たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

働かざるもの食うべからずか?

2010年03月31日 18時23分19秒 | エスノグラフィー

「働かざるもの食うべからず」ということばがある。わたしたちは働かないものに対して、例えば就職もせずにぶらぶらしていて、居候生活をつづけているような人に対して、そういう言葉を発することがあるように思う。いったい誰が言い出したのだろうか?新約聖書の「テサロニケの信徒への手紙 二」において、怠惰な生活を戒めるための話のなかに、「働きたくない者は、食べてはならない」という言葉があるのが起源であるとされることがある(『聖書』日本聖書協会、(新)191頁)。やはり、日本人が言い出した言葉ではなくて、キリスト教的な流れを汲むものであったのか。いずれにせよ、その言葉は、わたしたちの社会においても、スローガンのようなものとしてすでに長らく定着してきている。わたしは、これはどうかなと思う。下品だとも思う。好きではない。じゃ、何が上品かというと、後から述べるプナンの抱く考え方だとわたしは思っているが、そのことを強調することは、未開社会の人びとの価値規範を理想化して述べることになるので、十分な注意が必要かもしれない。で、以下、わたしたちがわたしたちの考えについて考えるためのヒントのようなものとして、やや五月雨式に述べてみたい。下品かどうかは分からないが、働かざるもの食うべからず」という言葉では、働くものと働かざるものを分類しているという点が、まずはひじょうに気になる。そうした分類や言い方が成立するための条件としては、働くことが意欲に溢れていて、働かないことが怠慢であるという線引きが、イメージとして、社会に流通していることが必要である。働くこと=意欲的=立派である/働かざること=怠慢=どうしようもない、という図式理解。さらにいえば、わたしたちの社会では、徹底的に、左の項を実現するために諸制度が用意されているということができる。他方で、右の項へと向かう精神身体性は、排除され、毛嫌いされる傾向にある。だから、働かざるもの食うべからず」であり、逆に言えば、それは、働け、そんな怠惰では食いっぱぐれてしまうぞ、という脅し文句なのである。わたしがそうしたことを考えるのは、先ほども述べたように、もっぱら、プナンのせいである。プナンは、つねにこうした問いを突きつけて、わたしを悩ませる。ではプナンの考えとはどのようなものか。それは、仮に、「食うもの働くかもしれず」というようなものとして表せるかもしれない。食べるものや飲むものがあれば、彼らはふつう惜しみなく誰彼となく与える。人びとはひたすら食べかつ飲む。その間がむしゃらになって働く必要はない。食べるものが底をつき、なんとか食べものや飲みものを得ようと努力するが、どうしても得られないようなときには、決まってどこかから声がかかることになる。食うことに関しては、こちらでダメならあちらでなんとかなるというのが、プナンの考え方である。そこには、そうした贈与と返礼を基盤とした物品の分配体系が、しっかりと根づいている。だから、人は別段働かなくてもいい。無理矢理働けと命じるような人もいない。そうこうしているうちに、いずれときが来れば人は立ち上がって働くようになる。薪を割ったり、投網で魚を獲りに行ったり、しとめたイノシシを運んだりして。その意味で、「働かざるもの食うべからず」という法は、プナン社会にはない。しかし、もう一歩踏み込んで思いをめぐらせてみるならば、プナンは、「食うもの働くかもしれず」というような標語を口にすることはまったくないのであり、であるならば、働くことと働かないことの間に明確な線引きのようなものがないということのほうが、より実状に近いのかもしれない。彼らは働かないということに負の意味を与えていないし、働かないことと働くことの間にくっきりとした境界線を引かない。働くこと=立派、働かないこと=怠慢というようなことを言わないのだ。もう少したくさんの人がこうした根源的な(ま、ある意味では、ファンタジックな)問いを掘り起こして考えてゆくならば、左の項へと人びとを無根拠に駆り立てるような悪魔的な社会ではなく、もうちょっとましなゆとりのある社会が生み出せるのかもしれない。ほれ、そんな言い方をすれば、わたしは部分的に、未開社会を理想化してしまっていることになるのかもしれないが。

(写真は、野生のライチ?2,3月いろんな果実が熟していた)


