たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

野宿者という生

2007年05月24日 10時57分17秒 | フィールドワーク

昨晩のことである。<野宿者>を卒論研究のテーマとしたS.N.くんと話しこんでいて、急に、その場にいたN.Y.くん、Y.K.くんとともに、<野宿者>に出会いに、総勢4人で出かけることにした。

大学から車で出発し、30分ほど行ったところにT川がある。その河川敷沿いを探すこと30分。ブルーシート掛けの小屋の中に寝転がっていた<S>さんに、S.N.くんが声をかけて、途中で買ってきた酒をふるまいながら、小一時間、話を聞いた。<S>さん(自称60歳)は、年金をもらっているが、それだけで暮らしていくことはできず、缶集め(キロあたり130円)をしながら、生活しているのだという。この一年半の間に、3~4度、突然の訪問者
殴られ、あるいは、逆に、殴り返したことがあると語った。

「好きでホームレスをやっているんではない」「わしはもう終わったけど、いい社会にするように、君たち(学生たち)に期待したい」ということば。ガハハハハという豪快な笑い方。細かなことに腹を立てて「文句あっか、てめえ」と繰り出す乱暴な物言い。「ありがと、ありがと、ありがと・・・」という感謝の
ことば。それらが、いま、わたしの耳の奥に残っている。<S>さんの抱えている問題、葛藤の重さ、深さを思う。

汗や酒の染みついたマットから立ちのぼって、小屋の入り口にまで、彼の生身の温度のようなものが伝わってきた。小屋の前にしばらく座っていて、ふと、わたしは、森の民プナンの住まいを思い出した。プナンは、あたりを見回して、木々を取ってきて、巧みに、雨露をしのぐための空間を、きわめて短時間でつくりあげる(写真参照)。木の骨組みにビニールシートをかけるのが、今日の一般的なやり方である。プナンの場合高床式でありが、日本の<野宿者>の場合、地面の上に直接的にマットを敷くというちがいはあるものの、両者の
住まいの基本的な構造は、驚くほど似ている。

ところで、<S>さんたちは、なぜ<ホームレス>と呼ばれるのだろうか、と思う。なぜ、<野宿者>なのであろうか。家がないこと、野に寝て夜を明かすことは、彼らの全体の一部にすぎないのではないだろうか。それは、人間関係の失敗、借金、けんか、離婚、家庭崩壊・・・などなどの、彼らにとっての問題に並ぶもののひとつではないのだろうか。そのような語は、けっして、彼らが抱えている問題を表象しつくしているわけではないと思う。
いやいや、そうではないのかもしれない。そうではなくて、「住む家がない」「住む<べき>ところがら追い出された」ということこそが、現代社会においては、甚大なのかもしれない。

目の前にあるものをシェアーし、問題のありかをぼやかしておいて、個人に責任追及することはないプナン社会では、暮らすことは、基本的に、なんとかなる、いや、誰かが、なんとかしてくれる。プナン人たちにとって、住まいとは、短時間で組み立てられる、あくまで「仮り」のものであり、それは、使わなくなって朽ち果てようと、誰かが代わってそこを占拠しようと、彼らは、いっこうに気にしない。プナンにとっては、どんなにみすぼらしくても、人が住むところが<ホーム>(=lamin)であり、その破綻形態(=<ホームレス>)はない。プナン人は、<ホームレス><野宿者>について、想像力の範囲を超えた出来事として、イメージすることができないのではないかと思う。

<ホーム>に関して、現代日本社会とプナン社会の間にある隔たりを思う。<ホームレス><野宿者>に関する限り、わたしたちは、解決する前にすでに解決されてしまっているプナン社会のような仕組みをもっていない。


編集者Nさんとの対話

2007年05月19日 22時21分53秒 | 文献研究

昨夜、飲み友達でもあり、「編集者としての病い」(!)でもあるNさんと話した。博覧強記で鳴らすNさんとの対話すべてを憶い出すことはできないが、人類学を取り巻く状況について話した部分の要概を、以下に、覚書として。Nさんには、いつも、たくさんのヒントをいただいている。

 N 人類学は、あいかわらず、ブルジョワ的な学問ですね。現代社会の問題に対する強い意識というようなもの見あたらないように思えます。ものを書くときには、ぼくは、自己を取り巻く状況をもっと意識すべきだと思います。しかし、人類学にそういう意識があったとしても、現代社会に従属するようなものになっていて、本来、人類学がもっていた輝きからは、ほどとおいように思えてなりません。そのようなこともあってか、ここしばらくの間、人類学は、沈んでいるように思えるのですが・・・

