たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



「自然と社会」研究会

第6回研究会

”それ”は、いったい誰のレヴィ=ストロース理解なのか?
レヴィ=ストロースは、実際にはどう言っているのか?
「自然と文化」を読解・議論したうえで、
デスコーラ
らによる「自然と社会」の序の後半に向かい、
さらには、デスコーラの「自然と社会を超えて」に挑みます

 
◆日時

2009年5月17日(日)12:00~17:00

◆場所

桜美林大学四谷キャンパスY305教室
 JR四谷駅徒歩5分
電話:03-5367-1321
http://www.obirin.ac.jp/001/a028.html

・12:00~13:30
レヴィ=ストロース「自然と文化」
『親族の基本構造』青弓社

・13:30~14:30
Philippe Descola and Gisli Palsson,
“Introduction”, Nature and Society
の後半およびキーワードの整理

・14:30~17:00
Philippe Descola
"Beyond Nature and Culture"

*参加される場合には、事前に、上記論文に十分に目を通しておいてください。
参加ご希望の方は、下記のメールアドレスまでご一報ください。
  katsumiokuno@hotmail.com
*発表者の都合で、研究会のテーマを変更する場合があります。
*通常の研究会とはちがって、1回きりで議論が終わるのではなく、
継続的に、議論を深めていくという形式でやっています。
*次回の研究会は、6月14日(日)の予定です。
*7月11日(土)~12日(日)は、都内で合宿を行う予定です。

関連サイト
http://nature-and-society.blogspot.com/

(写真:プナンの森、あまりにも圧倒的な。)



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第五回「自然と社会」研究会報告その2
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/bd167788d62726392ba5df9f35f510c4

◎デスコーラとパルソンによる「序」『自然と社会』PP.1-5.の自由訳

人類学理論および社会的な言説における自然と環境というこの本のテーマは、けっして斬新なものではない。それは、早くから、人類学の中心的な関心事の一つであった。にもかかわらず、近年、広義における生態学は、ポストモダンおよび文化主義的なパラダイムが支配的なものとなったので、人類学の議論の周辺へと追いやられてしまった。このことは、多くの人類学の学科のカリキュラムにおいて、生態学のコースの供給減少(および、おそらくは、需要の低下)に現われている。しかし、人類学が、環境問題研究へと戻るにつれて、状況はふたたび変化しつつある。同じような状況は、哲学、歴史学、および社会学を含む、他の学問においても起こりつつある。

執筆者たちは、さまざまな理論的および民族誌的な遠近法から、自然―社会に焦点をあてて、近年の展開に迫っている。問いは、以下のようなものである;自然についての異なった文化モデルは、同じ認識的装置によって条件づけられるのか?わたしたちは、歴史的に相対的な自然―文化の二元論的なカテゴリーを、野生と社会化されたものという、より一般的な区別に置き換えることができるのか?非西洋の文化は、非ヒトに対する道徳的な態度の普遍性とその問題を再考するためのモデルを提供するのか?現代科学におけるある部門における自然―文化の対立のぼやけは、伝統的な西洋の宇宙論的および存在論的なカテゴリーの再定義を意味するのか?最後に、自然―文化の二元論についての理論的な拒絶は、たんに、中世初期のヨーロッパ世界の「生態学的」観念への回帰を意味するのか、あるいは、新しい種類の生態人類学へのステージをセットすることになるのか?序章は、この本のテーマの輪郭を示し、執筆者の理論的な枠組みと議論を振り返り、さらには、意見の一致のある領域と、不一致がある領域を定義する。

自然―文化の二元論

◆これまで、40年以上にわたって、自然と文化の二元論は、人類学の中心的な教義であった。それは、人類学のアイデンティティー・マーカーであり、さらには、新たなものを見出すための調査計画に対して分析ツールを提供した。

唯物論者は、自然を、社会行動の決定要因と捉えた。文化生態学、社会生物学、マルクス主義人類学(という唯物論)にとって、人間の行動、社会的制度、文化的特徴などは、環境あるいは遺伝による制限に対する適応反応、あるいは、それらの表現にすぎないと捉えられた。それゆえに、内的あるいは外的自然は、社会生活の背後の巨大な駆動力となったのである。その結果として、非西洋文化が、どのように、環境や環境に対する文化の関係を概念化したのかについては関心が払われなかった。

構造主義あるいは象徴人類学は、自然―社会の対立を、神話、儀礼、分類システム、社会生活など・・・を理解するための分析装置として用いた。しかしながら、分類のためのインデックスとしての自然と文化の観念の実際の中味は、西洋文化のものなのである。