いざ立教、6月第二週

2010年03月30日 20時27分00秒 | 自然と社会

分科会「自然と社会の民族誌―動物と人間の連続性」
http://www.jasca.org/meeting/44th/index.html
キーワード:自然と社会、人間と間、連続性/非連続性、
存在論、民族誌

17世紀の近代科学の黎明期に、それまでは自然のなかにあるとされていた諸性質が自然から分断され、人間の精神の側に帰属させられるようになった。自然は、目的的理性をもたない、死せるマテーリアとなったのである。こうして、自然を人間の外なる存在とする自然と社会の二元論が生まれた。

この自然と社会の二元論は、西洋哲学に、より強く人間の精神思考の枠組のみを問うことへの根拠を与えるようになった。その結果として、今日の西洋哲学は、精神を有する存在は人間だけであり、人間と間の間の質的な断絶、すなわち、人間と間の間の非連続性を強調する傾向がある。

他方、20世紀後半の自然科学の進展は、このような西洋哲学の人間観に対して新たな問題を提起しようとしてきた。人間と他の霊長類との類似性を示した霊長類学、ロボットに自意識や理性や想像力や道徳的感情をもたせようとする人工知能研究、ゲノム解析によって人間と他の生物との遺伝子レベルでの共通性を解明した遺伝子研究などは、人間と間が本質的には、同じであると主張することで、人間と間の間の境界をぼやかし、それらに対する連続性を見出す眼差しを打ち立てようとしている。

間と人間の峻別といった、自然と社会の二元論思考の内包する問題が指摘されたのは19世紀末であり、決して新しくはない。しかしながら、そうした二元論への信念は、簡単に乗り越えることができないほど根深かかったのである。あくまでも動物などの間とは本質的に異なるとされていたからである。

現在、注目すべき取り組みが、生態心理学においてすでに始まっている。アフォーダンスという知の組み換えをつうじて、わたしたちを取り巻く環境の記述が試みられているのである。生態人類学は、自然と社会をめぐる非連続性に基づく従来の二元論思考において注意が向けられなかった、隙間や穴といった環境の存在論に注目し、自然と社会の連続性のもとに現われる日常の生態を描き出そうとしている。

近年、人類学でも、自然と社会の非連続性とは異なるコスモロジーをもつ人々の民族誌を描き出すことをとおし、西洋の二元論思考が抱える難題に挑戦する研究者たちがいる。デスコーラによれば、南米・アマゾニアのアシュアル社会は、人間と動植物が同じ規則に従う「自然の社会」であり、そこでは、西洋において自明的に想定されるような人間、動植物、精霊などの明確な弁別がなされないという。ヴィヴェイロス・デ・カストロは、アメリカ先住民の存在論では、人間と間は、一方で、諸存在が互いに異なる身体をもつという形而下の非連続性によって、他方では、諸存在が互いに意思疎通が可能であるという形而上の連続性によって結びついていると述べている。このような民族誌研究をつうじて、人間と間、自然と社会の構成要素が緩やかに連続し、和合している状況が明らかにされてきている。 

本分科会では、自然と社会の二元論の乗り越えの試みをさらに発展させるために、こうした理論検討と民族誌記述を手がかりとして、人類学の観点から、自然と社会の非連続性と連続性をめぐる問題提起を行う。  

取り上げる内容は、以下の通りである。
①民族誌的な存在論の可能性と意義に関する理論的考察、②日本の神経生理学教室の実験室でなされる研究活動に内在化された自然と文化の二分法をめぐる問題の検討、③ボルネオ島の狩猟民における人間と動物の魂の連続性をめぐる民族誌、④チベット仏教社会において動物個体に対して行われるツェタル儀礼に見られる自然と文化の連続性をめぐる考察、⑤ニューギニア農耕民の内水面漁撈の技術から見える魚への人間性の拡張。 

自然や環境、生態をめぐる人類学の調査研究の多くは、幾つかの例外を除き、自然と社会の二元論に基づく視点からなされていた。それに対して、本分科会が目指すのは、デスコーラが取り組むような、諸存在をめぐる諸関係のなかから立ち現われるような「諸関係の一般生態学」への展開への意識である。本分科会では、自然と社会を取り扱うために、文化人類学が主題とすべき問題を再定義し、自然や環境や生態を語るこれまでにない視点を提起したい
(c)田所聖志(東京大学)、奥野克巳(桜美林大学)(20091130、一部改訂)

