たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

愉楽の宇宙

2007年02月24日 12時54分43秒 | エスノグラフィー
日本に一時帰国して数日の後、たまたま、新宿のとあるデパートに行くことがあった。見映えよく、整然と並べられた商品群、身奇麗に化粧して、ほのかな色香を漂わせて歩く娘たち、ゆったりと、包み込むように流れる気分のいい音楽。わたしは、ふいに「ここは宇宙だ」と思った。そのように感じたのは、わたしが、それ以前の九ヶ月の間、現代日本とはまったく異なる暮らしの場に身を置いていたせいであろう、と思う。そのデパートには、快楽や快適さがあふれ出ていた。そこに身を委ねてしまえば、インスタントに、悦楽を得ることができるような、そういった空間が、立ち上がっていたのかもしれない。それは、あたかも、時空を超えて存在する、アボリジニのドリームタイムのようにも思えた。ヒトは、愉楽の時空なしには、生きてゆけない。しかし、ちょっと待てよ。新宿で生み出された愉楽の宇宙は、どのような原理によって、どのような理想を背景として登場したものなのだろうか、とも思う。

人と動物の通い路

2007年02月22日 14時39分01秒 | 人間と動物
ふたたび、サラワクの森へ、油ヤシのプランテーションが開発されたいまも、野生の知が支配する、プナンの地へと逆流するために、わたしは、いま、マレーシアの首都にとどまっている。プナンの地は、もはや、自然と人間が、溶け合って暮らしているような、神話的な理想郷ではない。人びとは、むしろ、近代の巨大な力にふりまわされ、深い悩みを抱えている。しかし、人間を生かしてくれる、森の動植物への通い路が、いまだに途絶していない、いいかえれば、人間こそが、地上に君臨する王者であるという、(現代社会ではあまりにもあたりまえすぎて、口にすらすることがない)考えへとたどり着いていないという意味において、そこには、解決の扉とはいえないまでも、希望の窓のようなものが開いているような気がする。人と動物の物語、それを聞いてみたい。

シャーマニズム再考

2007年02月04日 23時02分04秒 | エスノグラフィー

いま、<シャーマニズム>について考えている。

それを、現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)だけが獲得した、高次の知性による精神活動であると見る立場からイメージしてみる。

いまから10万年前の現生人類の最古の埋葬跡が、イスラエルで見つかっている。埋葬による死体の処理は、死者を畏怖したり、敬ったりすることの表れである。その埋葬跡は、人類が、その後に、死者の魂を意識して、シンボリックな行動を行うようになることを先取りしていた。

近年の認知考古学の研究によると、現生人類は、それ以前のネアンデルタール人と比べて、脳の容量は小さいものの、脳の各領域をつなぐ流動的な知性を獲得して、比喩や象徴を用いて、シンボルを操作するようになった。

現生人類は、しだいに、超自然的世界をつくりあげ、その世界との交流を表現するようになった。超自然的存在との交流には、比喩や象徴があふれている。
そのなから、精霊と直接交信する力能や技術に精通し、そのことをつうじて、病気治しを行い、共同体の行く末などを占う者が現れたと考えることができる。

<シャーマニズム>は、そのようにして、人類最古の医療、宗教であり、同時に、それらを超えた実践的な知恵として登場したのである。エリアーデが、<シャーマニズム>を「古代的エクスタシー術」と呼ぶのも、おそらくそのあたりに根拠がある。

そのように想像するならば、<<悪霊を退治して、魂を奪い返し、それを病む者の体へと戻してやる>>というような、現代のキッズたちを夢中にさせるような任天堂(かどうかよく知らないが・・・)のゲームのように、どこか夢見がちで、荒唐無稽のストーリーを、参加者みなが徹夜して、大真面目に演じる、ボルネオ島のカリス社会の<シャーマニズム>の一端を理解するための入口近くに、ようやくたどりつくことができたような気がする。

中沢新一がいうように、シャーマンは、トランス状態に入って<理性>を失う。「そして、理性の制御がきかない場所に、あえて踏み込んでいくことによって、世界の外にあるものの光景を目撃し、『声』を聞く」。

<シャーマニズム>は、じつは、われわれが、既存の学問的な<理性>をもって捉えようとしても、うまく捉えきれないのではないだろうか。法悦の境地や、霊に身体を乗っ取られるというような、<理性>を超えた状態において、いいかえれば、「イキながら」シャーマンは事にあたる。だから、「シャーマンは、なぜ病気を癒すことができるのか」というような問いも、医学や心理学などを道具立てとするだけでは、なかなか切り込むことができない。

比喩や象徴を操作することができる流動的な知性を獲得したばかりの人類が、「イキながら」、想像力だけを手がかりとして生み出したような、神話的な思考に寄り添いながら、<シャーマニズム>の奥襞へと踏み込むとき、<シャーマニズム>はようやくわれわれの前に開かれるのかもしれない。

(写真は、カリスの男性シャーマンの踊り:1994年撮影)