たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



その日、わたしを含めて5人の男が、狩猟キャンプに泊まった。翌朝、午前6時前に、メンバーの間で「放屁合戦」が行われ、笑いとともに、朝が明ける。コーヒーを沸かして飲んでいる間に、狩猟の準備を整えておこうと思いながら、なかなか手がつけられないでいるところへ、わたしをのぞく4人の男たちは、ライフル銃を担いで、出かけようとした。わたしは、あわてて、長袖シャツに着がえて、長靴をはいて、彼らの後を追いかけるようにして、狩猟キャンプを出発した。

ジャングルの入り口にたどり着いたのは、午前6時半ごろのことであった。わたしは、いつものように、Jについて行くことにした。Jは、そこからもっとも近いルートを通って、ジャングルのなかを逍遥し、山頂をめざすといった。彼は、足音が動物に聞こえてはまずいといって、はいていた長靴を脱着した。木々が鬱蒼と茂って、太陽の光が届かないジャングルの道。岩肌の急な斜面。とげのある蔓が、身体に絡まりついて、着ているものの上から肌を刺す。倒れた木をのりこえたり、その下をくぐったり、腐った木で足を踏み外したりして、ゼイゼイ言いながら、わたしは、やっとのことで、Jの後について行った。イノシシの足跡が、あちこちにたくさんあった。

1時間ほど歩いた後、休息をとった場所で、わたしは、汗だくで、傷だらけになっていることに、気がづいた。Jは、そこから、サルを探しに行こうといって、ふたたび歩き始める。ジャングルのなかの開けた、明るい場所に着いた瞬間、はっきりと、50メートルくらい先の場所から、イノシシが木の実をかじっている音が聞こえた。Jは、わたしに、その場にとどまるように命じて、ジャングルの木々をかき分けるようにして、それを撃ちに出かけて行った。Jは、最初、その音がする方角とは反対の方へと歩みを進めた。その後、イノシシのいるほうに近づいていった。数分後、ジャングルに銃声がとどろいた。瞬間、撃たれたイノシシが、ジャングルのなかを駆け下りていく音がした。Jは、わたしが待つ場所に戻ってきて、弾は中ったが、逃げられたのだといった。われわれは、血を手がかりに、そのイノシシを追うことにした。

追跡中に、ふたたび、前方に、イノシシが木の実をかじる音が聞こえた。Jは、先ほどと同じように、わたしに、その場にとどまるように命じて、銃撃に出かけた。しばらくして、銃声。銃撃の場に駆けつけると、Jは、また、弾は中ったのだが、獲物は逃げてしまったのだといった。見ると、血の跡がつづいている。約10分ほど血を追跡したところで、撃たれたイノシシが、川の縁で、倒れているのに出くわした。イノシシは、逃げている途中、大きな石にぶつかって、力尽きて、下の川へと転落したようであった。Jは、その後、最初に逃がしたイノシシも追撃し、捕らえることに成功した。

ところで、わたしがいま特大の関心を抱いているのは、狩猟において、獣に向き合い、それを射撃するさいのプナンのハンターたちの心的状況である。ハンターたちは、動物を撃ち殺す瞬間のことについて、あまり多くのことを語らない。動物は、ただ殺すだけである、とよくプナンはいう。いくつかの状況証拠はあるものの、以下は、プナンのハンターたちの動物の殺害をめぐる、わたしの萌芽的なアイデアの断片である。

プナンのハンターたちが、ライフル銃を使うにせよ、吹き矢を用いるにせよ、狙いを定めた動物に向き合うとき、たんに「動物を狩る」「動物を射撃する」ということだけではない、それ以上のものがあると、わたしには、ふとあるとき、感じられるようになった。
プナンのハンターたちは、射撃する動物に向き合う瞬間、神々しい領域へと足を踏み入れ、動物に<神>を重ね合わせて、それを感じ、見ているのではないだろうか。

いわずもがな、狩猟という行動は、人を生かし、育む肉の供給源である動物を殺害することで成り立っている。その行為は、同時に、ハンターだけでなく、人にとって、観念的な意味で、多くの危険をはらんだものである。人が動物をむやみにさいなんだり、あざ笑ったりすれば、当の動物は、雷神となって、天空高くとどろいて怒りをあらわにし、雷を落とし、大水を引き起こして、人を懲らしめ、人に復讐する。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/27506f422f29e1a3e5f3c16f56bdedb7