(写真:キャンプで寝るときには枕にもなるマイザック)


『密林の語り部』

2010年03月29日 08時00分52秒 | 文学作品

M.バルガス=リョサの『密林の語り部 El Hablador』(原著1987年、西村英一郎訳、新潮社、1994年)を昨日一気に耽読し、読み終えた直後の興奮が覚めないまま、以下に感想を書き留めておきたい。近代ペルーの現実と先住民マチゲンガ族(Machiguenga)の語り部を視野に収めたこのフィクションの組み立ては、人類学者・民族学者にとって大きな衝撃である。それは、フィクションでありながら、超一級のエスノグラフィーでもある。

◆マチゲンガについて
http://www.nativeplanet.org/indigenous/ethnicdiversity/latinamerica/peru/indigenous_data_peru_machiguenga.shtml
◆ついでにプナンについて
http://www.nativeplanet.org/indigenous/ethnicdiversity/asia/malaysia/indigenous_data_malaysia_penan.shtml
(このサイトにはたくさんの間違いがあるが、参考のため)

主人公は、ペルーの写真展に出かけたフィレンツェの画廊で、アマゾンの奥地の密林に住む語り部を偶然目にする。それは、サンマルコス・大学で親交のあった、ユダヤ人で、顔に大きな痣があり、自分のことをマスカリータ(仮面をつけた男)と呼ぶ、サウル・スラータスだと思われた。サウル・スラータスは、法学を捨て、人類学を捨てて、父の死後、ユダヤに帰ることなく、マチゲンガの人びとの奥深くへと入り込み、語り部となったのである。

マチゲンガの語り部は(20年以上そこに住んでいる言語学者エドウィン・シュネルによれば);
何について話したのですか?そうだね、思い出すのは難しいね、一種の混沌だから。何でもかんでも、少しずつ、頭に浮かんでくることをだね。夕暮れがしたこと、マチゲンガ族が宇宙の四つの世界、自分の旅、魔法の薬草、知っている人々や、部族の神殿にいる神々、小さな神々、その他の架空の存在。見た動物や天体の地形、覚えられないような名前の迷宮になった川。嵐のような言葉を精神を集中して追っていくのは骨が折れた。なぜなら、それはユカの収穫から精霊キエンチバコリの軍隊に話が変わるかと思うと、そこから家族の出産、結婚、死去、あるいは木の流血の時代(彼らはゴムの時代をそう呼んでいる)の諸悪に話が飛んだからだ・・・

確かな証拠はないのだけれども、サウル・スラータスは、マチゲンガの間を歩き回って、人びとが秘匿しつつも、その話を熱心に聞き入る、語り部となったようなのである。語り部が話すように話すことは、その文化のもっとも深奥のものを感じ、生きることであり、その底部にあるものを捉え、歴史と神話の真髄をきわめて、先祖からのタブーや言い伝えや味覚や恐怖の感覚を自分のものとすること」なのである。サウル・スラータスは、「コンベルソ(ユダヤ教からキリスト教への改宗者)から語り部に転生した」。

フィレンツェにいる主人公の語りから構成される1,8章を除いて、偶数章(
2,4,6章)では、主人公とサウル・スラータスとの親交と、25年後のテレビクルーとしてのアマゾン訪問、奇数章(3,5,7章)では、マチゲンガの語り部の語り(7章では、それは、サウル・スラータスのものとなっている)という、バルガス=リョサが得意とする対位法的な組み立てになっている。

奇数章につづられる語り部の語りでは、マチゲンガの豊かな神話的世界が描かれる。

悪戯者のカマガリーニが化けた雀蜂に小便中にペニスの先を指されたタスリンチ。彼のペニスはものすごく大きくなって、鳥はそれを木だと勘違いして、それにとまってさえずった。おしっこをすると熱い尿が滝のように出て、激流の瀑布のように泡立ち、タスリンチと家族はそこで泳ぐことができたという。立ち止まって休むとき、それは腰掛のかわりとなったが、セリピガリの術によって萎まされたのである。その後、タスリンチは、女をかっさらって来たという・・・

原初には、この世界には人間しかいなかった。「彼らは話されて、つまり言葉から生まれてきた。言葉が彼らよりも先にあった。それから言葉が言ったことが生じた。人間が話すと、話していくことが実現した」。そのようにして、言葉によって、人間が動物や木々や岩を造りだしたのである。

