たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

殺生し、解体する

2011年09月26日 21時44分10秒 | 人間と動物

夏にモンゴルに行ったとき、お願いして、羊の屠畜と解体作業を見せてもらった。

息の根を止めて、動かなくなるのを待ち、心の臓あたりから手を入れて、このとき、おそらく、頸動脈を切ったのだと思う。↓

その後、身体を縦方向に、ナイフで開いて行った。↓




続いて、足を切断し、内臓を取り出した。

その後、心臓の背中側にできていた血の塊を取り出した。↓

皮が丁寧にはがされ、広げられた。肉は料理場に運ばれていった。↓

畳まれた羊の皮は、ウランバートルに行ったときに売るのだと聞いた。↓

この間、ほとんど血が滴らなかった。

その手さばきは、お見事だと思った。

草原で、水が希少である環境で編み出された解体法ではないかと思った。

それは、必ず川べりで行われる、血をたらたらと滴らせるボルネオ島の動物解体とは著しく異なる。↓

生きる。

生きるために、人は、他の生命体の命を奪う。

モンゴルの牧民は、育てている家畜を殺す。

ボルネオの狩猟民は、野生動物を追い、殺害する。

殺し方にもいろいろある。

槍で突く。棒で殴り殺す。銃殺する。毒殺する。苦しまないように急所を狙う場合もあれば、いたぶり殺すこともある。

現代の工場畜産では、大量飼育し、大量に殺す。

シピーシズム(種差別主義)批判者たちのなかには、それを、ホロコーストになぞらえる人もいる。

仏教は殺生戒を設けている。

菜食主義者は(殺すことに抵抗して?)肉を食べない。

動物を殺さないで、生きてゆくこともある。

そのような事柄を、アメリカ、アジア、アフリカで、綿密なエスノグラフィーのなかに考えてゆきたい。

その先に、いったいどんな真実が見えてくるだろうかと想う。

とにかく、面白そうだ。

人類学だとも思う。


静かなる革命

2011年09月25日 22時08分42秒 | 自然と社会

文化という概念は、手垢のついた時代遅れの観念であるとされる。 文化をめぐっていま何が議論されているのか?一般には知られていないが、相当に根源的な、大きな問題が議論されている。それは、「静かな革命 a quiet revolution」と控えめに表現される。別名、「存在論的転回 ontological turn」。それは、一昔前の、ポストモダンな文化論(ジェームズ・クリフォード一派)は、はるかに霞んでしまう「革命」なのである(あれは、いったい何だったのか?)

 静かなる革命とは、例えて言えば、野田首相の国連での原発をめぐるややあいまいな演説があったけれども、原発推進なのか脱原発なのかを含めて、私たち日本人が日々格闘している現代政治や経済、さらには科学をめぐる諸問題には、私たちには染み込みすぎていて気づかないでいる根本問題があり、そのことを暴き立てて、
私たちの考え方、暮らし方に根底の地点から、問い直しを迫るような知の革命である。言ってみれば、現実に接近できるのは人、しかも科学的な知識を身に着けた人だけであり、そうした、自然を文化(=精神を持った人の実践)だけが扱えるとする存在論でもって、私たちは、あらゆる事柄、現象、文化実践の理解に努めてきたのである。その意味で、遠く離れた場所に住む人びとが持っている知識は、西洋の存在論から、自然をめぐる知識としての世界観であるとして、認識論の枠組みのなかで俯瞰的に捉えられてきた。

 文化人類学は、マリノフスキー以来この百年間、
「現地人の観点から」というようなスローガンのもとにやってきたのではなかったのか?文化人類学者は、「異文化」を理解しようとしてきたのだけれども、しかしながら、その理解は、あくまでも、文化行動を人だけに割り当て、自然から切り離す西洋二元論思考に基づいたものであったことになる。だから、動物が人のようにふるまうことを普通のこととして捉える人びとや、神霊と仲良くする人たち、言いかえれば、人と人以外の存在を連続的なものとして捉える人びとのことを、根本のところからは捉え切れていないのである。そうしたことは、あくまでも世界に対する一つの理解、世界観という認識であると捉えられてきた。

 

 エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロによれば、南米の先住民諸社会では、人であれ、動物や精霊などの人以外の諸存在であれ、それらは、つねに変化する身体を持ち、再帰的な観点をもつ主体であるとされる。そこでは、人も動物も精霊もすべて、自らを「人」であるとみなしており、動物や精霊たちもまた、人と同じように社会組織を持つと考えている。ヴィヴェイロス・デ・カストロは、南米先住民諸社会では、人と人以外の諸存在は、見かけが異なるという点で非連続的であるが、他方で、人間性をや社会性を共有するという点で、連続的であると主張する。

 

 人と人以外の存在の間に断絶があるのではなく、人間性に関して、その関係が連続的なものであるとされるような存在論のあり方に照準を当てるために、ここでは、レヴィ=ストロースが、『構造人類学2』のなかで取り上げた、大アンティル諸島のエピソードを見てみよう。

 

大アンティル諸島では、アメリカ大陸発見から数年後に、スペイン人たちが原住民たちに魂があるかどうかを確かめるために調査団を送り込んだ一方で、原住民たちは、長期間の観察をつうじて、死体が腐敗するかどうかを確かめるために、(スペイン人の)囚人たちを溺れさせたのである

 

 異質な文化の遭遇の時代に、スペイン人とアメリカの原住民の双方が、互いをどういった存在であるのか知ろうと試みたのである。これを踏まえて、ヴィヴェイロス・デ・カストロは、他者存在に関する調査法が、スペイン人と大アンティル諸島の人びとでは全く逆になっていると指摘する。彼は、スペイン人にとっては、他者が「魂」を持っているかどうかが問題であり、他方で、原住民の目的は、他者がどのような「身体」を持っているのかを見出すことであったのだと言う。

 

 大アンティル諸島の原住民たちは、動物や精霊が持っているのと同じように、ヨーロッパ人たちが魂を持っていることに一向に疑いを差し挟むことはなかった。原住民たちが知りたがったのは、そうした魂を持つ身体が、自分たちと同じ人間性を持つのかどうか、つまり、ヨーロッパ人たちは、人間の身体を持っているのか、あるいは、腐敗しにくい、変幻自在の霊の身体を持っているのか、一体どちらの身体を持っているのかを知ろうとしたのである。いいかえれば、大アンティル諸島の原住民たちにとって、ありとあらゆる存在が魂を持つことは周知の事実であり、形態上の身体のあり方こそが存在の違いであることになる。

このエピソードは、二つの存在論の激突を示している。

池田光穂さんによる、「サンファン島先住民によるスペイン人溺死実証実験」の部分訳とコメントについては、以下のHP参照。

(ゴンサーロ・フェルナンデス・デ・オビエド・イ・ヴァルデス『ラス・インディアスの一般史と自然史』(1535年))
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/110921ahgadoESP.htm


講演録(「セックスの人類学」)

2011年09月24日 22時26分39秒 | 性の人類学

「セックスの人類学~ヒトの性への多様な接近~」
 
講師:奥野 克巳(桜美林大学)

http://www.jssm.or.jp/3rdmeeting/sub3.html

【はじめに】 
人の性の多様性について考えてみたいと思います。人も霊長類ですが、とりわけ人以前の霊長類では父の存在はまれです。父親がいなくても子は育つと一般には言われています。ところが、人には父親、あるいは父親的な存在がおります。人の社会では父子の関係というふうなものが非常に多様なものとして現れます。ここでは、性と関連づけて父子関係について少し考えてみたいと思います。
 一つ目にご紹介しますのは、南米のベネズエラのバリという社会です。彼らは、アマゾン川の流域に住んでいる人達ですが、その社会では女性は結婚後、妊娠をした段階で複数の男性と性的な行為を行います。そういったことが推奨されています。愛人は胎児の健やかな発育を促すと考えられているためです。その後、妊娠して出産した女性は、森のなかで出産をするのですが、妊娠中にもった愛人、すなわちセックスをした相手の男の名前をその場でに明かします。そのことを耳にした女性達は、村に戻って、その女性に名指しをされた男達に子どもが生まれたことを伝えます。すると、父親になった男達は、肉であるとか食料をプレゼントとして母と子どもに送り届けます。
 子どもが成長すると、母親は、父親たちが歩いているところを指さして、あれがおまえのお父さんだよ、魚や肉をもらえるよ、というふうに言います。なぜこういうことをするのかと言うと、この社会では食料へのアクセスが男だけに限られています。男が狩猟に行って、採集をする、そういった社会です。そういった社会では母と子、つまり女性と子どもが生き残るためには、女性からのセックスが必要とされるわけです。セックスはこのバリ社会では、女と子ども、あるいは母と子の生存のための戦略となっているというふうにみることができます。
 二つ目です。ニューギニア島の東部にトロブリアンド諸島という島々があります。トロブリアンド諸島は母系社会ですが、母方のオジから甥に対して権利や義務が継承されます。そうした社会を調査したマリノフスキーによると、今から100年くらい前の20世紀の初頭には、父と子どもの間に生物学的な繋がりが認められていなかったのです。
 人は死ぬと、この人達の考えでは、死の国に旅立つわけです。これは海の彼方にあるのですが、死霊となった人は、やがてそこでの暮らしに飽きると、再びこちら側、現世に戻ってくるのだと考えています。その時に、霊児、精霊の子どもとなります。精霊の子どもは女性の頭部、あるいは膣から女性の体内へと戻ります。セックスがどういうふうに考えられているのかといいますと、セックスは霊児が膣を通るための道を開けるための行為であるというふうに考えられていました。
 