0 おっしゃるとおりです。ポスコロの議論をへて、あるいは、人類学を学ぶ最初から、ポスコロの議論に染まってしまって、真正面から海外のフィールドに向き合うことに抵抗を感じるようになった人類学者たちは、問題を迂回して、より身近な場面へと目を向けたり、あるいは、そういう問題を一気に飛び越して、拙速なかたちで、社会貢献を唱えたりするようになりました。そのような人類学は、同時代的には重要であっても、スリリングさに欠けるのだと思います。

N ぼくは、人類学を専門に勉強したわけではありませんが、他者について書くという問題そのものに、人類学者はもっと逡巡すべきだと思っています。それに拘泥するところから、表現の糸口が見出せるのではないかと考えています。

O 表象の問題はじつに厄介で、わたし自身、かつてそれを考えながらエスノグラフィーを書いたのですが、いま、あらためて、その問題に取り組むのは、手に負えないことだと思っています。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/d52685fc620379dcd102b36076302b39
ただ、エスノグラフィーと文学を単純に比較した場合、例えば、ガルシア=マルケスでもバルガス=リョサでも、(ある領域の)文学のほうが、圧倒的にすぐれていると感じています。その意味で、エスノグラフィーの記述をどうするのか、というのは、わたしにとっては、いまも、特大の関心事です。しかし、それがゆえに、昨年、一年間取り組んだフィールドワークのエスノグラフィーは、これまでのところ、まだ一行も開始できないでいます。

N たんに表象の問題を追求するだけでは、ふたたび、袋小路に入っていくことになるでしょうから、そうではない、人間のより深いレベルの探究へと降りてゆかなくてはならないのではないかと思います。今日の出版状況において、人類学を含む領域で一人気を吐いているのは中沢さんです。しかし、彼のモデルは、人類学の中では、どうやら抵抗が強いようですね。

O わたしも、中沢さんの語りには、大きな魅力を感じますが、たんなる怪気炎だとする評価が根強いように感じます。昨年、一年間の元・狩猟民のフィールドワークで、彼の言っていることが正しいことが、追認できたように思っています。ボルネオのジャングルは、対称性人類学の実験場であったような気さえしています。そのエスノグラフィックな記述を目指したいとは思いますが、いまだ実現するめどが立っていません。いずれにせよ、どのように、エスノグラフィーを書くのか、ということをたえず考えています。

N レヴィ=ストロースの神話論理が、ようやくいまごろになって訳出されるというのは、人類学の学的状況にとって、好ましくないですね。これまでの人類学者の怠慢かもしれません。ぼくは、人類学者が、たんに先祖返りして、未開のスペシャリストになるということは、素晴らしいことだとは思いません。しかし、検討を先送りにされてきた人類学者の仕事のなかに、人類学の格別なトピックが潜んでいることがあるのではないかとも思っています。

O くだらないことかもしれませんが、要は、どういうかたちで、他者と関わるのか、つき合うのか、そして、そのために、いかに自分自身を高めるのか、というようなことではないのかと思うようになりました。わたしは、一年間のフィールドワークをして、まったくそういうことは予想しなかったことなのですが、わたし自身の人との接し方や心の置き方の点で、大きく大きく揺さぶられて、帰国しました。よくあるように、好きな娘ができたとか、家族ができたというようなことではなく。凡百な物言いですが、見たり、感じたりする己のほうをこそ高めないと、他者についてつづることは、できないのではないかと思っています。


森のロック

2007年05月17日 22時16分55秒 | 音楽

唐突ながら、ここ1~2ヶ月の間、自宅でも、通勤途中でも、そして、オフィスででも、インドネシア・ロックを聞いている。サラワクの町で売っていた海賊盤のCDやVCD(1枚200~300円)を大量に持ち帰ってきたからである。

昨年から今年にかけて、プナンの村々や狩猟キャンプでは、インドネシア・ロックが流行っていた(プナンは、ラグ・インドンと呼んでいる)。流行っていたといっても、CDやVCDから流れていたというのではない。若者や子どもたちが、たえず、口ずさんでいたのである。

プナンがそういった音楽にふれる機会は、もっぱら、VCDをとおしてである。わたしの滞在村には、一台のヴィデオデッキがあった。木材会社から油が支給されると、昼から、VCDを見るためだけに発電され、カンフー映画が上映され、インドネシア・ロックやイバン・ポップのミュージック・ビデオが流され、
みなが狂喜(ときには乱舞)する。電気がない(ゆえに常時VCDを見ることができない)日常生活で、その狂喜は、ロックやポップを口ずさむことによって、拡散し、伝えられていく。

音楽についていえば、
プナンのお気に入りは、<ラジャ>というインドネシアのロック・バンドである。幼い子どもたちは、アニキたちが口ずさむのをまねて<ラジャ>を口ずさむ。わたしは、最初、そのようなプナンの子どもたちから、<ラジャ>について知った。