マチゲンガは、人間は言葉から生まれたと考える。言葉こそが、何よりもまず先にある。その意味において、マチゲンガは、言葉の使い手、語り部をたいそう敬ってきた。
サウル・スラータスは、それまで持っていたものをすべて消し去り、マチゲンガの文化の中心へと向かい、密林の語り部となったのである。

語り部になることは、嘘のようなことに不可能なことを付け加えることだからである。時間のなかを、ズボンやネクタイからふんどしや入墨へ、スペイン語からマチゲンガ語の膠着語の捻髪音へ、理性から呪術へ、一神教あるいは西洋の不可知論から異教のアニミズムへ回帰することは、想像できなくはないが、そのまま認めることは難しいからだ。

バルガス=リョサは、密林の語り部に、
言葉から世界を生み出す作家を重ねて見ているのかもしれない。それは、また、そのことは、エスノグラファーの課題でもあるとわたしは思う。情熱を抱いて未開人となったサウル・スラータス。「こちら側」にとどまり続け、書くことによって、同時代の問題として、そのことの意味を考えようとする主人公。それもまた、人類学の大きなテーマではないだろうか。

(『密林の語り部』の本に載っていたバルガス=リョサの写真。男っぷりがいい。しかも、われれわれをうっとりさせる、言葉の呪術師=
作家であり、ペルーの社会問題への関心から、1990年には、大統領候補となったこともある。フジモリに敗れ去ったのだけれども)


2010年03月28日 10時24分47秒 | エスノグラフィー

そのころ花のことを想っていた。クアラルンプールの空港内でひときわ華やいだ雰囲気を漂わせている人たちがいた。ポリネシア人だと思う。フランス語が聞こえてきた。女たちのうち何人かが、若くても年増でも、プルメリアだか蘭だか分からないが、花を髪に飾りつけていた。そうした習慣は、超自然的な世界との関わりで、呪力を得るためのものであるとどこかで聞いたことがあるが、そんなことはそのときにはまったく思い浮かばず、わたしは、女たちの花飾りに匂い立つような美しさを感じた。

花を愛で、花を飾り、花に意味を与えたり受け取ったり、花を贈り、花をイコンとして用いるということは、いったいどういうことなのだろうか。ふとそう思った。プナンはどのように考えているのだろうかと。

花は、プナン語ではブンガ(bunga)という。マレーシア・インドネシアの諸語に広く共通する語である。ngebunga という語があるが、それは「飾りつける」という意味である。しかし、プナンには、花そのものを髪や身体につけたり、空間に飾りつけたりする習慣はまったくない。さらには、花を贈る習慣もない。花のそれぞれに特有の意味を与えるようなこともない。栽培や飼育を毛嫌いするのではないにせよ、自然に手を加えたものを一段低いものとして見ているプナンは、けっして、鑑賞するために花を育てたりするようなことはない。近隣の焼畑民のロングハウスの庭に、観賞用に植えられた花には、彼らはほとんど関心を示さない。
言ってみれば、プナンは、花に関してほとんど価値を置かないし、その意味で、花の文化がないと言えるのかもしれない。

花はジャングルのなかにはない、とプナンは言う。じっさい、鬱蒼としたジャングルのなかに花を見かけることはほとんどない。花はふつうジャングル
が終わる場所に咲いている。わたしたちが、フラワーガーデンなどで、しばしばうっとりとするようなかたちで咲き乱れ、咲き誇っているのを目にするような花々に出くわすことはない。熱帯の熱暑に向かいながら、ひっそりと、しかしながら精一杯、ジャングルの終わるところで咲いているというのがわたしの印象である。そこでも花は、蟲や鳥についばんでもらって、花粉を遠くに運んでもらうために、周囲から突出して、自らを目立たせるために咲いている。花に魅かれるのは、人間だけではなく、すべての生き物なのである。花は、いわば、ジャングルの範囲をどんどんと押し広げてゆくための先遣隊として、ジャングルの入口に自らを開く。

花の文化に関しては貧相なものの、プナンは、やはり花を美しいと言う。その意味で、花に魅かれている。プナン語で、美
しいは、jiannaat。 jian は「よい」、naatは「見る」。つまり、見てくれがいいことが、彼らにとって美しいことである。プナンは、こういう言い方もする。Siah kau ju naat? 「おまえは誰に会いたいのか(見たいのか)?」、つまり、会うことは見ることである。つまり、美しいとは、基本的には、わたしたちが出会う素晴らしい事態なのである。

