たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

精霊の仕業と人の仕業

2006年03月30日 21時22分06秒 | エスノグラフィー
 研究者は、学問の潮流の中で研究をしている。『「精霊の仕業」と「人の仕業」』(2004年2月刊)を読み返してみてそう思う。
 本著は、ボルネオ島(インドネシア・西カリマンタン州)のカリスの人びとが、災い(病気やけが、死、そのほかの苦難)をどのように説明し、それらにどのように対処しているのかを記述・考察した、災因論のエスノグラフィーである。
 私は、人口約2千人の焼畑稲作民・カリスの人たちとともに暮らし、彼らの快楽と苦悩に寄り添いながら、彼らが、災いにどう向き合っているのかを観察・記述した。それと同時に、著作は、エスノグラフィックな記述をめぐる問題の検討とその突破への模索という人類学的な課題へと傾いている。
 災いの原因は、特定の精霊の仕業であると、人びとの語りをつうじて、一元的に決定されるかとおもいきや、それは、多元的で、非決定的でもある。そのような複雑な状況をどのように描き出すのかに関して、最初の二章の部分で、意を注いだように思う。そのとき、私は、90年代に盛んに議論された、エスノグラフィーの記述をめぐる問題考察という土台の上に立っていた。
 24ヶ月間の現地調査期間中に、インタヴューというよりも、諸儀礼やふだんのおしゃべりのなかで、人びとが語り合っている生のデータを、精力的に拾い集めた。カセットテープに録音し、それを起こして、タイプライターで打ち出した。カリスの災因論の記述考察は、そのデータの解析に基づいている。そうすることが、データの実証性を得るために不可欠の手続きであると、私は、自然に考えていた。
 いま振り返って思うのは、私は、テキストに過度に頼りすぎたのかもしれない、ということである。テキストの上に再現された人びとの語り。それらの整合性や矛盾に着眼した。テキストに取り組むならば、自然と、ことばの背景にある人びとの考え方、捉え方に心を砕くようになる。
 テキストそれ自体に、必ずしも、問題があるというのではない。「人類学は、テキストをめぐる問題の検討に集中するあまり、逆に、人間存在の可能性・多様性を力強く表現できなくなっているのではないだろうか」というふうに考えたことがある。それは、まさに私自身が抱え込んだ問題だったような気がする。いいかえれば、テキストのなかに現れる語りの解釈に傾くあまり、人びとの生を、ある平面において捉えていただけなのかもしれない。
 著作のなかでは、5章を中心に、カリスのシャーマニズムを扱っている。昨夏、カリス社会の現地調査から10年ぶりに、再び、カリスのシャーマン儀礼に参加し、話を聞いていたときに、突然、浮かんだことがある。シャーマンは、実は、たんに霊を見ているというだけでなく、霊の匂いを嗅ぎ、触れることで、もっともっと立体的に霊を感じているのではないかということに。
 テキストへの集中的な取り組みが、そのような直観を阻んだのではないのかもしれない。私の鈍い感性が、たんに、そのような事態を捉えきれなかったにすぎないのかもしれないのだが・・・
 シャーマニズムは、人間が、病気や死だけでなく、さまざまな問題に向き合うなかで、<野生の思考>的な原理で、非常に深い人間社会の層において作動する。人間存在としてのシャーマン。それを探究し、理解し、エスノグラフィックに記述するためには、今後、さらなる補正作業が必要であると思う。
 ・・・以上、思いつき的で断片的な、できの悪い自著解題である。というよりも、たんなる自己反省かも。この著作に対しては、次号の学会誌に、ボルネオ研究の先達から書評が寄せられるとの連絡をいただいた。つつつしんで範とさせていただきたい。

奥野克巳 『「精霊の仕業」と「人の仕業」~ボルネオ島カリス社会における災い解釈と対処法』、春風社、2004年  

フィールドワークの準備

2006年03月29日 18時04分20秒 | フィールドワーク

 今日は、フィールドワークに持っていくものの買い出しや書棚の整理やらで、一日費やした。1994年から2年間の調査のときには、発電機や電球、電気コード、(旧型の重い)ビデオなど、100kg超の機材を持ち込んだ。しかし、今回は、ボルネオ島とは言えども、マレーシアだし、電気はなんとかなるだろうとの(甘いかもしれない)見込みのもと、発電機を持っていかないため、荷物はそれほど重くならないはず。身の回りのものは、現地調達すればいいや。あと残っているのは、一年間のフィールドワーク中にやらなければならない仕事のためのファイルを(パソコン上で)探して、メモリに移すこと。そういえば、送金をどうするかについても、まだ考えてないし、保険にも入ってない・・・