①(唯物論)は、「文化を構成する自然」、②(構造主義/象徴人類学)は、「自然に意味を与える文化」として理解することができよう。

自然と文化をめぐって、繰り返し唱えられる批判とは、自然―文化の二項が、真なる生態学的理解を妨げることになるというものである。

インゴルド(2章)は、「経済的人間」(アダム・スミス)は彼自身の極限化の設計を与えられる一方で、「最適な調達者」(人類生態学)は、自然淘汰によって彼に与えられた戦略のたんなる遂行者であると解釈されることを示した。進化生態学は、自然的存在と環境との関わりに先立って、一連の能力に対して与えられる反―生態的なフィクションを生み出すことになるのだ。

同じような議論をしながら、ホルンボルグ(3章)は、人類生態学における<二元論>と<一元論>は、経済人類学の<形式主義>と<実体主義>に対応するという。二元論者が、自然の対象化、選択、脱文脈化を強調する一方で、一元論者は、自然に埋め込まれていること、自然の自律性を強調する。二元論は、人間―環境の関係性に対する、純粋な生態学的なアプローチを退けることになるのではないだろうか?

パルソン(4章)は、いったん自然と社会の存在論的な分割がなされると、それから逃れる道がないことを示唆している。

デスコーラ(5章)が指摘するように、その存在論的な分割は、唯物論者文化主義者(構造主義/象徴人類学者)の理論的前提に混乱を生じさせる。文化生態学(=唯物論)は、それぞれの社会を特定の環境に適応するようなホメオスタティックな装置として捉える一方で、文化主義は、それぞれの社会を自然の秩序に意味を割り当てるシステムであると捉える。そうした定義は、西洋の自然の観念に由来することは特記されてよい。一方で、(唯物論的な)地理学的な決定論は、極端な生態学的相対主義を生み、他方で、(文化主義的な)文化相対主義は、自然についての普遍主義的な観念の想定を受け付けない。

二元論的なパラダイムは、生態学的知識と技術的なノウハウについての現地における形式の適切な理解を退ける。

ヴィディン(9章)は、民族生態学を、それが(西洋から出発しているため)別の民族認識論を用意できないし、さらには、ある地域の土着の知識を実体化しようとしているとして、批判する。人びとが、日常的な環境との契約のなかで、信念と実践(呪術や儀礼)によって行っていることを捉え損なってしまうのだ。

同じようにエレン(6章)は、科学的な分類法によって分類される自然についての階層的な概念が、彼自身の民族誌的なデータからは引き出されないことを示した。抽象的な事柄の目録としての自然は、土着の生きた文化のなかよりも、博物館においてより明瞭なかたちで現われる。ウィディンとデスコーラが指摘するように、ある地球上の地域の自然の普遍性は、西洋の自然観念を除いては、認識されることはない。

◆人類学において、自然と文化の区別が行われてきたことは、驚くべきことである。その区別は、さまざまな出所からあふれ出る証拠によって挑戦を受けてきた。三つの項目があるが、その一つ目は、生物学的な進化研究である。

ダーウィンとメンデルの理論において、有機体は、①遺伝子によって命じられる物体として、②機械的な適応プロセスをつうじて、淘汰圧として、受動的で、それらが生きている環境から切り離されて提示されてきた。何が問題かといえば、生物学を打ち立てるために、適応についての機械論的な観念が必要だったのだけれども、それ以外の道を閉ざしてしまうことになったということである。そうした進化的モデルは、ますます生物学的な事実に反する。別のモデルは、有機体は、自身の発達を構成する力を与えられていることを強調する。なかには、有機体と環境の関係は一方的でなく、互恵的であると唱えた研究者もいる。有機体は、環境と切り結ぶなかで、ニッチを構築する。言い換えれば、進化する有機体は、それ自身に働きかける選択圧のひとつでもある。

(写真は、熱帯雨林にそびえるフタバガキ科の大木)



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第五回「自然と社会」研究会報告(個人的な覚書程度)
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/bd167788d62726392ba5df9f35f510c4

わたしたちは、言語学の立場から、失語症を解明しようとしたヤコブソンの先駆的な試み(ローマン・ヤコブソン「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」)に寄り添いながら、最初に、言語の持つ二つの面について検討し、つづいて、言語とパラレルに構造化されている「無意識」の意味について議論した。その結果として、ヤコブソンの構造言語学が、いったい、どのように、レヴィ=ストロースの構造主義へと流れ込んでいったのか、さらには、そうした構造主義のアイデアを介して、わたしたちは、ヒトの心の働きを、どのように捉えればいいのかについて、ある見方を抉出することになった。

