たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ふれて、みて、かぐ

2006年10月24日 11時33分16秒 | エスノグラフィー
1966年に、アメリカン・アントロポロジスト誌に掲載された、ウィリアムズの論文の主題は、マレーシア・サバ州のドゥスン人の触覚経験である [Thomas R. Williams, “Cultural Structuring of Tactile Experience in a Borneo Society”, American Anthropologist, 1966]。ふれてはいけないとされるもの、同性間・異性間の人間どうしのふれあいをめぐる規範、自己の身体部位に対する触覚経験などについて、ひじょうに多岐にわたって、ドゥスン人の「ふれる」経験を記述・検討している。

1970年代になると、文化をテキストとして読み解くことを主眼とするクリフォード・ギアーツの解釈人類学の登場(台頭)によって、ウィリアムズが扱ったようなトピックは、しだいに忘却され、取り上げる研究者がいなくなった。その感覚人類学的な調査研究は、現在にいたるまで、その後の、ボルネオ研究によって引き継がれてきてはいない。

ウィリアムズの興味関心の糸口は、彼の指導教授、マーガレット・ミードの研究関心の継承にあったのではないだろうか。その意味で、ミードの仕事は重要である。ミードの仕事を追うならば、彼女が、異性間の接触であるとか、親子のふれあい、さらには、そのようなふれあう行為が、どのように文化的特性として現れているのかということに、いっかんして興味を抱きつづけていたことが分かる。より丹念にミードを再読する必要がありそうだ。

ウィリアムズの論文のなかには、幼児の排泄にかんして、排泄後の肛門を飼い犬になめさせて処理をするという記述が出てくる。わたしが滞在しているプナン人の村で、幼児は、ロングハウスの(通廊および部屋内の)床に空いた穴から排泄するが、その後の処理を、飼い犬に任せるのを見たことはない。たいていの場合、母親が、水を使って処理する。また、ウィリアムズは、ドゥスン社会の儀礼の局面に現れる触覚経験についても書いている。「かつて彼は村を歩きながら、わたしの腰を抱き寄せた」というような、生前、死者とふれあった追憶の経験が、女性たちによって、葬歌のなかに歌い込まれることを報告している。

以下では、ウィリアムズを手がかりとしながら、プナンの感覚経験(触覚にとどまらず、視覚や嗅覚も含む)の断片を、とりわけ、着衣行動を中心として、書き留めておきたい。

プナンのロングハウスのなかでは、夕方、川に水浴びに行く前に、男たちは、パンツ(ブリーフパンツ)一丁で、ロングハウスのなかを歩く。その後、川へと降りて行き、しばらくして、水浴びをして、同じ姿で戻ってくる。視覚的には、プナン人によれば、パンツのなかに収められているペニスは、ほどよく、その形状を示している、つまり、ペニスがパンツのなかに、亀頭部分を上にして、しまわれていることがのぞましいとされる(それは、触覚的にも、男性にとって、もっとも好ましいものではないだろうか)。亀頭がテントのように張り出していたり、そのほか、不自然な収まりかたをしている場合、それは、通廊にいる男性たちから、笑われたり、冗談の対象にされたりすることがよくある。

男性が、パンツ一丁で歩き回る(歩き回っていい)のは、ロングハウスとその周りの空間だけである。彼らが、近隣のロングハウスや、遠方に出かけるときには、けっして、そのままではない。少なくとも、上着とズボンを身にまとう。男児は、5,6歳までは、ロングハウス周辺では、全裸であることが多いが、やはり、近隣のロングハウスや、遠方に出かけるときには、上着とズボンをまとう(多くの場合、親に着せられる)。プナン人にとって、ロングハウス内部は、裸や下着姿で過ごしていい、(家的)空間であるが、その外部は、裸や下着姿がゆるされない、(公共)空間なのである。他方、女性が、下着姿で、ロングハウス内を歩き回ることはない。若い女性を含めて、女性は、ときどき、ブラ姿で(下半身は、腰布でおおわれている)ロングハウス内を歩くことがある。胸をあらわにするのは、すでに、子育てを終えた年齢以上の女性たちである。女性もまた、ロングハウスの外に出るときには、必ず上下ともに、着衣する。

