たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

エスパーニャ

2009年11月30日 15時14分54秒 | 音楽
秋学期は、月曜日は、大学院の授業のため四ツ谷に来る日。今日の東京は寒い。最近、プトゥマヨのワールドミュージック・シリーズの”エスパーニャ”にはまっている(写真)。2曲目のRemedios というグループの"Gertruidis"という曲が、ことのほか心地がいい。ルンバに、レゲエ、ファンク、ポップだけでなく、コロンビアのクンビアもミックスしたという解説がある。カタルーニャのグループだとのことだが、カタルーニャ語なのだろうか。スペイン語のような感じもする。わからない。9曲目のXabier Lete"San Martin, Azken Larrosa"は厳かな落ち着いた曲。明らかにスペイン語ではない。バスク語のようだ。

人類学的想像力のために歩く

2009年11月29日 19時32分28秒 | フィールドワーク

いまから5年前にもやったことがあるが、中沢新一の『アースダイバー』の着想を手がかりとして、昨夕、院生と学部生とともに、四ツ谷~新宿のフィールドワークを行った。

縄文期以降、人が住み続けたこの空間に住むわたしたちが、その土地に生き暮らした人たちの行いに思いをはせる、いわば、この世のものではなくなった人たちの
霊や、その人たちが崇め、力を授かろうとした神々と交信したことに感覚を向けてみるとでもいうような、人類学的想像力のためのフィールドワークである。そこにいま何があるのかというのは、そこに住み続けてきた人たちと自然との交わりの結果なのではないか(歌舞伎町や二丁目でさえ)。そう考えることは、場所や場所の成り立ちに関して、わたしたちが政治や経済といった社会・人間関係だけに目を奪われてしばしば考えてしまうことの補正になりうるのではないか。

わたしたちは、四ツ谷校舎を出発して、あたりが暗くなりかけて、道に迷って魚屋で道を尋ねたところ、お岩稲荷への道順を示してくれた。「赤い旗が立ってるよ、ちょうど出るころの時間だよ」と(写真)。「東海道四谷怪談」それ自体は創作であるかもしれないが、そこには、けっして珍しくはない男と女の感情の動きやもつれが、ぎゅっと絞り込まれたかたちで、それが、そのまま残されているのではないか。デパート屋上の神社を見るために、新宿3丁目の伊勢丹の屋上に着いたのは6時過ぎ。11月から2月は、6時から、屋上が閉鎖されているとは知らなかった。商業施設の最も高い場所にしつらえられた神殿から、神に無数の祈りが唱えられてたはずである。次に、角筈から運ばれた土で、埋め立てられた沼地の中心だった歌舞伎町の王城ビル脇の弁天様が祀られた公園へ。そこは、フーゾク、ホスト、ラブホなど、人の欲望と感情がぶつかり合い、交渉し、折り合いを見出す場の一角である。そこにも、世界のあちら側への通路とでもいうべき、祈りの場があった。

歌舞伎町に入ったあたりから、フィールドワークは、メンバーの間で熱を帯び始めたように思える。編集者Nさん、研究者Tさんと合流して、酒を飲み、その後、二丁目へ。現実への回帰。政党主導の仕分け作業に思う。研究とは、金をもらって、安楽椅子で議論をして行うものでは、けっしてないのではないか、むしろ、ストイックな心をぶつかり合わせて、高みを目指すものでなければならないのではないかと。学生たちによって長々と続けられる沸騰する授業・教授談。わたしは、学生時代に、そうした話をした記憶がいっさいない。二丁目のバーでは、白人男性が日本人女を巧みに口説いていた。わたしたちは、新宿駅まで歩き、三々五々解散した。


二百回忌~生者と死者の交流

2009年11月28日 09時47分47秒 | 文学作品

すでに他界した父や叔父、叔母、祖父母が蘇ってきて、わたしたち生者と交流する法要。自分自身にあてはめてみた場合には、まったく新鮮で、ワクワクする経験であるように思える。 笙野頼子の『二百回忌』は、そうした想像力によって書かれた中篇小説である。「私の父方の家では二百回忌の時、死んだ身内もゆかりの人々も皆蘇ってきて法事に出る・・・法事の間だけ時間が二百年分混じり合ってしまい、死者と生者の境界がなくなるのだ」。

生者は黒ではなく赤い喪服を来て出席することになっていて、他方で、死者は生者の記憶のなかの衣服でやってくる。
烏経(からすきょう)という大爆笑を引き起こすお経が唱えられ、その法要のための家屋は儀礼終了と同時に壊されなければならず、薬液によって食べられる蒲鉾のようなものとなる。

主人公センボンは、その法要に現われた40代半ばの男に、結婚して半年で実家に帰ったヤヨイと間違えられる。センボンが、この法要にわざわざ出席しようと思った最大の目的である祖母に会うという目的は、ようやく達せられたが、祖母の様子は、どうも生前のそれとは違っている。「二百回忌にはただ死者が蘇って戻るとだけ聞かされて来た。が、百年毎の法事は、まさに生きているかのように戻って来るという言い方でしか伝わっていなかった。或いは人々に期待をさせて騙してでも来させるため、そのあたりを伏せてあるのかもしれなかった。いくら戻ってきていても会ったとは呼べない場合があるのだと判った・・・」

二百年分の時間の歪みのなかに出会う死者と生者の交流という主題。巽孝之による解説を読むと、「二百回忌」には、バフチン的なグロテスク・リアリズム、ラテン・アメリカ文学のマジカル・リアリズムなどの影響や関連が指摘されてきたことが分かるし、その点については、なるほどなと思う。