プナン人の数人に、もっとも美しい花は何かと尋ねたところ、一様に、lake tulang という答が返ってきた。lakeは「ロタン、籐」のこと。tulangは「骨」のこと。「骨の籐」という名の花だという。ある一日、それを見に出かけた。
ジャングルの入口に咲いていた。白い花。なぜ、それが「骨」と呼ばれているだろうのか。彼らは、知らないと言ったが、わたしはなんとなく直観で分かった気がした。それは、咲き乱れているのでも、咲き誇っているのでもなく、まばらに、ひっそりと、「骨」のような色をして、咲いていた(写真)。 


ガブとファンと健次、ついでにアレッホ

2010年03月27日 00時07分16秒 | 文学作品

最近このブログは、文学作品の紹介というか読後感想みたいになってきているが、世の中にはもっとスゴイ文学があるはずだという思いに駆られて、本屋を経巡り、気がつくと時間を忘れてついつい本を読んでいる。ある種の闘いであるが。さあ大変だ、最近、専門の論文はあまり書いていない。以下は、今春のマレーシアの旅の途中で読んだ本の雑感プラスおまけの1冊。ほかにノーベル文学賞作家の『・・・のフットボール』や○口ランディの『○○イク』も読んだが、心に深く響くものがなく、途中で放り出してしまった。★印は、わたしによる勝手な5段階評価。

ガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』(集英社文庫、1994年★★★★★
この本では、107歳から132歳の間であったという頽齢の大統領閣下の死を出発点として、大統領本人だけでなく、さまざまな登場人物の独白と回想によって、時間の秩序を巻き込んで、入り乱れて錯綜しながら、その国に起こった事件や出来事がめまぐるしく語られる。驚きは、50ページもの長きにわたって、段落が途切れることがなく、一気呵成に綴られていることである。

一世紀にわたる治世という途方もないテーマ設定は、クーデタによって、権力の座からあっという間にひきずりおろされるラテンアメリカの族長のありように対する真逆の可能性の提示でもある。だれが権力の座についても、その地位を利用して私服を肥やして、欲におぼれるのは必定であり、短期政権に終わってしまう。この物語において、ガルシア=マルケスが提起しようとしたのは、長きにわたって一人の人物に権力の座を与えたとしても、結局は、何も事態は変わらないという意味で、それならばそれで、長期政権でも同じことなのではないかという民衆の叫びであったのかもしれない。大統領閣下は、物語のなかでは、閣下としてしか登場せず、その意味で、匿名性を帯びている。 

自らの分身(影武者)として、女たちを与え、同じ食事を取った男の死を自らの死として見せかけることによって、巧妙に、毒を盛った側の裏切り者たちを探索しようとする大統領の企み。謀反の心を抱いた阿諛追従の将軍を丸焼き料理にして、パーティーに出す大統領の猜疑と強心。大統領のやり方は、胸が悪くなるほど、つねに専横的かつ独裁的である。そのやり方に恐れおののく部下たちは、大統領に聞かれてはまずい情報を秘匿するようになる。そのようにして、大統領には知らされない情報が、つねに存在するようになる。一種だけ御用新聞を作って、大統領が好むような記事ばかりを載せるようになり、ラジオドラマでは、大統領が死よりも愛を好むのに合わせて、そのあらすじをつくり変えるようになる。

そのようにして、権力の中枢に鎮座する大統領は、知らないうちに深い孤独への淵へと落ち込んでゆく。権力や欲に取り憑かれた人間は、その度合いが深いほど、ほかの誰にもまして孤独を抱えるようになるという一つのパラドクス。大統領は、愛なき行為によって妾に5千人の子を産ませたものの、その一方で、修道院から掻っさらってきたレティシア・ナサレノと愛児エマヌエル、ごみ捨て場のような場所に住み、大統領のワルツの相手をした美女、マヌエラ・サンチェスらには、彼の愛は決して届くことがない。権力によって支えられている大統領の日常。人間がつくり出して、そのようにさせているものは、なんと惨めでわびしいことか。死を前にした大統領は、以下のように考えた。