身に着けた上着や腰布は、部屋の隅に脱ぎ捨てられることが多い。そして、それらは、食事中に子どもがこぼした汁や、こぼれたコーヒーを拭くのに用いられる。幼児の鼻水や吐瀉物などを拭き取るときにも、一般に、脱いだ後の上着や腰布が使われる。それらの着物を含めて、一日のうちに脱ぎ捨てられた着物は、母親や娘たちなど、女性たちによって集められて、時間をかけて、川で洗われることになる。そのとき、洗濯石鹸ではなく、風呂用石鹸(sabun mandi)が、使われることが多い。人びとは、わたしの風呂用石鹸をよく借りに来る。おろしたての石鹸でも、だいたい、半分以下になって返却される。なぜ、(高価な)風呂用石鹸を使うのかと尋ねると、人びとは、乾いたときに、衣服にいい匂いが漂うからだと答える。そうだとすれば、彼らにとって、洗濯とは、着物についた汚れを取り、それに嗅覚的な快適さをもたらす作業なのである。

上で見たように、汚れた着物は、汚れを拭き取るのに使われるが、洗濯して、天日に干して、着物は、新しく、肌(身体)にふれるものとして、大事に扱われる。洗濯物を天日に干すときには、きちっと広げて、乾きやすいように、干さなければならない。わたしが、自分で洗濯した着物をいい加減に干すと、女性たちは、干し方がおかしいと言って、よく笑う。それは、視覚的な問題なのか、あるいは、実質的に、天日に干すことに関する問題なのか、はっきりしない。また、Tシャツなどを裏向けに着ると、笑われる。衣服は、視覚的に、きちっと身に着けなければならないのである。

今後、めざされるべきは、ミード~ウィリアムズ系の感覚研究の発展的継承である。

首狩りの恐怖

2006年10月23日 11時56分02秒 | フィールドワーク

9月の半ば、わたしが滞在するプナンの村の周辺で、(諸説はあるが)以下のような風説が流布した。

舞台は、バルイ川の上流のある村。夫は、妻と子を残して、投網漁に出かけた。彼が家に戻ると、妻と子の首が狩られていた。首から下の身体だけで、血だらけで倒れていたのである。夫が叫んで助けを求めると、村人たちが集まり、犯人の追跡が始まった。人びとは、その後、二人の男が首をたずさえているのに出くわし、ライフル銃で、そのうちの一人を射殺した。もう一人の男は、射撃しても死ななかったので、家に連れ帰って、村人みなで刺し殺したという。その犯人たちは、クアラ・バラムの橋の建設計画で、土地の霊を鎮めるために、人の首を探していたのである。

まことしやかにささやかれた上記の話の真偽について、わたしは、行く先々でいろんな人に尋ねてみたが、いまに至るまで、はっきりしない。したがって、この話の、どこからどこまでが事実で、どこからどこまでが想像力の産物なのか、明らかではない。

そのバルイ川の事件が伝えられると、わたしが滞在するプナン人の村では、「首狩り人(penyamun)」に対する恐怖と警戒が、しだいに広がった。大人たちは、たえず、子どもたちの名を大声で呼んで、子どもたちが、近くにいることを確認し、「首狩り人」がうろうろしているので、子どもたちに、出歩かず、家でじっとしているようにうながした。村人たちは、わたしにも、近場であっても、けっして単独で出かけるな、「首狩り人」への警戒を怠るな、と命じた。一人の人間の首は、8万リンギット(約250万円)で売られる。首狩り人は、誰の首でもいいから持ち帰ろうとするので、気をつけろというのである。

それに並行して、プナン人の村では、かつての「首狩り人」にまつわる事件が、人びとによって想い出され、語られた。それによると、わたしが住んでいる村から5,6キロ離れたプナン人の村で、10年ほど前に、若い女性たちが糞場に行くと、見知らぬ男に遭遇した。村人たちは、その男は、「首狩り人」にちがいない、偵察に来ているのだと推察した。その後、プナン人が、糞場の近くをうろうろしていた一人のイバン人男性をライフル銃で射殺したという。

さて、バルイ川に「首狩り人」が出没したという話が流布して、10日ほど経ったある晩、午後11時ころ、わたしが住んでいるプナン人のロングハウスの住人が、急に、大きな声で話し始めた。ロングハウスの裏手から、人の話し声がするというのである。大人の男性数人が、ライフル銃を抱えて、懐中電灯で照らしながら、話し声のする方へと降りて行った。そこには、もう誰もいなかったが、数人の男のものと見られる足跡が残っていたことが報告された。