呪医の末裔

2006年03月28日 22時00分47秒 | エスノグラフィー

 先ごろ、20年ぶりに、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を再読した(再読したのは、『百年の孤独(全面改訳新装版)』)。いつの間にやら、諸事を放り出して!、3日間、「戦う」ように読みふけった。
 マコンドという架空の町の建設とブエンディーア家の百年間のリニアーな歴史を、淡々と、そしてマジカル・リアリスティックに書き綴ったこの稀なる文学書は、ガルシア=マルケスの文学が、人間存在を想像し、理解し、描写する点で、人類学よりもずっとずっと高みに達していることを思い知らせてくれた。
 人類学も、70年代くらいまでは、人間探究と記述分析の点で、それに匹敵する力量を誇っていたが、70年代以降の文化=テキストの問題への拘泥以降に、袋小路に入り込んでからは、迫力とその意志を失っていったのではないか。それが、現在の私のちっぽけな仮説であるが、そういう言い方は、かなり荒っぽいと思うので、ここでは、これ以上、それについては書かない(というか、書けない)。
 松田素二著『呪医の末裔』は、『百年の孤独』に匹敵する、東アフリカ・ケニアのオデニョ一族の百年の<生>の歴史記述である。現代日本社会とほとんど接点のないような、遠い遠い<アフリカの他者>の、ある一族の百年にわたる歴史が刻まれている。
 いったい、<アフリカの他者>のある家族の歴史を読むことが、現代の日本人にとって、どんな意味を持つのだろうか?そのような素朴な疑問をもってこの書を読むと、<アフリカの他者>は、われわれの前に具体的な名前を持ち、苦悩と快楽を経験する個々人として立ち現れる。彼らの生き方に共感し、ときには、反発を抱くことで、<アフリカの他者>であるオデニョ一族の人たちが、われわれとつながっていることに思い至る。
 「自身の内面の苦悩を解決するために、取捨選択しながら外部の力に依存していった大オデニョ。白人宗教の宣教助手やイギリスのための下級兵士とされた事実を、自分のビジネスチャンスのためにフルに活用したオグソやムラゴ。白人(近代)世界と土着(伝統)世界の二重基準を設けて、二つの正義と倫理を自在に活用してサーバント生活を送ったケヤ・・・」(p.277)。

 一族がこの百年のあいだに経験してきたことは、外部の巨大な力によって、自分の意志に関わりなく行き方の背景が決定されてきた歴史であった。この数百年のあいだ、強大な覇権国家によって世界は序列化されてきた。19世紀には大英帝国、20世紀にはアメリカ合衆国がその覇権の中心を占めてきた。ケニア社会の場合、最初はイギリスによる植民地支配と近代化、つづいてアメリカによるグローバル化の大波に直接飲み込まれてしまった。この個人の努力ではいかんともしがたい現実を前にして、オデニョ一族は、それぞれ多様でユニークな対処法を編み出しながら、自らの生の基盤をつくりだしていった。(pp.276-7)

 この著作は、「強者(近代)」と「弱者(非近代)」の硬直した二分法を前提としつつ、弱者の創造的な論理の面を強調して、ポストコロニアルな理論の検討へと踏み込む危うさの手前で踏みとどまり(そういう面も、若干垣間見られるが・・・)、アフリカに生きる人びとの<生>を照射することで、彼らとわれわれが、同じ時代をともに伴走していることを気づかせてくれる。ケニアの人びととの長年(20年以上)の深い付き合いによって、はじめて可能になる力技だと思う。
 人間の苦悩や快楽の経験のざわめきの総体に対して、ことばや表現を与えること、それは、エスノグラフィーが取り組むべきことの一つなのだと思う。

松田素二『呪医の末裔:東アフリカ・オデニョ一族の20世紀』講談社。


リサーチサイト

2006年03月27日 23時10分14秒 | エスノグラフィー
 見よ、こんなに粘土質で、制御不能な山道を登っていく(登らされていく)、耐久力にすぐれた、トヨタの四輪駆動車を!・・・雨水によってぬかるんだ難所を突破できるのは、車の力によるのだけではない。ニューギニア・ハイランダーズの、押したり引いたりの、おそるべき努力、体力、そして耐久力。われわれは忘れてしまっている、旅には、痛苦の経験が伴うということを(写真は、パプア・ニューギニア高地のハイウェイの脇道)。
 今日、U教授の研究室を訪ねた。サラワク現地調査の相談のために。農耕ではなく、狩猟採集にたよる人びと。その候補地は幾つかあるが、現時点では、具体的にどこで調査をするのかはまだ決まっていない。<感覚>経験というような、ことばのその先にあるテーマをきわめるには、一年という調査期間は短すぎるかも。