動物は、その意味で、プナンのハンターにとって、人が制御することができない力を秘めた、<神>につうじている。いや、というよりも、動物は、<神>と同一的な存在なのである。プナンのハンターたちは、獲物をしとめるという当面の目的がいままさに成就する、させなければならないという情動の極限へと向かうような心的状況において、<神>に出会うのだ。

狩猟が、いまから数万年前に出現した現生人類が、生きていくための最も重要な活動であったことから推量すると、それは、ことばや筋道を立てて理解することを横糸とし、経験を縦糸として組み立てられるような、理性的、論理的な活動であるというよりも、むしろ、意識下で作動する<神>や幻覚、ひらめきや直観などによって支えられた活動であったのではないだろうか。そのようなものとして、狩猟を考えてみることは、狩猟を、人類の尺度において、捉え直すことへの道を開くことにつながるのではないだろうか、と思っている。

(写真は、樹上のサルを撃つプナン人のハンター)



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プナン人は、手を用いて食事をするのではなく、スプーンを用いて食事をする。その習慣は、クニャーやカヤンなどの周辺の焼畑稲作民たちが、おおむね、手で食事をする、手でごはんを食べるということから、際立っている。狩猟採集を主生業とするプナン人は、古くから、主食である、アメ状にしたサゴ澱粉を食べるさいに、ピットと呼ばれる手づくりの箸を用いてきた。1960年代に稲作を開始するようになってから、ごはんを食べるさいにも、道具=スプーンを用いて食べることへの移行が、すんなりと進んだのではないかと思われる。

大きな中華なべにアメ状のサゴ澱粉を入れて、それを、少ないときには、数人、多いときには、7~8人で囲んで食べるというのが、プナンの食事の一般的なスタイルである。食事には、必ず汁物が用意されて、人びとは、箸でサゴ澱粉を器用にすくい上げ、それを汁物につけて、口に運んでいく。獣肉や魚などの肉類は、直接、手を用いて食べる。サゴ澱粉の食べ方のスタイルは、今日、ごはんを食べるさいにも、継承されている。炊かれたごはんは、皿の上に山盛りにされて、それを囲むようにように、人びとが集まって、スプーンを使って食事をするのである。

人びとは、車座になって、あぐらをかいて、ひざとひざがふれるかふれないかというような距離で、密集して、食事をする。食事のさいには、人びとは、あまり多くを語ることはない。それでも、場を乱さないような、あたりさわりのない話題が持ち出されたり、出来事や噂をめぐる情報を交換したりすることが多いようである。逆に、その場で、食事をともにするメンバーの間で持ち上がっているような問題を討論したりするようなことはない。いいかたを換えれば、言い争いがあるメンバー同士が、いっしょに食事をするということは、ありえないのである。そのような共食の時空は、身近に起こっている出来事にたいするひとつの見方・感じ方を、メンバーの間で、共有するようにはたらいてきたのではあるまいか。プナン社会における共食とは、食事の機会であるとともに、出来事にたいする、一定の見方・感じ方を共有するための機会でもあったということもできよう。別の観点からいうならば、食事をする場所がちがえば、出来事にたいするべつの見方・感じ方が生み出されることになる。

日ごろの共食に見られるような、密なる社会関係は、プナン社会の他の場面においても、ひんぱんに見い出される。そのひとつが、親子関係のありようである。父母と子らは、つねづね、できるだけ、いっしょにいよう、行動しようとする。親は、たとえ自分の兄弟や親であっても、子どもを「まかせよう」とはしない。親は、つねに、子どものいうことに耳を傾け、それをかなえるべく努め、子を保護する存在なのである。まだ幼い子どもたちは、そのような親たちの態度に応えて、親が、狩猟やその他の仕事で、子のもとを離れるさいには、親を想って、泣きわめくことがよくある。親は子に対して愛情をふりそそぎ、子らをいつくしみ、子どもたちは、それに応じる。

そのような親子関係は、プナン社会のなかで「閉じられた」ものとしてあるのだといえる。プナン社会は、子が外に向かって開かれる、つまり、親たちが、子が外的世界を経験することを励起し、共同体の外部で知識と技術を体得させることによって、子どもを大人にするというタイプの社会ではない。そうではなくて、親のひざもとで、子らが、生きてゆくすべを学び、ゆるやかに、親のもとを巣立ってゆくというタイプの社会なのである。

