たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

豚霊碑/畜霊塔

2009年05月14日 19時24分40秒 | 人間と動物

さる5月13日(水)の昼から、3年生ゼミのメンバーで、相模原市にフィールドワークに出かけた。1班は、相模線の上溝駅周辺での民俗学・社会学調査に、2班は、同・原当麻駅周辺での人類学・考古学調査を行った。わたしは、2班を引率した。最初、駅周辺で、獣魂碑を探したが見当たらず、旧石器遺跡を見に行くために歩いている途中で、牛を飼っている畜舎を見つけ、Tくんが尋ねたところ、それが、駅前の農協の敷地にあるという情報を得た。遺跡を見た後、見学に向かった。それは、畜舎の人が言ったように、原当麻駅の近くの線路沿いのJAの敷地内にあった(写真)。

その碑の裏には、以下のように記してあった。

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農家経済不調な時その打開策として営農形態は多角経営方式から専業的経営に移行しました。この様な時に養豚経営も多頭飼育が各地に普及し当地区にも従来として変わった組織が農協を中心に発足した。
1.昭和36年2月1日
  麻溝農協養豚部設立
1.昭和37年3
月2日
  群馬県渋川より子豚導入
1.昭和39年9月2日
  年間2千頭出荷達成
1.昭和40年3月2日
  年間5千頭出荷達成
1.昭和42年3月2日
  年間1万頭出荷達成

この間種々の難問に合い関係機関の助力と部員の強固な団結により困難な道を乗り越えここに1万頭年間出荷達成を祝と共に豚霊碑を建立する。

昭和42年3月20日建立 上溝 梅田石材店刻
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「農家経済不調な時その打開策として営農形態は多角経営方式から専業的経営に移行し」たというのは、従来、農家が、米作りを行うとともに、
豚を飼い育てて売っているという形態では、経済が立ち行かなくなって、畜舎をしつらえて、専業としての家畜業に乗り出したことを示しているのではないだろうか。その上で、「従来として変わった組織が農協を中心に発足した」、つまり、組織的・集団的に、品質のいい豚を導入し、販売先を開拓するなどによって、商品経済のなかに巻き込まれてゆくかたちで、豚の生産と販売を開始するようになったのである。

昭和37年に群馬県から導入された子豚が、繁殖を繰り返して、
その5年後には、年間1万頭出荷できるようになったということのようである。人びとは、そのことを祝して、この豚霊碑を建てたのである。「豚霊」に対する弔いの念が、碑の建立のもう一つの理由であることが読み取れる。

豚霊碑の向かって左側には、それよりも一回り小さい
「畜霊塔」があった。それは、昭和18年3月に、麻溝搾乳組合によって建てられたとの情報が、碑の裏側に刻まれていた。上の豚霊碑は、その畜霊塔の建立の建立の24年後に立てられたものであり、碑を建てて動物の霊を弔うという思念が、地域では、畜産業者によって、脈々と受け継がれていたことがうかがえる。

以下、これまで、このブロクで取り上げた「獣魂碑」は、以下のとおり。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/acacf5a7a03ef6d7e2a23d4dadcce3ce

http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/00ada481c69a4cf43a83bb5441284976
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/843ecd4f1437125a62bc8ef0f7309ef1
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/958e03874b3d06b92b27e28cdf7a8290


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