この小説を読んで、わたしが思い出すのは、カリス社会のママンドゥンという儀礼である。それは、ボルネオ島の非イスラーム系の人びとの「複葬」に連なる儀礼である。土葬して、何年か経って、骨を取り出して洗骨した上で、ふたたび死者を弔う儀礼である。わたしは、一度だけその祭宴に参加したことがある。死者にゆかりの生者たちが集い、当の死者だけでなく、死んだ者たちを次から次へと呼び出す。ママンドゥン儀礼の場では、そのようにして、死者と生者が、一堂に会する。カリスの人たちが見ていたものは、生者の姿であり、さらには、死者なのである。儀礼のクライマックスに、牛を一頭供犠する。その瞬間、老若男女は、みな泣き崩れる。なぜ泣くのかという問いに、カリスの人びとは明確に答えてくれなかったが、いまから思うと、呼び出した死者たちに別れを告げなければならず、さらには、
生者と死者との交流という至福の機会が去ってしまうことに対する悲しさゆえではないだろうか。


『蛇を踏む』

2009年11月27日 09時01分43秒 | 文学作品

ある本に、異類憑依譚であると紹介されていたので、読んでみた。川上弘美著・短編『蛇を踏む』。

主人公のサナダヒワ子は、ミドリ公園に行く途中の藪で蛇を踏む。秋の蛇なので、歩みがのろかったという。踏んでから蛇に気づいた。蛇は、「踏まれたらおしまいですね」と言い、どろりと溶けて形を失った。そして、人間のかたちが現れたのである。その人間のかたちになった蛇は、50歳くらいの女性となって、ヒワ子の部屋に住みつくようになる。自分のことを、ヒワ子の母だと名乗り、以前からそこに住んでいたように、至極自然に膳を並べ、ヒワ子とビールを酌み交わす。たんたんとその暮らしが語られる。ヒワ子は、その人間が蛇であると気づいている。

その後、ヒワ子の勤め先の数珠屋・カナカナ堂のおかみさん・ニシ子もまた、蛇と関わっていることが分かってきた。その蛇は、ずいぶん歳を取っていて、死期が近い。ニシ子は、蛇の世界は、ほんとうに暖かいという。何度もあちら側に行きそうになったともいう。あるとき、ニシ子は、その蛇を踏みつぶした拍子に怪我をする。蛇は埋められた。カナカナ堂の数珠の納品先の願信寺の住職もまた、蛇に関わっている。蛇を女房にしていたことがあるという。家の切り盛りはうまい、夜のことも絶品だという。子どもは産めないが卵を産む。そのうちに、ヒワ子の部屋の蛇は、カナカナ堂で仕事中のヒワ子を訪ねてくるようになった。部屋に戻ると、「ヒワ子ちゃん、もう待てない」と言って、ヒワ子の首を絞め始めたのである。その後の格闘。結論も何もないまま、この話は終わる。

ニシ子の夫コスガの目や鼻や口は、色が抜けていくさまが描写される。逆に、ヒワ子は、コスガに、今日は色が濃いなどと言われたりする。世界のこちら側とあちら側の狭間で、グラデーションをつうじて、人間が生き暮らしているさまが描き出されている。そのことに重なるように、人間と蛇が、一方が強くなると他方が弱くなる、一方が弱くなると他方が強くなるといった按配で交差する。「晴れた日が続き、私の部屋の蛇はまた女に戻った。女に戻れば、ただの女なのである。多少蛇らしさはあるが人間らしさの方が勝つ。冬が近いので編み物をしたり布団を干したりする・・・」

ここで語られているのは、人間と動物、人間と間の連続性(human-animal continuity: human-nonhuman continuity )とでもいうような、人類史における人間と動物のテーマではないかと、ふと思う。川上は、「あとがき」で、彼女の作風「うそばなし」に触れて、以下のように言う。「『うそ』の国は、『ほんと』の国のすぐそばにあって、ところどころには『ほんと』の国と重なっているぶぶんもあります。『うそ』の国は、入口が狭くて、でも奥行きはあんがい広いのです」と。「うそ」と「ほんと」が、つながり、溶け合っている。それは、たんなる認識ではなく、存在論的な価値を帯びた、人間的真実なのではないだろうか。とりわけ、西洋思考を経由しない、わたしたちの。松浦寿輝による解説は、以下のように、巧みにそうした問題の核心に触れている。

あまたの動物や植物が入り乱れる川上弘美の物語世界では、種と種との間の境界がいきなりどろりと溶け出して、分類学の秩序に取り返しのつかない混乱が生じてしまう。この作者はたしか大学で生物学を専攻したはずなのに、あたかもリンネの命名システムなどまったく信じておらず、一つの種からもう一つの種へと存在は自在に往還できると思いこんでいるかのようだ。実際、彼女の登場人物たちは誰も彼も勝手ほうだいに自分を動物化し、植物化し、しまいには生物と無生物との境界も消え去ってしまう・・・

「きりがない」ということ。われわれが眺めている世界の風景の場合、「きりがある」のがふつうである。それは「きり」良く分類され、たとえば人は人であり蛇は蛇であって、それらカテゴリー間の混同はありえないという明瞭な了解がそこで営まれている安穏な生の持続を保証している。世界は、基盤の桝目のようにかっきりと「きり」分けられているのが常態なのだ。この「きり」の概念を崩壊させてしまうものが、川上弘美の小説なのである。

そうだとすれば、ご本人にはそういった意図があるのかどうかはわからないが、川上作品は、自然と文化の(西洋的)二元論思考への挑戦であると読むことができるかもしれない。わたしたちのプロジェクトとシンクロする(かな?)。表現方法として、「うそばなし」から学ぶことは多い。

http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/ihs/soc/anthropology/activity091109.html

ところで、『蛇を踏む』で思い出したのは、狩猟民プナンの蛇をめぐる神話である。

人びとは蛇(berungan)に出くわして、はじめて見るその動物の姿のヘンテコさをさんざんあざ笑った挙句、持ち帰った。その蛇は、じつは、神の化身であった。一組の兄と妹が、そのヘビを料理していると、蛇は「大水が起きる」と囁いた。その兄妹は、どんどんと高台へと逃げて、生き延びた。他の人たちは、大水に飲まれて死んでしまった。その後、兄妹は、樹上でリス(puan)が交尾するのを見て真似て、セックスをした。生まれてきた子どもたちもまた、同じようにセックスして、子孫をどんどん増やしていった

