たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

雷神あるいは荒ぶる自然

2009年02月26日 23時13分31秒 | エスノグラフィー

自然災害とは何か?プナンの自然災害を考えるときには、わたしたちが一般に、自然災害と言ったときに思い浮かぶイメージをいったん判断停止にしなければならない。概ね、ヨーロッパ経由で叩き込まれた、わたしたちの自然(観)は、人によって統御可能なものとしてイメージされており、その文脈において、自然災害は、科学や技術の枠で克服すべき対象として観念されるからである。では、プナンは、自然をどのようなものとして捉えているのか。自然は、つねに繁茂し、人に生きる糧を与え続けてくれるものであり、また、自ずと荒ぶる、人の統御の域外にあるものとして捉えられていると、一応は、言うことができよう。自然の自然発生性および統御不可能性。それが、プナンの自然災害を考察するさいの出発点である。その自然の統御不可能性とは、とりわけ、荒ぶる側面として、日々、プナン人の前に立ち現れる。突風、雷雨、大水として。それらは、彼らにとって最大の脅威であり、プナン人が考える自然災害である。ところで、プナン人たちは、知識と技術を用いる、ヨーロッパ的な自然の統御の回路によるのではなく、観念をつうじて、自然の統御不可能性に立ち向かおうとする。自然の統御不可能性に向かうとき、彼らは、わずかに、儀礼という手段に訴えて、その統御不能な力を減殺しようとする。その力が、隠喩的に、雷神の怒りとして理解されるものの正体なのである。しかし、プナンは、そのようにして、観念によって、自然を統御しようとするだけなのであろうか。いや、じつは、そうではない。儀礼の背景に、プナン人たちは、特有の文化的な仕掛けを発達させてきたと見ることができる。興味深いことに、プナンは、自然発生し、荒ぶる自然が、とりわけ、なぜ荒ぶるのかということの原因を、自ら、すなわち、人で引き受けようとする。彼らは、動物に対するまちがった行為が、雷神の怒りを招くという理屈づけをもっている。雷神の怒りによって洪水が起き、落雷が人を傷つけることのそもそもの原因を、プナンは、雷神=自然それ自体にあるのではなく、人間の側にあるとした。逆に、プナンは、雷神が怒らない=自然が荒ぶることがないように、動物をからかってはならない、さいなんではならないという規範を発達させてきた。しかしながら、分からないのは、なぜ、プナン人は、そうした文化的な仕掛けを発達させてきたのかということである。仮説的に述べれば、それは、彼らが、ヒト中心主義に陥ることを回避しようとしたからである。ハンターたちは、日々動物を殺戮する場面で、経験的に、人が動物の優位に立つということの実存的な意味を知っている。彼らは、そのことが、人と動物、文化と自然の間のアンバランスを打ち立てることに、鼻から気づいていたのではないだろうか。そうした動物に対する人の優位性、自然に対する文化の優位性を打ち立てることは、彼らが考える、自然の自然発生的な独自性、自然の統御不可能性に真っ向から挑むことになる。まさに、その地点から、ヨーロッパ的な自然哲学は立ち上がって、自然災害を科学と技術で克服しようとする思考形式へと発展していった。ところが、プナンは、人が動物に対して、さらには、自然に対して文化が圧倒的に優位に立ち、人と動物、文化と自然の間に非対称の関係を組み入れるのではなくて、その相互の関係をつねにつうじたものにし、対称関係を維持するために、あえて、自然の統御不可能性の原因を、自らの行為の失敗、動物の扱いの不適切さのうちに引き受けたのではあるまいか。プナン社会の自然災害とは、そういった文脈において、はじめて、理解されるべき事柄なのではないだろうか。以上、3月末の口頭発表の構想。

(写真は、ビントゥルにできたショッピング・モール。地球上どこに行っても、それがある)


半年の後、ふたたび、フィールドへ

2009年02月25日 22時22分55秒 | フィールドワーク

昨日の午前の便でクアラルンプールへ、夜の便でクチンへ、そして、今朝の便で、ビントゥルにやって来た。ちょうど半年ぶりのビントゥル。ムワッとするほど熱暑。何人かとメールでやり取りをしたのだが、今日は、東京は凍えるように寒いとのこと。ご愁傷さま。ここは、別世界である。ちょうど先週末、一足先にフィールドに出かけた人類学者の友人と、スカイプをつうじて話した。大学の雑事から解放され、フィールドに向かう声が弾んでいた。ここ数年、年々大学の仕事が、とことんきつくなってきたのだ。もはや、大学は、研究の場ではないような感じもする。企業の論理に貫かれた、理念のない、たんなる仕事場と化している。ま、それはそれとして、帰国したら、ふたたび地獄のような日々が待っているが、そのようなアホな状況を転覆せねばならないとは思うものの、そこにはできるだけエネルギーを注ぎたくないと感じながら、いずれにせよ、いまはなんとか、フィールドをつうじて、研究に打ち込みたいものだ。とはいうものの、やらなければならないと思いつつも、、国内ではいっさい手がける暇がなかったのだが、帰国前の3月末に予定されている、クチンで行われる、科研の最終報告会を兼ねたワークショップの口頭発表を、明日くらいにはなんとか仕上げたうえで、フィールドに向かわなければならない。テーマは、ボルネオ島の先住民の「自然災害」。見通しはあるが、書くことはまた別。しかも、英語。ところで、日本からの飛行機のなかで、道々、『森のバロック』を読んできた。うん、人類学は、たしかに、この方向だと想う。内容そのものの詰めについては、友人と昨年末に立ち上げた研究会で検討するとして、ひとことで言うならば、あんたは何をやっているのか分かって人類学をやっているのか、という問いなのではないだろうか。そういう言い方は、ちょっと飛躍がありすぎて、独りよがりかもしれないが・・・ふたたび、五月雨式にフィールドの課題へ。プナンにとって、道をつくるとはどういうことなのか、あるいは、木材会社がつくった道を利用するとはどういうことなのか、もう一度、そのあたりのことについて聞いてみたい。道をつくらないことが、彼らのやり方なのである。それは、プナンが、立派な家を建てることに興味がなく、ジャングルに粗末な小屋を建てることを好むことについて、あるいは、トイレという空間を毛嫌いするが、糞場という特定の場所を設けていることについて、さらには、飼育動物の肉は食べないし、飼育された動物を動物のカテゴリーのなかに入れないが、ジャングルに住む動物ならば、何でも食べることについて、調べることにもつうじる課題である。

