たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

東北への旅

2012年09月20日 17時19分10秒 | 大学

夜行バスの移動を含めて延べ6日間の日程で、学生たちと、仙台から三陸海岸を経て、北は田老町、内陸は遠野、盛岡まで足を延ばした。

明治二十九年、昭和八年の三陸沖地震の津波などの後に、<海嘯記念碑>や<津波碑>が建てられている。それらは、津波災害の記録と、その後世への伝承を目的としたものではあったが、それらの碑の建立の起源の部分には、津波の災害で亡くなった人たちを弔う気持ちがあったのではないか。石碑は、墓碑でもあったのだ。そうした仮説は、現在、残すか残さないかで揺れている数々の<震災遺構>に、被災して逝った人たちへの弔いのための祭壇が設けられていて、それらが慰霊の場となっていることが多いことに一致符合する。

鉄骨を用いて建てられたがゆえにつぶれてしまうのではなく、倒れて残骸化する建造物の遺構化は、その意味で、災害の歴史にとって、きわめて新しい現象であるような気がする。かつては、残らなかったがゆえに、その場所で死んだ人たちを弔い、災害の記憶を継承するためには、新たにいしぶみを築くほかなかったのではないだろうか。

被災地震災遺構フィールドワーク報告

遠野では、柳田國男の『遠野物語』を片手に、千葉家の曲り家、続き石、カッパ淵、デンデラ野、ダンノハナ、卯子酉様、山崎金勢様、五百羅漢、程洞金勢様などをめぐった(写真は、デンデラ野の近くの、美しすぎる田園風景)。道のいたるところにみられる石碑。早池峰大神、金毘羅大権現、山神などの碑。程洞神社の金勢様を見に行ったときには、その森に、神々が棲むような気がした。異界は、つねに、そうした場所をつうじて、私たちに開かれている。遠野には、『遠野物語』のせいか、いたるところに、異界への入り口があるように感じられる。人びとは、つねに、外部の霊力に接続してきた。

 



 


『白鯨』

2012年09月06日 10時34分56秒 | 文学作品

飛行機の座席はシートベルトで体を椅子に固定されて最上の読書空間となる。日本とマレーシアの間の7~8時間というのは1冊の本を読むのにちょうどいい長さだ。旅に出るときは厳選して数冊を持って行くのだが、今夏はハーマン・メルヴィルの『白鯨』上下巻を含めて5冊の小説を持って行った。旅行中そんな読めるものではなくいつものことながら見積もりが甘いのではあるが、結局、『白鯨』2冊しか読むことができず、他の3冊はザックのなかに納まって日本とマレーシアの間を往復しただけだったが、とりあえず、そのことは措くとして、『白鯨』について。19世紀の半ばに発表された作品である。アメリカの東海岸の捕鯨基地ナンタケットの捕鯨船ピークォッドに乗り込んだイシュメールが語り手となって、船長エイハブが「モービ・ディック(Moby-Dick)」と名づけられた、かつて船長の片脚を捥ぎ取った獰猛な「白鯨」に対して復讐を遂げるために、広い海洋世界の旅を語る。たんにそれだけの物語なのであるが、凄いのは、というか、小説の枠を大きくはみ出ているのは、鯨の種類や鯨の生態、捕鯨や解体の技術などの鯨学、捕鯨学の話が、作品の真ん中の部分を長々と占める点である。『白鯨』には、モービ・ディックへの執念深い敵討の物語と鯨の話が埋め込まれている。敵討の話だけでは薄っぺらいので、それを底の部分から盛り上げるために、ひたすら鯨学・捕鯨学の知識を大全的に書き込んだのかもしれない。そのことが、この作品を高めている。本を読んで気づいたのは、この時代の欧米の捕鯨は、鯨油を取るために行われていたということである。たしかに、鯨の目は横に着いているので、視角は狭いだろう。鯨の潮吹きについても詳しい記述があり、それは毒を含んでいるらしい。他方で、龍涎香は重宝されてきた。面白いのは、この時代、捕鯨船の乗組員が「多文化」的だということである。銛打ちのクィークェグは南太平洋の酋長の息子だし、タシュテゴはアメリカ先住民、ダグーはアフリカ出身。他方で、船長や一等航海士は白人である。白人が率いる捕鯨船(その名ピークォッドは、アメリカ先住民的)が、世界の民族を従えて航海に出る。実質的に、鯨に銛を打ち込むのは非・白人である。彼らが、ふつうは黒いのに、白くて粗暴な白鯨を打ち獲りに行く。植民地主義を含む、近代以降の世界システムの話であると読むことができるかもしれない。帰りにクアラ・ルンプールで、原書(Moby-Dick)を買ったら、8.5リンギット(230円)だった。誰にでも読めるように安価なのだろう。狩猟民族誌として、『白鯨』ならぬ『白猪』が書かれなければならない。現代のメルヴィルよ、現れよ。