蛇は、ここでもやはり、人間のように言葉を発する存在であり、他方では、神の化身として現れている。


シャーマン/田口ランディ

2009年11月26日 09時52分50秒 | 文学作品

読書の秋と言われているがゆえに、わたしたちは、夜長に本を読むのかもしれない。昨夜、田口ランディの『コンセント』を読んだ。

兄の腐乱死体から発する死臭を嗅いで、主人公ユキは、死の臭いの敏感性を手がかりとして、世界のあちら側と交信できるようになってゆく。それは、臨床心理学と文化人類学(シャーマニズム研究)を二つの足場として、一つの巫病譚として読むことができる。

死にたずさわる葬祭業者と消毒業者の、人に対する優しさが、生にたずさわる臨床心理士の人に対する乱暴さとでもういうべきものと対照的なものとして描かれている。
それにしても、田口の描くこのセックスシーンの激しさ、生々しさ。頭にこびりついて離れようとしない。夢と現実ともつかない空間に、ふと兄の姿が現れる。そういった現実と非現実の連続性のどこかに、わたしたちは「何か」に出会う、シンクロすることがある。この小説には、そういったリアリティーがある。

文化人類学者・律子の登場は、この小説を、シャーマニズムの懐へと、世界のあちら側とのつながりへと引きずってゆく。人間行動には、少なからず理解不能な部分がある。癒しを請け負うお節介なサービス業である現代のカウンセラ-に対して、意識を高次元へと覚醒させるスピリチュアル・エマージェンシーである禊を経験して、シャーマンは力能を得る。

ひるがえって、わたしたちのシャーマニズムへの興味関心というのは、はたして、
いったいどのあたりに発するのだろうか。それは、どうしようもない現実に対する苦悩の果てに見出される狂気(うつ病や後天性トランスだけでなく、現代社会そのものの病的な現実を含む)に対して、別の手続きをつうじて、挑む仕組みに触れてみたいということに、多少なりとも関わっているのではないか。『コンセント』を読んで、わたしのシャーマニズムの関心は、そういったものであったということを確かめることができたように思う。

香を吸い込んでトランスし、世界のあちら側と交信するためにブランコに揺られて祈りを唱えるカリスのシャーマン(写真の左:故人)。折に触れて、彼女は、わたしに世界のあちら側について語ってくれた。苦悩と病気の果てに、シャーマンとして生まれ変わったその女性は、2年間のフィールドワークの最後に、わたしを養子にしようとしたが、果たせなかった。わたしは、この本を読んで、加えて
、カリスのシャーマニズムを思い出した。


「狩猟民族の暮らしぶりっ!」Daily life of hunting people

2009年11月25日 09時55分23秒 | フィールドワーク

以前、匂い研究の情報交換のために関西から来られて一度お会いしたことがあるYさんとの縁があり、Wonderful Science Radio に、上のタイトルで出演した(このラジオ番組、けっこう面白いことをされている)。先週の金曜日の深夜、関西地区でラジオ放送されたらしい。アーカイブをいただいた(以下のURL)。2~3分の手短な打ち合わせで、何を話したらいいのか分からなかったが、Yさんの巧みなしゃべりに乗せられながら、わたしは、けっこう口から出まかせ的にしゃべっている。30分はあっという間だった。Yさん、どうもありがとうございました。
http://wonderfulscience.seesaa.net/

(写真は、ボルネアン・ジャングル)


鮎供養搭

2009年11月24日 08時12分43秒 | 人間と動物

昨日(11月23日、勤労感謝の日)は、本年度から学期15週制になったため、国民の祝日にもかかわらず授業日であったが、その点はひとまず置くとして、11月下旬にしてはことのほか暖かく、夕方から、相模川の「鮎供養搭」を見に出かけた。キャンパスから半時間ほどの距離、相模川の高田橋の橋脚の脇に、その塔はあった(写真)。かつては大山参りの人が利用する久所の渡しがあった場所で、隣には、久所の渡しの碑が立っていた。鮎供養搭は、その石碑の裏に、「相模川第一漁業協同組合 昭和32年4月」という文字が刻まれていた。どういった経緯でこの碑が建てられたのかについては、記されていなかったし、ホームページにも載っていなかった。
http://www.sagamigawa.jp/

予想では、鮎を殺生することで生かされている(あるいは、鮎釣りを生業とすることで生かされている)ことに対する感謝の念を、鮎に対して供養することで表現したものではないだろうか。いずれにせよ、日本各地には、いたるところに、こうした類の動物(霊)に対する石碑がある。石碑だけを見るならば、石に、慰霊や感謝の念が書きつけられるということでは必ずしもなくて、その石が、慰霊や感謝の念を表明するための碑であるとか塔であることが示されることによって、こうした実践は成り立っている。となれば、動物への慰霊を、日本人の碑っをめぐる文化実践とでもいうべき側面からも探ってみると面白いのかもしれない。できるかどうかは別にして。



ブルーノによる、フィリップとエドゥアルド

2009年11月23日 20時21分57秒 | 自然と社会

 2009年1月30日に、パリで、「遠近法主義とアニミズム('Perspectivism and animism’)」と題して、フィリップ・デスコーラとエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロによる対談が行われた。ヴェルヴェトボイスの低音のデスコーラに対して、ヴィヴェイロス・デ・カストロが、襲いかかるように挑んでいく。ヴィヴェイロス・デ・カストロは、デスコーラは、せっかく西洋思考を破壊するための爆弾を仕掛けたのに、それを取り除いてしまっているのではないかという。