精液についても認識をしているわけですが、それは霊児が通る道を滑らかにするためのものである考えられていたという報告されています。霊児が通るための道を開けるために行われるのがセックスであって、精液は道を滑らかにするものであるわけですから、精液が受胎、あるいは妊娠に関係がないとされるわけです。だから、精液が受精に繋がって、妊娠し出産するというのです。夫が長い留守中に生まれた子どもは、戻ってきた夫によって喜んで受け入れられて、慈しんで育てられたというエピソードが、マリノフスキーによって報告されています。
 
民族誌(エスノグラフィー)とは、ある文化を体系的に記述したものですが、民族誌を読んでゆけば、セックスの多様なあり方に接近することができます。以下では、視野をもう少し広げて人類史を視野に入れながら、人の性への接近のその諸事例を示しながら、人のセックスの多様なあり方について描き出してみましょう。

【ハヌマン
・ラングールにみられる子殺し行動と性】
 14億年くらい前に、その頃に性というものが生まれたとされていますが、そこまでさかのぼると大変なことになりますので、ここでは、人に近い種である霊長類を取り上げることによって、生き物の性の営みについて見てみましょう。 ハヌマン・ラングールは、インド亜大陸とセイロン島に生息するサルです。ハヌマン・ラングールは、集団で、樹上生活ではなくて、地上には頻繁に降りてきて暮らしてます。大人の雄は、実はこの中では1頭だけです。8頭前後の雌と、その子を連れていわゆる「ハーレム型」の社会を形成しています。雄が1頭で、多数の雌ですから、雄が必然的にあぶれてしまいます。そのあぶれ雄達は、このハーレムの周囲を常にうろうろしながら暮らしています。
 
ハーレムに君臨する雄が弱ってくると、あぶれ雄の集団は攻撃を仕掛けて乗っ取ろうとします。ついには、あぶれ雄の集団が襲いかかって、乗っ取ってしまいます。そのうちの1頭が、今度は新しく、またその集団のボスになるわけです。乗っ取った雄は、次々に今度はハーレムの中の子どもを殺していきます。これは直接的には行動としては、雌に対して攻撃行動をするんですが、結果的に弱い子どもが傷を負ったりして、次々に死んでいくわけです。ハーレム内の雌は子どもを亡くすと授乳しなくてよくなって、発情徴候を示すようになります。 
 サルは、雌が発情することによって、雄がそれに応じて交尾をするという一般的なパターンがあります。発情兆候を示すようになると雄、この場合にはハーレムに君臨する雄が交尾をするのです。雌たちは、新たにハーレムを率いる雄のハヌマン・ラングールと交尾して、やがてそのうちに子どもを出産します。なぜその雌が自分の子どもを殺した雄を受け入れるのか、あるいはなぜ雄はそんなにまでして子を殺すのか、こういった疑問が色々出てくると思います。それには、ハヌマン・ラングールの「子殺し行動」の発見者である杉山幸丸さんが答えています。自らもいつ乗っ取られるか分からないからではないかと杉山さんは言っています。子殺し行動については、その後アフリカのライオンや、新大陸のアカホエザルなどでも見つかっています。子殺しというのが動物行動の基本にあるんではないか、本能でもいうことができるかどうか分からないですが、動物行動の核の所にあるのだということがこれまで言われてきました。『子殺しの行動学』という本のなかに、そうした記述があります。

【乱交するボノボ】
 ボノボは、チンパンジーに近い種です。従ってヒトと近いサル種です。この高等霊長類であるボノボは、実は全方位的なセックス型の社会というものを作り上げてきたことで知られています。雄、雌の交尾だけではなくて、雄同士の尻つけすなわち睾丸同士をすりつけ合わさせる性行動、さらには、雌同士の性器のすりつけ、これはGGラビングというふうに呼ばれる性行動などを行います。さらに、マスターベーションを行います。行うというよりも、暮らしのなかで常に彼らの活動の中に見られます。ボノボは、人の性行動とかなり違いますが、非常に手短に性的な行動を行います。雌は妊娠可能かどうかに関わらず性皮を腫らして交尾をします。
 どうしてボノボは、こんなにセックス好きなんだろうかということが疑問として浮かんでくるのですが、これは、先ほど見たハヌマン・ラングールの子殺しを基礎に考えることができるのではないかとい言っている人がいます。フランス・ドゥ・ヴァールという霊長類学者が、子殺しは社会進化を考えるうえで、重要ではないかという意見です。
 先ほど言ったように、動物行動の基本に子殺しがあるとすると、ボノボはある意味においては、セックスを頻繁に行うことによってそれを回避していると言えます。ボノボの雌は子殺しから子を守るために、できる限りのことはしようとする。しかし、大体その雄の方が体格が大きいし、雌の抵抗はしばしば無駄です。
 雌ができることは何かというと、子の父親が誰だか分からなくするという戦略です。雌の対策はなるべくたくさんの雄の求愛を受けておくということになります。そうすれば雄は、子は自分の子かもしれないので、子殺し行動をしなくなるというふうに雌が仕組んだ、あるいはそういうふうに進化したとみることができるわけです。
 な
ぜあれだけ頻繁にボノボがセックスをするのかというと、性が単に交尾だけにとどまらず、進化の過程で他の性行動を頻繁に生活に取り入れるということで、子どもが誰の子どもなのか分からないようにして、つまり乱交型の社会をつくって、そのことによって子殺しを回避したのではないかと仮説が立てられます。ボノボは、生理機能を含めて、セックス主体の生き方を極めていったと、フランス・ドゥ・ヴァールは述べています。
 一方
でチンパンジーは非常に攻撃的で、ある意味で人に似ているというふうに言われています。実は、チンパンジーは肉食もするのですが、相手を殺した後に、足の骨を折ったり、あるいは目ん玉をくり抜いたりするという、攻撃的な性格が発見されています。
 それに対して、ボノボという非常にセックス好きな、社会調節の機能をもつものとしてセックスをしているという種もいます。人間は、その両方の特徴を受け継いでいるというのがフランス・ドゥ・ヴァールの主張ですが、私たちのなかには、サルが潜んでいるというのです。 

【核
家族化したヒト】
 
これに対してヒトは、子殺しという動物がもっているその基本的な行動に照らせば、ボノボのような乱交型の社会をつくってはきていません。
 ヒトでは、男女が一対一でペアとなって、核家族をつくっています。そのなかでセックスの相手というのは一人に限定してきました。これは、ヒトが核家族をつくることで、配偶者を必ず得るということができるようになったことに結びついていくのですが、性的な接触を決まった相手に限定することを、核家族化のなかで実現したわけです。ヒトは父子、つまり父と子の関係というものをはっきりさせることによってボノボとは違う道を歩むようになったというふうにみることができます。ヒトの女は、保護者である男が他の魅力ある女性にとられないように、男にセックスを提供したんではないのだろうか。
 逆に男は、食べ物をとってきて女と子どもに与えることで、そのことによって子育てに参加し、父性というものを獲得していったという仮説が立てられています。また、男は誰が父であるか分からない子を育てるつもりはないので、あの手この手で女の行動を自らの管理下においたとも考えられています。これが最近の議論の大まかな方向です。
 ヒトの女性にも他の霊長類の雌と同じように月経周期があって、周期的に性促進、抑制ホルモンの分泌量が変動します。しかし、ヒトの性行動の一番大きな特徴というのは何かというと、ヒトは発情徴候がないということです。これについては何人かの人類学者が仮説を立てていますが、ヘレン・フィッシャーは、ヒトの女は男をつなぎ止めるために、日常的にセックスを可能にして発情兆候を隠した、そのことによって性の強者だというふうな見方をします。ラブジョイも、ほとんど同じなんですけれども、男が食糧確保をし、女が子育てをするというそういった分業のなかで、女は男をつなぎ止めるために、発情兆候を失ったという説明をしています。
 男女が一夫一婦的に繋がって、核家族化することによって、女は男の攻撃、とりわけその子殺しから身を守ることができるというようになった。ヒトの男は誰でも満遍なく、その生殖の機会というものをもつことができるようになりました。このことが、人間社会の発展、進化に有効に働いたのです。男同士が協力し合って、個人ではできない大きな仕事をやり遂げることに繋がっていったわけです。昼間、男同士で協力して働いて夜に家に帰ると、そこは核家族で、性の相手の奥さんがいる、そこでセックスが保証されるわけです。それが平等に、男に機会として与えられたと。男たちは、協力して、いがみあってその女性のためにけんかをするのではなくて、協力をして大型獣を倒したり、さらには大陸横断鉄道を敷いたり、政府や軍隊を組織したり、そして多国籍企業を作り上げたりした。今日のヒト社会の発展っていうのは、じつは、女が発情徴候を失い、男女のペアがつくられて、核家族が築かれたというあたりにあったのだということを、フランス・ドゥ・ヴァールは主張しています。
 いずれにせよ、そうした進化の過程において、ヒトの女は発情徴候をなくしたのです。例え自覚があったとしても周期的ではなくて、男には分からなくなった。そのため、発情徴候が見えないわけですから、その見えないものに対してはどういったかたちで進化したのかということですけれども、ヒトは、性的な想像力を別のレベルにおいて高める、そのことによって性幻想というふうなものに感応させてセックスを過剰なかたちで発展させることになったんではないかのではないでしょうか。 