さらに、その翌日の午前11時ころ、リュックをかついだ6人の見知らぬ男たちが、ロングハウスの敷地を抜けて、川岸にある船着き場へ行こうとした。プナン人の男性が、見知らぬ男たちの一人に、どこから来たのかと尋ねると、聞いたこともないような土地の名前を口にした。どこに行くのかと尋ねると、ある会社の油ヤシのプランテーションだと答えた。その対話の間に、ある老人は、吹き矢を持ち出してきた。ある女性は、腰に刀を巻き、すでに吹き矢を手にしていた。プナン人の男性が、その油ヤシのプランテーションには、ここからは行くことができないと言うと、その6人の男たちは、来た道を引き返していった。

6人の男たちが引き返した後、プナン人たちは話し合い、彼らの言動は怪しい、「首狩り人」ではないかということになり、バイクと徒歩で、ライフル銃を抱えて、「首狩り人」の探索隊が送り込まれることになった。その後、戻ってきたその探索隊のメンバーは、彼らは、どこにもいない、すでにどこかに行ってしまったと報告した。それを聞いた村人たちは、口々に、なんであのとき(=ロングハウスを通り抜けようとしたとき)に、吹き矢で殺しておかなかったのだろうと、歯がゆい思いを語り合った。

その後、2週間ほどの間に、「首狩り人」が警察に捕まったという話が、2回伝えられた(これも、真偽のほどはさだかではない)。プナン人の村人たちは、いまにいたるまで、事あるごとに、「首狩り人」の恐怖を語り、警戒を怠らないように、お互いに、注意を喚起している。

これは、首狩りがおこなわれなくなった(1920~30年代)後にも、ボルネオ島に広く広がる、首狩りの恐怖言説のプナン・ヴァージョンである。1990年代には、何人かの人類学者が、現代の首狩りに対する現地人の想像力について論じたことがある(例えば、Janet Hoskins(ed.), Headhunting and the Social Imagination in Southeast Asia. Stanford University Press, 1996)。プナン人によると、今日、橋やダムなどの建築計画がある場合、マネージャーが、土地の霊を鎮めるために、人間の首を必要とするので、建築現場から離れた土地に、「首狩り人」を派遣するのだという。

フィールドの真っ只中では、首狩りに対する恐怖は、ものすごいリアリティー感で、わたし自身を圧倒した。何人もの人たちが、同じ内容の話をくりかえすのにつき合っていると、バルイ川の首狩りの話や周辺に「首狩り人」が出没しているという話は、「事実」以外の何ものでもない話として、しだいに、わたしの脳のなかに深くインプットされるようになった。「首狩り人」という言葉を口にしたとき、子どもたちが明らさまな怯えを示すのを目にすると、わたしは、そのことをつうじて、首狩りの恐ろしさに、戦慄を感じるようになった。その結果として、わたしは、彼らの言いつけを守って、けっして一人で、あたりをうろうろしないようになった。首狩りに対する想像力を、わたしは、プナンの人たちとともに共有することになったのである。

ところで、プナンには、首狩りに対する次のような逸話がある。現在60歳の男性が、若いころ、彼の祖父から聞いた話である。プナン人たちは、首狩りをしなかったとされる。それは、イバンやカヤンなど、焼畑稲作民の慣行だったのである。

プナン人がまだジャングルのなかで遊動して暮らしていた時代、あるイバンの男が、プナン人のリーダーのところに、他のプナン人の集落に首狩りに行くことを伝えに来た。リーダーは、そのことをすんなりと承諾した。イバン人たちは、そのプナン人の集落に首狩りに行ったが、逆に、吹き矢にあたって逃げ帰ってきた。そのため、イバン人たちは、そのプナン人のリーダーに助けを求めたという。プナンのリーダーは、燻製用の台をしつらえて、イバン人たちを煙の上に座らせ、上から葉を被せた。そして、暑くてもそこからけっして離れないように命じた。イバン人たちは、その命に従った。しかし、その結果、逆に、吹き矢の毒が体中に回って、イバン人全員が死んだという。プナン人のリーダーは、イバン人たちをだまして、殺害したのである。