  しかし、ほんとうにそうなのか。自然がたんなる材料ではなく、高度に論争的なトピックへと移行した現代において、人類学にとって、新たな輝かしい時代の幕開けではないのかと、対談をまとめたブルーノ・ラトゥールは述べている。自然は一つだけで、文化がたくさんあるという世界に普遍化されて広まっている西洋思考は、自然こそがたくさんあるとする多自然主義によって、こなごなに破壊することができるのだろうか。

  これは、エスノグラフィーをとことん突き詰めた先に、同じようであるが必ずしも同じではない理論化を進めているデスコーラとヴィヴェイロス・デ・カストロによる格調高い対談の、もう一人の輝かしい人類学者・ラトゥールによる記録である。以下に、向学のために、メモとして、私的に訳出してみた。識者各位のご批判・ご意見を賜りたい。

遠近法主義:「類型」あるいは「爆弾」?
“Perspectivism: ‘Type’ or ‘bomb’”, Anthropology Today April 2009-vol 25-no.2., pp.1-2.

◆1月30日パリ

 誰がパリの知的暮らしは死に絶えたって言ったの?誰が人類学はもう生き生きしていないし魅力的でもないなんて言ったの?いま、わたしたちは、一月の寒い朝に、最もすばらしく最も輝いている二人の人類学者の間で行われる論争を聞こうと、さまざまな学問領域と幾つかの国から集まった人たちで溢れかえった部屋のなかにいる。控え室やコーヒーショップで噂が流れた。長い間、個人的にあるいは出版されたもののなかで、意見の不一致をそれとなく述べ合っていたが、ついに公の場で議論することになったのだと。「そういう言い方では荒っぽすぎるよ」と、わたしは言われていた。「血が流れるだろう」と。実際には、予想したような闘鶏(突つき合い)というよりも、ルー・シュガーのその小さな部屋は、8世紀以上も、このラテン世界の中心地(=パリ)で、熱心な研究者の間でここで行われたにちがいないような、論議を目撃することになった。  

 二人は、25年間もお互いのことを知っていたのにもかかわらず、彼らは、彼らの独自の発見についての互いの仕事の重要なインパクトについて、聴衆に思い出させることによって、論議を始めようと心に決めていたのである。  

 フィリップ・デスコーラは、彼が、人間と間の間の関係についての別の様式を理解するために、そのころは時代遅れの観念であった「アニミズム」を再発明することによって、「自然と文化」の二分法から自らを解き放とうとしたときに、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロからどれだけたくさんの事柄を学んだのかを、最初に認めるような発言をした。ヴィヴェイロスは、彼が研究していたインディアンにとっては、人間の文化が、すべての存在物—動物や植物を含むーーを結びつける一方で、それら(=すべての存在物)が、それらの異なる自然、すなわち、それらの身体によって分けられるものであるために、自然と文化という狭い制限においては、おそらくは捉えることができないような様式に対して、「遠近法主義」という用語を提起してきたのである。  

 というのは、ヴァリャドリッドの神学者たちが、インディアンたちは魂をもっているかどうかについて話し合ったのに対して、当のインディアンたちは、大西洋の反対側で、征服者たちが堕落しているかどうかを調べるために、彼らを溺れさせることによって—それは、彼ら(=征服者たち)が、ほんとうに身体をもっているのかどうかを見きわめる手法であり、彼らが、魂をもっているかどうかは問題ではなかったのである--、征服者たちに対して実験をしていたからである。対称性人類学のこの有名な事例について、レヴィ=ストロースは、スペイン人たちは社会科学において強力であったのかもしれないが、インディアンたちは、自然科学のプロトコルに従って、彼らの調査を行ってきたのだと、やや皮肉っぽく述べている。

◆デスコーラの関係の4つの様式

 その後、デスコーラは、どのようにして、彼の新しいアニミズムの定義が、「自然主義」--よく西洋思考の初期設定的な位置にあるとみなされている見方—を「アニミズム」から区別するのに用いることができるのかを説明した。「自然主義者」が、物理的な特徴を基礎にしながら、存在物の類似性を描きだし、それらを心理的および精神的なものを基礎にして区分けするのに対して、「アニミズム」は、すべての存在物は、精神的な意味合いにおいては同じであるが、それらが授けられている身体のせいで、ひどく異なったものであると理解することで、それとは反対の位置取りをする。  

 これは、デスコーラにとっての突破口であった。というのは、それが、「自然と文化」の分断が、全体として、もはや専門職によって避けられない背景を構成するというのではなくて、「自然主義者」が、他の存在物との関係を築くときに抱く方法の一つにすぎないということを意味したからである。自然が、トピックとなる材料であることから、移行したのである。言うまでもなく、この発見は、歴史的に社会学的に、どのように「自然主義者」が、間との関係を管理したのかについて研究していた隣接領域の諸科学において、失われたものなのではなかった。  

 デスコーラが説明するように、この一組の対立する関係に、人間と間の関係が、両方の側において類似的であるか(彼が「トーテミズム」と呼ぶもの)、あるいは、その両側において異なるか(彼が、「類比主義」と呼ぶもの)のどちらかである、もう一つの組を加えることが、彼にとっては、その後に、可能になったのである。多くの人びとの間の「文化的な」変異を見つけ出すための背景として働くような、人間と間の間の単一の関係の様式で地球を覆うというよりも、この背景こそが、念入りな探究の対象となった。人びとは、文化において異なるだけでなく、自然において、あるいは、とりわけ、人びとが人間と間の関係を構築する方法において異なる。デスコーラは、モダニストやポストモダニストのどちらもできなかったもの、すなわち、自然主義者の思考の様式の上っ面の統合性から逃れる世界に到達することができたのである。