ホモセクシュアルの進化】
 
ホモセクシュアリティについても、生物進化の産物であるというようなことが最近言われています。ホモセクシュアルである動物というのは、ヒトだけではありません。私たちだけではなくて、例えばオランウータンであるとかゴリラ、私たちに近い種の動物達も発情徴候を示さない場合があります。こういった種では、雄同士の性的な興奮をともなう同性同士の交渉を行うように進化してきました。同性同士で交渉が行われているわけです。このあたりからやがて、性的な魅力を感じる対象というのは、異性というような枠を超えるようになって、例えば相手の声であるとか、仕草であるとか、あるいは身体のパーツ、こういったものに性的な魅力を感じるということへと進化したのではないかと見られています。ヒトは身体に対して性的な魅力を感じるわけですから、そのことは進化の産物だとみることができるだろうということです。
 しかし、ここからお話しする、人の性の多様性という話では、ホモセクシュアリティというのは生物学上の同性同士による性交渉だけではないということ、つまり、そのように理解するということだけでは、あまりに単純すぎるということについてお話をしていきたいと思います。ヒトの諸社会をみると、ホモセクシュアリティについても非常に多彩な相貌に出会うことになるわけです。

 
【ニューギニア高地サンビアにおける儀礼的同性愛】
 ニューギニアは、日本の南の方に位置する世界で2つ目に大きい島です。ニューギニアの高地に住む人たちのしきたりについて少しお話をします。そこでは、人が生まれると、人は男であるとか、女として生まれるのではありません。全部女性性をもったものとして生まれると考えられていて、男になるためには、女性性を取り除くイニシエーション儀礼をしなければいけないと考えられています。男達は森の中に連れて行かれて、イニシエーション儀礼を施されるわけですが、そこの一番重要な眼目は何かというと、女性性の象徴である胃液を吐かされたり、あるいは鼻血や、舌の血を出すような処置を施されることです。 
 ニューギニア高地の社会では、一般に、女性性を取り除いて、男になることが必要とされています。ここでは、サンビア(仮称)社会を取り上げたいと思います。ここでも、男は生まれながらに女性性を備えていて、それは男性性を枯渇させるというふうに考えられています。男らしさ、男性性というのは自然に獲得されるものではなくて、儀礼の介入がなければ、少年というのは男の能力を獲得することができないと考えられています。
 ここでは、イニシエーション儀礼の第一日目に少年達たち連れて行かれて、女性の汚れを取り除くために、鼻から流血させられます。実はここからが、このサンビアという社会のユニークなところですけれども、その後、少年達は年長者たちのフェラチオを命じられます。口唇性交を命じられて、そのことの口外を禁じられます。少年達は年長者達との秘密のホモエロティックな関係を次第に定着させていくということになります。
 どういうことかというと、女性性を取り除いた後に、今度は男性性を注入しなければいけないと考えられているわけです。ここの社会では、男性性を注ぎ込もうとして、そうしたホモエロティックな関係を続けるのです。年長者と年少者の間でそうした関係を続けて、年長者から、いわゆる男性性の象徴である精液をいただくのです。そのことによって、少年たちは成長のための精液を与えられてたくましさと、生殖能力を徐々に獲得していくのです。1日だけでは終わりません。ずっと続く関係の中で、男性性を獲得するわけです。
 精液を、いわゆるフェラチオをして飲み込んで注ぎ込むとともに、食べ物にかけて食べるということも報告されています。その後、今度は15歳くらいになると、精液を注入される側ではなくて、今度は逆転して年少者へ精液を提供する側へとなるわけです。そのようにして、精液が充満し、男らしくなると、妻を娶ることができるようになるのです。女性とのセックスを行うようになっても、少年との秘密の関係を続けるのだけれども、父親になるとそういったホモエロティックな関係を終了させます。
 男は最初精液の受け手になるわけですね。受ける側になって、精液を注入してもらって男らしさを獲得するのです。次には、年少者への精液の与え手となるわけです。この過程で男はホモセクシュアルです。後に、その関係を続けながら女性と結婚するわけですから、ある時はバイセクシュアルになる。最後にはそのホモセクシュアルな関係をやめてしまって、ヘテロな関係だけになります。こういったことが報告されています。
 この社会ではホモセクシュアル、ホモというのは、私たちが考える人の属性のカテゴリーとして考えられているわけではありません。サンビア人は、私たちが考えるホモであるとかゲイの概念を理解することができなかったと報告されています。そこではホモセクシュアリティとは何かと言うと、儀礼的なプロセスなのです。ホモセクシュアルより大きな社会的な背景から独立しては存在しないのです。

【第三のジェンダーという性】
 インドネシア、スラウェシ島のチャラバイという第三のジェンダーについて見てみたいと思います。この辺りは、いわゆるその第三のジェンダーが多く報告されています。多いだけではなくて、それらは社会的にかなり認められています。
  インドネシアにスラウェシ島というのがあって、そこにブギスという人が住んでいるんですけれども、そこにはチャラバイと呼ばれる第三のジェンダー、第三のジェンダーとは、男、女とはちがうそれ以外のジェンダーのカテゴリーのことです。そこには、チャラバイと呼ばれる第三のジェンダーがあります。チャラバイというのは、ブギス語で偽りの女という意味です。そのカテゴリーに属する人の性別は基本的に男性です。異性装をして言葉、仕草なども女性のように振る舞う存在です。彼らはしばしば結婚式を盛大に行うのが好きなブギス人の結婚式のビジネスに携わって、客をもてなす料理の準備であるとか、あるいは披露宴を盛り上げる歌謡ショーなどの担い手として役割を与えられています。
 チャラバイは性転換の手術をすることは全くありません。男が女性の心をもつとチャラバイへと進んでいくわけですけれども、最終的に性転換の手術等をしません。チャラバイになった人のほとんどが幼い頃から女の子と遊ぶのが好きであったとか、母の仕事を一緒に手伝っていたという経歴があります。自分の性器にコンプレックスを抱いていて、民間治療師なんかにチャラバイになるというような可能性をほのめかされたという経験をもつ人もいます。
 ふつうは、中学を終えるかどうか、14、5歳くらいに両親の家を出て、結婚ビジネスをやるボスの所に行って、手習い仕事を始めて、チャラバイの世界に入ります。チャラバイは、コミュニティでは、基本的には同性愛者であることが期待されています。多くは同性愛者なのですが、チャラバイのなかには、妻子をもった男がチャラバイになったり、つまりヘテロの性愛傾向からホモの性愛傾向へと変換するというふうなことをしたり、あるいはチャラバイになっていても、ある時期にそれをやめて女性と結婚して、つまりホモからヘテロへと転換する、こういった事例もたくさんあります。
 ブギ
スの社会では、男性という生物学的な性をもって生まれてきたものの、自分を女性として自覚した場合には、女装であるとか、女性らしい振る舞いをすることでチャラバイになろうとするわけですが、そういった人をブギス社会では緩やかに受け入れています。そうした性別と性自認とにずれを示したとしても、性自認を優先させる、つまり自分が何になりたいのかということを優先させて、ある人物が男とチャラバイの間を行き来したとしても、そのありのままを受け入れるのです。
 こ
こは少し日本や先進国と違うところなのですが、ブギス社会と比べてみるならば、私たちの社会は、そのずれを大きな社会的な障害ととらえて、性同一性障害と位置づけるわけです。ブギスのチャラバイを生み出すような社会の姿勢というのは、東南アジアであるとか、ポリネシアに広くみられます。私たちはジェンダー交代といえば、性転換手術、あるいは性同一性障害に結びつくと考えがちですけれども、地球上を広く見回してみるならば、それが交代可能なものとして受け入れられているところもあります。だから、今日から女になろうとか、私がきょうから女の心をもとう、チャラバイになろうというふうに言ったら、それになって女装し、女の仕草をすることができるわけです。コミュニティに入って、そこで生活をしていくことができる。また男に戻りたいなと思ったら、今度は帰ってくるというように、ジェンダー交代が許されているというような社会なのです。