(写真は、ホテルの庭から見た南シナ海)

 


研究会のお知らせ(2009年3月)

2009年02月13日 09時08分37秒 | 自然と社会

「自然と社会」研究会

第4回研究会

人間の知性を自然史のプロセスに挿入し、和解させようとしたレヴィ=ストロースの企てとは、どのようなものか?さらには、その企ての乗り越えは、どのように可能なのだろうか?研究会では、引き続いて、自然(ピュシス)をめぐる問題検討を行います。
 
◆日時

2009年3月31日(火)14:00~19:00 くらい

◆場所

桜美林大学四谷キャンパスY305教室
 JR四谷駅徒歩5分
電話:03-5367-1321
http://www.obirin.ac.jp/001/a028.html

中沢新一「華やぐ子午線」『雪片曲線論』後半

Philippe Descola and Gisli Palsson,
“Introduction”, Nature and Society

*参加ご希望の方は、下記のメールアドレスまで資料をご請求ください。
 折り返し、書誌情報とpdfファイルを添付送信いたします。
 katsumiokuno@hotmail.com
*なお、発表者の都合で、研究会のテーマを変更する場合があります。
だいたい研究会の1週間くらい前にお問い合わせください。

関連サイト
http://nature-and-society.blogspot.com/

(写真は、ボルネオ島カリス人の近隣のタマン人の系図:1990年代初め頃作成)


悲しきかな、人類学/経験のアマゾン河

2009年02月12日 17時33分38秒 | 自然と社会

第三回「自然と社会」研究会報告
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/e9e3509b8a37f177bc1c149955235863

フィリップ・デスコラの「人類学的知識について」後半部の訳解(概要):あくまで個人的な覚書程度

民族誌家が調査過程で知識を打ち立てる方法は、似通っている。フォーテスは、フィールドワーク前に、彼の師であるマリノフスキーと話を交わした。マリノフスキーはフォーテスに、二ヶ月の間に、最初の不機嫌なフィールドからの手紙をもらうだろうと言ったという。その手紙には、食べ物、天候、プライバシーがないこと、原住民たちの行動の理解の困難さへの不満が並び立てられると。その4ヵ月後、今度は、楽観的な手紙が届けられる。そこでは、フィールドワークが順調に行われていることや、調査の作業仮説の兆しが報告される。おおよそ1年経つと、残された詳細を調べ上げるだけで、仕事はほとんど終了したという手紙が来る。しかし、その2,3週間後には、すべて間違いであったし、以前の理解の補正のために、新しい情報を得る時間が必要だと説明する手紙が届くと。

それは、わたし(デスコラ)自身が辿った道でもある。わが師・レヴィ=ストロースは、わたしが調査で、どのようなことをしようと思っているのかを長ったらしく説明したとき、「フィールドが君に与えてくれるよ」とだけ言った。今では、わたしはそれを、フォーテスに対するマリノフスキーの助言に匹敵するものだと思っている。わたしの学生たちもまた、フィールドワークの同じ段階で同じような手紙をわたしに送ってきた。そのようなことから、わたしは、以下のような野暮な結論にたどり着いた:フィールドワークには、リズムと持続が重要な手法である。

民族誌家たちは、観察された現実の忠実なコピーを作成することはできない。彼らは、二つの計略を用いる。一つは、他のものよりも重要であると思われている行動や発話を選択して組み立てること。もう一つは、こうしたエピソードを調査研究している集団すべてに意味のあるものに仕立て上げるべく一般化するこである。民族誌家にとって、記述することは、観察したことを説明することだけではなくて、それを、自ら利用するために組織することを意味する。それは、謎である行動や発話を理解しようとして行われる、無意識のフィルタリング作業である。そのような、始まったばかりの解釈の試みは、フィールドに数ヶ月いる間の、純粋に、推測的なものというだけではなくて、民族誌家にとって、実用的に機能をもっている。なぜならば、フィールドワークとは、なじみの薄い習慣をもった共同体に入り込んでゆく観察者の身体、判断および行動をかたどる社会化と技能化のプロセスだからである。そのようにして、彼らが観察し、参加した行動が同じものとして起きる度合いを、彼らが構築した解釈と比較することになる。

民族誌学において、理解するということは、自らが理解することだけではなくて、他者に理解してもらうということも要求する。その最も一般的な手続きとは、文脈化である。それは、最初ヘンテコに思われた制度や信仰が、それが埋め込まれている意味の領域を反映させることによって、奇妙さを排除していくことである。逆説的なことであるが、民族誌家によって経験される社会生活の内なる一貫性こそが、調査中の現象が、正当な科学の対象であるということの証となる。さらには、その文脈においてかつて認められた現象は、当該文化圏に認められる同様の現象のバリエーションとして認識されるようになる。