この話は、プナンが、吹き矢という彼らの独自の道具を用いて、首狩り隊に対抗しうる人たちであるということを示している点で、非常に興味深い。

(上の写真は、料理される猿(bangat)。本文とは関係ない)


ノマド性

2006年10月22日 11時05分48秒 | エスノグラフィー
プナンの村に暮らし始めて、半年がすぎた。分かってきたことも多いが、それ以上に、どう考えていいのか分からないことが、ますます増えてきた。以下、その試行の一部。

イノシシがしとめられた後に、狩猟キャンプにやって来た10歳代の若者3名は、ごはんと臓物の煮物が料理されているのを確認すると、われ先に、その肉にむしゃぶりつき、食欲を満たそうとした。空腹であったのかもしれないが、わたしには、彼らの欲深さは、驚きであり、見苦しく思えた。しかし、<欲望>(この場合、食欲)をあまり隠したり、閉じ込めたりするようなことがない、プナンの日々の態度を観察するにつけ、そのような行動は、彼らにとって、きわめて、自然なことであるように思えるようになった。何かをしたいという<欲望>こそが、あらゆる行動の源であり、それは、誰によっても、否定されるべきものではない。

あるとき、ロングハウスの住人が共有しているチェインソーの刃が無くなった。そのことで、予定していた木材の切り出しの仕事ができなくなってしまった。犯人は、すぐに明らかになった。その男は、自らが酒を飲む金を得るために、チェインソーの刃を売り払ってしまったのである、そのことが、明るみに出た状況下においても、人びとは、(酒瓶を手に入れるための)盗みの常習犯であるその男に、面と向かって、抗議し、断罪しようと、つめよるようなことはなかった。彼に猜疑のまなざしを向け、陰で彼の盗み遍歴を数え上げた。そのチェインソーの刃の盗みを諌めようとしたのは、彼の妻であった。しかし、妻は、その男に、開き直られ、逆ギレされることになった。翌朝、わたしは、当の男が、ロングハウスの近くの道で、一人で隠れて、酒を飲んでいるのを目撃した。わたしにとって、驚きだったのは、人びとがその盗みの犯人を、執拗に追及しようとはしなかったことである。人びとは、その男の度重なる盗みに対して、呆れ果てているのかもしれない。しかし、その場の雰囲気から、わたしには、そこでは、酒を飲みたいという男の<欲望>が、共同体全体の損失と引き換えに、全面否定されるようなことがないというふうに感じられた(それ以前にも、何度も、その男の欲深さに発する盗みの行為は、捨て置かれてきた)。

ひるがえって、われわれの社会(=現代日本社会)においてそうであるように、他者に配慮し、社会的に身分の高い人物に先を譲り、「個」ではなく、「全体」を優先するという行動パターンは、<欲望>に貫かれているのではなく、<欲望>を押さえ込み、その上に仮構された、秩序と倫理に貫かれているのだと言えるのかもしれない。

ところで、プナンの人びとが、他者や「全体」に対する配慮を欠く、<欲望>に突き動かされた人たちかというと、じつは、そうでもない。子どもたちは、森のなかに入って摘んできた果実を、自らが食べるときに、その場にいる人びとに対して、積極的に分け与えようとする。イノシシをひんぱんにしとめる男が、娘の出産費用を捻出するために、すべてを隣人に対して現金取引し、内臓肉さえ隣人に分け与えようとしない行動は、共同体の人びとの非難を浴びた。しとめた獲物は、その一部を、共同体の隣人に配らなければならないというのである。

このような、(ランダムに並べられた)プナンの<欲望>をめぐる行動を理解する鍵は、いったいどのあたりにあるのだろうか。 いまのところ、わたしは、鍵は、彼らの<ノマド性>とでもいうべきエトースのなかに潜んでいるのではないかと考えている。プナンは、アドゥット(adet)(=しきたり)という言葉を用いるが、ここでは、ジャングルの遊動民であった太古の時代に持っていた<しきたり>であることを強調するために、「ノマド」という用語を用いてみたい。

近年、そういった言い方をすると、文化を一枚岩的に捉える本質主義だとの批判がなされることが多く、人類学者は、そのような危うい領野に足を踏み入れようとはしない。しかし、そのような態度は、わたしには、他者へのゼロ接近からの逃げの姿勢にすぎないように思える。他者を深いレベルで捉えようとすればするほど、手がかりとなる概念が必要になる。