出すことの美学

2006年03月26日 17時41分06秒 | エスノグラフィー

 これ(卜田隆嗣著『声の力』)は、観察・記述力にすぐれ、匂い(とくに、糞便、放屁、性交などの雑多な匂い)がしてきそうな、超一級のボルネオ島プナン(いわゆる西プナン)のエスノグラフィーである。
 この本を初めて読んだころから(1998年)、著者は、いったいどのような人なのだろうとずっと思っていたが、2年ほど前に、ある研究会でお会いすることができた。予想どおりというか、知性と感性豊かな、関西芸人(失礼!)という感じの方である。
 この著作は、<視覚>情報に基づいて、語彙素に拘泥するあまり、袋小路に陥ってしまったエスノサイエンスや認識人類学に対して距離をおきながら、民族音楽学を刷新したいという、卜田さんの学的な情熱に貫かれている。うたうことや美に対する近代の側からの紋切り型の接近ではなく、ブラガ地域のプナンの人びとの生に寄り添いながら、そこから得られたもの、感じられたことに、真正面から取り組んでいる。
 プナンのうたや美意識は、われわれのそれとは大きく異なるものであり、著者の鋭い観察力と描写に、私は、ときには度肝を抜かれ、ときには、ふむふむと感心した。

 
大便は最も場所の限定が強く、集落にあっては基本的には糞場でするべきものである・・・村にいても、必ず糞場でできるとは限らない。下痢の場合はその典型的な例である・・・基本的には排泄行為そして排泄物は、他人に対して隠すべきとされているものではない・・・たとえば猪が一度に三頭もとれて、ひたすらむさぼりあった後には、少なからぬ人間が下痢、もしくは急激な便意に襲われ、あちこちの家で床下へ糞が落ちることになる・・・他人の大便に対する批評は、人びとの間で好まれる行為である。形状、色がどうか、そして嗅いはどうかについて論じられる・・・形や色よりも、重視されているのは嗅い(バウ)である。嗅いに関する語彙は、ごく限られている・・しかし、人びとは個々人の微妙な違いを知覚し、それを言語化しようとする。『あれだけ猪を食ったのに、熊の肉のようにひどい嗅いだ』などと、他のものの嗅いにたとえたり、それと比較したりすることで、その嗅いを言語化し、他の大便の嗅いとの違いを表現しようとする。そのために妥当な言葉を探す努力はかなりのもので、したがって結果として到達する言語表現はきわめて多様であり、しかもそれは慣用化されて繰り返し用いられることはほとんどない・・・わたしのような鈍った嗅覚しか持たない人間にとっては同じような嗅いでも、個々の糞はそれぞれが独自と言っていいような嗅いを持つものとして知覚されるのである。(pp.136-8)

 糞便に対するプナン人の異様な関心の高さは、<出すこと>の美学の一面である。

 屁を放るときに、できるだけその音を長続きさせようというのは結構微妙な身体器官の働きと協調を必要とする。放屁の気配を体内に感じ取った時点で、まず最初に確実に音が出せるように体勢を整えないといけない。『すか』では話にならない。そのうえで、主として肛門の括約筋と腹筋を操って、できるだけ長く音を持続させよとするわけで、これも非常に身体に対する意識を高めないわけにはいかない行為である・・・音の数については、多いほど評価される。二〇回かそれ以上連続して屁を鳴らすことは、六秒以上長くのばすのとはまた違った身体の制御が要求される。したがって人は、放屁の気配を感じとった時点で、のばすか数を稼ぐかを決める必要がある・・・人間の努力を超えたところで働く力があってはじめて、うまくいくと考えられているのである。(pp.139-40)