  「自然主義者」の帝国主義者的な普遍性は去ったが、なおいっそうのこと、注意深い構造的な関係を、集合性を打ち立てる4つの方法の間に確立するような、新しい普遍性が可能なものとなったのである。デスコーラの壮大な計画は、人類学に新しい普遍性の様式、この場合、「相対的な」あるいはむしろ「相対主義者的な」普遍性を再発明することであり、そのことを彼は、彼の本 Par dela nature et culture のなかで展開した。デスコーラの見方では、ヴィヴェイロスは、デスコーラが、より広く網を張ることによって、他の事例に対照させようとした、地域的な諸対照のうちの一つについて、より深く探究することに熱中したのである。

◆遠近法主義の二つの遠近法

 彼らは、すでに4半世紀にわたって友人であったのだけれども、その二人の人格ほど異なるものはないであろう。デスコーラのヴェルヴェットボイスの低音での口頭発表の後に、ヴィヴェイロスは、簡潔な格言めいた奇襲的な話し方で、彼もまた、より急進的であるが、新たな普遍性の様式に到達しようとしていることを示すために、前線に電撃戦を仕掛けた。彼の見るところ、遠近法主義は、デスコーラの類型学のなかで、一つの単純なカテゴリーとしてではなく、民族誌学者が彼らのデータを解釈するさいに支配的なものとなっている暗黙の哲学の全体を爆破するポテンシャルを秘めた爆弾として見なされるべきなのである。もし完全に反―遠近法主義者的なアプローチがあるのだとすれば、それは、カテゴリーのなかに類型を見るという考え方そのものであり、そうした考え方は、ヴィヴェイロスが「共和主義的な人類学者」と呼んでいる人たちのなかに現れている。  

 ヴィヴェイロスが説いたように、遠近法主義は、アマゾニア研究者たちの間でちょっとした流行となったが、この流行は、より厄介な観念、すなわち、「多自然主義」の観念を隠してしまう。ハードであれソフトであれ、科学者たちは、一つの自然と多くの文化という考え方には等しく同意する一方で、ヴィヴェイロスは、もしすべての者たちが、同一の文化と異なる自然を持っているならば、世界全体がどのように見えるのかということを理解しようとして、アマゾニアの思考(それは、レヴィ=ストロースが言ったような「野生の思考」ではなく、十分に飼い慣らされかつ高度に洗練された哲学であると、彼は主張する)の研究を推し進めようとする。ヴィヴェイロスが考える最も重要なことは、アメリカ先住民のために、彼が、デスコーラが打ち立てようとしているとして非難している膨大な骨董品棚のなかのもう一つ別の骨董品となるような西洋哲学と闘うことである。彼(=ヴィヴェイロス)は、デスコーラは、「類比主義者」、すなわち、脅威となる差異の恒常的な侵入に直面して宇宙の秩序を保持するために、小さな差異をほとんど強迫神経症的に集めて、分類することに取り憑かれているような人であると考えている。  

 ここでのあてこすりに注目しよう—そして、部屋のなかの緊張と注意が、この時点で、増大した。ヴィヴェイロスは、デスコーラを構造主義(彼のすばらしい著作に、しばしば浴びせられた批判)として非難したのではない。レヴィ=ストロースがいう構造主義は、反対の「アメリカ先住民の実存主義」、あるいは、「アメリカ先住民の思考の構造主義的な転換」だからである--もしも、レヴィ=ストロースが、ガイドであったならば、あるいは、逆向きのカニバリズムをつうじて、内側から西洋思考を破壊するために、インディアンの遠近法主義を、西洋思考に移動させるシャーマンであったならばの話であるが。レヴィ=ストロースは、個別の対照的な神話の冷たい、合理主義的な収集家であるどころか、カードのインデックスと見事に転換された節を媒介として夢想し、漂ったということを除いて、インディアンたちのように夢想し、漂ったのである。しかし、ヴィヴェイロスが批判したのは、あたかも、彼、ヴィヴェイロスが西洋哲学の下に置こうとした爆弾が取り除かれたかのように、デスコーラが、一つの思考の類型から別の類型へと「あまりにも安易に」移行させるという危険を冒しているということに対してであった。もしわたしたちが、わたしたちの思考をアメリカ先住民の別の論理へと関係づけようとするのならば、社会科学に浸透しているカント的な理想の考え方全体が、去らなければならないのである。  

 それに対して、デスコーラは、彼は西洋思考には関心がなく、他者の思考に関心があると応答した。一方、ヴィヴェイロスは、それは、問題となった「関心をもつ」ことに対する彼のやり方であると応じたのである。

 ◆思考を脱植民地化する

 明らかなことは、この論議が、地球を覆うすべてを包み込む概念としての自然についての考え方を破壊したということである。それに対して、人類学者たちは、疲れきった古い概念である「文化」の観念の下での差異であれば、何でも加えるという、むしろ悲しく限定された義務をもっている。多自然主義の観念が考慮された場合の「自然」と「文化」人類学者の間の論争がどのようなものであるのかについて想像してみよう。デスコーラは、最終的に、フランスの名誉ある大学で、「自然の人類学」の最初の主任教授となったのであるが、わたしは、自然科学の彼の同僚教員たちが、彼らにとって、放射性物質の効力ある源であるものの近くで、どのように彼らの科目を教えることができるのだろうかと不思議に思うことがある。ヴィヴェイロスの爆弾が取り除かれてしまったという彼の関心は、見当違いかもしれない。偶然にも、生態学的な危機—ブラジルのヴィヴェイロスにとって大きな政治的関心事であるトピック—が、「自然主義」が未熟なかたちで閉じてしまおうとしていた論争を、ふたたびこじ開けることになった時代に、自然が、たんなる材料であることから、高度に論争的なトピックに移行した今日の(元自然および元文化)人類学にとって、繁栄の輝かしい新たな時代が開かれるのである。  