 
【ホモセクシュアリティの多様性】
 今日の主題は、ヒトの性への多様な接近というものでした。ヒトが進化過程で獲得したホモセクシュアリティは、同性同士による性交渉としてとらえるのは短絡過ぎます。なぜならばここで見たように、ニューギニアのサンビアではホモセクシュアリティは、人の属性ではありませんでした。そうではなくて儀礼を通じた人生の一時期の性のありようでした。また、インドネシアのブギス社会には、ホモセクシュアリティというのはヘテロセクシュアリティと交換可能な性のあり方でした。ここで見たように、人類には非常に多様なかたちでホモセクシュアルというのが存在するわけです。ヒトの社会におけるホモセクシュアリティの見取り図が示すのは、ヒトのセックスへの多様な接近のあり方だということです。これで私の話題提供を終わらせていただきます。 


2011年09月23日 23時03分45秒 | エスノグラフィー

犬は私たち日本人にとっては、ふつう愛玩動物である。しかし、プナンにとっては猟犬である。猟犬であるとはいったいどのようなことなのだろうか。

プナン社会には、犬は、近隣の焼畑民を経由して導入されたとされる。プナンは、その後、犬を使った猟(ガスー)を自家薬篭中のものとした。犬の飼育法をマスターし、家のなかで餌をやり、眠らせることもある。そのようにして、プナンは犬を飼い慣らし、猟犬として育て上げるようになったのである。

プナンは、犬の八つの乳首の位置取りを見て、その犬の猟の巧拙を判断する。彼らは、よい犬を高く評価する。犬は密林に放たれると、敏捷にイノシシを探しに行き、イノシシを見つけるとそれを我慢強く追跡する。イノシシが逃げた場合には、プナンは、それをしばしば犬のせいにする。

それは、「動物(カーン)」ではないと、プナンは言う。犬はあくまでも犬なのである。独立したカテゴリーを与えられている。

犬は唯一の飼育動物であり、犬には、人とは異なる個別名を付ける。カスット(長靴)、サブン(石鹸)、ウタン(杖)、ディマックス(車の名前)、ジプン(日本)などである。

犬には、人に見えない霊的な存在が見え、吠えてそれらを怖がらせ、退散させることができるとされる。その意味で、犬は、人を悪人から、さらには、悪霊から守護してくれる大切な存在である。

犬は、身体、魂、個別名という三つの要素を備えている点で(動物は、身体、魂、種名)、人と同じような組成であり、その意味で、人にきわめて近い存在なのである。


『草原の国モンゴルを知る』のお知らせ

2011年09月22日 13時24分03秒 | 大学

桜美林大学リベラルアーツ学群文化人類学専攻
桜美林大学モンゴル研究会共催

草原の国モンゴルを知る

2011 年10 月19 日(水)
10:00~14:20

第1部(10:00〜12:00) 

モンゴル映画上映
(遊牧民の家族のストーリー)

場所: 以徳館M201

第2 部(12:10〜12:50)

モンゴル民族音楽ミニコンサート

場所:けやきの広場
(雨天の場合:太平館ラウンジ)
  
  馬頭琴:アリウンザヤ(LA1年)
    歌:ルハムザヤ(LA1 年)
    ホーミー:バトオチル

第3 部(13:00〜14:20)

学生討論会
(日本人学生とモンゴル人留学生)
「モンゴルの現在」

場所:明々館A408

モンゴル写真展

10 月12 日〜19
日まで
場所:明々館ラウンジにて開催

奮ってご参加ください!
(事前申し込み不要)

問い合わせ先
代表:ドラムスレン
doyorushka@gmail.com

〒194—0294 東京都町田市常盤町3758
http://www.obirin.ac.jp/access/index.html


房総、いさなたちへの鎮魂

2011年09月21日 00時01分11秒 | 人間と動物

9月も半ばを過ぎたのに夏真っ盛りの暑熱に覆われたある日の朝東京駅の八重洲中央口に集合した3年ゼミのメンバーとともに京成バスで千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館(歴博)へ向かい到着後最初の二日はみっちりと日本の歴史の重量級の展示の見学実習およびゼミ論執筆の途中経過の口頭発表とディスカッションを行い<佐倉>から始めてじょじょに内房の海岸線を南へと下りヨードのために舐めると塩っぱく醤油のような色をしたレトロな<青堀温泉>から青青とした海を見渡せる<保田>へと移動に継ぐ移動の末に連夜の飲酒と寝不足で重くなった身体を引きずりながら潮の香りが漂う浜金谷からフェリーで神奈川県の久里浜に渡って四日目の昼に石川町横濱<中華街>で中華料理を食して無事に2011房総半島ゼミ合宿を解散した。三日目の自由行動的なフィールドワークの時間帯にはバンジージャンプ体験を含むマザー牧場のグループから別れて有志でレンタカーに乗って房総の鯨(いさな)をめぐる4つのフィールドを訪ね歩いた。17世紀に開始されたというツチクジラを対象とした南房総の捕鯨が館山から発して昭和20年代になってたどり着いた外房・和田町の捕鯨基地で今年はつい先ごろ捕鯨が終わったばかりで誰もいなくなってがらんとした木の床に幽かに鯨の匂いのするを訪れた後にその足で隣の千倉町の山寺・真言宗の長性寺を訪ねて<鯨塚>を見せてもらいお茶と茶菓子を供して座布団を敷いて本堂で休んでいってくださいともてなしてくださった親切なご住職の奥方の話によると今から115年前の明治29年にそのあたりに打ち上げられた鯨の肉を住民で分け合って食べた後に鯨の心臓だけを埋葬して供養したのが鯨の供養塔としての<鯨塚>であってたんに生き物の肉を食べるだけで放っておくのではなくて当の鯨を供養するという昔の人の行いは立派だったという思いをうかがうことでその塚の建立をめぐる意味理解を深めることができたように感じた。房総の海が見渡せる場所から梵鐘をついて長性寺を発った私たちはやがて白浜の海岸沿いの屹立する白いマンションの海側にそれとは雰囲気を異にする二基の小さな黒い鯨塚が祀られているのを探しあてその碑の下に「背後のマンション敷地はかつての『東海漁業株式会社』の跡地であり、この鯨塚は現テニスコート北東角あたりに埋もれていたものをこの位置に移し祀ったものである。鯨塚は明治4年頃(1871年)にできたといわれ鯨の供養と安全祈願大漁祈願を目的に建てられていた。捕鯨に出発する前に町の有志を一同に集め、これらの供養祈願を行ったという。当初旧地の塚の下には親鯨の頭骨と胎児を埋めて供養したという。」という鯨への鎮魂に貫かれた一文を読んで鯨塚をめぐる由来を知ったのである。その後安房勝山に向かい岩崖の社の内側に祀られたきわめて印象深い鯨塚(写真)を訪ねた折には「勝山藩酒井家の分家で竜島の殿様(300石)と言われていた旗本酒井家の弁財天境内に、鯨を解体する出刃組が1年に1基の供養碑を建てました。ここには120基ほどあり堤ヶ谷石(地元の石)で作ってあります。風化したため70基ほどは埋めてしまい、現在52基 鯨塚は供養碑・祈願碑であり鯨の墓ではありません。弁財天は水神であり、財産を司る福神です。・・・」と立て看板があるのに碑の由来を知りそこでもまた鯨への供養と祈りの意思を確認し鯨塚を見に来た私たちの来訪に気づいて話を語り聞かせてくれた近隣の方の話からはその鯨塚は鯨を解体する出刃組の子孫によって守られているがその方はすでに高齢でこの塚が今後どうなるのかははっきりしないということも分かったのである。房総の人びとと鯨との関わりに思いを深くして房総の海岸線をたどりながら私たちは次の宿泊地に重くてしょうがない合宿メンバーの荷物を車で送り届けるという私たちのもう一つのミッションを果たしてその日の房総鯨鎮魂の旅を終えたのである。


残り10冊、読書修行。

2011年09月20日 11時22分58秒 | 文学作品

藤澤清造 『根津権現裏』 新潮文庫 ★★★★(11-38)

 

藤澤清造の歿後弟子を名乗る・西村賢太に導かれて、『根津権現裏』を読んだ。90年ぶりの復刊だそうだ。タイトルがいかしている。好きだ。かつて文京区に住んでいたころに、根津権現には何度か行ったことがある。大正年間の人びとが、くっきりと足跡を刻んでたように感じる。さて、根津権現近くに住む主人公は、雑誌記者をして糊口をしのぐ身であり、若いころに患った骨髄炎が彼の足を蝕んでいるが、つねに貧困にあえいでおり、手術するにまとまった金もなく、かといって盗みたかりをするには、良心が許さない。ある日、友人・石崎への無心の依頼に失敗して下宿に戻ると、同郷の友人・岡田の急死が知らされる。岡田は、ふさという娘との交際を始めたところだったが、他方で、彼の勤め先の上司とトラブルを抱えて、縊死したのである。全編にわたって、貧乏と病いという日々の辛苦のなかから吐き出される主人公の心情が綴られる。藤澤の私小説である。彼は、慢性の性病から精神異常を悪化させ、彷徨し、行方不明となり、芝公園の六角堂内で凍死体となって発見されたという。壮絶なる、一小説家の死。