 放屁に対する並々ならぬ努力もまた、<出すこと>の美学に通じている。しかし、放屁の美学は、自己制御のみによって到達できるものでは必ずしもない。

 人間を超えたカミ(=神)の力は、糞便や放屁を左右するだけでなく、
人の生そのものを決する。カミのことばは、一般に、鳥の声をつうじて人に届けられると考えられている。鳥の声に対応して、人は、声やうたを発する。
 そのようにして、声を出し、うたうことは、糞便や放屁とパラレルな関係で捉えられる。声や糞便や放屁などの<出すこと>が、身体を介して、美(学)的な関心をもって、人びとに共有されているのだといえよう。
 著者は、調査期間が残り少なくなったある夜、自分の声に目を覚ましたという。声が出続けのだという。「ほとんど金縛りのような状態で、わたしの喉は、そして横隔膜は動き続けた。そうした体の筋肉の感覚は異常なまでにはっきりしていた」(p.202)。それは、著者の身体をつうじて、カミが声を出させた瞬間だったのである。そのような経験をつうじて、著者は、便秘のときに言われた「お前、カミさんにちゃんとしゃべってるか。しゃべらんかったら糞出せへんで」という、ことばの意味を解することができたのである。
 「彼らが観念的なレベルで食と音声とを結びつけていることは事実である。そして、こうした観念を具体的に支えているのは、味覚であり、触覚であり、聴覚である、そしてカミ観念も、わたしの個人体験を正当化するまでもなく、身体感覚として具体化される。カミは感じられるものとして体の中にあり、また人びとの周囲にいるのである」(p.204)。
 あらゆるものは、身体(器官)をつうじて、受け取られ、出されることによって、人は生かされる。いいかえれば、人間が、自律的にそうしているのではなくて、カミという人間を超えた存在によって、そのようにされているというような、プナンの人びとの思い。
 真にエスノグラフィックな力に満ち満ちた作品である。人類学者が、
総じて、現代(日本)社会の問題の検討の袋小路に入ってしまった感のある今日、
手本とし、継承発展させるべき重要な作品であると、私は思う。

卜田隆嗣『声の力:ボルネオ島プナンのうたと出すことの美学』弘文堂、1996年。


ショッピングセンター

2006年03月25日 17時49分01秒 | フィールドワーク
 私が住んでいるKO線沿いの駅にショッピングセンターがオープンしたので、行ってみた。5年前に引っ越してきたときには、周囲にな~んにもなかったが、駅周辺に、ここ1~2年で店がたくさんできた。ショッピングセンターには、人がたくさん来ていた。2階には、どでかい100円ショップがあった。100円ショップは、地域の小売店の客を奪うというが、このあたりには小売店はほとんどない。しかし、なんでこんなに値段が安いのだろうか?私が買った品物には、生産地が表示されていない(ホームページを見ると、製品は、世界45カ国から来ているという)。コスト切り下げの努力の中で、世界(とりわけ、アジア各国)の生産者からの収奪の構造の上に成り立っているのでは?・・・それにしても、私の写真の腕は、なかなか上達しない。

大学を思う

2006年03月24日 20時28分32秒 | 大学

 O大学で、いま、07年度の新学群発足に向けた準備作業が進められている。大学当局は、計画自体が脱臼するのを恐れて、多様な意見(=雑音)をシャットアウトするために、細かな情報をいっさい公開せずに、一部の人たちだけに任せて、その準備作業を進めている。漏れ聞くところでは、すでに、役所に対する事前伺いは済んでおり、現在、承認を得た内容に沿って、科目配置などの作業が行われている(らしい)。 
 理想や理念を追求するために、新たな試みが模索されるが、いつの間にやら、理想や理念は、制度へと吸い上げられて、体制に寄り添いながら、
つまらない、わけの分からない実態が生み出されてしまうことがよくある。そのようなことが、いま、O大学の一連の準備作業の過程で進行しているようだ(詳しくは言えないが)。
 歯がゆく感じる。いま目の前にある<内部>の現実に没入するような態度に対しては、距離をおきたいと思う。人類学をつうじて、現実の<外部>に立って、<外部>を想像しながら、物事を見究めることの重要性を学生諸氏に説いている以上、
制度によって理想や理念が吸い上げられてしまうありさまに意を払い、そのようなことにならないように、最大限の努力をしたいと
思う。しかし、そもそも大した理想ではないのではないかという、やや根源的な問題もあるが・・・。人類学思考に社会的な意味があるとすれば、そのような点ではないかと考えている。


