たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

書為多読、読不能書

2011年07月18日 20時11分40秒 | 文学作品

 

東野圭吾 『変身』 講談社文庫 ★★ (11-21)

今年は、大学の1年生の基礎ゼミの授業で、これまでの印象に残った小説を一冊取り上げて、レポートを作成せよという試みをやってみたのだが、最初、一番びっくりしたのは、学生たちが、ほとんど小説というものを読んだことがなくて、そうした課題にあたれないということだった。15人のうち小説を挙げたのは、3人のみで(ダニエル・キース、三浦綾子と東野圭吾)、東野を読んでいる学生が一人いたが、それでも、御の字だというのに、二度びっくりしてしまった(学生諸君の名誉のために行っておくと、その後、しっかり本を読み、真剣に取り組む学生も出てきた)。さらには、東野をはじめとして、何人かの日本人の現代作家(石田衣良、宮部みゆき)が、AO入試で、高校生たちが読んで印象に残った本のなかに頻繁に登場する。で、いまどきの学生たちの(非?)読書経験に近づくために、いや、共有してみるために、試しに、東野の『変身』を読んでみた。主人公・成瀬純一は、内向的で優しく、絵が趣味の男で、恵との付き合い始めたところだったが、ある日、不動産屋で事件に巻き込まれ、銃で頭を撃たれて、病院に担ぎ込まれて、10万分の1の確率で適合した脳を移植されて、生きながらえることになった。純一の性格は、その後、凶暴なものへと変わり、突き止めてゆくと、彼を撃った犯人の京極瞬介の脳が移植されたことが分かる。純一は、いつの間にか、脳のもともとの持ち主・俊介の性格や好みに支配されるようになり、そのことを思い悩み、凶暴性を爆発させて、人を傷つけ、犬を殺し、彼に治療を進める直子を殺してしまう。最後に、純一を愛し、彼のことを心配で戻ってきた恵のことを疑い、殺害しようとするが、その瞬間、純一が、ふたたび彼のなかに宿る。それが、粗筋。内容は、矛盾がないように細部が構成されていることは分かるし、読むための稽古にはなるとは思う。それ自体悪いことだとは思わないけど、世の中の不条理や醜さに挑んで、それとは異なる物語を紡ぎ出しながら、とんでもない経験世界を開いてくれるというものではないように思える。

石田衣良 『娼年』 集英社文庫 ★★★★ (11-22)

ある授業で、石田を含めて、現代日本人の作家を取り上げて、批判めいたことを言った。しかしである。私は石田の本を読んだことがなかったのだ。生協で売っていた『娼年』を買って、読んでみた。私は、自分自身の言動を悔い改めなければならない。並みの文学を軽く超えている。ストーリーは簡潔だ。普通で、見かけが憂鬱そうな、二十歳の大学生リョウは、御堂静香の経営するクラブパッションという女性向けの売春クラブにスカウトされ、娼夫となり、「女性たちが隠しもっている底知れぬ不思議」に魅了されながら、クラブのナンバーワンを争うまでになるが、リョウの仕事を思わしく感じていない大学のクラスメイト・メグミによる警察への垂れこみによって、御堂静香が逮捕されるというもの。まずは、文章が、きびきびしている。「子どもたちがいないラフォーレ原宿は東京という街の位牌のように、明るい夜空に黒くそびえている」「夏を思わせる日ざしが青山一丁目の交差点にまっすぐ注いでいた」「見知らぬ女性を待ち時間が、これほど濃厚なものとは思わなかった。高いガラス壁に反射する光りの鋭さや渦を巻く地下の風の気まぐれにびくびくと驚いたりする」「美人ではないけれど、地下鉄で同じ車両にのりあわせたら、きっと目で追ってしまうような硬質な魅力がある」「女性ひとりひとりのなかに隠されている原型的な欲望を見つけ、それを心の陰から実際の世界に引き出し実現する。それが娼夫の仕事だとぼくは考えるようになった」・・・この作品には、女性、場合によっては男性の不可思議、とりわけ性のもつ奥深さが、やさしげな文章のなかに描き出されている。仕事で日ごろ中年男に苛まれ続けて、ひと月に一回、若い男の先に視線を感じながら娼夫と羽目をはずすほどセックスをして、次のひと月を頑張って働こうとする気持ちを湧き立たせるOL。夫が不能だとか難病だとか、手の込んだストーリーをつくり上げて、妻に娼夫と激しいセックスをさせて、快感を高める夫婦。セックスに精神的な満足感を得られず、痛みを感じることの快感に浸るために、リョウに小指を折ってほしいという同僚の娼夫。「「あっ」ぼくとアズマの声は同時だった。アズマは口をおおきく開けたまま、眉を寄せて不可能な角度に曲がった小指を見ている。右指をとおして頭まで伝わった骨が折れる音は、ぼくの全身に鳥肌を立てた。アズマはうっとりという。「すごいよ、ありがとう。リョウさん」。石田さん、石田衣良のファンの方、すみませんでした。