そのような密なる親子関係を軸としたプナン社会のありようは、子どもを学校にあずけて、そこで、知識や技術を身につけさせようとするような態度を生みだすことはなかった。親は、子どもに密にかかわりながら、狩猟や採集の仕方をはじめとして、薪の割り方、火の起こし方、小屋の建て方…など、森のなかで生きていくうえで必要となるさまざまなことを、ゆっくりと時間をかけて、子らに学ばせてゆく。したがって、大人の男たちが何人かで、狩猟キャンプに行くという計画を立てると、まずは、そこに妻や子らを連れて行くことを考える。それが、プナンのやり方である。学校が、親に代わって、それよりも価値のあることを子どもに与えてくれるとは、プナン人には、思いも及ばないことである。だから、プナン人は、学校が、近くにあって、授業料を無料にしたり、さまざまな優遇措置を与えたとしても、子どもをすすんで学校へと送ることはない。子どもたちも、親の行動について行き、その間、学校を欠席することになり、やがて、授業についていけなくなり、その後、しだいに、学校に行かなくなる。

プナン人が、プナン社会から外に出て、すなわち、森のなかではなく、雇われて労働をすることで、生計を立てていく場合には、学校は、必要な知識や技能を教えてくれる場として重要である。しかし、プナン人たちは、生まれ育った地を離れて、(プナン人以外が住む)遠く離れた場所で生活し、そこで生涯を送るということは、これまでまったくなかったし、今後も、そのような予定はほとんどない。プナン人は、与えられたジャングルに深く依存しながら暮らしてきたし、今後も、そうであるように思われる。そうだとすれば、プナン人にとって、近代社会で生きていくうえでの法を教える学校は、その存在そのものが、ほとんど意味を持たない。

ところで、わたしは、一時帰国してから、日本では、昨年来、いじめや不登校の問題をはじめとして、学校教育の再生が、大きな社会問題となっていることに、目を引かれた。学校が、知識習得以外の負のはたらきをもたらしたり、学校に通うことの意味が見い出せないのであれば、プナン人ならば、学校に通わないことを選択するにちがいない。他民族の生徒からのいじめを受けたプナンの子どもが、学校に行かなくなったケースもある。学校に行かなくなったとたん、いきいきと、親の行動に同行するようになる。そういった選択が、プナンとは社会的な背景を異にする日本社会では、何の解決にもならないことは、よく分かっている。日本では、明治以来、教育が、人づくり、国づくりの核として位置づけられてきたからである。

ひるがえって、どのようにしたら、教育を再生させることができるのか、という教育のあり方をめぐる今日の「実践」的な議論のなかで、すっぽりと抜け落ちているのは、「教育とは何か、学校とは何ぞや」ということを、その根源にさかのぼって問う議論ではないかと思う。

(写真は、食事をするプナン人たち)


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現在、一時帰国中であるが、昨年末に罹ったマラリア熱について書きとめておこう。クリスマスの日から、ふたたび、わたしは、三日熱マラリアの入院患者となった。

12月の第二週あたりから、ひどい下痢、頭痛に悩まされていた。一晩に、15回も川に排便に通ったこともあった。プナン人とともに猟に出かけると、ひどい頭痛がした。それは、前回、8月に、マラリアにかかったときと同じような症状で、同時に、食欲もあまりなかった。

そんなある日、他の用事もあり、車をチャーターして、一時間半かけて、アサップ(Asap)という町に出かけた。アサップのクリニックで、マラリアかどうかを調べるための血液検査をしてもらうと、そこでは、すぐには、結果は分からないといわれた。血液標本をビントゥルまで送るので、マラリアかどうかの結果が出るまでには、1ヶ月ほどかかるといわれた。「心配しないで!、マラリアだと分かったら、国の責任で、滞在先まで迎えに行って、入院させてあげるから」ともいわれた。そういわれると、逆に、心配が募った。血液標本は、員数がそろった段階で、検査可能な町の病院に届けられるので、判定までに時間がかかる。その間にマラリア熱に苦しむことだって、大いにあるのだ。

その後、ジャングルのキャンプに戻り、いったん体調が快復したものの、ふたたび、3日間連続で、夕方に、頭痛にみまわれた。発熱は、いったん引いたものの、それは、48時間後に、ふたたび、わたしを苦しめることになった。これは、マラリアにちがいない。その時点で、わたしは、マラリアであることを、ほぼ確信した。ちょうど、周囲のプナン人たちが、クリスマスを目の前にして、木材会社からの月毎の賠償金も手に入り、うきうきとしているころだった。クリスマスを越せば、わたしのマラリアの症状は、悪化するにちがいない。おまけに、クリスマスで、町へと向かう車がない。そう思って、わたしは、すぐさま、その地方の中心地のビントゥルの病院に向かうことにした。