非・個的な知

2012年09月04日 16時47分13秒 | フィールドワーク

日本を発つ一月ほど前、酔っ払ってケータイを借りたプナンの男から、おまえは今度いつ来るんだと尋ねた以外ちっとも要領を得ない内容の電話がかかって来た。訪ねて行くと指定した8月のとある日に、ビントゥルから車をチャーターして訪ねた。彼らは、どうやら私が着くのを待ってくれていたようだ。魚が三尾私のためにフライにされていた。米も炊かれていた。コーヒーには、砂糖がふんだんに入れられた。ビールは町で買って持って行った。訪ねたのは、1年ぶりだった。昼下がり、部屋は、老若男女で埋まり、熱気に包まれた。汗がだらだらと流れた。口々に、引き続いて起こった最近の4人の死が伝えられた。ハンティングによく一緒に出かけた、猟のカミがついているとされた名ハンターが死んでいた。彼の名前は、最初に一度きりしか口にされなかった。柩にした木の名前で、彼のことが物静かに語られた。肺病やみだったようだ。ハンティングによく行った別の男も亡くなっていた。雷雨になると、それを鎮めるべく大声でカミに向かってよく唱えごとをした。食が細って、あっと言う間に死んだという。いつか鼻笛を聞かせてくれた女性は、マレーシア政府が建ててくれたセメントの家の階段の上から転げ落ちて、頭部を強打して、そのまま死亡したという。もうひとり、老婆が衰弱死していた。人の生なんて、なんとあっけないものか。親族を亡くした子らは、ウヤウやベナーなど、喪名で呼ばれていた。翌日から、2回泊まりで狩猟に出かけた。イノシシは獲れなかったが、ジャコウネコ、ヤマアラシなどが獲れた。1年ぶりに行って、今回、最も強く、いや、改めて感じたのは、彼らの「知の共有」とでもいうべき事態である。彼らが学校に行かないのは、算数や語学の知識が森の暮らしに役立たないと考えられているからということではないのかもしれない。プナンは、個・対・個の知識や能力の競争に興味がないから、学校に行かないし、教育を受けないということができるのではないだろうか。彼らは、個人の能力を重んじるということを、個的な頭の良さを評価するというようなことを、できるだけしないようにしている。言いかえれば、個の知識と能力が優れていることが、そこでは、ほとんど意味をなさない。この観点から眺めなおすと、我々は、個的な知識と能力に重きを置きすぎるような社会をつくってきたのかもしれない。それとは反対に、プナンでは、知識や思考は、個人によって所有されるではなくて、群れや集合体の間で共有されているのだと言える。誰か一人が突出して、知識を所有するのではない。そのことによって、知は「非・権力化」されている。人は、身体の見かけにおいて、一人一人異なっているにもかかわらず、知識や思考は、群れや共同体のなかに存すると考えられているのではないだろうか。みなが、同じようなことを考える。こうしたらいい、ああしたほうがいいと言いながら、状況に応じて、つねに進むべき方向性を見出そうとする。こういうことは、我々だって、つね日頃やっている。しかし、その進め方、やり方が、もっと徹底しているのである。それだけではない。咳がひどかったり、病気を抱えている身体の状況までもが、周囲に感染し、人びとに共有されているように感じられる。そこでは、群れや共同体が、まるで一つの身体、一つの知識として存在するかのようなのである。帰りがけに、年明けには車で、狩猟行に出かける約束をしてきた。