さらには、地域を越えて、それは、一般化されてゆく。シャーマニズム、トーテミズム、および多くの「人類学の崇拝物(などのクラス)は、このようにして生み出されたのである。ラドクリフ=ブラウンの帰納的一般化は、気まぐれであると非難されるような述部(クラスの内容、詳細)を説明しない。述部は、それぞれの対象において保持されている特性を追加すること以上のものではないし、クラスのなかに含まれるからである。自然科学にとって唯一の可能なそれの類比として思い浮かぶのは、分類法である。

こうした民族誌学的理解、つまり、人類学が正式に自らのものであると主張する発見様式には、はたして、方法論的特徴はあるのだろうか?観察者と観察した者たちが部分的に同一であることは、自己の他者への的確さの移動とでもいうべきものである。そのことは、民族誌家の特権といえるものではなく、ディドロが真理について与えた定義に一致する。ディドロは、人が他者のなかに自身について知ることができる希望の表現について書いたことがある。

最後に、演繹的に説明することは、人類学においては、ふつう、三段階の手続きとして描かれることについて述べておきたい:それは、繰り返し起こるとされている現象のあるクラスを分離し、これらの現象の間に存在する関係について仮説を立て、さらには、その形式的な属性を追究するために、これらの関係のモデルを精緻化する。しかしながら、人類学の演繹モデルは、ニュートン物理学のモデルとはちがって、字義通りには演繹的ではない。そのモデルによって行われる演繹的な変容の正当性を確認する厳密な手続きがそもそもないのである。なぜならば、モデルとは、空間のなかに繰り返されるプロセスの構造を理解するために直観的に構築された、たんなる物質的な配列—グラフ、図表、図解—だからである。モデルの真正性は、一方で、その内的構造、他方で、その現象の仮設的な構造の間の仮の的確さのなかにある。

この的確さは、もしそのモデルが期待されない(他の)事実に用立てることができるならば、立証できるとよく言われる。そのことは、知識の的確さにおいて、対象の本質的な真正性を明らかにしたというのではない。モデルの現実性は、社会生活において、そのモデルが実際に作動することの経験的な観察によってではなくて、その実在の条件を特定化するモデルのうちに確かめられることになる。

フィールドでも、あるいは、研究の隔離状況においても、わたしたちは、人類学者が実際には何をしているのかを見る時には、わたしたちの仕事が道具として用いる記述、理解、説明を、きれいに分けることは困難であるということは、何もいまさら驚くべきことではない。これらの手続き(=記述、理解、説明)および人類学調査の古典的な三つの段階の間には、相似関係があるが、古典的な三つの段階は、実際には、しばしば絡み合っている諸活動の純化された定義にすぎない。なぜならば、民族誌的な時間は記述的であるが、他者との部分的な同一化をつうじて、理解のための立派な測定法ともなるからである。その一方で、民族学的な時間は、理解するためのアプローチよりも、帰納的な説明に従う。さらに、もし人類学的な時間が、理論的に、仮説―演繹的な説明の管轄下にあるのなら、モデルを打ち立てる過程で用いられるあるクラスの現象に対して、自律性と物質性を与えることで、そのことを可能にした先行的な手続きに依存しないことはない。こうして、人類学は、科学の哲学によって設定される論理的要求に対して答える、あるタイプの手続きによって特徴づけられるような努力ではない。それは、むしろ、ある知識のスタイルである。経験をつうじて拾い集められ、わたしたちの特殊な手法において社会的事実を扱うさいに、同じような熟達の域に達している他者のなかに認められるような「こつ」なのである。このようにして、同僚によって人類学的な調査の評価が行われるようになるその手続きは、他の学問の科学者にとっては不透明にうつる。判断は、純粋な結果を参照することによってだけではなくて、暗黙なる運用法の専門化に応じて行われるからである。

さて、わたしの最初の問いに戻る時間が来た。わたしたちは、人類学者として、人間が、世界についての人間の経験のバラエティーを理解するために役立てるために与えることができる何か特別なものを持っているだろうか?わたしたちが時間をかけて発達させてきた知識の様式は、別のところでも役立つのだろうか?わたしたちは、グローバリゼーションの波に乗ったイヤイヤながらの帝国主義者であって、わたしたちの中古品を気乗りしないまま、それを本当に必要としないような人たちに売りつけようとしているのだろうか?あるいは、わたしたちは、いまだに、非・自民族中心主義的な理解をするための寄与をなしているのだろうか?わたしは、そうだと思う。わたしたちが用意した知識の様式は、疑いなく、わたしたちの惑星の仲間の住民にとってオリジナルな遺産である。中国人やアフリカ人の人類学者は、わたしたちが、西洋においてわたしたちの遠近法によって世界を説明するために鍛え上げてきた知的道具の的確さについて不安を持っているかもしれないが、彼らは、それにもかかわらず、ほんとうに気安く、わたしたちの仕事の基礎を形づくる調査手法、導かれた直観および自己流の技術の混ぜ合わせに適応している。その意味で、人類学の普遍性は、例えば、物理的な現実の法則のそれとは異なる。人類学の普遍性は、わたしたち自身の宇宙論の写本であるところの<メタ言語>から、そんなに前へ進むようなことはない。しかし、人類学の普遍性は、他者の他者性を理解することの新奇な形式から前へ進んでいこうとするが、それは、わたしたちが、人類学の正当性について正当化しようとするのにふけるというような必要のないことをするのではなくて、誰もがマスターすることができ、実りがあるとみなしているような、間主観性という普遍的な働きを、ある種の知識(=人類学)へと広げてゆくことなのである。