最初に確認したのは、言語の二つの側面についてである。シンタグマは、語をどのように並べるかという統辞であり、パラディグマは、語を置き換える範列である。別の言い方をすれば、シンタグマは、言葉の結合であり、パラディグマは、言葉の選択に関わっている。さらには、言語のシンタグマの軸には、部分が全体を現すメトニミー(換喩)が、パラディグマ軸には、類似に基づくメタファー(隠喩)が対応している。

ヤコブソンによれば、失語症には二つのタイプがあり、そのそれぞれは、結合」能力(シンタグマ軸)の欠如「選択」能力(パラディグマ軸)の欠如に照応する。一方で、結合能力の異常とは、シンタグマ的な、すなわち、メトニミー的な、「隣接性」の異常であり、逆に、「相似性」が優越するような状況を指す。そういった「隣接性」の異常による失語症は、語の統辞を失う。例えば、「えっと、学校・・・休んださっき・・・」というような、語の統辞に欠ける発話を行うことになる。

他方で、選択能力の異常とは、パラディグマ的な、すなわち、メタファー的な、相似性」の異常であり、逆に、「隣接性」が優越するような状況を指す。そういった「相似性」の異常による失語症は、語そのものを失う。目の前にあるモノについて言うことができない。しかし、それを、文脈のなかで適切に用いることはできる。発話としては、例えば、「えっと、あれは、どうなりましたかね、それもそうだけど・・・」というようなものであろう。

しかし、こういったまとめ方は、事柄を、あまりにも単純化しすぎるものになっているのかもしれない。事実は、言語の複雑さと連動して、もっともっと複雑である。音素のレベルで、結合と選択に異常をきたす場合もある(例:pig fig)。いやむしろ、実際には、そうした言語学研究の過程で、上のようなヤコブソンの研究へとたどり着いたのではないだろうか。

興味深いのは、弁別特性についてである。ある言語には、その言語の範囲内で見出される「弁別特性」がある。あらゆる音素は、母音性や子音性、高音調性、低音調性などの指標によって、+-の価値によって表すことができる(ある音素が、母音と子音の両方の弁別特性をもつ言語があるともいう)。ヤコブソンの「弁別特性」をめぐる業績は、わたしたちの話している言葉が、デジタル信号のように構造化されていることを顕著に示している。つまり、驚くべきことに、そして、レヴィ=ストロースが見出したように、わたしたちの内的自然は、「目的論的理性」とでもいうべきものに支配されているのである。

話がそれたが、本筋へと戻れば、わたしたちは、(失語症の苦しさを知らないがためにこういった表現にならざるを得ないが)ある意味で、誰もが、潜在的に失語症なのである。時に応じて、ヒトは、言葉を失う。

ところで、ヒトは、どういったときに、言葉を失うのだろうか?フロイトが、そのことを考えてみるための手がかりとなる。夢の構造を突き止めるなかで、フロイトは、象徴や時間系列が、語を転置する、シンタグマ的な「置き換え」と、意味を圧縮するような、パラディグマ的な「圧縮」とによって構成されることを指摘した(のだと、ヤコブソンを微調整して、整理しておくことにしよう)。

そういった置き換えと圧縮が、夢を見ているような「無意識」の状況において起こるのだとすれば、わたしたちは、中沢新一の以下の言葉に同意することになる。流動的知性である無意識のしめす特徴的な運動が、意識の働きを生み出す言語の構造と、とてもよく似たところを持っている」(対称性人類学)。わたしたちの喋っている言語は、「無意識」のレベルで、それとほぼ構造的にパラレルなものを、潜在的に持っていることになる。

ひるがえって述べれば、そうした「無意識」とは、言葉によって抑圧されたものではなくて、レヴィ=ストロース的な意味での、それ自体が、独自の理性であるところの「目的論的理性」であるということになる。だとすれば、そうした「無意識」を、わたしたちは、それこそがヒトの知性であると信じて疑わない言語の秩序によって抑圧されてしまった状態から、引き上げてやらなければならない。二次的過程として「すでに構成された秩序」の側から、ストーリーがむちゃくちゃな夢や言い間違いとして、無意識の側から突き上げてくる「みずからを構成しつつある秩序」として、抑圧したまま理解するのではない、別の手続きを見出さなければならない。そうした「無意識」(とりあえず、ここでは、この言葉を使っておく)を持つことによって、ヒトの心は、現実世界から自由であることが可能となったという事実に対して、より高い価値を置くべきなのである。