堀江敏幸 『雪沼とその周辺』新潮文庫 ★★★(11-39)

おそらく、このタイプの小説が好きな人は、少なからずの数に上ると思う。雪沼という町とその周辺に、何らかの因縁があって暮らす人たちの暮らしを、堀江は、優しく、柔らかな眼差しでもって語り始める。そのときすでに、一人一人に、何らかの変化が迫っている。いったん、そのようになった、ならざるを得なかった過去と経緯が語られ、やがて、変化が語られる。しかし、人の上に変化が訪れたとしても、それは大ごとではない。いや、悲しみやどうしようもなくなるような感情を生起させるようなことが、実際には、起こっていたのかもしれない。しかし、そうした出来事は、静かに打ちすぎて、現実のなかに呑み込まれて、別のありふれた日常をすでに生み出している。雪沼でなくても、私たち(日本人)誰にでも起こりうるようなものとして、人の暮らしが語られる。堀江は、音に対する感覚とその喪失や、ボウリングやステレオなどの道具などの使い方がじつに巧みである。

車谷長吉 『赤目四十八瀧心中未遂』 文春文庫 ★★★★★★★(11-40)

今年に入ってから、まだ(というべきだろう)40冊目。年間50冊というのは苦行である。今年は、春に読んだ、石牟礼道子の『苦界浄土』を上回る作品など出会わないだろうと思っていた。しかし、『赤目四十八瀧心中未遂』は、激烈さの点で、それに匹敵する小説だ。

昭和の終わり、30歳代半ばの主人公は、東京での会社員生活を捨てて、自分自身を消滅させるために、食い詰め者として、阪神電車出屋敷駅(尼崎市)近くの、通称「アマ」と呼ばれる、掃寄場にたどり着く。彼は、木造アパートの二階の一室で、ひっそりと、病気で死んだ牛や豚などの肉を、一本一本串に刺して、僅かな銭をもらって生きながらえる。その日本の最底辺地の周辺には、最初の出会いのとき、戦後パンパンをしていたということを主人公に告白した伊賀屋の主人セイ子ねえさん、朝牛や豚の臓物を届けて夕方に串刺しになった肉を受け取って帰る無口なせいさん、階下に住む、美しい「朝鮮」のあやちゃん、あやちゃんの情夫の彫り物師・彫眉、彫眉の子である晋平ちゃん、やくざや辻姫(街角で春をひさぐ女)などが蠢いている。主人公は、アパートの一室で、モツを串に刺し続けながら、向かいの部屋から聞こえるうめき声の正体を知り、考え込む。

こちらの部屋で牛や豚の臓物をさばきながら、この賃仕事と、いま向かいの部屋から伝わって来る仕事の気配を、較べ考えた。私の手も臓物の血と脂で、ぬるぬるである。併し半開きの戸の陰から、たった一瞬だけではあったが垣間見た、あの行き詰るような凄まじさは、「うッ。」「ううッ。」という一針ごとに、こちらの心臓に喰い入って来ずには措かない。人の肌に、いや、人の生霊に、目を血走らせて針を刺す業苦の息遣いである。併し人はなぜこのような凄惨な苦痛に堪えてまで己がししむらに墨を入れるのか。そこまで心を狂わせて。己が生に刻みたいあの輝きは何なのか。

その安アパートでは、猥雑な交歓が交わされるが、それはときに、神々しい輝きを放つ。


するとその雨の中を、何か口に叫びながら、隣室へ駈け込んできた男女があった。しばらく何か言い合ってばたばたしていたが、やがて静かになった。おそらくはまぐわいが始まったのだろう。が、雨の音にかき消されて、いつものように声は聞こえなかった。するとそれが私の想像を刺戟し、こんな安アパートの中で交わる男女の姿が、いつになく鮮烈な美しさをまとって像を結んだ。外に雷がとどろき、稲妻が窓ガラスを慄わす中で媾合する男女の肢体が。

競馬、競輪、競艇 に深くのめり込んでゆくタクシー運転手たちの挿話がある。タクシーのその日の上りを博奕につぎ込んでしまって、運転手は、前借り借用書を書かざるを得なくなり、月末の給料はほんの僅かしかなく、不可避的に翌月も同じような生活をするほかないし、タクシー会社としても、いちいち解雇していては、従業員を確保できない。底辺へと落ちて行った主人公は、そこにも言いようのない輝きを見出す。

恐らくはその日その日、尻の穴から油が流れ出るような毎日ではあろう。併しこの人たちにとっては、この賭事がなくては窒息してしまうような、すれすれの生の失望と快楽を生きているのであり、と言うよりも、そういう「物の怪。」に取り憑かれた生活が平気で出来るというのは、すでに生きながらにして亡者になった人の姿であって、私は見事な虚体の生活だと思うた。

アヤちゃんは、突然、アパートの2階に上がってきて、主人公の前で素っ裸になる。

その勢いでアヤちゃんは私の手を振りほどくや、向き直り、一瞬、あの猛禽のような凄い目の光を放って、私を烈しく抱きしめた。気が狂うたように二人は接吻した。も早この牝と牡の霊の炎¥は、より烈しく、熱い舌が熱い舌をを求めあわないではいられなかった。アヤちゃんの心臓の慄えがそのまま私の心臓に伝わった。私の心臓の戦いもそのままアヤちゃんの心臓に伝わるに違いなかった・・・

 アヤちゃんの情夫・彫眉は、ただならぬ雰囲気を漲らせる。彫眉に感づかれたらこの世から消されるに違いない。アヤちゃんへの思いを抱いたまま暮し続ける主人公に、アヤちゃんからの置き手紙がなされる。彼女は、兄の借金の肩代わりにされて、身売りされることになる。死とエロスが交差する。アヤちゃんの「うちを連れて逃げてッ」という言葉に動かされて、二人は、赤目四十八瀧(三重県)へと行き、死に場所を探し求める。しかし、だらしなく赤目から戻る帰りの乗り換え駅で、アヤちゃんは、「うちは、こッから京都へ出て、博多へ行くからッ。」と、一人で苦界へと身を沈めたのである。

同じ書き物を生業とする者として、車谷にどのように太刀打ちすればいいのだろうか。いや、太刀打ちしようと思うことが、最初から間違っているのかもしれないが。とにかく、「車谷長吉恐るべし。」である。映画化されているという。取り寄せ中である。


サラワクにて

2011年09月15日 23時35分05秒 | フィールドワーク

おっ、すごい!、あのプロジェクトのホームページができたそうな。
http://biomasssociety.org/
美しい仕上がり、なかなかいいね。
しかし、個人的には、何にフォーカスするかがまだ決まっていない。
期待されている役割(んなもんがあるとして)に答えられる以前の問題だ。
テーマそのものが定まっていない。
短期で通っていては、テーマがなかなか深化しないのかもしれない。

どうでもいい話:ホームページ上にある関連ビデオを見て感じたこと。
わたしも最初の方に映っているが、なんて挙動不審なんだろう。
それに、後半の買い出しのシーンには映っていない。
そのとき、裏手にある喫茶店で、ドライバーと冷たいものを飲んでいたのだ。
なんて、役立たずなのか。
ビデオってありのままを映すので怖いな。

【写真】あるイバンープナン村の木材キャンプに泊まった。朝食は、白飯とカエルのスープだった。けっこう美味だった。

 

 


非在から存在を想う

2011年09月13日 21時57分11秒 | エスノグラフィー

ビントゥルで、アンテナ込みで、845リンギット(おおよそ3万円)で、26インチの薄型テレビを買った。それを、マレーシア連邦政府のプナン人のための支援プロジェクトの一環として建てられた新築家屋に、お土産として持って行った。新築家屋には、まだ水道もなく、電気もなく、トイレは物置になっていたし、油があるときにだけ電気が灯された。その辺境地では、アンテナだけでは、テレビ局の電波をキャッチすることができず、ならばと、早速、その薄型テレビは借りてきたビデオデッキに接続され、これまた借りてこられたVCDから、インドネシア音楽やらイバン・ポップやらが、大爆音で、油が続く限り、といっても、私が買ったのだが、連日流された(写真)。テレビを置くための台は、私がテレビを買ってくることをあてにして、森林伐採の賠償金3か月分で買われたらしい。カーペットも、150リンギットで買われたという。5年前に滞在したときに、彼らが住んでいた、ボルネオ島のなかでも指折りのシャビーなロングハウスでのテレビ観覧風景とは雲泥の差があり、すでに隔日の感がある。経済的に潤ったのかというと、まったくそういうことではないのだが。

http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/85efb598e3ba13891d123b6f72ec0b60