<ラジャ>は、ホームページのオフィシャルサイトも持っているようだ。

http://www.radjaband.com/index.html

なぜいまロックなんだろう。
そういう問いは置いて、次は、Radja の Yakin でも聞いてみよう。


体験記「ボルネオへの道」発行

2007年05月01日 23時36分27秒 | 文献研究

今日、大学に行ったら、『JAM/国際学会ジャーナル』第17号が届いていた。そのなかに、NくんとSくんによる体験記、「ボルネオへの道~ボルネオ島先住民プナン社会でのフィールドワークより」(pp.26-57)が収録されていた。彼らが、昨夏、1ヶ月弱、サラワク・プナンの森にやって来たときの体験をもとに、考えたことがつづられていた。

http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/d/20060826

写真が豊富で、そのひとつひとつがなかなかいい。

Sは、「森の学校」と題した章を担当し、「プナンが学校に行かない」という点に目を向けて、「学校教育」とは何かという、根源的な問いへとたどり着いた。

「プナン社会において、『子どもを囲い管理する場』としての学校に組み込まれるのを拒むのは当事者である子どもの意思ではなく、プナンという社会の包括的な意思なのではないだろうか。実際私がロング・ウルンの小学校へマレーシア語を学ぶために通うことで、狩猟や焼畑の作業に参加する機会を失ってしまったことがあった。同様に子どもたちが学校に通うことでその共同体で営まれる様々な文化伝達に居合わせることが不可能になってしまう・・・プナン社会を出て社会に進出しようとする前提を持たない彼らにとって見れば、学校の存在は知識を得る場所ではなく、彼らから伝統や文化を継承する<時間>を奪うだけの存在なのかもしれない」(p.46)。「狩猟採集して生きるプナン社会で社会生活を送るためには、実践(狩猟、漁、焼畑)の知識が必要だ。それは、学校で教えてもらえるものではない。プナンの子どもたちは、大人に同伴することで、実践の知識を身につけようとしている」(p.47)。つまり、「森の学校」こそ、プナンの「学校」なのである。

Sは続ける。「・・・『何のための教育なのか』などと考えたことはいままでなかった。私が思考をめぐらせていることと言えば「何を学校で学ぼうか」ということのみであった・・・私たちにとってあまりにも自明的な『学校教育』という概念を問い直すきっかけになった」(p.47)という。

1ヶ月足らずの経験から、よく、ここまで考えることができたものだと感心する。Sは、もうすぐ、海外脱出する。海外からの留学生を受け入れるのが初めてだという、フィリピンの大学に留学することになっている。

他方、Nは、「森の知恵、動物への愛」という章を担当し、プナンの動物の解体作業の場を目の当たりにした驚きと興奮を手がかりとして、プナン社会の人びとの動物観に目を向けた上で、ひるがえって、現代日本社会における、生きていた動物の痕跡をとどめることなく、食べるためだけに存在する、あっけない動物肉のありようへと踏み込んでいる。

「プナンで生活していると、人は動物を殺して、その肉を食べることで、生きている、生かされているということを私は実感するようになった。つまり動物の犠牲の上に私がいるのだ。例えば、ヤマネコの丸焼きを食べたときのことである。そのヤマネコを口に運ぶとき、私は涙をこぼしてしまった。料理になる前の姿(生きているときと変わらない姿)を、調理の前に見ていたからだ。私はヤマネコに向かって心の中で『ごめん!』といいながら、その肉を食べた。そこには、私の命のために死ぬことになったヤマネコへの『感謝』、『敬意』、『罪の意識』が生まれていたと思う」(p.51)

Nは、そのような動物に対する「感謝」、「敬意」、「罪の意識」などは、狩猟民プナンが根源的に共有している
感情なのではないかと想像する。プナンの動物をめぐるタブー(禁忌)とは、Nによれば、動物に対する「敬意」の裏返しなのである。彼は、また、自分自身へと向き直る。「日本社会において、私たちは殺された動物に対してどのような態度をとっているのかという疑問が私の中に浮かんだ・・・現代日本社会(は)『動物が肉になる過程を私たちの目から隠している社会』である・・・つまり現代日本社会は、そこに住む成員が、殺された動物に対する『愛』を失っていることで成立している社会ではないだろうか。そして、私たちに、殺された動物に対する『愛』を生じさせないために、『動物が肉になる過程』は私たちの目から隠されているのだと、私は思う」(pp.52-54)。

Nが目の当たりにした、プナンの一連の動物の解体作業と見聞は、
「対称性人類学」的な思考の冒険へと、彼をつれて行くことになったようである。私が聞いたところ、Nは、昨年末、芸術人類学研究所青山分校に応募し、抽選で当たって、通っていたらしい。

ところで、わたしは、
いくつかの理由から、今のところまだ、プナンのエスノグラフィーの執筆を始められないでいる。