レヴィ=ストロースの構造論を経由して、「無意識」をめぐる新しい思考のステージへとたどり着いた。そのとき、わたしたちは、「レヴィ=ストロースの方法はたんに分析の技術にとどまるものではなく、人間文化の深層にある一連の変形規則群を明るみにだすことによって、西欧中心の近代思考体系への根底的反省をうながす力を秘めていることになる・・・自らブリコラージュを演ずる精神のもち主でなければ、構造主義的分析のこころみは野生の思考とは異質な図式をいたずらに生みおとすおそれがある」(関一敏)という洞察に、深くうなずくことになる。

(ヘビを料理する:プナンの狩猟キャンプにて)



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3月にフィールドに行った帰りに、プナン人の親子が、ビントゥルの町まで見送りについてきた。最近、そうした見送りが、通例となっている。もちろん、交通費や土産代を、わたしが出すからである。夜市の屋台では、ごはんに(野菜ではなく)豚肉だけを山盛り取るし、トイレのなかでは水洗の仕方が分からず汚物をそのまま放っておくし、道を川の上下で位置取りするし、都市に出てきたプナンは、いつものように、プナン式のやり方をつらぬいていた。テレビの音楽番組を見ていたとき、息子が叫んだ「お~、エステードゥアブラス(ST12)だ!」。それはそんなにすごいのかと問うと。、とにかくすごい(jian lan)のだと彼は言った。翌日、ビントゥルの町を歩き回って、ST12のCDを探した。どこも売り切れだった。別の町(クチン)でも尋ねてみたが、そのインドネシアのロック・グループのCDは人気らしく、手に入れることができなかった。ST12の入ったオムニバスのヒット曲集のCD(海賊版)を3つほど買って、帰国した。インドネシアのロックは、つねに、狩猟民プナンを経由して、わたしに入ってくる。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/5cebbf2172bc0a3e039bb96698e65f66

帰国後、ST12の心地よさを実感するのにそんなに時間はかからなかった。わたしは魅了された。ラジャにも似ている。日本で手に入るのか探して、CDを注文した。ST12P.U.S.P.A.(写真)。以下のサイトから聞くことができる(1,6,11,12が特におススメ)。
http://www.binadesa.com/store/catalog/product_info.php?products_id=1049
そのCDが、さきほど帰宅したら、
届いていた。単純にうれしい。なんじゃ、このブログの記事は!ミーハーでごめん。

以下、YouTube の"Rasa yang tertinggal"(カラオケ・ヴァージョン).
http://www.youtube.com/watch?v=dRuuU_PFHIg
"P.U.S.U.P.A."(同上)
http://www.youtube.com/watch?v=zxLJG2dOY14&feature=related



今日は、朝10時から夜8時過ぎまで、会議と履修相談やもろもろの仕事に、休む暇もなく終われた。身体的・精神的にヘトヘトである。来週から授業が始まる前に、すでに倒れそうである!



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jah,dua,telu,pat,lema,num,tujuk,ayah,pian, pelu  というプナン語の1から10の数字は、マレーシア語・インドネシア語の satu,dua,tiga,empat,lima,enam,tujuh,delapan,sembilan,sepuluh によく似ている。しかし、プナン語が、マレー語やインドネシア語という国語(大言語)から影響を受けたのかどうかは、はっきりしない。それらの言語間の相互の関係については、よく分からない。

それゆえに、というか、その意味で、プナン人が今日用いている損(rugi)、得(untung)という語が、マレー語・インドネシア語とそっくり、というよりもマレー語・インドネシア語そのものであったとしても、それが、マレー語・インドンシア語からの借用であるのかどうかは、はっきりとしない。それでなくても、プナン語には、マレー語・インドンシア語と同一の語がたくさんある(nasib=, fikir=考える, pisit=懐中電灯,injin=エンジン...)。「懐中電灯」や「エンジン」などは、マレー語・インドネシア語からの借用語であるといえるだろうが、「運」や「考える」という語が、借用語なのかどうなのかは、はっきりしない。

経験的に、直観的に述べるならば、プナン語の損、得の観念と語は、外来語、借用語であると思う。おそらく、マレー語・インドネシア語からの借用語である。というのは、それらは、狩猟民プナン人が発する類のことばではないように思えるからである。それらは、比較的新しく、プナン社会に導入された観念および語である。

