たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

『動物のいのち』

2010年09月27日 12時01分48秒 | 文学作品

J.M.クッツェー『動物のいのち』森祐季子・尾関周二訳、大月書店(2010-34)

これは文学作品なのか?、たしかに、最初に置かれたクッツェーによる二つの話は、
クッツェーのプリンストン大学の講演のなかで語られたとはいえ、フィクションである。しかし、その後に、クッツェーの講演に対する4人の学者による「リフレクションズ」(コメント)が掲載されている。

まずは、大まかな内容。
プリンストンのタナー講演に招かれた作家・クッツェーは、講演のなかに、架空のオーストラリア在住の女性作家、エリザベス・コステロを登場させ、彼女が、アップルトン・カレッジから講演の招待を受け、彼女の専門領域のことではなく、人間の動物の扱いについて論じるという、手の込んだしかけをした。おそらく、扱っている問題があまりにも大きすぎて、あるいは、過激な問題提起をした折に、エリザベス・コステロという人物を立てたほうが賢明だと、クッツェーは考えたのではないか。いや、こうした組み立てのほうが、聴衆および読者が、想像力をつうじて、問題の広がりを捉えることができるだろうと思ったからなのかもしれない。エリザベス・コステロによる二つの講演は、「哲学者と動物」、「詩人と動物」と題されている。

エリザベス・コステロは、わたしたちの動物の扱いについてぶちかます。

率直に言わせて下さい。私たちは堕落と残酷と殺戮の企てに取り囲まれていて、それは第三帝国がおこなったあらゆる行為に匹敵するものです。実際、私たちの行為は、終わりがなく、自己再生的で、ウサギを、家禽を、家畜を、殺すためにこの世に送り込んでいるという点で、第三帝国の行為も顔なしといったものなのです(32ページ)。

コステロに対する抗議の意を表明するために、著名な詩人アブラハム・ハーンは、ディナーを欠席し、手紙を送ってくる。

貴女はご自分の目的のために、ヨーロッパで殺されたユダヤ人とされた家畜という、ありふれた比較を借用しておられました。ユダヤ人は家畜のように死んだ、したがって家畜はユダヤ人のように死ぬ、とあなたはおっしゃる・・・もしユダヤ人が家畜のように扱われたとしても、家畜がユダヤ人のように扱われることはならないのです。たんに逆に置き換えることは、死者の霊にたいする侮辱です。それはまた、収容所の恐怖に安っぽいやり方でつけ込むものです(82ページ)。

動物の扱いをホロコーストと比較する、
コステロの過激な発言は、聴衆を苛立たせる。しかし、彼女の態度は、クッツェーの講演のコメンテータの一人である、ピーター・シンガーをして、人間と動物の関係の「過激な平等主義」(156ページ)であると言わしめている。シンガーのスピーシズム(種差別)批判よりも、一歩踏み込んでいるともいえるのだ。

菜食主義者であるコステロは、薬物実験場、養殖場、場、食肉処理場などを全面拒否する。「私は動物のいのちを産業化し動物の肉を商品化する先駆けを務めた者が、その償いをしようとするさいの最前線に立つべきだと、心底思います」(104ページ)。

コステロはさらに言う。「動物にとって、いのちが私たちにとってほど問題ではないと言う人はみんな、生きようと闘っている動物を自分の手で抱えたことがない人たちです。動物の全存在が、その闘いにありったけ篭められいるのです。その闘いに、理知的な、あるいは想像的な恐怖という面が欠けていると言うなら、賛成します。理知的な恐怖を抱くのは、動物の生き方ではありません。動物の全存在は生きた肉体に宿っているのです」(110ページ)。彼女の論点は、「充足した存在としてのコウモリであうということは、充足した存在としての人間であることと同じことで、それもまた充足した存在なのです・・・充足した存在であるということは、肉体と魂が一つになって生きるということです。充足した存在であるという経験の一つの呼び名は喜びなのです」(52~53ページ)というところにある。コステロにとって、充足した存在として、人間と動物は平等なのである。

コステロと彼の息子、アップルトン大学の関係者などを登場させた
クッツェーの意図は、はたして、いったい何だったのだろうか?