12月23日、ビントゥルへと向かうさいに発熱し、食堂で氷水をもらって、それを頭に載せながら、どうにか、ビントゥルの町へとたどり着くことができた。うってかわって、翌24日は一日、いたって快調であった。25日、ふたたび、朝から発熱し、身体の内奥から、震えが来た。宿泊していたホテルの車で、ビントゥル病院の救急窓口へ行くと、すぐに、ベッドに寝かされ、点滴をされ、血液検査をされた。しばらくして、医師に、三日熱マラリアであると告げられて、わたしは、そこに、4日間入院することになった。

今回のマラリアは、前回の8月の罹患時よりもいくぶん軽い症状であったが、発熱し、食欲がなく、点滴を受け、定期的に投薬され、苦しいのにはちがいがない。コメディカルたちは、わたしのことをおぼえていて、「また来たのね」と話しかけてきた。

天井に扇風機が回る蒸し暑い病室。夜になると、あちこちで、蚊帳が吊られた。デング熱およびマラリア患者は、午後6時から午前6時まで、蚊帳を吊らなければならない。8月の入院時にはほとんど見当たらなかったが、今回の入院時には、デング熱患者の入院が目立った。こちらも苦しそうである。デング熱は、マラリアと同じく、蚊によって媒介される感染症で、発熱、頭痛、関節痛、食欲不振、腹痛などを伴うとされる。東南アジアなどの都市部で流行している。あいかわらず、蚊帳のなかは、蒸し暑くて、よく眠ることができなかった。

入院中に、マレーシア連邦政府の衛生省の役人が、マラリア罹患調査にやって来た。わたしが滞在しているプナン人の調査地は、マラリアのブラックリストであるとか、レッドゾーンとして知られているという。1980年代になって、ジャングルの木々が、商業的に伐採されるようになり、その後、伐採跡地に、今度は、商業的に、油ヤシの木々が植樹された。そうして、マラリア熱の患者が爆発的に増加したとされている。

わたしは、11月から12月にかけて、フィールドワークのほとんどの時間を、村を離れて、ジャングルのなかのキャンプで過ごした。二度とマラリアにならないようにと、切に願って、マラリアの予防薬をかかさず飲むようにし、長ズボンと靴下を常時着用し、昼夜を問わず、蚊取り線香を炊き、夜には蚊帳を吊って、マラリア対策をとった。ところが、蚊は、つねに、その対策の盲点をついて、わたしに襲いかかってきたのである。川で水浴びをすれば、昼でも、とりわけ、足の各部、ひざの裏を蚊に刺される。朝方、川に排便しに行くと、露出部分を刺される。排便の前には、防虫スプレーを、露出部分に噴射した。しかし、わずかな露出部分を、蚊は刺し逃さないのである。蚊に刺された後、かゆみを押さえるための処方をするのが、せいいっぱいであった。

11月から12月にかけて、同じキャンプのなかで、すくなくとも、二人の子どもが、マラリア熱に罹っていた。発熱、嘔吐、震えの症状が見られた。不思議なのは、プナンの子どもたちのマラリアの症状が、一様に、それほど重くないように見えるということである。アサップのクリニックに行って、プラセタモールやマルチビタミンを(無料で)もらって飲めば、しだいに、熱は引いて、回復する。マラリアに抗するために、赤血球が鎌状に変形している集団が存在することが知られているが、プナン人たちにも、遺伝子のレベルで、それと類似したような変化が、起こっているのであろうか。プナン人たちは、肌の色が黒い(日焼けをしている)と蚊に対して耐久性があるのだとよくいう。プナンによれば、わたしは、その点で、マラリアに対して脆弱なのである。

入院4日目に、血液検査の数値が正常化したことで、わたしは、退院を許された(ちなみに、マレーシア連邦の病院では、マラリア、デング熱、結核での入院に対しては、治療費は無料である)。病後、8月のマラリア罹患後と同様に、頭が重い感じが、しばらく続いた。頭の痛さが、目の奥を圧迫する。その症状は、数日で、しだいに後退する。マラリアとのたたかいは、流行地の真っ只中で、しばらくの間、人びとと暮らしをともにする人類学者にとっては、宿命みたいなものなのかもしれない。

(写真は、蚊帳が吊られた、ビントゥル病院の夜の病室)


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