損得、得失という考え方が、基本的には、狩猟民にはなじまないように思われる。森のなかでは、何かを得ればそれは得であり、何かを失えば損であるというような考えを、一般に、プナンのような狩猟民ははしない。そういう考え方は、彼らにはなじまない。逆にいえば、そういう捉え方をしなくてもいいほど、森には糧が、あるいは、財があり、人びとは、それらをシェアーすることで、生き延びてきた。

いいかえれば、損得、得失という考え方のベースには、シェアーするという考え方はないように思える。損得、得失とは、シェアーすることを原理とする人びとの間にはなくて、くっきりとした境界を与えられた自己と他者の間に発生するものであり、なんらかの蓄えをしなければならない状況下において、時間軸の上に発生するものであり、あるいは、貨幣で計ることが日常化するような場合に、+-という価値基準を帯びて生まれてくるようなものなのであるとはいえないだろうか。

プナンは、銃弾を用いて、猟に失敗した場合、損したという。銃弾を、貨幣を払って、買ったからである。しかし、吹矢を用いる場合、失敗したとしても、矢毒を森のなかから探せばいいだけであって、損得勘定をしない。したことを聞いたことがない。吹矢猟は、損得勘定につらぬかれてはいない。プナンに損得の観念と語を持たなかったというのは、そのあたりの実践からの類推である。糧と財が無限に現われ出る森、自然とは、けっして、損得学で計られるようなものではない。

(写真は、プナン人のある日の食事の準備)



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プナンには、左右のシンボリズムがない。左を不浄とし、右を浄とする、インドからインドネシアにかけて広がるシンボリズムが。たしかに、昔、調査研究をしたカリス社会(焼畑農耕民)では、左右のシンボリズムがくっきりとあったように記憶している。モノを手渡すのは必ず右手で、というのが慣わしであった。儀礼時に、右手で料理したものを放り投げ、左手で生のものを投げていた・・・それに対して、プナン社会には、そうしたシンボリズムはいっさい見当たらない。モノを左手で渡したとしてもとがめられることも、気にすることもない。左と右に何かが対応して語られるようなことはない。「なぜないのか」ということについて答えることは、ことのほか難しい。まちがっているかもしれないが、左右のシンボリズムがプナン社会にないのは、ジャングルの民の身体のプレースメントとでもいうような事態に対応しているように思える。平衡感覚を保つことができるような生活空間を築いていないがために、彼らは、必ずしも、身体を平衡に保つようなことはできないでいる。ありゃ、こりゃ、トートロジーか!言いたいことは、左右というようなことを気にしていたら、モノを手渡したり、人と人との相互作用を行うことができないような空間に住んでいるというようなことである。別の言い方をすれば、プナンのシンボリズムは、上と下、上流と下流というような、凹凸のある、三次元的な空間のなかに見られる。他方、定住を始めた農耕民は、狩猟民が取り巻かれている、むきだしのかたちで、無限多様性に支配される自然の域から身を引き離して、人がつくりだす、平衡感覚が取れるような、構造的な空間に住まうようになる。農耕民は、そうした身体のバランスを取ることができるような整然とした空間のなかで、左と右というようなシンボリズムを発達させるのではないか。それは、ジャングルの三次元性とでもいうべきものに対して、二次元的である。シンボリズムと身体/空間の構造化。以上、フィールドノートから。ちょっと無理があるのか、あるいは、何かが足りないかもしれないが、シンボリズムという観念系が周囲の環境と緊密に関わるというような単純なことが言いたいのではないが、とりあえず、覚書として。

(写真は、イノシシが捕れて、華やぐ狩猟キャンプ)



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プナンの神話に、かつては、小屋(家)が、ひとりで動いていたという、ひときわ印象深いものがある。小屋(家)は、あるときから動かなくなったのである。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/7c22decfe27cacdd501ab2c136c68d28

その神話を聞いてから、ずっと考えている。その話は、いったい何を言わんとしているのだろうか。それは、森のノマド(遊動民)の「移動(tai)」のあり方を、ある方向へと圧縮した究極の姿を述べているのかもしれないとも思える。狩猟民の「移動」とは、いったいぜんたい、どういった事態なのか?