 しかし、そのような論議においてより見るべき価値があることは、わたしたちがモダニストとポストモダニストの窮状から、どんなに離れてきたのかということである。もちろん、共通する世界の探求は、いまや広く複雑であり、地球に住まうことの夥しい数の異なった様式が、自らを展開するようにさせられてきている。しかし、他方で、いまだに共有されていない世界を組み立てる仕事が、人類学者に対して開かれている。その仕事は、巨大で、重大で、人類学者が過去に挑戦してきた事柄に匹敵する。ヴィヴェイロスは、聴衆からの質問に答えて、幾分トロツキー的な格言を用いて、この点を指摘した。「人類学とは、永遠の脱植民地化の理論と実践である」。彼が「今日の人類学は大きく脱植民地化されたが、その理論はいまだ十分に脱植民地化されていない」と付け加えたとき、部屋のなかにいる私たちのうち、もしこの議論が表明であるならば、わたしたちは、最後には、そのことを達成してもよさそうなものだと感じたものがいた。 Latur Bruno,

(写真は、狩猟キャンプを撤退してロングハウスに戻るために、船に乗る順番を待つプナン人)


佃島の鰹塚

2009年11月22日 09時56分03秒 | 人間と動物

志ん朝の落語全集の『佃祭』は、佃島の住吉神社の祭に出かける神田お玉が池の小間物屋・次郎兵衛の噺である。佃祭を見物に行った次郎兵衛は、暮れ六つの、満員のしまい船に乗ろうとしたとき、一人の女性に引き留められ、船に乗り損なう。その女は、3年前に吾妻橋から身投げをしようとしたときに、次郎兵衛が、5両のお金を恵んで助けた娘だったのである。次郎兵衛はその女の家に招かれる。周囲がざわめき立っている。尋ねると、しまい船が沈んで全員死んだという。泳げない次郎兵衛は、その女に助けられたのであった。いっぽう、神田お玉が池の次郎兵衛の家では、しまい船転覆の報を受けて、葬儀をはじめていた。そこへ、次郎兵衛が戻ってくる・・・

次郎兵衛が、住吉神社に参詣する、人助けするような情け深い人物であることを描いたこの噺は、海上安全、渡航安全の守護神としての佃島の住吉神社のご利益の物語として読み直すことができるのかもしれない。

その佃島の住吉神社の境内には、「鰹塚」の大きな石碑が建っている(写真)。昭和28年に、東京鰹節類卸商業協同組合・株式会會社東京鰹高取引所によって建てられたその碑は、川田順造氏
の著作のなかで、すでに繰り返し取り上げられている(①川田順造『文化人類学とわたし』岩波書店、②川田順造編『ヒトの全体像を求めて』藤原書店)。

その碑の建設をつうじて読み取れる人間
の態度とは、川田によれば、「他の生命の犠牲によってしか生きるすべのない人間のかなしい業を自覚し、生きること自体が含む矛盾を受け入れ、自覚することでそれを超えようとする態度」(①の150ページ)である。川田は、「偽善とみえるようなこの供養や塚の考え方は、だが私が『創世記パラダイム』と名づけている、神は己の姿に似せて人間を創り、他の動物を人間のために創ったという前提にもとづく、いわば確信犯としての動物利用とは、人間も他の生き物と同等に生きているという前提において、やはり異なっていると考えたい」(①の151ページ)という。

わたしは、川田のいう「人間中心主義」を再検討するという観点を共有している。
昨日わたしが訪ねた折には、石碑の前には、以下の文面が掲げられていた。

 鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。
 神社建築では棟木の上に鰹節に似た内柱状の飾り木「堅魚木(かつおぎ)」が横に並んでいます。わが国最古の法典である「大宝律令」(701年)「養老律令」(710年)に海産物調賦に、堅魚、煮堅魚、堅
魚煎汁(かたうおいろり)(煮詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存食調味料としても利用してきました。
 東京鰹節卸商業協同組合は、鰹の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和28年5月「鰹塚」をここに建立しました。費用は組合員96名の積み立てによる浄財でまかなわれました。使い氏は鞍
馬石(高さ7尺、幅4尺)、台石は伊予青石(高さ3尺)であります。
 表面の揮毫は、日展審査員で組合員、鰹節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです。
 東京都鰹節類卸商業協同組合

鰹は、古来から食用としてだけでなく、暮らしのなかで用いられてきた、日本人にとって欠かせない存在である。その豊漁を願うとともに、そのみたまに感謝と慰霊を捧げる目的で、この石碑が建立されたことが述べられている。裏面には、国文学者・民俗学者の池田与三郎による碑文があった(()を付けた部分は、解読できなかった文字)。

  鰹塚縁起 池田彌三郎撰
 この東京佃島に鎮座ある住吉大神は國土平諸人幸福を輿へたまふ神として尊ばれておいでになる 
 とりわけ海上の安全を守護し給ふ神徳のあらたかさを以って神功皇后の古から幾星霜にわたって海に冨を得幸を求めようとする人の篤い崇敬をうけて来られたことは今更申すまでもない 
 私ども東京鰹節問屋の組合でも江戸時代の初めから今に到るまで此大神を私どものなりはひの為の守護神と崇め敬ひ奉仕の誠心を致し来つたのである 
 今日私どもの生業がかくの如く繁榮を来したのも全く此大神のみたまのふゆの致す所と感謝し奉つてゐる 
 それと共に私どもにとつて常に恐れることの出来ないのは尊いその尊いその神意に添つて大神の(御)使として眷属として私どもの廻りから身を匿し逃ることなくおのが身を世の人の食膳に上せ海の幸の賑はひを盡し給ふ鰹の魚のみたまに抱くおなじ感謝の心である 
 そこで私ども崇敬者の間に大神の御為の報賽と鰹の魚のみたまに對する感謝慰霊の心を如何にして表さうかと言ふおさへ難い情熱が高まつて来た組合員の總意はこの住吉神社の境内に鰹塚を建ててその人たまを齋くことにまとまったのである 
 願はくば神とみたまとの感情の上に私どもの報賽の志が行きとほつほしいものである 
 鰹の魚の大鰭小鰭洩れることなくうけがひ( )ひ給へとひたすらに祈る次第である
 昭和二十八年歳在癸巳五月穀旦
 東京鰹節類卸商業協同組合
 株式会會社東京鰹節取引所