中沢新一「華やぐ子午線」の最初の3分の1の読解あくまで個人的な覚書程度

自然哲学とは何か?その起源は、ギリシャ哲学のイデア論にまで遡ることができる。ギリシャ哲学は、自然を、能産的な(自然成長性をもつ)ものとして見るそれ以前の「古代の哲学」から身を引き剥がし、人間が自然を飼い慣らすために、言語による秩序化をつうじて、「自然哲学」を生み出した。その哲学の流れは、やがて、キリスト教神学を深く組み入れながら、ルネサンス期のデカルトを経て、カントの後、ヘーゲルによって、精神現象学のなかで、弁証法的なロジックをつうじて、完成されていった。ヘーゲル哲学が、正・反のあるいは主・奴の弁証法から組み立てられることが重要なのは、それが、それ以降の近代的自我の形成に大きな影響を与えただけでなく、現代のわたしたちの暮らしに、無視することのできない甚大なる影響を与え続けているからである。ヘーゲル的な自然哲学には、自己である主=文化が、他者である奴=自然に対して、その覇権を打ち立てるという基本原理がある。他方で、ニーチェ、ハイデガーからフーコー、ドゥルーズ、デリダへと連なるディオニソス的な哲学の系譜では、プラトンからヘーゲルに至る歴史において継承・発展させられてきた、アポロン的な哲学を転倒させる試みが行われてきた。

ところが、ニーチェ以前にも、ソクラテス=プラトン以前の自然哲学へと遡及する試みがあった。それが、17世紀のスピノザとライプニッツの哲学である。スピノザは、そのようにして、ドゥルーズによって、再発見されたのである。スピノザとライプニッツは、顕微鏡を発明したレーウェンフークと同時代人であった。顕微鏡の発明は、スピノザとライプニッツの哲学に革命的な影響を与えた。顕微鏡によって世界を高倍率で捉えると、世界はしだいに断片化し、フラクタル化する。それは、世界に対して、混乱をもたらすのではなくて、「断片の理法」のようなものを与えてくれる。スピノザとライプニッツが気づいたのは、世界はどんな微細な部分にいたっても、「理性」に貫かれているという事態であった。スピノザは、人間の感情も思考も、自然=神という能産的な力の場にあって、その力が自分を表出すべく成長してきたものとしての必然性をもっていると述べた。スピノザにとっては、あらゆるもの(=自然)に、自然=神の理法が宿っているのである(だから、反抗期の息子に、自らの精子を顕微鏡上で見せるならば、彼は、そこに神の理法が働いているのを自ら感知するかもしれない。それこそが、エティカなのである)。

ところで、スピノザによれば、そういったかたちで自然=神の理法に接近すれば、無秩序で、断片的で、混乱したものなど何もない。力強い、自然=神の理法の哲学が、スピノザによって、打ち立てられたのである。それに対して、スピノザにとっては、けがれたもの、邪悪なもの、おぞましいものとは、人間が、つくり出した無秩序で、断片的で、混乱した理解の仕方それ自体のことなのである。そうした、けがれた不正なものをつくりだす思考や感情を理解するためには、構造人類学の象徴理論を参照するのが手っ取り早い。

ダグラスとリーチが、この問いに挑んだ。ダグラスは、けがれや混沌を外部にあるものとして設定して、内なる秩序が、その外部の曖昧さを取り除こうと努力することによって、かえって、けがれや混沌を産出すると説いた。リーチは、境界領域をつくり出して、不確実なものに対する不安を減じようとするのだが、そのことがかえって、けがれや混沌を生み出すのだと説いた。ダグラスにせよ、リーチにせよ、けがれや混沌は、思考によって、思考のあとからつくりだされたものでありながら、言語による明晰な思考の届かない、くすんだ見通しのきかない暗雲のなかに、封じ込められてしまうのである。

それは、上に述べた自然哲学との対比において語れば、プラトン~ヘーゲル的な、主=文化による奴=自然への覇権の確立に重なる事態であり、スピノザ=ライプニッツの唱える自然=神の理法が支配する自然成長する自然観とは真逆の動きを孕む考え方であると見ることができよう。どういうことか。中沢は、言語秩序以前の経験世界は、連続的な生の流れのなかに知覚が乱雑にほうり込まれている混乱したジャングル、経験のアマゾン河であるという。しかし、そのような事態を不安に感じる人は、ジャングルを伐採して、言語の秩序からなる明晰の小島をつくるという。明晰の小島のなかでは、以前よりも、ジャングルが濃密な、恐ろしいものと感じられるようになる。タブーや儀礼でも引き合いに出さなければ、その繁茂の力を食い止めることができないというのが、これらの構造人類学者の思考の道筋である。