狩猟キャンプの朝は、夜明けとともに始まる。人びとは、蚊帳から抜け出して、起き上がってぼんやりとして座り、朝のひと時を過ごす。そのうちに、蚊帳を梁にくくりつけるとともに、個人所有の範囲で、衣服や小物の類を袋に詰める。荷物を、蚊帳のそばに整頓して並べる。
この行動は、いったいどういったものなのか?わたしには、彼らが、いつでもすぐに出発するための準備であるように思える。

それと前後して、キャンプのメンバーは、今日の行動予定について大まかに話し合う。(生きるために)食べ物を調達するために。その狩猟キャンプの周囲に獲物がなくなってきていれば、別の場所に「移動」することが話題となる。次に、どこに「移動」するのかの情報収集も、その日に取り組むべき仕事となる。あるいは、そうした情報がすでにあるのならば、片づけをして、「移動」することになる。狩猟キャンプのメンバーの片づけは、じつに早い。テキパキと働いて、小屋を解体して、荷物をまとめる。プナンは、ほとんど所有物をもたない。もともと、家財道具はほとんどない。焼畑稲作民も少ないと感じられるが、農耕民はある土地に定着することをベースとしており、その意味で、プナンは、「移動」をベースとしているため、家財道具はもっと少ない。

プナンの今日にまで至る「移動」の志向性は、第一に、周囲で、獲物や食べ物が手に入らなくなるという生存上の問題に起因していると言える。食糧だけではなく、周囲の木を切って家を建て、薪をつくるので、その場所は、背の高い熱帯雨林に覆われて、暑熱とは無関係の、涼しい理想的な住環境では、しだいに、なくなっていく。
第二に、それは、衛生上の問題ともいうべきものに起因している。消費していらなくなったものを、すべて周囲の環境のなかに捨てるというような自然認識の上に、プナンは、生活空間としての小屋の周りに、魚の骨、動物の骨、残飯、唾、痰など、なんでもポンポンと捨てる。それらは、エントロピックに蓄積して、ハエや虫を引き寄せる。それらは、綺麗好きのプナンにとっては、耐えられないものとなり、「移動」の一つの指標となる。プナンにとっては、堆積し、溜まっていくものは「悪」として感じられるのである。それが、彼らにとっての「移動」の潮時となる。

いずれにせよ、熱帯雨林に暮らす狩猟民にとって、住環境の劣化は、別の場所へ「移動」するための重要な要因となる。この、つねに暮らしをリセットし、刷新・一新するというプナンのエトスほど、軽やかで、いさぎよいものはないのではないかと、つねづね、わたしは想っている。その意味で、プナンは、いつも、新しいものには目がない。しかし、新しく手に入れられたモノは、徹底的に消費しつくされる。そして、捨てられる。熱帯雨林では、すべてのモノが、すぐに朽ちてゆく。そういったすべての事柄が、わたしには、「移動」する暮らしという、プナン人のエトスに共振しているように思える。

その観点から眺めれば、堆積したり、溜めたりするような行動は、堕落していることになる。プナンは、不必要に溜め込んだり、保持するような行動を好まない。
その意味で、新石器革命とは、新石器「堕落」だったのかもしれない。唐突ではあるが、新石器時代の5千年から1万年を経て、地球上のある部分で、「色即是空空即是色」などとして、わたしたちが持つようになった教えは、逆の観点からみれば、そうことをいわなければならないようなかたちで、わたしたちが、堕落してしまったからなのかもしれない。完全に堕落してしまう前に、救い出されるために。

日々の「移動」のうちに、あるいは、「移動」を原理とすることのなかに、あらゆる物事の空虚さ、転変が経験される。先の神話は、そのことを記憶しておくために、わざと、小屋が止まってしまった瞬間の出来事を抜き出して、描いたものなのではないだろうか。わたしたちが、狩猟民プナンから学ばなければならないことの一つは、「移動」のエトスをつうじた、彼らのむき出しの「般若心経」のあり方なのかもしれない。

(写真は、狩猟キャンプの徹営)



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ちょうど2年前の4月に、Nさんと飲みに行った。1年間のフィールドワークから帰国してすぐのことだった。人類学は、このところ外から見ていると元気がない。そのあたりを意識しながら、本をつくろうということになった。テーマは、性。わたしには手に余るといった。Nさんは、一人で作れないならだれかパワフルな人を連れてきたらいいと言った。わたしは、即座に、Sさんに話をした。本づくりの方向を打ち出し、Sさんの大活躍で、若手&中堅で、人材を集めた。広義の人類学としての霊長類学、動物行動学からも。そのうちに、性を含めて、人類学のクラシックなテーマを、人間探究の線に沿って、シリーズ化しようという話になった。人類学の学問の歴史性という内部の問題に閉じこもったきり、マスターベーションで快感を得ているだけのようなポストモダン人類学、同時代的には示唆的であるかもしれないが、現代の価値観に従属していることを起点にする、むなしいだけの応用人類学という、今日の人類学の流れを断ち切り、それらとははっきりと一線を画するような、人間探究をベースにおく人類学を発信しようと。来るべき人類学の展望を示すようなシリーズをつくろうと。性はやがて、セックスということばに置き換わり、グロテスクなまでにセックスの民族誌記述を追い求めるなかで、一冊の本ができ上がった。来るべき人類学の第一巻として、『セックスの人類学』が、4月15日に刊行される。