碑文を作成した池田によれば、住吉大神こそが、わたしたちに鰹を授けてくださる至高の存在である。ここでは、「みたまのふゆ」という民俗学的な想像力を用いて、彼は、そのことを表現している。さらには、鰹は、その大神の従者であり、わたしたちにその身を投げ出して、わたしたちを生かすだけでなく、わたしたちを楽しませてくれているので、わたしたちは、鰹のみたまに同様の感謝を抱いているのだという。そのため、組合員には、その二者(大神と鰹の御霊)に対する感謝慰霊の心が、もうどうしようもなく抑えきれないところまでなって、住吉神社に鰹塚を建立することになったというのである。

56年前に石碑の裏面に刀で堀削られ、すでにところどころ読み取りにくくなっているこの碑文には、生き物に対する日本人の集合的な感性が、いや、いまとなっては曇ってしまっているその証が、力強く書きつづられている。「大神の(御)使として眷属として私どもの廻りから身を匿し逃ることなくおのが身を世の人の食膳に上せ海の幸の賑はひを盡し給ふ鰹の魚のみたま(=大神のお使いとして、わが身をさらし、食膳に上げて、食を豊かにしてくれる鰹のみたま)」という表現によって、ここで描かれているのは、なんたる生き生きとした鰹たちの姿であろうか。鰹がピチピチと跳ねて、喜んで、その身を人間にさらしているかのようである。

そこには、<食べる側の人間>と<食べられる側の魚>という線引きがあるのではなく、魚が、あたかも人間のように、大神の意思を受けて、嬉々として身を捧げるような存在として描かれている。別の観点から述べれば、日本人は、人間と他の生き物の間に明瞭な線引きをしないで、その共通性・連続性の基に、人間と動物の関わりを想像してきた
のではなかったのか。逆に、他の生き物を異質性・非連続性のもとに捉えることが、川田のいう「創世記パラダイム」に沿った西洋の動物観のおおもとにあるのではないだろうか。それは、グローバル化が進む今日、普遍主義的に全世界に浸透しつつある。

住吉神社の巨大ないしぶみは、わたしたちに、日本的な生き物観を
忘れてはいけないということを精一杯主張しているようにも見える。

これまでの、関連するトピックに関する記事。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/f3f40b94ca19499a50de299a41829455
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/21ef6d013ee599e1af3c0d573d292791
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/9f43676ce35b71f196bec87c062d838a
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/acacf5a7a03ef6d7e2a23d4dadcce3ce
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/00ada481c69a4cf43a83bb5441284976
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/843ecd4f1437125a62bc8ef0f7309ef1
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/958e03874b3d06b92b27e28cdf7a8290


アルディよ、ルーシーよ、トゥルカナ・ボーイよ

2009年11月21日 21時37分49秒 | 起源人類学

9月以来まったく何も用事のない初めての週末。快晴(心のうちは、そんなに晴れ晴れとしていないのだが・・・)。思い立って、エチオピアで発見された、440万年前の猿人の女性アルディの頭骨と骨盤のレプリカが公開されていると聞いていたので、国立科学博物館に出かけてみた。パンフレットには、以下のように書かれていた。

「有名なアファール猿人の”ルーシー”と同じように、”アルディ”はある一人の個体の頭骨や歯、骨盤、手足などがそろった化石です。身長は約120センチ、体重は約50キロで、華奢な頭骨と小さな犬歯から、女性だったと考えられます。頭や歯、体の骨の分析から、”アルディ”たちは、チンパンジーやゴリラなど現生の類人猿とはだいぶ違った暮らしをしていたことが推測されています。オスでも犬歯が小さく、地上を直立二足歩行するなど、人類的な特徴もありますが、脳容量は少なく、樹上も生活空間として利用していたことがうかがわれるなど、より原始的な面もあったようです。」

より詳しいことは、以下のウェブページに載っている。

http://www.kahaku.go.jp/userguide/hotnews/theme.php?id=0001255574730972&p=1

アルディピテクスでは、男性の犬歯が大きくない。そのことから,配偶相手をめぐる諍いは少なかったことが推測され、
一夫一婦の関係が成立していたかもしれないという。アルディに配偶者がいたかどうかは分からないものの、食糧を持ち帰る夫の帰りを樹上で楽しみに待っていたかもしれないというロマンチックな想像もなされている。じつに興味深い。

アルディピテクスは、樹上で暮らし、ときには、二足歩行をしていたと考えられているようだが、もう少し時代を下って、いまから約350万年前のアファール猿人になると、
ルーシーの二足歩行の跡がくっきりと残されている。ルーシーの骨盤の形状や足の長さから、アファール猿人は、ホモサピエンスのような歩き方ではなく、不安定に、足を引きずりながら二足歩行していたと考えられているようである。

国立科学博物館には、ルーシーの復元模型が展示されていた。思いのほか小さかった。小さなおばさんという印象である。その隣には、約150万年前の原人であるトゥルカナ・ボーイの復元模型が置かれていた。トゥルカナ・ボーイは、身長160センチの、8~12歳の少年であったとされる。こちらのほうは、われわれとあまり変わらないような感じがした
(写真)。

それらは復元模型ではあるが、人間の古のリアリティーへの想像力が一気にぐ~んと広がるような気がする。同時代に空間を共有しているような感覚とでもいうのだろうか、彼らと意思疎通が可能になったような。不思議な異空間へと迷い込んだような気がした。ところで、
猿人から原人へ進化する過程で、彼らは、どのように道具を工夫しながら、食を探し、どのように眠り、暮らしていたのか。さらには、世界の成り立ちをこのようなものとして捉えていたのか。狩猟をうまく行えるようになるのは、そのずっとずっと先のことであったにちがいない。