アルゲリッチ

2006年03月23日 21時46分26秒 | 音楽

 フィールドでは、これまで、ほとんど音楽を聞きたいと思ったことはない。逆に、日本にいると、むさぼるように音楽を聞きたくなる。私の場合、近年、それはクラッシックだ。クラッシックは、日本社会のたたずまいに合っているような感じがする(そういう[文明:未開=クラシック:音なし]という二分法は危ういかも、でもま、とにかく聞いている)。
 一ヶ月ほど前に、チャイコフスキーの協奏曲1番が聞きたくなって、たまたま手に入れたのが、マルタ・アルゲリッチの80年のバイエルン放送局でのライブ録音である。
 圧巻は、アルゲリッチが音楽の神に憑依されたかのように、ピアノの鍵盤に指を叩きつける、第3楽章である。目は血走り、彼女は、体を左右に大きく揺さぶる。汗が、方物曲線を描いて多方向へ飛び散る。ライトに照らし出されたアルゲリッチのそうした挙動が、ありありと脳裏に浮かんでくる。音が視覚化される。アルゲリッチの演奏は、指揮者コンドラシンとバイエルン放送交響楽団のメンバーに少なからぬインスピレーションを与えたにちがいない。その結果、激動のオーケストレーションが生まれた。
 その演奏にも増して、深い味わいがあるのは、チャイコフスキーとカップリングになっている、ラフマニノフのピアノ協奏曲3番(82年録音)である。リカルド・シャイーの指揮によるベルリン放送交響楽団は、アルゲリッチの熱演に見合う力量を発揮している。最初の爆発的な一音は、それが、ただならぬ演奏であるということを告げているようだ。この演奏を聞くと、他のラフマニノフの3番の演奏が、遠くにかすんでしまう。
 その録音は、アルゲリッチの持つ、一回限りの芸術のアウラをみごとに捉えている。エスノグラファーもまた、人びとの生を記録してきた。そのような音と生の記録の歴史の相同性を手がかりとして、人類学の異文化記述をめぐる議論が、いま準備されていると、伝え聞く。
 マルタ・アルゲリッチ、ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第3番、チャイコフスキー・ピアノ協奏曲第1番、フィリップス・スーパーベスト100


匂いのエスノグラフィー

2006年03月22日 22時01分38秒 | エスノグラフィー

 オンギー人は、スマトラ沖大地震(2004年12月26日)で壊滅的な被害を蒙ったとされるアンダマン諸島のひとつ、ガウボランベ島に住む狩猟採集を生業とする人びとである。人類学者・ヴィシヴァジット・パンダヤは、1983年から84年にかけて、現地で調査を行い、<匂い>のエスノグラフィーを著した。
 
オンギー人は、体内の<匂い>を抑制・発散して、体調を管理するために、身体に粘土絵の具を塗布する。白い粘土絵の具が塗られるのは、<匂い>の発散を抑えるため。逆に、赤い粘土絵の具が塗られるのは、<匂い>を発散させるためである。
 オンギー社会では、<匂い>のあるなしが、人間と精霊から隔てる指標であると考えられている。精霊には<匂い>がない。精霊は、<匂い>をもつ人間の生命力を奪おうとする。<匂い>を奪われると、人は病気になる。人は死ぬと<匂い>がなくなる。
 精霊が<匂い>のする
人を狩るように、人も<匂い>で動物を狩る。人間は、精霊に<匂い>を嗅がれないように注意を払う。そのことは、人間が狩りをするときに、獲物に<匂い>を嗅がれないようにするのに役立つ。獲物を解体した後の頭骨をもって森に入ると、動物は<匂い>につられて、仲間が戻ってきたと思って近寄ってくる。狩りの成功もまた、<匂い>の操作と深く結びついている。
 「<匂い>に関わる概念は、力関係についてと同様に宇宙論の構造についてのオンギーの人びとの統合的な概念化の基礎である」。
 Pandya, Vishvajit 1993 Above the Forest: A Study of Andamanese Ethnoanemology, Cosmology, and the Power of Ritual. Oxford University Press.


大学放言

2006年03月21日 07時27分58秒 | 大学

 昨日(2006年3月20日)の朝日新聞は、1面で、企業が、来春の新卒に対して、9年ぶりに技術系を中心に採用増を計画していることを伝え、13面には、その関連記事が掲載され、人数は増やしても採用水準は落とさないという企業の意気込みが紹介されている。それだけにとどまらず、8面(オピニオン面)では、就職志向を一段と強める大学の取り組みが、6面(経済面)では、学生にも起業家教育が主要大学で盛んに行われ、大学発ベンチャーが低年齢化していることが紹介されている。私が勤める私立文系の0大学でも、2007年度の新学群のスタートに向けて、一部で、キャリア開発に関わる授業が、学生の必修科目とされるべく準備されているらしい。大学って、いったい何をするところぞや?大学は、いったいいつごろから、就職予備校や職業訓練校になったのだろう?文明が崩壊するときってのは、きっとこんな感じなのかも。