目次
序 「セックスの人類学」手ほどき 奥野克巳
第I部 セックスの霊長類学/人類学
1 ニホンザルのセックス~同性愛行動から見えてくる「能動的受容性」 竹ノ下祐二
2 ケニア・ルオ社会の「儀礼的」セックスとは 椎野若菜
第II部 セックスと社会
3 セックスをめぐる葛藤~オランウータンを中心に 久世濃子
4 セックスをめぐる男性の「不安」~パプアニューギニア・テワーダ社会から
5 男が戦いに行くように女は愛人をもつ~
  南部エチオピアの父系ボラナの結婚と紺外のセックス 田川玄(←タイトル長すぎ!)
第III部 生殖から遠いセックス
6 ヒジュラとセックス~去勢した者たちの情交のありかた 國弘暁子
7 「遊び」としてのSMプレイ~「おんなのこ」の視点から 熊田陽子
第Ⅳ部 セックスと身体
8 性器の正規利用とは?~鯨類のセックスのユニークさを概観しつつ 篠原正典
9 セックスと性具~プナンのペニス・ピン 奥野克巳
10 越境としての「性転換」~「性同一性障害者」による身体変工 市野澤潤平

奥野克巳・椎野若菜・竹ノ下祐二<共編>『セックスの人類学』春風社、2009年。

(写真;矢萩多聞さんが、谷中安規の版画を、天才的な直観で表紙にしてくれた;手にとってみれば、分かると思う、この方の装丁にかけるパッションが。矢萩さんは、いうならば、本は読むものではなく、触れて味わうものだという、未開人的な思考を、本の装丁に導入した。)



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「自然と社会」研究会

第5回研究会

レヴィ=ストロースの構造主義の着想の源となった
ヤコブソンの『一般言語学』の論文を読むとともに、
デスコーラらによる「自然と社会」の序を読み進めて、
検討を行います。
 
◆日時

2009年4月19日(日)12:00~17:00

◆場所

桜美林大学四谷キャンパスY305教室
 JR四谷駅徒歩5分
電話:03-5367-1321
http://www.obirin.ac.jp/001/a028.html

・前半
ローマン・ヤコブソン
「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」
『一般言語学』みすず書房

・後半
Philippe Descola and Gisli Palsson,
“Introduction”, Nature and Society

*参加ご希望の方は、下記のメールアドレスまでご一報ください。
 デスコーラらの論文のpdfファイルを添付送信いたします。
 katsumiokuno@hotmail.com
*発表者の都合で、研究会のテーマを変更する場合があります。
*次回以降の研究会は、5月17日(日)、6月14日(日)の予定です。

関連サイト
http://nature-and-society.blogspot.com/

(写真は、ボルネオのジャングルで見かけた丸虫:プナンは、それをわたしに指差して教えてくれた)



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第四回「自然と社会」研究会報告(個人的な覚書程度)
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/8b61a365b3a36e038afa9af4f3fd0e73

混乱したジャングル、経験のアマゾン河。それは人を不安にする。人間は、ジャングルを伐採し、言語的な秩序によって、ジャングルのなかに明晰の小島をつくる。明晰の小島に住むようになった人間は、ジャングルが以前よりも濃密になり、明晰な思考が届かないものとして、感じられるようになる。ダグラスやリーチといった構造主義者による象徴的思考とは、そうした知性の格好の例である。繁茂するジャングルは、清浄と不浄、秩序と混乱の弁証法的なプロセスによって説明されるが、そのことによって、けがれや不安は、つねに、濃密なジャングルのなかに封じ込められてしまう。そうした知性のあり方は、スピノザによれば、改善されなければならない。人間の知性が、自然化して、能産的な自然の純粋な力の場に触れるならば、カオスの闇、混沌、けがれや不安は消失するだろう。

ダグラスらの構造主義は、人間の知性を、言語によって、自然史から剥離しようとしてきた。言語とは、自然のプロセスからの飛躍によって生み出された、別の言い方をすれば、非連続性に基づいて組み立てられた別の秩序に属するものなのである。ところで、人間の知性を自然史に挿入し、和解させようと企てたのは、レヴィ=ストロースであった。しかし、結論から言えば、彼のもくろみは、スピノザの行き方には、たどり着いていない。遠回りして、神話論理の最終巻『裸の人』に取り上げられたエピソードによりながら、レヴィ=ストロースの論点を追ってみよう。

