たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

プナンの地へ

2007年08月03日 19時21分32秒 | フィールドワーク

シブからバスで3時間半、ビントゥルに着いた。

明朝、プナンの村に向けて出発する予定である。

今回調査してみたいと思っていることを、以下に書きとめておきたい。

(1)人間と動物の関係をめぐる問題;
動物園には、人間の観察に用するために、動物たちがひとところに集められている。ペットは、人間とは違う動物でありながら、愛着・愛情の対象となるが、逆に、人間の手に余って、捨てられたりすることもある。動物はまた、ひとところに集められて、され、当初のかたちからは想像できないようなものとなって、わたしたちの台所へと運ばれる。動物は、農作物を荒らす害獣として、駆除されることがある・・・現代社会における人間と動物の関係は、歪んだところがない、正しいものなのだろうか。元・狩猟民たちは、動物との間に、どのような関係性を、築いてきたのだろうか。広く知りたい。

(2)性をめぐる諸問題;
昨年1年間の調査をつうじて、分かったのは、プナン社会が、大人になるための制度や儀礼といったものを用意していないということであった。ボルネオの他の民族のように、首狩りに出かけて首を手に入れたり、なんらかの成果をもちかえってはじめて、求愛・求婚が許されるということにはなっていない。プナン社会は、性に自由な社会であり、少年少女は、10代から、まずはおおらかなかたちで、性交をつうじて、子どもを設け、その後に、家族のかたちを整えてゆく。さらには、10代、20代、30代と、成長する過程で、多くの場合、順次
パートナーを替え、そのそれぞれの夫婦のなかで、子をつくってゆく。それがために、ある個人には、たくさんの異父母兄弟姉妹がいることになる。家族のありかたは、彼らの性行動の結果であり、そうした問題系の解明に力を注ぎたい。また、ペニスピンという性道具についても、その使用の広がりを知りたい。

(3)放屁や糞便をめぐる問題;
アフリカの諸社会では、おおむね、人前で放屁することは、タブーとされているらしい。プナン社会では、それは、一部には、美学として探究されるような現象であるように思える。放屁について、調べてみたい。
さらには、糞便について。子どもたちは、木の枝に上って、そこから、わたしに見るようにといって、糞便をしたことが何回かあった。わたしは、子どもたちに糞場につきまとわれて、困ったことが何度かあった。また、プナン人は、糞便を処理する場合、一般に、木の枝を用いる。そうであれば、糞便処理に、水を用いるというような行動は、最近になって、外部からプナン社会に入ってきたやりかたであるのかもしれない。

この一月は、ざっと以上のようなテーマを掘り下げたいと思っている。


日本脱出

2007年08月01日 14時56分18秒 | フィールドワーク

昨日、4ヶ月ぶりにクチンにやって来た。

日本出国直前、成績評価やシラバス作成などの学務をやり終えたと思ったのもつかの間、本づくりにおいてのっぴきならない窮状が生じて、そちらの作業に全力を投入することになった。昨日、ようやく、その危機を脱し、いまは、晴れ晴れとした心境である。

7月30日に、成田からコタキナバル行の飛行機に乗ったが、そこで、同じくこれからプナンに向かうO大学のKくんに会った。コタキナバルの空港では、不覚にも、われわれは、アナウンスを聞き逃して、クチン行の乗り替え便に乗り遅れるという失態をおかしてしまった。コタキナバルで夜を明かし、昨日(31日) 、一日遅れで、クチンに到着した。

Kくん曰く、「荷物が届かないということは、よく
聞きますけど、荷物が届いて人が届かないっていうのは、珍しいんじゃないですかね!」。かくして、われわれは、先にクチンに到着していたわれわれの荷物を手に入れることとなった。

飛行機のなかで、O・呂陵著、『放屁という覚醒:~人類学的放屁論のフィールド1』を読んだ。われわれの暮らしのあちこちにある、なんでもない放屁。それは、生物学的現象である以上に、すぐれて、社会的・文化的な現象でもある。著者は、他者の放屁を迂回して、縦横無尽に、放屁という現象を考察する。その人類学的な覚醒の経験は、ひじょうに刺激的である。