ニューギニアのダニ

2006年03月20日 07時23分07秒 | フィールドワーク
 フォレの村で寝泊りしたとき、ダニに刺された。囲炉裏端で雑魚寝したときに、そのあたりにあった毛布をかぶって寝たのがよくなかった。同行したI教授は、持参したジャンパーなどを羽織って寝たので、刺されなかったようである。ネズミに寄生するイエダニの類ではないか。とくに、腹部や背中などの柔らかな部位を20箇所くらいやられた。かゆくてかゆくてつい掻いてしまい、次第に、赤く腫れ上がった。薬用クリームをこまめに塗って安静にしていたら、1週間後の今朝になってようやく症状が軽減した!

祝『地域研究』発刊!

2006年03月19日 20時58分43秒 | 文献研究

 『地域研究』Vol.7, No.2 が、ようやく刊行された!
 【特集1】は、「グローバル化する近代医療」。2年前(2004年2月)、京都市国際交流会館で行われたシンポジウム「熱帯医学と地域研究:知の実践と構築」の成果の一部である。人文・社会科学系の研究者たちの論文7篇が掲載され、執筆者の代表者と国際保健の研究者・実践家との座談会から組み立てられている。
 この論集は、われわれ(地球人)の周囲に自明のごとくしつらえられた近代医療の構成の<外部>へと踏み出して、「帝国医療」というタームを介して、そのような成立の根源へと立ち至るという思い
を共有しながら、歴史学、人類学、経済学、社会学の研究者たちが、それぞれの学的領域の持ち味を生かしてスリリングに考察している点で、ユニークである。
 阪神淡路大震災、スマトラ沖大地震、ハリケーン災害など、この10年ほどの大規模「自然災害」発生時に、緊急医療援助隊が組織されてきている。そのような「災害医療体制」が、グローバルに急ピッチで整備されている。そうした近代医療の自己組織化の機会を目の当たりにしながら、医療研究は、それ自体をほとんど研究対象としようとはしてこなかった。その組織化の<内部>に留まったままで、人道主義的な観点からそれらの活動を褒めたたえ、スムースで効率の良い目標の達成に意を注いできた。
 