【講演会案内】恋愛の人類学~二次元恋愛は現代の恋愛への宣戦布告か?~

2009年11月19日 10時07分24秒 | 大学

本年度発足した桜美林大学の文化人類学専攻の学生による研究会・桜美林大学文化人類学研究会(OSSA:通称オッサ)では、愛、LOVE、恋愛、性愛というテーマを検討することを、本年度のテーマに掲げて活動してきました。

その締めくくりとして、2009年12月16日(水)に、「恋愛の人類学~二次元恋愛は現代の恋愛への宣戦布告か?~」というタイトルで、
オタク研究家の本田透先生をゲストに迎えて、文化人類学者の池田光穂先生(大阪大学)との対談形式で
公開講演会を行います。

興味関心のある方は、ぜひご参加ください。

桜美林大学文化人類学研究会(OSSA)第1回講演会

恋愛の人類学
~二次元恋愛は現代の恋愛への宣戦布告か?~

本田透(ライトノベル作家)vs池田光穂(大阪大学・文化人類学・教授)


日時: 2009年12月16日(水)14:30~16:00
場所: 桜美林大学町田校舎・明々館A204教室
参加費:無料
アクセス:
http://www.obirin.ac.jp/001/030.html
問い合わせ先:obirin7233@yahoo.co.jp OSSA2009年度会長・高城規佳

◆上記講演会に向けて、本田透さんの著書『萌える男』(ちくま新書)の勉強会を行っています。
こちらも参加ください。
11月11日(水)、25日(水)、12月9日(水)いずれも午後6時から。
桜美林大学崇貞館3階考房アルキメデスにて。

桜美林大学文化人類学研究会(OSSA)ブログ
http://ossaobirin.blog11.fc2.com/


研究会案内(2009年12月)

2009年11月11日 23時11分42秒 | 自然と社会

「自然と社会」研究会

第12回研究会

主題:「自然と文化のインターフェイス」③

1.問題の概略について・・・奥野克巳

2.参加メンバーによる口頭発表

日時;2009年12月5日(土)10:00~20:00
場所:桜美林大学町田キャンパス崇貞館B335
http://www.obirin.ac.jp/001/030.html

関連サイト
http://nature-and-society.blogspot.com/

(写真は、ブラガ川上流での魚獲り)


抱き合うサルたち

2009年11月10日 22時16分54秒 | エスノグラフィー

授業、会議、打ち合わせ・・・あっという間に、来る日も来る日も過ぎていく。いつごろからこんなことになったのだろうと嘆いてみてもしかたがない。ふと気がつくと、メールもどこから手を付けていいのか分からないほど、たくさんたくさん届けられて、ただただ積もってゆく。己の怠惰を恥じて、申し訳ありませんと、関係者には心から頭を下げるのみである。すべてをこなすことはできまいと、思う。ふと夜のしじまに、つい3ヶ月前に撮った写真を眺めてみる。ブタオザルとリーフモンキーが、抱き合っている。こことは別の異世界の出来事であるように思える。それらは、抱き合っているのではない。撃ち殺した場所から持ち運びやすいように、抱き合わせて、束ねられたのである。たしかに、それは、そこにあった。しかし、いまとなっては、遠い遠い、はるかなる現実。いったい何が言いたいのか、別段、何か言いたいことがあるわけではない。言いたいことがなければ語ってはならないというような法はない。今日の1限の授業で、最初から物事はうまくいくとは思わないのも一つの手であるということを、でまかせ的に喋ってみた。そのことは、学生に向かって、さらには、自分に向かって語ったことばであったような気もする。とりあえず、つぶやいておこう。今後、これらのことばが、恥ずかしく感じられることも十分に予想しうる。


雀供養之塚

2009年11月09日 11時56分48秒 | 人間と動物

いまから20年以上前に、北区・田端の木造アパートに住んでいたことがある。アパートの新築計画のため立ち退きを要請され、文京区・駒込に引っ越した。20年くらいぶりに、田端・駒込界隈を訪ねてみた。よく夕食を食べに行った、田端駅前の中華料理屋(喜楽?)は無くなっていたし、駒込駅近くで借りていたアパートも見つけ出すことができなかった。時が経ったのだなあと、つくづく思った。田端には、仁王像に赤札を貼ってお参りをすることで知られる東覚寺があり、そこに、雀の供養塚があると聞いて、訪ねてみた(写真)。竹のかたちをした石像に、「雀供養之塚」という文字が刻まれ、文化十四年八月に長坂氏によって建立されたことが記されている。インターネットで検索してみると、蜀山人(太田南畝:1749-1823)によって建てられたとあり、さらに、その塚は、江戸幕府の政策を風刺したものであるという書き込みにあたる。蜀山人は、落語家・立川談志によれば、一休、曾呂利新座衛門と並んで、頓知の三大名人であるとされる(「蜀山人」「曾呂利新座衛門」は、落語の演目にもなっている)。どういった経緯で、この碑が建てられたのかいまのところ不明であるが、とりあえず、覚書のため、書き留めておきたい。


研究会案内(2009年11月)

2009年11月07日 19時52分44秒 | 自然と社会

「自然と社会」研究会

うぉっと寸でのところで、アップするのを逃すところだった。
研究会案内、前日ですが、研究会クロニクルのために。
前回のすでに終了している分も併せて。

第11回研究会

研究会メンバーによる研究口頭発表
(主題:「自然と文化のインターフェイス」②)

近藤、阿部、奥野、溝口、田所、中上、池田


日時;2009年11月8日(日)10:00~20:00
場所:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所3階会議室

第10回研究会(終了しています)

研究会メンバーによる研究口頭発表
(主題:「自然と文化のインターフェイス」①)

奥野、田所、池田


日時;2009年10月25日(日)10:00~17:00
場所:桜美林大学四ツ谷キャンパスY308教室

関連サイト
http://nature-and-society.blogspot.com/

(写真は、狩猟キャンプの解体中に遊ぶプナンの子どもたち)