 森見登美彦 『太陽の塔』 新潮文庫 ★★★ (11-23)

京大の5年生の主人公の恋愛小説。クラブの3回生のときに2年後輩で入ってきた水尾さんと付き合うという幸福を手に入れたのもつかの間、主人公は、紳士的な態度で話し合いをして水尾さんと別れるのだが、なぜ彼女が自分のことを袖にしたのかを探るために、主人公は、「水尾さん研究」と称して、執拗に彼女のことを着け回して観察する。その過程で、主人公は、遠藤という法学部の男に、水尾さんを着け回すのを止めよ、止めなければ法的手段に訴えるという手紙をもらい、嫌がらせをされ、逆に、遠藤に報復的に嫌がらせを返すうちに、遠藤も、水尾さんとステディではないことが判明する。その一方で、主人公ら男子学生たちは、男女の交際を促すようなクリスマス・ファシズムに耐え難い心情を抱きながら、京都市の中心街で「ええじゃないか騒動」を起こそうと企画し、クリスマス・イヴにじっさいにそれを決行し、そのうちに、「彼女という桎梏を逃れ、私はようやく本来の自分自身に戻り、錯乱から立ち直ることができたのだ」という結論にたどり着く。それは、今から思い出せば、妄想に縛られながら真剣そのものなのだが、それゆえに滑稽であるというような、まだまだ何もわかっていなかった大学生の時代の失敗といえば失敗といえるような、試練と経験の物語であり、なんだか、私は、今でも(いまだに)、こうした日常を生きているんだということを思い出させられて、身につまされる思いがした。「太陽の塔」とは、万博公園にある、岡本太郎がつくった作品であるが、主人公が、水尾さんを連れて行くと、彼女がその大きさや捉え難さにボーッとしてしまって、そのことが、恋愛の終焉を早めてしまったとも思えなくはないものとして登場する。前半部分は、インテリ的な観察調の文体が心地よく滑稽で、どんどんと読み進めてしまうのだけれども、後半は、「ええじゃないか騒動」という妄想の実現化がグダグダな感じがしてしまうという点で、作品の完成度の点では、惜しい気がする。でも、なんとこの作家は、1979年生まれで、この作品を、大学院生時代に書いたというではないか。若い天才かもしれない。他の作品を読んでみたいし、その意味で、今後の期待度は高い。最後に、理屈っぽいがゆえに、漏れ出す滑稽を孕んだ文体のサンプル。「蕎麦屋などの前にある信楽焼の狸を御覧になった方は多いであろう。巨大な睾丸と徳利と帳面をぶらさげて、なにが不満なのか敵意を込めて通行人に眼を剝いている、あの異様な置き物である。ときには金剛力士像なみに巨大なものがある。バタンと押し倒して子供を二、三人押し潰すにはちょうど良いぐらいの大きさだ・・・」「なぜ彼女ともあろう人が、あんな男を選んだのか理解に苦しむ。てっきり彼女は独り身でいると思い込んでいた私の浅はかさは潔く認めよう。しかし彼女が私と別れたあとに選んだ男がアレでは、さすがの私も心穏やかではいられない。彼女が私を袖にした一年前、私は彼女の人を見る眼のなさに絶望したが、今宵彼女の選んだ男を見るにおよび、その絶望をさらに深くした。これすなわち彼女の前では私とあの男は同格ということであり、これは私という希有の存在に対する侮辱である。しかも彼女はあの男を使って私を非難するという二重の侮辱を行ったのだ」「この美しくも涙ぐましい禁欲的生活を支えるために、欠くベかざるものがビデオ店である。隙あらば理性の頸木を逃れようとするやんちゃなジョニーのご機嫌を取り、つねに静謐な心を保つためには。連日のごとく新鮮な具材が必要だ」「窮地を救われたとは言っても、私が頼んだわけではない。忘れてはならないことだが、相手が感謝してくれることを期待して行う慈善行為は慈善行為とは言えない」・・・

谷川流 『涼宮ハルヒの憂鬱』 角川スニーカー文庫 ★★(11-24)