そのことは、けっして悪いことではない。いや、きわめて重要なことである。しかし、アカデミズムが必要なのは、そのようにして近代医療の<内部>に組み込まれることではなく、近代医療の<外部>へと踏み出して、そのような自明性の成り立ちを問うことなのではないだろうか。そういう言い方に対しては、医療の緊急性の意識が足りないという批判がある。ところが、その言い分は、従属者の言い分でしかない。研究者としては、現象の根源へと立ち返り、<医療なるもの>を捉えたいと考える。
 経済史学者・脇村さんは、19世紀のアジアのグローバル化と疫病の関係を考察し、近代日本の鎖国体制の崩壊(=開港)後に、上海ネットワークとつながることで増加した日本のコレラ流行のあり方を検討している。過去の疫病と防疫をめぐる考察は、現代の感染症流行と防疫のあり方を問い直す上で肝要である。
 医者であり、思想家でもある(ひょっとして社会学者?)美馬さんの論文は、この論集の中でも、ひときわ異彩を放っている!医師であり、小説家であったセリーヌという人物を取り上げるというのは、天才的な閃きではないか。
セリーヌが、アフリカの他者、ロックフェラーの工場労働者という他者と出会い、最後に、反ユダヤ的な政治文書を著すまでのいきさつに伴走しながら、近代医療が持つ欲望に接近している。
 経済学者・上池さんと佐藤さんの論文は、アンチパテント政策に基づくインドの医薬品政策の分析である。WTO(世界貿易機関)のTRIPS(貿易関連知的所有権協定)の発効により、これまで発展途上国に安価な医薬品を供給してきたインドの医薬品の価格上昇が避けられなくなってきた。人類の生死は、巨大化するグローバルな生命経済市場や超国家的な機関や協定に左右されるのだ。
 残りの4名は、人類学をバックグラウンドとする。
 松尾さんは、現在、女性が望んでいると思わせるかたちで、巧妙に生殖管理が行われている、インドの医療行政の歴史的経緯を俎上に載せて検討している。
その上で、現地調査に基づいて、女性が、今日、生存戦略のひとつとして身体に関する自己決定を行える可能性について考察している。
 花渕さんは、仏領コモロ諸島において、帝国医療の導入と実践を担った現地人看護師について取り上げている。医師でもなく、土着の呪医でもない現地人看護師が、帝国医療に創造的に介入して、帝国医療の基盤としての知識と実践をコモロ社会内部で再生産する役割を果たした点に触れている。
 奥野は、マレーシア・サラワク州の辺境におけるコンタクトゾーンにおいて行われる近代医療の「不在」をめぐる先住民と外部世界との交渉活動を取り上げて、その先に出没する帝国医療の亡霊の輪郭を浮かび上がらせようとしている。
 池田さんは、国際保健医療協力におけるボランティア活動を取り上げている。ボランティアたちは、文化相対主義を身につけ、帝国医療の潜在的な批判者となるが、結局は自国に戻って、ボランティアを再生産する役割を担う(=「メタ帝国医療」)。帝国医療という分析的想像力を用いて、新たなボランティアの創造が必要であると論じている。
 私がもらった本には値段がついてないが、平凡社から販売されているらしい。
  表紙には、カリス川と子どもたち(2005年8月撮影)の写真が使われている。
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 特集にあたって・・・池田光穂、奥野克巳
 座談会 開発途上国における帝国医療の光と影
        ・・・池田光穂、奥野克巳、中村安秀、門司和彦、
          脇村孝平、(司会)阿部健一
 疫病のグローバルヒストリー~疫病史と交易史の接点
        ・・・脇村孝平(大阪市立大学)
 帝国医療とネイティブ女性~バースコントロールにみる身体の管理と救済の言説
        ・・・松尾瑞穂(総合研究大学院大学)
 現地人看護師という媒介~コモロ諸島における帝国医療の教育と実践
        ・・・花渕馨也(北海道医療大学)
 セリーヌの熱帯医学、あるいは還流する近代
        ・・・美馬達哉(京都大学)
 近代医療を待ちながら~サラワクの辺境から眺める
        ・・・奥野克巳(桜美林大学)
 WTOの貿易関連知的所有権協定とインド医薬品産業
        ・・・上池あつこ(甲南大学)、佐藤隆広(大阪市立大学)
 グローバルポリティクス時代におけるボランティア
 ~<メタ帝国医療>としての保健医療協力 
        ・・・池田光穂(大阪大学) 
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ニューギニア東部高地