<ノマド性>とは、遊動的な生活様式において、人びとが身にまとっていたしきたり、行動原理のようなもので、そこにあるもの(=ジャングルに存在する財)を、共同で利用し、消費するというようなエトースのことである。人びとは、<欲望>に従って、だれもが平等に、財へと接近し、利用・消費しようとする。財が無くなれば、共同で、別の場所へ移動したり、別の方法を見つけて、新たな財を手に入れるように努める。

現代のプナンは、近代へと新規参入(=定住化)したこの40年の間、そのような<ノマド性>を、いまだに放擲することなく、保持していると見る。財(=イノシシ肉、チェインソーの刃、果実)は、そこにあるかぎり、共同で利用・消費されるべきものなのである。その財へと向かう<欲望>は、行動の源泉として、否定されることはない。財がなくなれば、再び、みなで探せばいいのである(しかし、それは、あくまでも、ひとつの萌芽的な見方・考え方であり、妥当であるかどうかの保証はまったくないので、今後、さらに考えてみたい)。

プナン社会のフィールドには、日本人にとっては、すんなりと理解できないようなトリヴィアルな数々の行動が満ち溢れている。かつて、人類学者レナート・ロザルドは、ミンダナオ島のイロンゴットの人びとが、身近な人が死ぬと、その<悲しみ>を<怒り>へと転じて、首狩りをおこなうことの意味をどうしても理解できないでいた。しかし、彼の妻が、フィールドにおいて事故死したときに、イロンゴットの人びととともに、その不思議な感情と行為の連関を共有することができるようになったという(レナート・ロザルド『文化と真実』)。経験は、他者理解の道を開く。

以下、わたしの経験から、もうひとつのエピソード。 わたしは、プナンの人びとが、自分の親(父母)を本名で呼ぶことを、非常に不思議に思ってきた。父親を呼ぶときに、「お父さん(ameu)」と呼んだり、あるいは、直接、本名で呼んだりする。「お父さん」と呼ばれるべき人がたくさん集っているときには、本名で呼びかけることが多いようである。

それとは対照的なのが、わたしが調査研究をおこなった焼畑稲作民のカリス社会のしきたりである。そこでは、どのような状況であれ、子どもが親(父母)、祖父母の名を口にすることはない。その調査研究の時点で、わたしは、どうして人びとは、父母、祖父母の名を口にしてはいけないのかという点について、追究してみることはなかったが、いま、直面するプナンのしきたりとの比較で、そういった慣習が喚起する社会的な意味は、重要ではないかと思うようになってきた。

子どもが父母の名を口にしてはならず、反対に、父母は子どもの名を口にすることができる。その行為の<差異>をつうじて、親子関係の秩序と優劣(=親が子どもよりも社会的には優位であり、尊敬されるべき存在であるということ)が示されることになる。ひるがえって、プナン社会では、親と子の両者が、相手を本名で呼び合うことによって、両者の位置関係は対等、平等なものとして現れるのではないだろうか。そのしきたりもまた、プナンが身にまとってきた、財に対して誰もが平等であるとという、平等主義的な<ノマド性>に貫かれていると考えてみてはどうだろうか。

以上、フィールドの真っ只中で、わたしが試行的に考えたことの一部である。フィールドでは、気づくと、驚きや不思議感をわが身にたぐり寄せながら、必ずしもまとまりのあるものではない、そういった数々のマイナーな行為について、没頭して考えていることがある。そういった面を、いずれ、エスノグラフィーとして、照らし出すことができないだろうか。

死の風景

2006年10月21日 18時04分57秒 | フィールドワーク

ある日の午前4時ごろ、ロングハウスの内外が、急に騒がしくなった。遠くで、人の死を告げる銅鑼の音が、響いたのだという(わたしには聞こえなかったが…)。やがて、隣村のS(30歳代女性)の急死が伝えられた。夕刻から体調を崩し、そのまま死を迎えたという。

あたりが明るくなるころ、わたしが親しくしているJ(40歳代男性)が、妹が急死してびっくりした、ついては、弔問金を融通してほしいと言いにやって来た。わたしには、Jに妹がいたというのは、聞きはじめであった。Jには、同じロングハウスに住んでいる<父ちがいの(=母が同じの)弟>がいると聞いていたからである。死んだSは、Jの<母ちがい(=父が同じの)妹>だということであった(Jにとっては、いっしょに育てられたのではない「遠い」妹にあたる)。