彼らは、4か月前に、古いロングハウスから新築家屋に引っ越してきたのだけれども、かつてのロングハウスは早くも朽ちかけており、新しいロングハウスに引っ越した若者たちは、古いロングハウスには夜な夜な霊が出るぞと私に語った。私と言えば、かつてのそのロングハウスでの日々を懐かしく思い出して、古いロングハウス内を歩いた。

今回、その古いロングハウスに対して、どのような思いがあるのかに関して、人びとから話を聞くことはほとんどなかったが、
失われた存在、かつてあった事物に対する想いについては、プナン語に「タワイtawai」という言い回しがあることが思い出される。Ian  Mackenzie によるDictionary of Eastern Penanには、X tawai tong Yというのは、X thinks of Y, who (which) is no longer with X, with fondnessとある。つまり、 タワイとは、「Xが、もやはXのもとにはいないY(人およびモノ)について、愛着を持って、想うこと」である。この翻訳は秀逸だし、西プナンのタワイにも当てはまると思う。そうした語は、日本語にはない。英語にも、それに代わる語はないのではないか。

タワイとは、「人や諸存在が、いなくなること、なくなることが、愛おしさや慈しみをもって、想い出すことの因となる」ことに基づいている。そうした感情経験へと思いを至らせることが、プナン語のタワイなのではあるまいか。タワイは、プナンの感情生活の隅々に行き渡っている。一見するとどうでもいいことのように思われるが、私には、このことが、けっこう重要なことのように思えている。 


死を樹上に安置せよ

2011年09月12日 23時21分08秒 | フィールドワーク

ジュラロン川流域のプナンは<樹上葬>のしきたりがあると1960年代の学術論文に書かれていた。現地で訊いてみるとかつてはやっていたが今はやってないのでもう朽ち果てているはずだとの答えだった。ある老人に尋ねたときにはいつものように断られるのを承知で見に行きたいのだがと言ってみたところいいよと快い返事が戻ってきたのに私は驚いた。ボルネオ島の先住民にとっては墓場はだいたい死が起きたときだけに死体を埋めに行く場所であり霊的存在が跋扈するとんでもない恐ろしい場所であり訳知らずの外国人である私を墓へと導き入れてくれるような人などこれまでどこにもいなかったからであるかくして翌朝私たちはロングハウスからほど近い森の入り口近くに朽ちかけた二対の儀礼柱と一つのセメントで固められた墓に出会ったのである。じっとりと湿ったジャングルのなかにほぼ木々と一体化してたたずむその墓の残骸はしかしながら私にかつてそこに葬られた人の存在を感じさせた。不穏にも私は「サロン」とカヤン語で呼ばれている樹上の上の死体安置所(3mくらい)に上りつこうとしたが木の表面を苔が覆っていて滑りそうだったのと隊長のやめておいたほうがいいという言葉に促されて泣く泣くはしゃぎがちだった木登り活動を断念した。後から聞いてみると老人の記憶では1940年代から1970年代にかけてこうした葬制が行われていたということだった。木の幹には簡素なというよりも大雑把な彫刻が施されておりサロンの周囲には真鍮の壺と陶製の茶碗などが土のなかに半分身をうずめていた。おそらくそこでは二次葬(複葬)が行われていたのではなく一回きりの葬儀が行われていたのだと思われる。こうした葬制が30年間ほどに限定されて行われていたことが一つの大いなる謎である。それ以前には土に埋めていたであろう遺体を一時期樹上高くへと安置するようになりその後またぷっつりと遺体を土に埋めるようになったということになる。日本人が石の墓地から納骨式の霊園団地へと変更するというのに少し似ているのかなあとふとそのとき思った。こんなことが次なるテーマになるのかどうかまあならないだろうと思うのですごめんなさい隊長。


消え去った存在の痕跡

2011年09月11日 22時13分18秒 | 自然と社会

モニカ(ジャノウスキー)とジャイル(ラングブ)の最新の論文、"Footprints and Marks in the Forest: the Penan and the Kelabit of Borneo"は、狩猟民プナンの「足跡」と農耕民クラビットの「印づけ」という、土地に対するそれぞれの民族の作法の違いを取り上げて、精緻に、自然に対する人間の態度をめぐる問題に迫っていて、秀逸な出来栄えである。

狩猟民プナンは、森のなかの、人がいた、人が生まれ死んでいったという「痕跡(足跡=Uban)」に揺さぶられ、惑乱される。それに対して、農耕民クラビットは、森のなかの風景を改変し、土、石、溝などをマークすること(印づけること)によって、それらに慣れ親しみ、自らのものとする。農耕民クラビットのやり方は、我々農耕民・日本人のやり方に通じるものがあるように思われる。私は、残された足跡に揺さぶられるという、一見するとよくわからないプナンのやり方に対して、今、特大の関心を抱いている。

いったい、プナンが、残された足跡に揺さぶられるとはどういうことなのか。事後的に、今では不在となった存在物に対して心を向け、それを忌避しながら、時に悲しみ、思い出さないようにして、近づこうとはしない。残された足跡に、プナンは、揺さぶられ、乱されるのである。ふとある場所を通り過ぎたときに、残された足跡に触れたり、見たりすることによって、その足跡から浮かび上がる、いまや不在となった過去の事物・存在の実存状況を心の奥底に甦らせて、心を躍らせたり、場合によっては、落ち込ませたりする。そうした情動によって、どうやら、プナンは動いているようなのだ。

かつて私と"J"が夜の狩猟で待ち伏せして作った小屋の痕跡のようなものを指さして、「ほら、それが、この前の我々二人の跡 iteu uban tua saau」というような言い方をして、そのことをつうじて、その経験を懐古し、二人の間の絆を確かめようとする。そんなことは、我々日本人だってふつうにやっている。しかし、そうした表現の裏の意味は、もう少し深い。私がいない間、"J"は、そこを通過することさえ忌避していたということが圧倒的に多いからである。しかし、何かの出来事を思い出させる場所の忌避ということは、私たちも、相手に対するいとおしい気持ちが、別れ別れになった後も持続して、痛苦を感じるときに、よくやる手口かもしれない。ただし、どうやら、プナンが持つ情動の深さというのは、そうした情動をハビトゥス化して、日常の暮らしのなかにしみこませている点にある。彼らは、振り返ってみると、つねにそんななのである。そうした情動を、プナンはtawai という。それは、異性に対してだけでなく、家族や自然の事物に対してもまた用いられる。プナンには、tawai が蔓延しているとでも言えるのかもしれない。

プナンは、消え去ってしまったものには、すなわち、いまは存在しないが、かつての実在していた事物や存在物に対しては、控えめな表現を付与する傾向にある。消え去った存在を、堂々と、その本当の名前で言い表すことは、彼らにとっては、衝撃的すぎるのだ。事物や存在に対する一種のtawaiの延長が見られる。死者の名前は口にされないが、どうしても必要なときには、葬儀のときに作った棺の素材である木の名前で呼ばれる。赤い沙羅の木の女など。仕留められた動物は、その名で呼ばれてはならない。一見厄介に見えるこうした規範は、残された足跡に心を揺さぶられるという、プナン文化に特有の情動に発しているとも考えられる。

こうした情動と日常実践の往復運動は、うつ病やPTSDなどの、現代人の心の病を生じさせるのとは異なる方向に、人の心を導くのではないか(と昨日の研究会で、コメントをした先生がいた)。上で述べてみた、残された足跡とは、目に見えるはっきりとした形象のことではない。最初ははっきりした形象であったものが、時間とともに、朽ち果ててゆくことを含む、僅かな痕跡へと至る、痕跡の微分化過程に他ならない。そうした薄れゆく記憶の翳みたいなものの断片と、断片の断片こそが、残された足跡の正体である。経験は楽しいものばかりではなく、辛いこともあるし、楽しいものは消え去った瞬間に辛いものに転じることもある。そうした経験と経験からたち現れる記憶のなかに痛苦を感じないために、プナンは、残された足跡から、できるだけ早く、できるだけ遠くに逃げようと努める。死者を埋めて、そこから立ち去るというプナンの葬法はその典型である。不在の対象を、たとえ観念のなかでさえ、ありのままで現前化させようとはしない。それは、結果的に、心の痛みをあらかじめ和らげるために編み出された作法なのかもしれない。


