、KY(空気が読めない)にならないように、自己主張を控えていなければならないような、現代から近未来にかけての日本社会の個の実存不安というテーマではないだろうか。俺は、俺に殺されたり、俺に食べられたりして、何度も死ぬ。しかし、自分の名前も思い出せず、死んだという記憶さえも無くなるまで、俺は自分を失ってしまう。最後に、俺は、俺らとともに共同の暮らしを始めるが、その暮らしのなかで、「そうして気がつけば、俺らは消えていた。誰もが俺ではなく、ただの自分になっていた。俺と他の人とは、違う人間だった」と、ようやく気づくようになる。たしかに、KYが問題視されるのは、他者と自己を融解させながら、ひとつの共同幻想をつくり上げることが重視されるからであり、そうした状況下では、身体を含めて、自己は、容易に他者と同化しうる。この作品は、そうした事態についての文学的想像力の産物だし、おそらく文学をつうじてしか、こうした俺俺状況は描き出すことができないのではないだろうか。いや~、スゴイ。
池澤夏樹『スティル・ライフ』中公文庫★★★★
池澤夏樹の個人編集による世界文学全集の作品は、これまでに何冊か読んできたが、外れがない。石牟礼道子の『苦海浄土』が、彼が選んだ日本発の世界文学らしい。本屋で見つけて即買ったが、750ページ以上あり、読みたいという欲望に反して、諸事により、途中で躓くことを恐れて、ふと思い出したのが、池澤夏樹の『スティル・ライフ』だったのだ。今から15年ほどだったと思うが、屋外に出て雪が降ってきたとわたしが言ったときに、ある人が、雪が降っているのではなくて、わたしたちが上へ上へと世界を上昇しているのよ、そういうふうにも見えるのよ、そういうことが『スティル・ライフ』に書いてある、というようなことを言ったことを、思い出したのである。「雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていた。ぼくはその世界の真中に置かれた岩に坐っていた。岩が昇り、海の全部が、厖大な量の水すべてが、波一つ立てずに昇り、それを見るぼくが昇っている。雪はその限りない上昇の指標でしかなかった」。うん、この文章だったのだ。確認できただけで、まずはよかったのだが、粗筋としては、公金横領して、時効後にその返済をしようとしている佐々井と、彼と知り合った主人公の男とのやりとり、会話が展開されるのだが、興味深いのは、雪をめぐる話題もそうなのだけれども、サイエンスの観点からの自然現象の理解が散りばめられていて、そのことが、作品全体に不思議な味わいをもたらしているという点である。近代ヨーロッパにおける文系・理系の分化以前には、文理は一体化して存在していたはずで、文学とサイエンスの共存はそれほど珍しいことではなかったはずなのだが、現代では、逆に、この文理融合が奇妙な具合に新鮮に感じられるのだ。民族誌を基盤に置く人類学は文学ではなく実証だという言い方は、嘘臭いのではないかと、この本を読んでいて思った。
フォークナー『熊』加島祥造訳、岩波文庫★★★★
19世紀末のアメリカ南部の架空の町ジェファソン。少年アイクは、インディアンの酋長の血を引く黒人老人サム・ファーザーズに導かれて、森林の狩りを知るようになる。その森には、罠で片足がひん曲がり、その凶暴さによって、あたり百マイルにわたって伝説となっていた大熊オールド・ベンがいた。ハンターたちは、オールド・ベンに立ち向かう勇猛な猟犬ライオンを飼いならしてゆく。大熊と犬とハンターの対決を目の当たりにした後、少年アイクは、彼の師サム・ファーザーズの死に直面し、しだいに、自然のなかの生き物について学んでゆく。「あの万物の命に融けこみながら、なお個々の万物として生きているもの--木の葉と小枝と微細なもの、空気と太陽と雨と露と夜、樫の木とドングリは暗い夜から明け方へ、暗い夜から再び明け方へと数知れぬ繰り返しの続く中にあって、万物であり、なおもその中のひとつなのであり、あの大熊もそうなのだ。あの大熊もそのひとつなのだ。自然は彼の足指さえまた元に戻してくれる・・・」。この作品では、歯向かい難い動物に対して、生と死を賭して行われるスポーツ狩猟が描かれており、そうした人びとの行動の先に、アメリカ南部の自然と人間の関わりが浮かび上がってくる。
(写真は前回の続き)