16ミリカメラを手渡されたナバホの人たちは、映像を記録する過程で、機織の前に座った婦人がナバホ織を織り上げるというプロセスに興味関心を示さず、糸を運搬していく光景ばかりを丹念に記録したりした。それは、パラディグマ軸の方向に映像をつむぎ出すのではなく、シンタグム軸の方向に、分解実験を行おうとしたということになる。彼らは、(わたしたちの)ハリウッド映画のように、言語秩序によって補強しながら、「上向的」プロセスをつうじて、物語を織り上げていくのではなくて、それとは反対向きに、「下向的」プロセスをつうじて、構造化のプロセスを分解しようとしたのである。レヴィ=ストロースは、前者を、自然史のプロセスから切り離された言語、構造を組み合わせて、つまり、非連続化することによって、「上向的」に神話を生み出そうとする情熱に、後者を、わずらわしいほどの細目に覆われ、反復をくりかえし、わざと極度に手の込んだ遊びに興じているかのように
、つまり、生の流れの連続性を取り戻すがように、「下向的」に儀礼にいそしむ態度に対応させている。ナバホたちは、神話に向かう傾向が取りこぼしてしまう連続的な生の流れを回復しようとする欲望を実現する道具として、映像テクノロジーを捉えたのだと、レヴィ=ストロースはいう。

シンタグムの分解は、メトニミーに対応しており、微分化するという点で、儀礼に重なる(他方、パラディグマの拡大は、メタファーに、積分化に、神話に、重なる)。レヴィ=ストロースによれば、「儀礼を行う人は、動物に混じり、彼らの同類になり、性的な放縦や親族関係の混乱がしめす『自然状態』を、ふたたび生きることになる」という。しかし、儀礼とは、生の流れの連続性を回復しようとする望みにかけるが、けっして、思考の外部に出ることはないという意味で、思考のデカダンスであり、儀礼によるかぎり、人間は、自然史のなかに統合される望みを初めから絶たれていると、レヴィ=ストロースはいう。しかしながら、奇妙なことに、彼にとって、非連続の原理(神話、「上向的」プロセス、パラディグマ)こそが、人間を自然史のなかに統合しようとする構造主義の希望であると述べる。

レヴィ=ストロースのいう「自然」とは、結局のところ、美しいタンポポの花のように、思考のプロセスに内在するものと同じ非連続性の原理にしたがって、畸形化、怪物化することのない、「目的論的知性」を内蔵した自然のことだということになる。しかし、非連続性を実現している形態など、自然のなかに存在するのだろうか。そうしたレヴィ=ストロースの「上向的」な、神話へと向かう情熱を、自然と重ね合わせることなどできるのだろうか。徹底的に、「下向的」になり、生の流れの連続性を取り戻すような欲望へと降りてゆかなければならないのではないか。

中沢による、レヴィ=ストロースの乗り越えはこうだ。「レヴィ=ストロースは神話的思考のなかに、『目的論的理性』のもっとも純粋な結晶状態を見て、その結晶をとおして大脳の『自然』を外の世界の『自然』のうちに包み込み、統合しようとした。だが、このような状態のうちに『人間を自然のうちに統合』できると考えるのは、幻想にすぎない。思考のほうが『目的論的理性』の限界を超えて、『無限化』をめざしていかなければならないのだ。そのとき思考の生成をつき動かしている純粋な力は、文字どおり『自然な成長状態』を実現する。知性を『自然化』し『森林化』して『無限化』することができたときにはじめて、『改善』された知性は晴れ晴れとした自由のなかで、自然と精神をともに貫いて、そのそれぞれを無限の多様体として作りなしていく純粋な力の場に触れていくことができるのだ」。

手短な感想として、レヴィ=ストロースを転回点として語られる上述の問題は、広く、反哲学(西洋哲学から抜け出ようとする企て)に重なるのではないか。野生の思考とは、自然哲学の文脈において、ギリシャ以前の自然哲学に連なるものとして理解することができる。それが、第一点。中沢の問題意識は、ドゥルーズに端を発しているのではないか。スピノザ、ライプニッツ、ルクレティウスなどなどの言及と、着想の背景にドゥルーズ的なものがあるように思える。それが、第二点。以上、簡単な個人的な覚書として。

(写真は、ボルネオのジャングル;目的論的理性か無限的多様性か?)



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