数百万部のベストセラーだというので、本屋に買いに行った。角川文庫かと思ったら、角川スニーカー文庫だったし、どこにあるのかと尋ねたら、ライトノベルですよという店員さんの答。一瞬恥ずかしくなったが、ま、いいっか。で、その本は、立ち読み防止のためか、ビニールにくるまれていた。金を払う前に中を見るな!興味を持ったのは、高校入学早々の自己紹介で、涼宮が「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」と述べるとあったので。語り手は、同級生の男子生徒「キョン」。宇宙人は、長門有希。未来人は、朝比奈みくる。超能力者は、古泉という男子生徒。涼宮が主役かと思っていたら、それら3人がキョンに打ち明け話をするあたりから、脇役が主役へと転じる。長門によれば、涼宮は、進化の可能性であり、朝比奈によると時間の歪み、古泉によれば、なんと神なのである。面白くなり始めたかなあ、と思ったら、ふつうの学園ものにす~と戻ってしまった。その点、不満が残る。ひょっとして、涼宮ハルヒ・シリーズってのは、話が続いていくのかい?
 

 星野智幸 『俺俺』 新潮社 ★★★★★★(11-25)

http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/1eb5e75ae85e56d7226fbe45a8e81248
今年の1月に読んでスゴかったので、3年生ゼミのテキストに使った。粗筋は、俺、永野均がケータイを拾って、それで、その気がないのにオレオレ詐欺を働いて、まんまと現金をせしめるが、家に帰ると、詐欺を働いた相手の母親が家にいて、均は大樹となる。永野均の自宅を2年ぶりに尋ねると、そこには、がいた。前にもお前のような奴が来たので、ケータイの番号を書いて、帰れとけしかけられ、その後、学生のが登場する(名前は、ナオ)。は、そのうち意気投合し、でいることの居心地の良さを感じるようになる。その間、どんどんどんどんとは増殖していく。その一方で、のなかには俺が嫌なも出てきて、でつくりあげた俺山はしだいに崩壊しはじめる。世間には、自死や他死(自殺や他殺)が流行り、人がどんどんと「削除」されるという殺気立った状況が現れ、大樹であるも「削除」されるが、もはや殺された記憶さえ残っていないまま、大樹は、あつしになりヒロシになり、「削除」されないように、それぞれの家族とうまくやっていくが、そういう状況にしだいに飽き飽きするようになる。
大樹である俺は、高尾山へ逃げようとするが、京王線の電車のなかには、同じように考えたらばかりが乗っている。高尾山にたどり着いたは、食料を確保するために店を襲うが、そのうちに食料も底を突き、俺ら同士の共食いが始まる。カニバリスムとは、同種の他者と食べて自己の生存をはかることであるが、を食べ、を食べるというのは、自己が自己を食べ、自己に自己が食べられるという、究極のカニバリズムではないだろうか。その先に、は個人でであることを取り戻すのである。ぶっ飛んでいる、この話。

町田康 『くっすん大黒』 文春文庫 ★★★★(11-26)

時々大手古本屋襲撃をする。暫くぶりに行くと在庫が回転して、いいものが手に入る。町田康の『告白』もゲットした。でも800頁もある。読むかどうか、あ、そうだ、薄い『くっすん大黒』のほうを読んでみよう。3年前に仕事を辞めて酒浸りになった楠木(くっすん)は、妻に逃げられ、部屋には金属製の大黒を不愉快に思って、捨てに出かけるが、なかなか捨てることができず、友人の菊池を呼び出して売りつけようとするがうまく行かず、菊池の家に転がり込んで、酒を飲んで暮らしたが、金が無くなり、服屋でのバイトに出かけ、吉田とチャーミィというおばはんには散々な目に会わされ、ちょうどそのとき、上田京介というアーティストへのインタヴュー撮影の仕事が舞い込んで、山陰地方に出かけるが、上田はマダムをたぶらかす詐欺師だったことが判明し、はちゃめちゃな騒ぎになり、そして最後に、楠木は、豆屋になろうと考えたという、たったそれだけの話。文章表現も、こんな感じで、一段落一文で「。」が少ない。好きだ。理屈っぽい思想がない。ただ流れるような、展開があるのみ。それでいて、どことなく滑稽なのである。「ええか、おれは一生、Wヤングのギャグを言い続けてやる。君がとってもウィスキー。ジーンときちゃうわ。スコッチでいいから頂戴よ。どや。滑って転んでオオイタ県。おまえはアホモリ県。ええ加減にシガ県。どや。松にツルゲーネフ。あれが金閣寺ドストエフスキー。ほんまやほんまやほんマヤコフスキー・・・」「翌日。九時をまわった頃になってやっと、菊池は、顔に珍妙なメイキャップを施され、服はぼろぼろという、無残な姿で帰ってきた。『おめぇ大丈夫か』と声をかけても、真っ青な顔をして薄暗い玄関にぼんやり立ったままで返事をしない。ソファーまで引きずっていって、『しっかりしろよ』おい、と、頬を平手で殴って気合をいれると、ようやく我に返って、『やられた』とかすれ声でいった。『誰にやられたんだ』と訊くと、『チャアミィ』というなり、がたがた震えだした。自分は、マグカップにウィスキーを注ぐと菊池に手渡した。菊池は一気に飲むと、『逃げよう』という。菊池の体からは、安物のパヒュームと化粧品の匂いがしている。はっとして、『おまえ、チャアミィに姦られたのか?』と訊くと、菊池は『吉田にも姦られた』というのである。爆笑して『はははは、おまえ姦られたのか?ははは。どこで姦られたんだ?』『奥の部屋で姦られた。逃げよう、早く逃げよう』というのである。『おまえ、臭いよ、後でシャワーを浴びろよ』と、ウィスキーを注いでやると菊池は、追っかけてこないかなあ、とびびっているので、なんでそう思うんだ、と訊くと、菊池の馬鹿は、ご丁寧に履歴書を持参したという。まったく馬鹿なことをしたものである」