フォークナー『アブサロム・アブサロム』篠田一士訳、河出書房新社★★★★★
この本は、心して読まないと途中で自分を見失ってしまうことになる。アメリカがまだ南北に分かれて争っていた時代の、深南部の人びとの精神性の物語。南部の架空の町ジェファソンに黒人奴隷をつれてやってきたトマス・サトペンは、やがて屋敷と荘園を築き、町の商家コーフィールド家のエレンを妻とし、一男一女(ヘンリーとジュディース)を授かる。サトペンには、それ以前にハイチで結婚していた時に生まれたチャールズ・ボンという息子がいた。妻に黒人の血が混ざっているというので、サトペンはチャールズ・ボンの母親と離縁したのである。ジェファソンでできた息子ヘンリーは、ミシシッピ大学でチャールズ・ボンに出会い、チャールズはジュディースと婚約する。父であるサトペンは、そのおぞましい近親結婚をやめさせるために動き、そのはずみで、ヘンリーはチャールズ・ボンを殺害する。旧約聖書のダビデの子のうちアムノンという息子は妹を愛するようになり、別の息子アブサロムがアムノンを殺すが、アブサロムはダビデの別の部下によって殺害される。子を失ってダビデが「アブサロム、アブサロム!」と叫んだという話が、この本のタイトルになっている。エレンの死後、サトペンはエレンの妹ローザと再婚し、その後、黒人奴隷ジョーンズの孫娘ミリイにも手を出し、そのことが原因で、サトペンはやがてジョーンズに殺されることになる。『アブサロム、アブサロム!』は、サトペンを始祖とする一家の物語である。しかし、サトペンの人物や彼をめぐる出来事が筋を追って語られるわけではない。クエンティンというハーバード大生にローザが語り聞かせるのが第一章、二章から四章まではクエンティンが彼の父からサトペンの話を聞くというものであり、クエンティンがローザの話を回想する第五章、さらには、クエンティンが大学の友人シュリーヴにサトペンについて話す六章から九章から成り立っている。この物語の主人公であるトマス・サトペンは、いわば、神話上の人物として、その事蹟がたどられるのである。サトペンに関わった人々は、ただ彼のやり方に翻弄され、悩み、やがて死んでゆく。フォークナーの小説は初めて読んだが、彼は小説の舞台としてアメリカ南部の架空の町ジェファソンとヨクナパトーファ郡をつくりだし、短編と長編作品のなかで、その架空の土地に生きた人たちに魂を与えていったらしい。なんという壮大な、周到な小説家なのだろう。フォークナーの作品は一つずつで完結するのではなく、ヨクナパトーファの物語の一つにすぎない。生涯の作品をつうじて、ある空間と時間を生み出すという文学的想像力のなんと豊饒なことか。
マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』旦敬介訳、新潮社★★★★★
いまからもう20年ほど前のことである。本屋に行くとこの本が平積みになって長い間置いてあった。買おうかどうか迷ったが、その分厚さに圧倒されて、結局、買わずじまいで、それからずいぶん長い間読みたい本だったのであるが、昨年バルガス=リョサがノーベル文学賞を受賞したためか、復刊されたのである。歴史リアリズム長編である。舞台は19世紀のブラジルの辺境セルタンゥ。カトリックの狂信徒であるコンセリェイロ(カウンセラー)は、セルタンゥを歩いて神の言葉を伝え、やがて聖者として崇められるようになる。その地方の荒くれ者であるパジェウ、ジョアン・アバージ、ジョアン・グランジ、遍歴を重ね洞窟に住まうようになったマリア・クアドラード、不思議な能力をもつアレジャンドリーニャ・コレア、サーカスの髭女、小人などが、コンセリェロのいるカヌードスに集うようになる。骨相学を行うスコットランド人ガルシア・ガル、ブラジル陸軍士官モレイラ・セザル、その従軍記者となる近眼の男など、登場人物はおびただしい数に上る。物語は、コンセリェロ率いるカヌードスの人たちが不穏な動き、ブラジル共和国のカヌードスへの派兵へと進んでゆく。陸軍とカヌードスの戦いは悲惨を極めるのだが、政府軍の予想に反して、カヌードスはなかなか落ちない。わたしはブラジルの近代史にはまったく疎いのだが、そのことは共和制へと移行し、近代化を推進するブラジルという国家のなかの<内なる他者>の発見だということができるのかもしれない。