わたしが感じたのは、アップルトンにいる彼の息子が、母の講演は、支離滅裂さを孕んだものであったと表明しているように、この種の議論が、込み入っていて、ときには、わたしたちをウンザリさせるものであるということを、クッツェーは伝えたいのではないだろうかという点である。作品中の二つの講演を読んでいるときには、強くそう感じた。

例えば、以下のようなこと。
コステロの論敵トマス・オハーンはいう。「私の周りにいる多くのさまざまな動物愛好家のなかから、二つのタイプを取り出してみましょう。一方は狩猟家です。動物をとても基本的な、思索的ではないレベルで賞賛する人たちです。動物を見つめ、跡を追って何時間も過ごす、そして殺した後はその肉を味わって喜びを得る。もう一方は、動物とほとんど接触せず、少なくとも自分たちが保護しようとしている家禽や家畜といった動物とほとんど接触せず、そのくせ全ての動物が、誰もが奇跡のように食物を与えられ、誰もが他の生き物を餌食にしないー一種の経済的真空だーユートピア的な生き方をして欲しいと願う人びとだ。この二者のうち、と私は問うのです。動物を愛しているのはどちらだろうか」(109~10ページ)と。その後の議論の展開を踏まえると、明らかにオハーンは、動物に触れもせず動物愛護を唱える観念的な後者を非難するために、こうした問いを持ち出しているように思える。「動物との共同社会を願うことはかまいませんが、それは動物との共同社会で暮らすことと同じではないのです。それは人類が楽園を追われる前の世界を。懐かしんでいるにすぎません」(110ページ)と、オハーンは加える。彼は、狩猟家のなんたるかをよく知らないままだし、説明しないままのように思える。不毛な感じ、煮え切らない議論である。人間の動物の扱いをめぐる議論は、終始、こうした種の議論になる傾向があるように感じる。

しかし、少なくとも、クッツェーの講演に応じた4人の学者は、彼の講演内容を真正面から受け取り、応じているようである。

文学者、マジョリー・ガーバーは、その講演は、動物の扱いについてではなく、文学の価値についてであったのではないかという。ピーター・シンガーは、クッツェーばりのしかけで、ピーターと彼の娘ネイオーミの会話というフィクションをとおして、ピーター・シンガー対コステロ(クッツェー)の擬似対決を生み出している。その会話の分は、シンガーよりむしろ、
コステロにあるように思える。宗教史家、ウェンディ・ドニガーは、アングローサクソン的な議論を世界中にあてはめることはできないと、作品中のトマス・オハーンの言葉を引き合いに出して、インドにおける動物の扱いを取り上げ、最後に、アングローサクソンの動物愛好家の行き過ぎについて書いている。彼によると、動物権利運動の活動家の解決はこうだ。「今生きている犬や猫を全て去勢することだ。そうすrば二十年間で世界に一匹も犬や猫がいなくなるだろう、と。彼によれば、ギリシア悲劇のヒーローたちと同様、すべての動物にとって究極の権利とは、そもそもこの世に生まれてこないことなのだ」(182ページ)。ウェンディ・ドニガーはいう。「私には、それよりましな方法があるように思えるのだが」(同ページ)。最後に、霊長類学者バーバラ・スマッツ。研究者として、ヒヒとのやり取り、日常生活でのサフィ(犬)との交感をつうじて、「私の体験は『他の存在の立場になって考えて見られる範囲に限界はありません』というエリザベスの言葉にぴったりと当てはまるように思える」(207ページ)という考えを述べている。彼女によれば、動物も人間と同じように、社会的主体であり、個性をもった動物を、一個の主体として見ないのなら、人間のほうが「個性的存在性」を喪失することになるのだという。

本の全体をつうじて、動物のいのちをめぐる議論の広がりについて、なんとなく分かったような気がする。とはいうものの、ヨーロッパ圏におけるものに限られているのだが。しかし、今後その問題に真正面から挑むことができるのかどうかは、まったく自信がない。
そのことを考えると、けっこう絶望的な感じもする。わたしの個人的な関心は、狩猟家がどのように動物を扱ってきたのか、とりわけ、ボルネオの狩猟民がどのように動物と付き合ってきたのか、ということにすぎない。それさえ窮めることができるかどうか、心もとない。

ところで、解説で、尾関周二が、「動物の権利」をめぐる議論(もちろん、西洋発のもの)についてまとめているので、最後に、覚書として、手短に書き留めておきたい。

従来の動物愛護思想には、カントの流れを汲んで、動物虐待は人間性を貶めることになるという、人間のあり方に対する倫理的関心があった。それに対して、「動物の権利」思想は、動物にも人間と等しい道徳的資格があり、人間は動物に対して直接的な責務を負っているとする。その代表的な論者には、功利主義の立場のピーター・シンガー、権利論の立場のトム・リーガンがいる。シンガーは、利害の前提として、動物もまた、苦楽の感覚を持つ点から出発する。彼の主張する平等の原理とは、同等の配慮の要求である。人間と動物をともに含む「最大多数の最大幸福」が目指されるべきだというのが、シンガーの主張である。他方、リーガンは、動物も人間と同様に固有の価値をもっている点から出発する。生命の主体こそが、固有の価値の有無の基準であり、それは人間以外の動物の一部にも認めることができる。リーガンらは、動物実験や工場畜産に対しては、シンガー以上に厳しく、禁止されるべきだと主張する(222~224ページ)。
 

これが分かれば、あれも少しは分かるようになるかもしれない。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/cbdd3875f6ca50155c2afc9c075dd3ea


最新の画像もっと見る

コメントを投稿