その日の午前中、Jに遅れて、わたしは、Sの死を見届けに行った。Sの遺体は、飾り立てられ、陳列されていた。遺体は横たえられていたが、メトカーフによるブラワンの民族誌[Peter Metcalf, Borneo Journey into Death, Harvard University Press.] に出てくる死の風景—-遺体は、飾り立てられ、椅子に座らされて、弔問客に陳列される—-に似ていると思った。わたしは、すでに酔っている弔問客から、酒とビールを浴びるように飲まされて、酔っ払った。早々に、午後2時少し前に退散することにした。

わたしの後を追いかけるように、今度は、弔問をつづけているJから、手紙が届けられた。午後2時に、Sが死んだ同じ村で、今度は、長らく病床にあったM(50歳代男性)が死んだ、ついては、弔問金を融通してほしいという趣旨のことがしたためてあった。手紙を運んで来た少年は、Mは、死んだSの兄にあたる、一日に二つの死が起こるなんて、信じがたいと述べた。わたしは、Jに要求された金額を、彼に託した。

その翌日、わたしは、二人の兄妹が同日に亡くなったその村に足を運んだ(上の写真は、Mの遺体の陳列と弔問客)。そこには、Jがいた。わたしは、一日に二人の兄妹を亡くして、さぞ、たいへんだったであろうと、Jに話しかけてみた。ところが、Jは、Mは、彼の兄ではない…と返してきたのである。

聞いてみると、死んだMは、Jの<母ちがい(=父が同じの)妹>であるSの、<父ちがい(=母が同じの)兄>であり、Jの兄ではない(=血縁関係はない)というのである。つまり、JとSの父Gは、かつて別の男と結婚して、Mを生んだ女と(一時期)結婚して、JとSをもうけたのであり、それゆえ、JとMは兄弟ではないというのだ。

Jによれば、JとSの共通の父Gは、ほかにも、複数の女性との間に子をもうけており、その意味では、Jには、S以外にも兄弟姉妹がいる。そして、Jは、現在、スピン川流域のプナンの村に健在する彼の父Gに、これまで、いったい全員で何人の子がいたのか正確には知らないのだという。それを知りたければ、Gに直接尋ねてみるしかないという。わたしは、すすめられるままに酒を飲み、ふたたび酔っ払った。

(わたしにとって)驚くべきことは、Gのような「結婚」が、プナン社会では、一般におこなわれてきたということである。すなわち、人(男も女も)は、次から次へと、「結婚」をくりかえし、そのつど、子をなす。 ごく単純化して言えば、<わたしの父>に、<わたしの母>とは別の複数の女性と「結婚」していた時期があり、そのそれぞれに、子が複数あり、同様に、<わたしの母>にも、<わたしの父>とは別の複数の男性と結婚していた時期があり、そのそれぞれに子が複数ある、というような状況が存在する。そして、<わたしの父>/<わたしの母>のそれぞれの「結婚」相手にもまた、いくつかの「結婚」の遍歴があり、それぞれに複数の子がいる。

ここで、あらためて確認しておきたいのは、親族のありようが、当該文化の性の行動パターンと深く関わっているということである。プナン社会の場合、「結婚」(特定の異性に対する性の独占)は、けっして、安定的なものではない。性熟後早い時期から、その後、生涯にわたって、複数の異性と「結婚」し、その期間に子をなす。子は、「結婚」解消後は、どちらかの親に引き取られて育てられていく。

付け加えれば、難題は、そのような複雑な親族の系譜を、一枚の平面の上に書き記すことである。実は、難問は、それだけではない。プナンは、ひんぱんに養子を取る。「結婚」して子どもがいない場合だけでなく、夫婦が年を取って、小さな子どもがいない場合など、同村から、隣村から、生まれたての子どもを養子(anak amung)とする。養子を実子(anak lan)と明確に区別しながら、聞き取りをし、どのようにそれらを系図上に書き起こしていくのかということも、実に厄介な問題をはらんでいる。

ところで、SとM、両者の遺体は、死の二日後に埋葬され、その一週間後に、喪明け(bet lumu)の儀礼がおこなわれた。

ある死の風景をめぐって、プナンの親族関係について考えた。