ふたたび、スピノザに戻れば、わたしたちは、そういった、小ぢんまりとした有限の小島において、明晰な秩序づくりにいそしんでいる。ところが、この明晰さこそが、じつは、無秩序で、断片的で、混乱したものを生み出す源なのである。さらに言えば、わたしたちは、自然との関係において、誰もが、そうした、言語秩序による明晰の小島の住人となっている。実際には、自然成長する自然だけしかない。そのなかに、人間が対象化する所産的自然(物質的自然)と人間の精神活動のふたつの表出があるだけである。そのようにして、「自然は飛躍する」(自然成長する)。繁茂し、自然成長する自然を、それとはまったく異質な秩序に組み入れて「文化化」し、経験レヴェルから切り離された記号―象徴体系を、人間の知性はつくり上げようとする。構造人類学は、そうした自然成長し、繁茂する自然から、人間の知性を引き離そうとしたのである。

(写真は、焼畑民カリスのフィールドで、死者儀礼をテープ起しした、タイプライティング・データ。
1995年4月25日の日付)


人間

2009年02月08日 18時54分30秒 | 人間と動物

人間とは何か?その答は、この3~40年の間に、以下のような研究や社会的実践をつうじて、大きく揺らいできた(フェリペ・フェルナンデス=アルメスト『人間の境界はどこにあるのだろう?』岩波書店)。

①霊長類学
霊長類学は、フィールド観察に基づいて、
ヒトが他の霊長類といかに似通っているのかを示してきた。言語使用、道具製作、抽象的想像力、自意識は、もはや、ヒトだけの特徴ではない。
②動物の権利に関する社会運動
シンガーは、人間を超えたすべての動物の平等を主張し、しだいに、人間だけが、他の動物からぬきんでて特別扱いされる事態が疑問に付されるようになった。
③古人類学
化石記録から、二足歩行、巨大な脳、道具使用、雑食などの現生人類の特徴だとされていたものが、じつは、ネアンデルタール人などのわたしたちの直接の祖先以外にも共有されていたことが分かってきた。
④生物学
種は、特別の普遍的な形質によって規定されるものではない。その意味で、人間とは、人間によって仕切られた種にすぎないということが明らかになった。
⑤人工知能研究
人工知能研究は、わたしたちがつくり出したロボットなどの他の存在に、自意識、理性、想像力、道徳的感情などをもたせる可能性を開いてきた。
⑥遺伝学
遺伝子研究は、わたしたちの種を測定する方法を手に入れたが、それは、同時に、わたしたちが、他の生物たちとどれほど共通性を持つのかを測定する方法でもあった。

こういった研究や社会実践が、ヒトと非・ヒトの間の境界を、ますます曖昧にしている。そのような考え方は、岩波書店のシリーズ・ヒトの科学(編集委員:大澤真幸・大平健、佐々木正人、野家啓一、廣瀬通孝、山極寿一)のなかにも見られる。各巻の「はじめに」のことばを引こう。

人間とは何か?ヒトとは何か?・・・学問上のすべての疑問、すべての課題が目指すところは、結局はこの問いへと収斂するのである・・・一方では、「人間」は、「(自己)意識」や「自由意志」等の精神的な態度によって定義され、特徴づけられてきた。他方では、近年の実証的な自然科学は、生物としての「ヒト」の仕組みやメカニズムの細部を解明しつつある。遺伝子の機能、脳神経系の物理・化学的な反応プロセス、「ヒト」への進化の軌跡等が、明らかになりつつあるのだ。言うまでもなく、前者が、主として、文科系の学問(人文科学や社会科学)の「人間」観であり、後者は、理科系の学問の「ヒト」への見方に対応している。前者は、「人間」と他の動物や事物との間には質的な断絶があるということを強調する傾向がある。後者は、逆に、「ヒト」と他の動物・生物との間の、あるいは「ヒト」と機械との間の連続性にこそ着眼している。前者は、「人間」には、動物や単なる機械にはない「何か」があると主張し、後者は、ヒトが他の動物や機械と、本質的には異ならないメカニズムによって行為し、経験している、というわけである・・・

ここでは、理科系の研究(自然科学)が、主に、ヒト・非ヒトの間の境界を、ぼやかしてきているのだと捉えられている。

これらの点を受けて、わたしにとって大事なことは、人類という名を冠する人類学が、今、いったい何をもって、その学の対象(=人類、人間、ヒト)を定義するのかという問題である。そういう言い方で、別段、人類学の延命そのものを意図しているのではない。ヒト、人間というのが、自明なものとして疑う余地のなかった(と思われる)19世紀から20世紀の初頭に比べて、今日、明らかに、ヒト、人間を取り巻く学的・社会的状況が変化してきている。その意味で、ヒト・非ヒトの間の境界のぼやけた現状を視野に入れて、現在、「人類」という名を冠する学に位負けすることがない人類学が、打ち立てられるべきであると思う。もう一度、正面から、人間とは何かということを問う人類学に取り組む以外に手立てはないのかもしれない。


(写真は、ボルネオ島カリス社会のひとがた。ヒト以外に、ネコ、イヌなどのペット、銅鑼などの威信財が、米の粉をこねてつくられ、精霊の餌食として、葉の上に乗せて、川の流れに流される)