神々の御情交

2011年09月07日 18時58分48秒 | 大学

FWから帰国して翌々日から安曇野に4年卒論ゼミ合宿に出かけた。台風が居座って湿り気を帯びた雲が長雨を降らせ中央フリーウェイは通行止めになり一般道はとんでもなく渋滞していた。そのうちに一般道も通行止めになり一応は舗装されているが山道を迂回して出発から10時間経ってようやく目的地にたどり着いた。ヘトヘトもはや眠るだけ気力は残っていなかった。一日かけて朝から晩まで卒論の途中経過の口頭発表を聞いて検討会を行った。かなりできている学生ぼちぼちの学生これからの学生・・・。合宿中に道祖神を探そうと早朝からログハウスの周囲をうろうろするがめぐり合えずただ石や岩が地表から隆起している風景のなかに道祖神が生まれる因のようなものを感じた。ログハウスのマップを手がかりに道祖神を見て回る計画を立て4日間で安曇野で十箇所松本で十数箇所の神々に出会った。道祖神の信仰形態としては「一つは縁結び、夫婦和合・子宝祈願・生命誕生・子孫繁栄を祈る対象、2つ目は豊饒・豊作祈願、3つめは村の入り口にあって外から悪霊や疫病神が村に入ることを防ぐ、防塞、僻邪の要素。そして4つ目は悪霊・病魔を払う要素」があるという(『祈りと偶像』松本市立博物館、2006年、10ページ)。なかには舌を絡み合わせて御情交なさっておられる双体像の神々もおりしめ縄も張られていた(写真)。オンマラさまなどとともに道祖神からは性に対するおおらかな信仰習俗が感じられる。一日諏訪大社にも詣でて鎮守の森に神々を感じ松本では松本城築城400年記念として「今町の発展と、ここに住む人びとの幸せを願い」設置された新しく建てられた道祖神を見て歩いた。「現代の道祖神は、ムラでは境にまつられて安穏を守る神と意識されるが、マチではむしろ境を開いて外部の人を招き寄せ、経済的繁栄をもたらす神へと性格が変わったともいえる」(前掲書)。帰京したら学生たちが「合宿最高」「楽しかった」と口々にツイッターで呟いていた。それはよかった。連日の飲み会もあり企画もバラエティーに富んでいてメンバー同士の一体感が出たのでは。卒論もぜひその調子で乗り切ってほしいな。


夏休み毒書日記

2011年09月06日 22時03分27秒 | 文学作品

ル・クレジオ 『パワナ』集英社 ★★★★(11-31)

ル・クレジオの短編『パワナ』を呼んだ。「パワナ」とは、アメリカ先住民の言葉で「鯨」の意。捕鯨船の船長チャールズ・メルヴィル・スカモンと乗組員ジョンらは、1856年に、バハ・カリフォルニアのラグーンで鯨の楽園を発見し、殺戮する。そのことを、ずっと後になって、年老いてから、1911年になって、取り返しのつかないことをしてしまったことを後悔しながら、回想するという内容。スカモンは、コククジラの発見者として、歴史に名をとどめている。 「・・・それより早くインディアンの男が引金を引いたのだが、銛は私たちの前を不意にまっすぐ飛び出し、その衝撃で短艇は止まったものの、太綱は鈍い音を立てて伸びひろがっていった。勝鬨がひびきわたり、悪魔の魚は、巨大な牝だったが、銛が当たったかどうかみとどける間もなく、水中に沈んだ。しかし沈んでゆく直前、牝鯨は私のよく知っているあのしゃがれた息づかいの音、どんな人間も忘れられないあの末期の息づかいの音を立てていた・・・」(スカモンの回想)。ジョンの回想には、売春宿に身売りされて、逃亡して殺害された先住民の娘・アラセーリへの甘い追憶が綴られる一方で、スカモンの回想では、自責の念が強く出ていて、作品全体に陰影を落としている。「彼らは言っていた、かの地に、カリフォルニアに、大洋に、鯨たちが子どもを産みにくるその秘められた地があると。そういう溜まり場、そういう海中の巨大な窪みがあって、そこえ牝の鯨たちが何千となく、すべて一緒に、いちばん若いのもいちばん老いたのも集まり、そして牝の鯨たちがそのまわりにぐるりと防禦線を作って鯱や鮫が寄ってくるのをさえぎり、そして海は鯨たちの鰭に叩かれて沸きたち、空は鼻孔の潮で曇り、鳥たちの鳴声が鍛冶場のような音をたてる」(ジョンの回想)。なんたる美しい情景の描写であろうか。

池上永一 『統ばる島』ポプラ社 ★★★★★★(11-32)

八重山諸島の八つの島の物語。現実と非現実が織りなす美しい物語の連なり。【竹富島】では、ツカサ(神女)によって、種子取祭に奉納される芸能を習得するように選び出された若い男女に起こった色恋が、芸を迫真あるものに仕立て上げるという物語。波照間島】では、オジイの世話にやってきた孫娘が、南波照間島という桃源郷へと迷い込んでゆく譚。【小浜島】の話が、この本のなかで、私は一番好きだ。四人の子育てを終えた女性が、自分がこの島に嫁いできたときに親切にしてくれたが、出産で別れを述べられなかった大舅の洗骨儀礼を行うことを思い立ち、その機に、家族が島に集まり、絆を確かめ合うという話。【新城島】の話も、小浜島の話に肩を並べるくらいいい。それは、目差主から琉球王への献上の品としてのジュゴン(ザン)を獲るように命じられた海人・ギールーの物語。目差主の娘を嫁にもらうという約束をされながら、ギールーは、ジュゴンの美しい娘・真魚に魅入られる。人の娘とジュゴンの娘の狭間で揺れるギールーのために、真魚(ジュゴン)は自らの命を差し出すが、やがて、そのことは、海神の怒りに触れ、島を80メートルの津波が襲う。【西表島】では、男たちは、ニュウメン蘭の花びらに小便を放ち、そのことによって現れる「メールビ」という幻想の小娘たちに犯され、快楽の果てに、次々に失神死してゆく。しかし、その背後には、メールビに魅入られた男がいたという、ミステリー仕立ての物語。【黒島】には、東大卒のエリート女性教師が赴任してくるが、子どもたちの様子が何かに憑かれたようでおかしい。やがて、小学生たちは、御嶽を守る童神であり、さらに、エリート女性教師も、神によって呼び寄せられたマレビトであることが明らかになる。【与那国島】では、日本の最西端の島であり、台湾との密貿易によって成功を収めた女傑の物語が語られる。最後に、【石垣島】こそが、これらの島々を統ばる島であることが語られ、それぞれの島の登場人物たちが、入れ代わり立ち代わり、石垣島を訪れては、自分の島に戻ってゆくさまが語られる。池上永一の民俗学想像力、恐るべし。 

いしいしんじ『トリツカレ男』 新潮文庫 ★★★ (11-33)

著者名は知っていたが、憑依を連想して、時間が余った時にすぐに読めそうな薄い本を探していて買った(380円)。ジュゼッペは、オペラ、三段跳び、サングラス集め、昆虫標本集め、探偵など、次々に取りつかれてしまい、それぞれを破格のレベルまで高める。次にジュゼッペが取りつかれたのは、風船を売っている少女のペチカだった。言葉をしゃべれるハツカネズミの協力を得て、ジュゼッペは彼女の心のくすみを調べ始める。ペチカは、先生だったタタンのことを慕っているが、実は、タタンは事故ですでに亡くなっていた。ジュゼッペは、ペチカの心を癒すために、その一心から、タタンになりきる。やがて、ペチカは、見返りのない愛を捧げようとしたジュゼッペのことを知るに至る。いしいは、現実と非現実をない交ぜにしながらも、す~っと読めるように、ストーリーを組み立てている。

西村賢太『苦役列車』新潮社 ★★★★★★ (11-34)

 

芥川賞作家・西村賢太は無頼派を気取っているだけだという評を聞いたことがあったが、この私小説を読んで、私は度肝を抜かれてしまった。ものすごい作品だ。とにかく全編にわたって暗い。その暗渠には光が差し込む隙間がない。こんな話のつくりは他にない。高等教育を受けて自然なかたちで社会に参入し、今は、大学に職を得てそこでのうのうと彼が嫌悪する大学的な知性を再生産している我が身に、同じ世界の「最底辺」という別の場所から、渾身の一撃を加えられた気がする。文体が激烈であり、ものすごい作家なのではないだろうか。性犯罪者の父のため学校を転々とさせられた貫多は、中学を卒業すると、母親から奪い取るように引き出した10万円で都内に部屋を借り一人暮らしを始める。それ以降、貫多は、日雇い人足の仕事を続ける。友人もなく、喋る相手もなく、朝から晩まで単純労働をし、日当5千5百円から代金差し引いて出される昼の箱弁に喜びを見出す。怠け者の貫多は、金があるときは仕事を休む。そのうち、家賃が滞る。19歳になった貫多は、ようやく、休暇中に人足仕事にやってきた、同年の日下部という専門学校生の一人の友を得る。二人で連れ立って、酒を飲み、フーゾクに通い、そうこうしていると金が無くなって、貫多はアパートを追い出されてしまう。日下部のアパートに転がり込もうとしているうちに、日下部に彼女がいることが分かった。貫多は、金もなく、彼女もいない最底辺の生活から抜け出すために、日下部の彼女に女友達を紹介してもらう画策をし、野球観戦してから、3人で酒を飲みに行くが、中卒の劣等感を背負う貫多には、二人の「エリート」会話が癪に触って、日下部と日下部の彼女を無茶苦茶に罵倒するのだ。その後、日下部には疎遠となり、鬱屈した気分で仕事仲間と乱闘して、人足の仕事もお払い箱になり、結局、嫌がる母親に金を借りることになる。貫多は「その頃知った私小説家、藤澤清造の作品のコピーを常に作業ズボンの尻ポケットにしのばせた、確たる将来の目標もない、相も変わらずの人足であった」。 