B.カッチャー 『ジュリアス・クニップル、街を行く』 新書館 ★★★★(11-27)

ニューヨークかどこかの大都会の不動産撮影業者・ジュリアス・クニップル氏が街を歩いて様々な人、モノに出くわす。柴田元幸が訳しているので、買って読んでみた。グラフィック・ノベルやオルタナティブ・コミックスと呼ばれるアメリカの文学漫画であるが、マンガのようにはパラパラとページをめくって読むことができるようなものではない。例えば、「消火器」。「世紀も終わりに近づくとともに、廊下に置かれたごく月並みな消火器を崇める、主に若い独身男性から成る非公式カルトが形成されつつある」という見出しがあり、クニップル氏が若い男性をのぞき見ているシーン。男たち「ついてないよー同時に三人産休なんてね」「まあまあ、人類繁栄はビジネスに好都合だぜ」。次のコマには、「ホース状の付属物が一本だらりと横に垂れたこれら厳かな真鍮のトーテムに、若者たちは慰めを見出す」という見出し。「真鍮のトーテム」こそが、消火器なのである。男が言う。「中身を補充してるところを誰も見たことないのにいつも満タンなんだよな。」次の見出し。「カルトに加わった者一人一人が、長年勤務するなかで、廊下を行ったり来たりしながら、製造会社の盾形紋章内に刻まれた情報を記憶に刻み込んでいく」。つまり、消火器の情報を覚えるということ。「N・スーズー社、防火器製造、モラルズ・アベニュー1185番地」・・・てな具合。「ヴィヴィフェルド兄弟」は、トロフィー製造販売店を「親族不幸のため休業」するのだが、本当は、墓地に設けられた観覧席の四列目に座って、セミプロ墓堀り競争の大会に来ている。「土の匂い、新鮮な空気、宿命の雰囲気ーこんなスポーツほかにないよな!」「ゴリチェクだ。6フィート自由形を29分でやってのけちまうんだぜ」。「隅の方では、見物人たちが自分の寿命に賭けを張る。」「今後のクリスマスまで私がもつ方に 十倍。」「あんたの奥さんが先に逝く方に二倍かゼロか。」「葬儀の列がそばを通りかかる」。葬儀社の車のなかから、「今日はゴリチェクが掘ってるんだな。」「そうなんだよな・・・・今夜テレビで観るよ」。墓堀選手権、6フィートの自由形、テレビ放映までしているのか。こんな話が次から次へと出てくる。面白い。柴田元幸のインタヴューによると、カッチャーは、ナボコフが好きらしい。どうりで。

川端康成 『眠れる美女』 新潮文庫 ★★★★★(11-28)

http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/d6f5eb78e1660394b2529b575e4d6e50
一年生向けの少人数授業で読解とレポート作成のための本として取り上げた。いまだ10代では、この本の味わいを感じるということが難しいと感じられるが、いつか、こういう文学があったということを思い出せばいいと思う・・・というくらいに思っていたが、15人中3人が、時間とエネルギーを注いで、力作レポートに仕上げてきたのにはたいへん驚いた。薬でぐっすり眠らされた「眠れる美女」の傍らで寝るという、頽廃的な欲望に身をゆだねる老人のための海辺の宿に通う67歳の江口の美しい物語。「江口」とは「エロ」の言い替えだと、斬新な解釈を開陳するレポートを書いてきた君には、「A」を進ぜよう。

野坂昭如 『骨餓身峠死葛(ほねがみとうげほとけかずら)』中央公論社 ★★★★★★(11-29)