自然

2009年02月07日 17時05分56秒 | 自然と社会

トーマス・ヒランド・エリクセンは、『人類学とは何か』(世界思想社)の1章を「自然」にあてている。とりたてて、物凄いことや論争的なことが書かれているわけではないが、未熟な覚書として。「自然保護」とは、「自然がもはや自助能力を失い、生き残るには文化が提供している保護に依存していることを示している。自然へのこうしたかかわり方は、人間の歴史では特別なものである」という認識は適確であろうと思う。そこでは、人間の手が加えられることで対象化された「自然」が、もはや人間の管理なしには持続し得ない状況が、「自然保護」として捉えられている。それが、歴史的には、新規的なものであるというのだ。エリクセンは、レヴィ=ストロースを引きながら、自然と文化の対照性(対称性の翻訳まちがいだと思う)が、普遍的に存在しているとは考えにくい、とも述べている。つまり、「自然」が見事に残っているという、見た目の背景には、人間の手が加えられているという、自然に対する文化の優位性が、築かれてきたという問題があるという認識に立つ。エリクセンは、その後、農夫と狩猟民を対比させて、前者が、自然を敵視する傾向にあり、後者が、自然を隣人として捉えていると述べて、さらには、前者に、西洋社会の自然観が加わったときに、「外なる自然」という考え方をベースとして、「自然保護」というイデオロギーが作動するというようなことを、手短に述べている。このあたりの部分が、じつに、短絡的に感じられる。一つは、農夫と狩猟民の自然観の相異、もう一つは、西洋社会の自然観をどのように捉えればいいのか。農夫と狩猟民のちがいと言っても、一概に語れるものではあるまい。わたしの調査対象であるプナンのことばには、「自然」という語がない。マレー語の自然(alam)にあたるものを、彼らはもたない。そのことは、プナンが、ジャングル(vaak)、イノシシ(mabui)、動物(kaan)、水(bee)・・・という具体的な対象存在を、一気に、「自然」というカテゴリーに上昇させるような方法をもたないということを示しているのではないだろうか。「自然」ということばのなかに閉じ込めて、わたしたち(わたし)が、プナン社会で見られる事柄を語ろうとした瞬間に、その組み立てを根本から破壊するような何かがある。説明しようとするからいけないのか、そうでなければ、何とする?

(写真は、ジャングル)


橋蔵さんゑ

2009年02月06日 17時58分54秒 | エスノグラフィー

インフルエンザからじょじょに復調しつつあるが、それを理由として、寝たり起きたりしながら、な~んも仕事をしないのは、そのこと自体じつに気分がいい。日ごろテレビはあまり見ないが、ケーブルテレビの時代劇チェンネルでやっている「銭形平次」は、録画して暇があるときに見ている。大川橋蔵のやつである。昭和41年から59年まで、テレビ放映していたという。リアルタイムで見れないことはなかったが、見たような記憶はあまりない。見ているのは、もっぱら、ケーブルテレビをとおして、ここ数年のことである。平次役の大川橋蔵は、体調を崩し、番組放映直後に亡くなったという。お上の御用聞き、十手持ちとしての、いささかの揺るぎのない、あの気風がたまらなくいいのだ。女房役のお静の配役として、八千草薫、鈴木紀子、香山美子のものを見たが、個人的には、香山美子がいい。子分の八五郎は、林家珍平が、じつにいい味を出している。爆笑王(落語家)・林家三平の弟子で、役者に転向したのだが、インターネットで検索すると、すでに亡くなっているようだ。三輪万七役の遠藤太津朗は、存命だそうだ。毎回、ゲストが出るが、そいつが善玉の場合もあり、悪玉である場合もあり、他方で、いつもながら、悪玉で出演する配役がいる場合には、犯人が、最初の10分くらいで分かったりする。長屋風景などで、ときどき、落語ネタが投入されていることもある。そんなこともあり、平次、けっこう気に入っている。ざれがきです、はい。

(写真は、大川橋蔵(c)東映)


生きるために生きる、その3

2009年02月05日 22時00分57秒 | エスノグラフィー

インフルエンザで寝込んでいるが、大学の仕事で、なかなか気が休まらない。というのは、あまり詳しくはいえないが、文化人類学専攻の教育上の取り組みといえるべきものに関して、大学当局からのじつに不愉快な権威主義的な統制の動きがあったからである。

そのやりとりの瞬間、わたしには、ひとつのフィールドの現実が目の前に浮かび上がった。きわめてシンプルな、「生きるために生きる」というプナンの生き方が、わたしの心に届いたのである。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/d12c20eb336dde24cfe6c4b92b48645f
いつもは、フィールドワークを終えた瞬間に、「生きるために生きる」ことの意義について考えるのだが、今回は、現代日本の現実のなかに居ながらにして、考えてみた。

「生きるために生きる」のではなく、生きるための
別の目的・目標を設定して、なんらかの使命感や理想を抱きながら、わたしたちは、生き暮らしている。逆に言えば、われわれの社会では、そうした使命や理想こそが、生きることを、根源から駆動させている。そうでしか生きていくありようがない社会に、わたしたちは、みずからの身を深く深く沈めているのではないか。そのありようが、深く構造化されているがゆえに、逆に、使命や理想を見出すことができない「生きるために生きる」ような人は、社会から弾きとばされて、いや、みずからの内部に閉じこもってゆく。「生きにくい/生きづらい」というのは、だから、いまに始まった問題ではない。そういった、わたしたちの社会における各個人の目標設定なるものに関わる構造的な問題なのである。

何が言いたいのか。ひとつは、使命感や理想ほど厄介なものはないということ。しかし、それをつねなるものとさせているわたしたちの社会の成り立ちは、岩のように硬い。そうした現実がある一方で、プナン社会のように、「生きるために生きる」という、ひじょうに古い時代の人間の生き方が、同じ地球上にある。プナン的な生き方なるものを、わたしたちの生き方に開いていきたいと願っている。結局のところ、そういう使命感や理想もまた、厄介なのかもしれないのだが。ということで、わたしは、語る場を失ってしまう・・・


(写真は、プナンと吹き矢)