カトリック国家のなかに、カトリックの聖地が築かれ、政府はそれを攻撃するという大いなる矛盾に直面したのである。開発を推し進める国家とその内部から噴き出す他者性というのは、今日にまで続く、近代の大きなテーマである。バルガスーリョサは、その戦いに巻き込まれた数多くの人たちの生きざまを、いくつもの物語を並行的に語ってゆくという、いつもながらの独自の技巧を用いながら描き出している。そこに描き出さされる人間の生き死が、一つの焦点なのではないだろうか。自身にみなぎっていたり、等身大の人物以上の力を担わされたように見えるモレイラ・セザルやコンセリェロは、戦いの半ばに命を落とす。パジェウはジュレーマに愛を打ち明けたが受け入れられず、死んで、敵軍のさらされ者となる。ジュレーマという女性は、男たちにもてあそばれながら、やがて、戦いのさなかに近眼の男の愛を得るのだ。
ツルゲーネフ『はつ恋』神西清訳、新潮文庫★★★★
たしか高校に上がる前の春休みに読んだ。細部は覚えていなかった。主人公の初恋の相手の女性が父親に盗られるという話であり、その後、父と結婚したその娘も死んでしまうという内容だったというような、ぼんやりとした記憶は、今回読み返してみて間違ってはいなかった。16歳のウラジミールの別荘の隣に引っ越してきた5歳年上のジナイーダは、年頃の男たちを自宅に招き入れてその中心に位置する華やかな女王であり、男たちはジナイーダの魅力にのめりこんでいく。主人公のウラジミールもまた然りであった。ところがある夜、主人公ウラジミールは、庭を伝って隣宅のジナイーダのもとへと忍んでゆく父親の姿を目撃する。ウラジミールの心はかき乱されるが、彼の父への尊敬心は一向にゆるがない。父と母のいざこざがあって、ウラジミールたちはジナイーダのもとを離れる。その後、ウラジミールは、馬で駆けめぐっていた時に、父がジナイーダと逢引しているところを目撃する。彼は、自分を犠牲にすることこそが愛であり、情熱であるということを深く心に刻みつける。その後、ウラジミールの大学入学後と卒業の後に、父親とジナイーダは、この世からあっという間にいなくなってしまう。そうした男と女の情熱の激烈さが、主人公の目をとおして巧みに描かれている。
ヘミングウェイ『移動祝祭日』高見浩訳、新潮文庫★★★★★
22歳から26歳まで(1921-26)の若きヘミングウェイのパリでの創作と交友の日々。ヘミングウエイは、猟銃自殺する直前の50歳代後半に、回想しながら、パリ時代の思い出をつづった。22歳で、8歳年上のハドリーと結婚したアーネスト・ヘミングウェイは、パリで物を書くことへの希望に期待を膨らませながら、ハドリーとの幸福な日々を送る。前半部分では、ヘミングウェイは、なんと楽観主義的な、人の良さそうな男なのかという印象を受ける。バンビという息子を得て、幸福の真っただ中で、彼はポーリーンという名の女性と付き合うようになる。そのようにして、やがてヘミングウェイは、ハドリーと離婚する。彼は、その別離から30年を経てパリ時代を振り返るが、彼はハドリーとの愛に満ちた日々をなつかしみ、その幸福を手放してしまったことを悔いているように、わたしには思える。パリ時代、ヘミングウェイはカフェで執筆活動を行っており、そこでたくさんの知識人たちと知り合う。エズラ・パウンド、スコット・フィッツジェラルド、ジェイムズ・ジョイスたちとの交友の日々。『グレイト・ギャッツビー』の著者フィッツジェラルドは、この著作のなかで、ヘミングウェイによって、こっぴどくけなされているが、わたしが印象深く感じたのは、ジュール・パスキンというブルガリア出身の画家の奇行に寄せてヘミングウェイが述べている言葉である。「私たちが将来とる行動の種は現在の私たちの中に胚胎している。だが、冗談にまぎらわせて人生を送る人の場合、その種はより良い土壌とより高級な肥料で覆われているように、私たちには常に思えたものである」。この著作は、今日のブログのようなものであるようにも思える。身の回りの出来事が回想され、交友が語られる。本は、ヘミングウェイの深遠な言葉に溢れているわけではないし、途中から人物評価もくっきり色分けされて、あまり心地いい感じはしないが、ヘミングウェイの人間くささが感じられるような気がする。その意味で、わたしは、この本が好きだ。
(いろんな余計なことを社会から教えられる前の4,5歳のころ、琵琶湖で)