たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

害獣駆除のその先へ

2007年06月24日 17時41分04秒 | 人間と動物

週末、Y県K市で行われたO大学の保護者懇談会に参加した。料理とアルコールが出された懇親会の席で、ある保護者の方から、保護者懇談会には、「先生」を見に来ているという感想がもれた。ご子息をあずけている大学の「先生」は、いったいどんな人たちなのかを知りたい、ということなのだろうと思う。

わたしは、その場で、昨年は、一年間、研究休暇で、東南アジアのジャングルのなかで、ハンターたちの狩りに同行していた、と話した。すると、以下のような話に転がっていった。
Y県では、いま、作物を食べにやってくるサルの駆除で頭を悩ませている。討ち取れば、1頭あたり2万円、自治体から報奨金が出る。それだけ、捕まえるのが、困難なのだろうと予想できる。鉄砲の類は用いるのは禁じられているけれど、できますか、やりませんか、と問われたので、わたしは、プナンのハンターたちを連れてくれば、吹き矢を使って、おそらく退治はできるだろうと答えた。すると、周囲の方々も含めて、じゃ、先住民のハンターを連れてきて、害獣の駆除を、<社会貢献>と<国際交流>などを目的として、ぜひ、やりましょうという話で盛り上がることになった。今度、一度、現地の下見に行く予定も立てた。

無類のハンティングスピリットを持つプナンを日本に連れてくることは、商業的な木材伐採による自然環境破壊を訴えるために、プナンを日本に連れてくるのとは、大きな違いがあるように思う。そこには、わたしたち日本人が、辺境の困苦に苦しむ住民を「手助け」するのではなくて、わたしたち日本人が、手助けしなければならないと考えていた人たちから「助けられる」という、第一世界と第三世界の自明な構図の
転換がある。じつは、わたしたちのほうこそ、「助けられる」べきに日本諸島の原住民なのではあるまいか。

さらには、
このプロジェクトが実現すれば、たんに、プナン人にサルを退治してもらうということだけ、つまり、<社会貢献>と<国際交流>をすることで終わることはない。わたしたちは、人間の都合で生きものを殺すということの問題の深みへと、誘われるはずである。いいかえれば、わたしたちは、動物と人間の共生・共存のありかたを、プナン人から学ぶことになるのではないだろうか。獣害をもたらす憎きサルを駆除(殺害)するという、わたしたちの<人間中心主義的>な自然・動物観を、動物と人間の対等・均等な関係を今日にいたるまで維持して暮らしているプナン人たちは、はたして、どのように捉えるだろうか?ただ殺すために、殺すという論理について。このプロジェクトが実現すれば、わたしたちの大きな学びの機会になるのではないかと思っている。


肉食のフィールドワーク

2007年06月16日 23時55分40秒 | 人間と動物

さわやかな、というよりも、暑い一日だった。

来週のゼミの準備のために、肉食とをめぐるフィールドワークの成果報告を読んだ(比嘉夏子「生きものを屠って肉を食べる」菅原和孝編『フィールドワークへの挑戦~<実践>人類学入門』世界思想社)。

日本社会でブラックボックス化されているという行為。日々肉に舌鼓を打ちながら、それがもたらされる背景を知らないという罪悪感。そのした問題意識が、著者を「イノシシ狩り」の現場へ、「屠場」へ、さらには、独特の豚の食肉文化をもつ沖縄でのフィールドワークへと駆り立てていった。ところどころに、彼女の調査時点の苦労・苦悩がかいまみえるが、それを跳ね返してしまうような、フィールドワーカーとしての想像力と思考力が読み取れる。

その清新なフィールドワーク報告を読んで、プナン人とイノシシのことを思い出した。相変わらず、プナンのエスノグラフィーを、いまだ一行たりとも、書き始められないでいる。一年間のフィールドを終えて、日本社会に戻って早や2ヵ月半、わたしは、目の前にある事柄に手一杯で、
知らず知らずのうちに、日本社会の自明性の只中へと深く深く陥ってしまったような気がしている。7月末よりふたたび、わたしは、サラワクの森でフィールドをするために、航空券を手配しているところである。


儀礼研究

2007年06月15日 23時24分56秒 | 文献研究

今日の1限の文化人類学の授業で、『文化人類学のレッスン』のレッスン6を下敷きとしながら、<儀礼の象徴表現>と<儀礼の3局面>の話をした。話をしながら、<儀礼の象徴表現>の部分で、著者の田中正隆さん(高千穂大学)が言いたかったことが、いまになって、自分なりにわかったような気がしてきた。

儀礼には、象徴表現が満ち溢れている。象徴とは、<意味するもの>と<意味されるもの>との組み合わせのことであるが、その組み合わせは、(1)文化によってさまざまであるとともに、(2)<意味するもの>と<意味されるもの>の関係が、一対一対応ではないという点で、同一文化内でも、多義的である。例えば、(1)白や黒などの色が何を意味するのかは、文化によって異なるし、(2)日本では、黒色は、厳かさや、弔事などを意味する点で多義的である(この(1)の部分については、明らかには述べられてはいない)。

さらには、人は、象徴を分類することによって、世界を組み立てて、世界を認識している。しかし、そのような象徴分類には、ピッタリとあてはまらない「変則的なもの」(アノマリー)が現れることがある。そうした「変則性」を、人はマークし、特大の意味を付与する。例えば、コンゴのレレ社会の豊穣と多産の祈願のための儀礼で、人びとは、センザンコウを食べる。センザンコウは、<森>に住みながら、<村>にもやってくる。それは、<動物>と<人>の間の境界的な生き物である。さらに、センザンコウは、<森>に住むが、魚のような鱗をもつ。<湿地帯>は、
<精霊>の領域であると考えられている。つまり、センザンコウは、<動物>と<精霊>の間の境界的な生き物でもある。そうした境界上の変則性を利用して、儀礼は組み立てられる。

つまり、儀礼においては、第一に、象徴が多用され、さらに、第二に、その象徴分類からこぼれおちるものに対して、特大の意味が付与されて、用いられるというような、きわめて複雑なことが行われている・・・というようなことを、全体をつうじて、
述べているようにも取れるのですが、いかがでしょうか。授業で話していて、132~136ページまでは、そういうふうに読み取れたのですが(というようりも、そういうかたちで説明してしまいました)。

「クビが回らない」ほど多忙だとのことなので(!)、ご本人には、またの機会に尋ねることとして、忘れないうちに、とりあえずここに、覚書として書き留めておきます。