インフルエンザと落語

2009年02月04日 16時13分53秒 | エスノグラフィー

昨日は、朝から研究室でふつうに仕事をしたが、昼から、頭痛がしてなんとなく熱っぽく、夜、近くの医院に行ったら、インフルエンザだった。リレンザを吸引している。本日から、教授会、組合の仕事、入試などが目白押しだったが、すべて休ませてもらった。今週一杯は、自宅療養だろう。関係者のみなさまには、たいへんご迷惑をおかけしております。思えば、インフルエンザにかかった記憶がない。朝、母に電話をして聞いたが、子どものころにもかかったことがないという。この年齢にして、インフルエンザ初体験である。感染症としては、これまで、マラリアに3回かかったことがあるが。昨日から今日にかけて、発熱がなかなか引かない。本やたまっている文献でも読めるかと思ったが、頭はボーっとして、ぜんぜん使い物にならない。ちょうど、今朝、頼んであった『談志百席・第二集』が届いたので(写真)、それを、もっぱら聞いている。わたしの落語との出会いは随分古い。もっぱら聞くほうであるが。東京に出てきた頃のことだから、20年以上も前のことである。90年代に2年間、ボルネオで人類学調査をしたときには、NHK国際放送(ラジオ)で、玉置宏の落語番組を聴くのが楽しみであった。帰国後も、毎夜2演目やる落語をテープ録音し、ずいぶん、落語テープがたまった。おそらく、その番組も、96年か97年くらいには終了している。生の落語も、新宿末広亭や池袋演芸場だけでなく、ホール落語にも、ずいぶんと出かけた。いまでも、末広亭には、ときたま行く。テープからCD時代になって、CD落語全集をずいぶんと集めた。志ん生、円生、文楽、小さん、可楽、志ん朝・・・上方落語では、米朝、枝雀など。しかし、わたしのコレクションのなかで、ずば抜けて多いのが、談志ものである。録音が多いのである。また、好きだというのもある。談志の理屈が好きである。彼が好きな、文楽の十八番の「よかちょろ」「酢豆腐」などの粋な落語も好きである。談志をとおして、落語の世界は、別のものとして開かれる。『談志百席・第一集』の、「善達」や「吉田焼き討ち」などの、由比正雪の乱を題材にした講談の語り読みに、わたしは、うなった。で、二集を買ったのであるが、さきほど、わたしの好きな演目「持参金」を聞いてみたが、内容的には、ちょっと、残念に思った。女の顔の描写など、細部を大きくそぎ落としてしまっている。わたしたちは、米朝の極め付きの「持参金」を知っているからだろうと思うが。それに比べてということである。どういう話か。お店(たな)ものが朝、男のところに、以前貸した金二百両を返してほしいとやってくる。今日必要なんだと急がせて帰る。入れ替わりに、吉兵衛がやってくる。男に、妊娠8ヶ月の女を嫁としてもらわないかと。男は、いったんは断るが、二百両付きだということで、引き受ける。夜に、吉兵衛は、女(おなべ)を連れてくるが、二百両はまだない、明日ということで帰る。翌朝、お店ものが、金を受け取りに来る。じつは、ぶ女を手篭めにして、妊娠させてしまった。宿下がりをさせなければ、自分の出世にさわるということで、吉兵衛に相談すると、二百両の「持参金」を付ければ、誰かがもらってくれるだろうと言ったという。男の後のほうを見ると、当の女、おなべがいる。男に持ってくる吉兵衛の金は、お店ものが、男から返してもらうはずの金なのである。じつに、よく考えられた話である。しかし、談志は、みずから演じておきながら、そのストーリーの展開に疑問をさしはさむ。お店ものが男に二百両の返金を急き立てるというのは、おかしいのではないかと。もし、女(おなべ)の嫁ぎ先がすでに決まっているのなら、急がせるのは分かるが、まだ決まっていないのに、返金を急き立てるというのが、理解できないと談志師匠は言う。矛盾だというのだ。談志の真骨頂は、このようにして、理詰めで、ストーリーそのものを分解する点にある。おそらく、彼の持ちネタのすべてに対して。その意味で、う~ん、談志師匠って、すごいね。


大学のいま

2009年02月03日 16時04分53秒 | 大学

新年の授業が再開されて間もなく、1月15日に、弊学の庭のどまん中に、巨大な孔子像が、とつじょ、地面から屹立するように現われた(写真は、除幕の風景:白黒反転しています)
http://www.obirin.ac.jp/headline/0731.html

現在、わたしたちの学びの場の中庭に建てられた孔子像をめぐって、学園内は、ざわめき立っている。

孔子像は、キリスト教主義の大学にふさわしくないのではないか。孔子像の陰で、創立者の像がないがしろにされているではないか。孔子像の脇にある案内板には、男尊女卑のことばが刻まれていて、弊学の教育理念に合わないのではないか。いや、孔子像は、本学の文明間対話のシンボルとして捉え直すべきではないだろうか・・・孔子像をめぐる論議は、今後、いったい、どのあたりに着地するのかまだ分からないが、その背後には、弊学園の運営体制が抱える構造的な問題がある。

詳しくは、2月6日桜美林大学教職員組合発行の「くみあい通信」をごらんください。


『セックスの人類学』まもなく刊行!