2006年03月18日 11時53分10秒 | フィールドワーク

 首都ポートモレスビーを飛び立って約1時間後、フォッカー機は、天候不良のため、前後にグラインドしながら、小雨降る、パプアニューギニア東部高地のゴロカの空港に着地した。空港の入口では、敷地内に入ることを許されない当地の人びとが、柵の向こうで、すすり泣きながら<弔いの歌>を唱和し、故郷から離れた土地で死んだ親族の遺体が届くのを待っていた。
 I教授と私は、死の儀礼の垣間をくぐって、ゴロカの町へとすべりこんだ。その夜から、われわれをフォレ人のハートランドへと連れて行ってくれる現地人を探した。アイスクリームの行商人、ツアーガイド、バーの雇われ人、元地方政府の大臣の中から、われわれが行動を共にすることになったのは、ゴロカの姉妹都市・岩手の一ノ関に行ったことがあるという、妻がフォレ人であり、フォレの村に家があるという、元地方政府の大臣であり、ゆっくりと綺麗な英語を操る、年齢より20歳ほど老けて見えるカフェ人の男"F"だった。
 レンタカー屋でトヨタ・ハイラックスを借りたわれわれは、翌朝、"F"と"F"が連れてきた5人のボーイズ(従者)たちと、午前8時にゴロカを出発した。舗装道路(ハイウェイ)を突っ走り、近道である山道へと入り、目指す領域に近づいたが、突然、地滑りがわれわれの行く手を阻んでいだ。別の山道ルートへと入り込んだわれわれは、"F"がボーイズを連れてきた理由を飲み込むことができた。雨季でぬかるみ、粘土化した泥道は、容易には、四輪駆動車を通さなかった。ドライバーでもある"F"は、ボーイズたちに車が通れる道を整備するようにうながし、ときには、厳しいことばを吐きながら、車を前へ前へと進めていった。ようやく、"F"が、それ以上、車に乗って進むことを断念したのは、小雨がしとしとと降り、あたりが薄暗くなり始めた午後5時ころであった。われわれは、その日一日ほとんど何も口に入れることなく、山道を3時間近く歩いて、どっぷりと日が暮れた、"F"の娘が嫁いでいる村へとようやくたどり着いた。朝ゴロカの町を出発してから11時間後の、午後7時のことであった。
 "F"の娘夫婦は、われわれ一行に小屋を貸し与えてくれた。野菜と豚肉を竹筒に入れて蒸した料理と焼き芋を腹いっぱい食べ終わると、囲炉裏の周りで、私はほどなくして眠りに落ちた。その夜は、ボーイズたちとともに、その場で雑魚寝をすることになった。
 翌朝目が覚めると、"F"の「妹」がやってきた。彼女は、この6~7年間、"F"たち親族が住むホームランドに帰らなかったし、彼らに会っていなかったという。故郷から訪ねてきた人たちと、ひととおり握手を交わしたその女性は、物悲しい歌い調子で、その間、いかに自分が寂しく感じていたのか、彼らのことを思っていたのかを語り始めた。彼女の感情表出に影響されて、ボーイズたちも目に涙を溢れさせた。なんたる潤いのある、豊かな感情表出であろう。そこで何が語られたのか知りえない。しかし、そのような親族間で交わされた感情表現に、わたしは深く心を打たれた。
 朝食を取っていると、入れ替わり立ち替わり、"F"の親族やフォレの人たちが、手土産をもってやってきた。そのなかで、タロイモをもってきてくれたのは、"F"の娘の夫の父親である。フォレであるその年寄りは、かつて、最初の妻を<クールー>で亡くしたという。彼は、話しのなかで、人が死ぬと死体を食べるというかつての習慣に触れた。彼も、二回死体を食べたことがあるという。死体を切り刻んで、それを、野菜とともに竹筒の中に入れて料理したのだと説明してくれた。
 村人たちとの再会を期して、その村からわれわれが出発したのは、午前9時ころであった。山道を3時間歩いて車を置いた場所へと戻り、"F"の運転で、なんとかどろどろの山道から抜け出したわれわれは、夕刻には、ゴロカの町へとたどり着いた。"F"は、翌日、ふたたび、調査の便宜をはかることを約して、立ち去った。
 "F"が、翌朝、I教授と私の前に現れたとき、前日彼が示した、ボーイズを率いて、すべてを首尾よくやり終えるという
ビッグマン的な力強い態度は消え失せ、乱調していた。彼は、昨夜手渡した謝金で、どうやら、朝方まで飲んだくれていたようだ。彼は、その日もボーイズたちを従えていた。しかし、酒で目が血走って、すごい剣幕で威圧はするが、まともに話をすることができないほどだった。それからしばらくして、I教授と私は、"F"とボーイズたちと別れた。
 その日と翌朝の二回にわたって、I教授と私は、医療研究所を訪ねた。そこでは、<クールー>プロジェクトが進められていた。今月の段階で、彼らは、4人の<クールー>患者を確認しているという。プリオン感染説に沿って、<クールー>の発症のメカニズムが解明され、脳がスポンジ化する病気に対する治療手法が確立されれば、その研究は絶大な社会的貢献をもたらすであろう。われわれは、そのプロジェクトの全体像を知ることはできなかったが、ニューギニア東部高地という辺境の地において、そのような理想の一部が担われているのではないかと感じた。
 <クールー>プロジェクトは、公に開かれたものでなく、密かに行われていた。そこでは、研究の倫理が強調されていた。それには、データへのアクセスの制限という意味合いがあるが、その一方で、カニバリズムと不可分の<クールー>が、フォレの人びとをミスリプリゼントすることがないように心配りをするということもまた含まれていた。
 そのために、医療人類学が活用されているのではあるまいか。これは印象でしかないが、オーストラリア研究者によって主に構成されているその研究所には、アメリカの学問(医療人類学)に対する疑念のようなものがあるのかもしれない。たんにデータを採取して、個人の成果発表に利するだけという研究者の態度は、そこでは、理想水準の低いものとして軽蔑されているのかもしれない。
 そのようなことを考えながら、I教授と私は、再びニューギニア東部高地に戻るべく、調査研究の企画について話し合った。その翌日、ゴロカを後にした。
 フォレの人びと、われわれをそこへと導いてくれた、カフェ人ビッグマン"F"とボーイズたちに感謝したい。そして、今回、医療人類学のフィールドに誘ってくださったI教授に謝意を申し述べたい。