町田康『告白』中公文庫 ★★★★★★ (11-35)

 明治26年、河内の国赤阪村水分の農家の長男・城戸熊太郎が、彼を兄貴と慕う谷弥五郎とともに、松永傳次郎宅に押し入って、家族など10人をを斬殺した「河内十人斬り」、別名、水分騒動を題材として、町田康は、その事件が起こった謎に迫っている。岩井梅吉が演じて大評判になった河内音頭のスタンダードナンバーとなっているらしい。800頁を越える分量で、ふつうの小説を3冊も4冊も読んだ充実感、達成感だが、何よりも作家としての町田の力量が並大抵ではないと感じられる。熊太郎の少年期から事件に至るプロセスにおける彼の内面の描写とところどころに挿入される第三者(作者)のツッコミ「あかんではないか」という声によって、作品が構成されている。熊太郎と弥五郎は、恋情や非情な金の分捕りなどの因となった松永への積年の恨みを晴らさんために、正義を振りかざして松永一族をぶった斬り、最後は、金剛山で自害したのである。熊太郎は、農村世界では、人よりすぐれて思弁的・思索的なのである。「一般的な十代の少女の好むところに従って事故を改造するということで、では、村の若者たちが一般の十代の少女がなにを好むと判断したかというと、感傷とメルヘンを好むと判断した」と言った具合に。美女・森本縫に好かれんとして、明治24年河内赤阪村の百姓の兄ちゃんたちも、少女の好む感傷とメルヘンの対象に自らを擬する。ところどころに、こんな感じの爆笑場面も挿入される。熊太郎の思弁は、しかしながら、それが明治の河内の農村という小世界では災いし、理屈は通るが、何をやってもうまく行かないということになり、熊太郎は、しかたなく、無頼の任侠となる。10代から30代にかけての熊太郎の日々の暮らしのなかで揺れ惑う心情や彼の苦心惨憺ぶりを、軽妙な河内弁に載せて綴る町田の才気は見事という他ない。タイトルを、『河内十人斬り』というようなものではなく、『告白』としたセンスもかなりのものである。

 アルベルト・モラヴィア『倦怠』河出文庫 ★★★★★ (11-36)

投票の結果、カフカの『城』を押さえて、この本を、3年の秋のゼミで読むことになった。表紙の写真のためか?倦怠とは、対象に対する現実感の欠如もしくは希薄な状態であると最初に説明される。主人公である35歳の画家ディーノは実在から切り離されているという感覚に苛まれ続け、彼の実存の幻影にかたちを与えるために、絵を描くことを放棄した上で、性行動に没入する。金銭に対して異常な執着を持つ母親から逃れて、ディーノは、彼の近隣にアトリエを持ち、へたくそな絵を描く65歳の老画家バレストリエーリの情死の直後に、その死の原因となった17歳のモデルの娘、チェチリアと性関係を結ぶようになる。ディーノは、チェチリアへの愛が本物ではないことに気づき、彼女と別れる決心をするが、幼い容貌とは対照的な完璧な肉体を持つチェチリアへの肉欲に引きずられ、より一段と彼女との関係に溺れるようになるだけでなく、次第に、彼女の奔放な性に対して嫉妬を募らせてゆく。いいなずけトニーとの関係だけでなく、老画家との関係を続けていたチェチリアは、今は、ディーノに適当な嘘をついて繕いながら、俳優ルチアーニとの性関係を続けていたのである。このことによって、ディーノはチェチリアに二股をかけられていたのであり、その醜い事実を暴き立て、そのことが明らかになった後も、ディーノはチェチリアとの性関係にますます溺れてゆく。繰り返し繰り返し交わされる性行為における一時的な所有では、ディーノの精神は満たされない。倦怠はますます大きく膨らみ、母から引き出した金を与えて、チェチリアをつなぎとめておこうとするが、そのこと自体が、ディーノには虚しい。やがて彼は、倦怠に苦しまないように、彼がチェチリアを愛さなくなるように、彼女を結婚のなかに閉じ込めようとして、チェチリアに求婚する。彼女は、明日からルチアーニとの旅行に出かけるというディーノにとって取るに足りないl理由で、ディーノの申し出を断っただけでなく、二人の旅行資金を無心する。ディーノは、チェチリアを永遠に所有するために、チェチリアを殺害しようとするが成就できない。最後に、ディーノは、乗っていた車を木に激突させて、「自殺行為」を試みたのである。「私はきっぱりとチェチリアのことを諦め、そして、不思議なことに、彼女のことを諦めてしまうやいなや、チェチリアは私にとって存在しはじめたのである」。ディーノのぼろぼろに傷ついた情念の果てに、ようやく対象であるチェチリアが存在するようになり、肉欲を越えた純真な愛が少しだけ最後に顔をのぞかせたのである。ディーノの現実との格闘を情念と行動のどうしようもない不条理のなかに緻密なまでに組み立てる、アルベルトよ、恐るべきイタリア人作家よ。

吉田健一『金沢』講談社文芸文庫 ★★★★★ (11-37)

7月に飲みに行った折に、Nさんに教えられた小説。吉田健一が、吉田茂首相の息子だというのは知っていた。傑作だという。読んでみた。確かに、傑作だった。神田の横丁で屑鉄問屋を営む50歳代の内山の東京での暮らしや経歴は一切明かされない。内山が、商用で金沢に来て、犀川沿いに一軒家を買うのだ。「内山は金沢に偶の商用の他には何をしに来るのでもなかった。それは何もしないでいる為に来るのと同じことで一日中そうしてその部屋で雨の音を聞いていてもそれで金沢に来ているのだった」とあるように、お金に困らない風情の男が、本業や日々の暮らしから遠く離れた、身寄り、頼りのほとんどない土地で、ある時には誘われるままに、ある時には世話になった骨董品屋へのお礼のために、出かけて行って、相手と酒を酌み交わし、とくには女の影がちらつきながら、人間や東洋人と西洋人などについて、九谷焼や加賀暖簾について、ただただ話をして、酔い、気がつくと金沢の別宅である一軒家にいるというような風情の話なのである。「金沢に棲む或る人がその自宅で内山の為に一席設けたいので枉げてお出を願うというので、そこで骨董屋は言葉を切った、これが昔の支那だったらならば内山のことを風流の士と聞いてとか何とか簡単な口実がいくらでもあった筈であるが今日の日本ではそれが金沢でも事情が多少違って骨董屋は招待の理由を説明してそれまでの口上にただ、『町のどこかでお見掛けなさったのだそうで、』と付け加えただけだった。併し人を呼ぶのに考えようによってはそれも風流な口実であって内山は妙に心が弾むのを感じて承諾した・・・」という、小さな幸せがつながってゆくというような話がず~っと続いてゆく。全編にわたって、酒の匂いがプ~ンとして、金沢という土地の霊とともに、話の夢幻さに漂っているような心地の良さを感じる。


イノシシの解体

2011年09月03日 07時15分45秒 | フィールドワーク

プナンは、イヌにはイヌの固有名を付ける。ダヤーと名づけられたイヌがいた。とりたてて強そうだということもない、茶色の中型犬だった。人びとにかわいがられていた。ダヤーには、イノシシを捕まえるカミがついていると言われていた。男たちは、所有者から借りて、毎朝森に連れて行って放った。その日も前日に続いて、ダヤーはイノシシを獲った。ダヤーを借りたクニャー人が、ダヤーと取れたイノシシを車で運んできた。イノシシが解体され、クニャーとプナンで半々に分けられた。

 


リーフモンキーの鳴き声

2011年09月02日 22時13分16秒 | フィールドワーク

夕方4時頃、小学校の校長先生が、四輪駆動車で我々を送ってくれた。
油ヤシプランテーションの裏手の森で、イノシシ猟をするために。
森に入って
イノシシの足跡を探したが、あたりには見当たらなかった。

ホースリーフモンキーの鳴き声が聞こえてきた。
トゥルルルルルル-- 0:07あたり、聞き取りにくいかも

私「あれはホースリーフモンキーの鳴き声?piah bangat
「遠いの?遠くない? ju iyeng

ハンターは目の前の大きな木を指さした。
「そうか、遠くないのか iyeng ju
目を凝らしたが、私には見えなかった。
・・・
二人のハンターは、それを狙わずに歩き出した。

結局そのあたりにイノシシの足跡はなかった。
我々は引き返して、別の場所でイノシシの足跡を探して、そこに陣取った。