2009年02月02日 13時22分54秒 | 性の人類学

話は前後するが、先週の月曜日から火曜日にかけて、春風社から3月に刊行される「来たるべき人類学シリーズ1」の『セックスの人類学』の編集者と共編者で、伊豆に行ってきた。編集者と共編者計4名で、全体のなめらかさと原稿の精度アップを目指して、合宿を行ったのである。本づくりのための最終合宿は、この本に賭ける関係者の意気込みを示している。あと一本、完成原稿を待って、2校を終え、印刷に回る予定であるが、今の段階で、表紙の図案もある程度決まっているようである。構想から人選、執筆、まとめに至るまで、丸2年かかった。内容的には、ポストモダンの批評理論の影響を受けて内向的になり、このところ、停退気味の人類学の大胆な組み換えを視野に入れながら、来たるべき人類学の展望を示すシリーズの初回配本の役割を果たしているのではないかと、わたし個人としては、感じている。動物行動学者、霊長類学者、人類学者総勢10名が、フィールドワークによって得られたデータから、行為としてのセックスに絞って執筆している点が、この本の大きな特徴である。エロス的な想像力などを含む観念としてのセックスではなく、ヒトと動物に共通する根源的な行為である性行動(=セックス)に焦点をあてて、ワクワクするような人類学を目指している。乞うご期待。写真は、プナン社会のペニス・ピン。本物ではなく、木を削ったつくった模型で遊んでいるところ。だから、お願いだから、このページは、削除しないで。本には、プナンのペニス・ピンの生写真は掲載されるのかどうか。社内では、リジェクトされたらしいが・・・


熱帯のニーチェ

2009年02月01日 22時09分08秒 | 自然と社会

時間の観念をもたず、反省もしない、向上心ももたないし、うつ病のような精神の病もないようなプナン人たちのことを、いったい、わたしたちはどのように理解すればいいのか。弁証法的な理性に欠けるような日常の態度(だからと言って、それを蔑むのではなくて、むしろ、そのことに楽天的な希望のようなものを感じるのであるが・・・)を、どのように捉えればいいのか。そういったことに対して、昨年、Nさんから、プナン人の精神は、プラトン以降ヘーゲルまでの西洋哲学の文化形成に挑んだニーチェを喜ばすことになるかもしれないというようなこと聞いて、それ以来、そのことがずっと気になっていたのだが、Nさんの論点のエッセンスがつまった、Nさんの先生である木田元『反哲学入門』を手に入れたので、(じつは、そんなことをしている場合ではなかったのだけれども、)今日、それを一気にむさぼり読んだ。これは、じつに明解な哲学書である。たしかに、光が見えた気がする。喜びのあまり、忘れないうちに、感想のようなものを、手短に書きとめておきたい。

哲学のおおもとの問いは、ソクラテス、プラトンなどのギリシア哲学の時代に与えられた。ソクラテス以前の人たちは、「自然(フユシス)」を、「なる」「生成するもの」として捉えていた。それは、日本の古代の自然観とも共通するものであったが、ソクラテス以降の知恵者たちは、自然を超自然的な(形而上学的な)原理を用いて、理解しようとした。プラトンは<イデア>、アリストテレスは<純粋形相>、つづいて、キリスト教神学では<人格神>、デカルトは<神的理性>に、何が存在するのかしないのかという哲学の問いの答を決定する役割を与えた。デカルトの100年後、カントは、<神的理性>から<純粋理性>を切り離して取り出した。その後、ヘーゲルは、プラトン以来の超自然的(形而上学的)思考様式を更新して、近代哲学を完成させたという。ハイデガーは、「こうして超自然的思考様式ーー伝統的用語で言うなら形而上学ーーはヘーゲルのもとで理論として完成され、以後は技術として猛威をふるうことになると言っております」(前掲書、161ページ)。

その後、19世紀に、ニーチェは、人間によって最高の諸価値として設定されたものでしかない超自然的な思考様式によって、文化形成がなされてきたヨーロッパを、虚無主義であると批判した。「彼に言わせると、プラトン以降のヨーロッパの哲学と宗教と道徳は、総力を挙げてこのありもしない超感性的価値の維持につとめてきたのであり、その意味ではそれらはことごとくプラトニズムなのです」(前掲書、182ページ)。「彼(=ニーチェ)がここでおこなっているのは、最高価値そのものの批判というより、そうした最高価値を設定してきたこれまでの価値定立の仕方、つまり超自然学(形而上学)を本領とする哲学、キリスト教に代表される宗教、そして生を抑圧する禁欲を標榜するストア以来の道徳に対する批判であり、『プラトニズムの逆転』『形而上学の克服』を企てるのです」(前掲書、184ページ)。ニーチェこそが、プラトン以降のヘーゲルに至る西洋哲学の価値転倒の先駆者なのである。

ハイデガーは、後に、ニーチェが、プラトン=アリストテレスの存在概念の束縛を脱し切れなかったと述べて、ニーチェの限界を指摘している(前掲書、200ページ)。ニーチェの「反哲学」のメルロ=ポンティ、デリダ、フーコーなどへの影響は、わたしは、ひじょうに重要であると読んだが、その点はひとまず置くとして、プラトン/アリストテレス以前の「自然」とは、プナンのそれにも重なるのではないか。熱帯のジャングルに隔絶されてきたがゆえに、プナンには、人の社会の古い「自然」がそのまま残っているのではないだろうか。わたしは、
哲学とも反哲学とも無縁であり、「自然」そのものを、「なる」「生成するもの」として捉えることからあふれ出す、プナン人の日常の思考と態度の考察を、少しだけであるが、一歩先に進めることができるような予感がしてきた。

取り急ぎ、覚書として。

(写真は、食事をするプナン)