長い年月の流れるあいだに、虚偽は疑惑よりも快適であり、愛よりも有用であり、真実よりも永遠のものであることを知ったのだ。権力を持たないのに命令し、栄光を与えられないのに称賛され、権威を備えていないのに服従されるという、恥ずべき欺瞞に思い至っても、べつに驚きはしなかった。秋の黄葉が舞うなかで、彼自身が権力のすべてを把握し、その主人公となることは決してないと悟ったのだ。裏面からしかこの生を知りえないという運命にあることを、また、現実という迷妄のゴブラン織りの縫い目の謎を解いたり、横糸を整えたり、経糸の節をほぐしたりする運命にあることを、悟ったのだ。

ファン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』(岩波文庫、1992年★★★

ラテンアメリカ文学の作品のなかで、ときに、その最高峰の一角に位置すると評される、メキシコ人作家・ファン・ルルフォによって1955年に発表された『ペドロ・パラモ』。207ページという、分量の多さで圧倒するのでもなければ、表現の緻密さで勝負するのでもなく、短い断章をつなぎ合わせることによって、全体をつうじて、ペドロ・パラモという人間くさいある男の周囲に起きる出来事を描いている。

話のなかでは、冒頭でペドロ・パラモを訪ねてやって来る彼の息子ファン・プレシアドをはじめとして、ペドロ・パラモの住んでいるコマラの住人たちが、次々に死んでゆく。そこでは、生者と死者が交感するさまが描かれるとともに、人びとの回想をつうじて、ノスタルジーのなかに、人びとの過去の淡い経験もまた蘇ってくる。小説は、全体をつうじて、何が現実なのか、非現実なのかが判然としないまま、独特の色調を帯びて進んでゆく。一読すると、ひじょうに難解に感じる。しかし、そのことは、この作品が、物語形式をつうじて、ある真実を浮かび上がらせようとしていることに深く関わっているように思われる。

中上健次『千年の愉楽』(河出書房新社、1992年★★★★★

タイトルが『百年の孤独』に似ていることから、学生のころからずっと読みたいと思っていたが、今回、はじめて読んだ。どうしてこの作品をもっと早く読まなかったのかと思った。長い一文のなかにぎっしりと表現が詰め込まれた特有の文体を含めて、取り上げられている世界のなんと妖しくかつ美しいことか。春学期のゼミで読むことに急遽決めた。

太平洋戦争後の和歌山・新宮の路地と呼ばれるに住み、生の世界と死の世界を鳥瞰するシャーマニックな存在であるオリュウノオバという女性によって語られる物語。産婆であるオリュウノオバの夫の礼如は毛坊主で、この夫婦は、人の生の始まり(オリュウノオバ)と終わりに向き合う存在(礼如)として描かれる。とりわけ、オリュウノオバは産婆として、母よりも先に中本の一統である男たちを取り上げることによって、その清らかなれど澱んだ血によって、男たちが生を熱く弾けさせて、夭折する運命を読み取ってしまう。

オリュウノオバは半蔵をそう思ったように三好もこの世に生き永らえる自分とは違い、針の先が入った途端に極楽とはこの事かと思うと自分でも言うようにこの世ではない別の世からやって来て今ここにいてこの世の者らとまみえて暮らしているのだと考えた。

人の秘密の中に立ち入り人が生れ出て来た最初に立ち会う仕事なので自分一人の胸におさめておき、他人には言うまいし言えないと心に誓った事は幾つもあった。オリュウノオバは生まれてくる者、礼如さんは死んでいく者を相手にしてそうやって産婆を長い事やっていて身についたのは、生まれてくるのは確かに生命のある生き物だがそれがすぐに人ではないという事だった。血をぬぐい落としてへその緒を切り、さらに五体満足でもそうでなくとも親や親に代わる者が人の子として認めてやってやっと人の赤ん坊という事になり、人の腹から出てつかの間に光を受けてまた闇にもどされても、生き物のままの子は自分一人で人の子になることは出来ないから一層、ちいさく畏ろしい者に問いつめられているようで苦しいが、知らない者は知らないままでよい、とオリュウノオバはつぶやいた。

ここで取り上げられているのは、中本の一統の六人の男たちの生と死である。中本の一統のなかでも群を抜く男ぶりの<半蔵>は、25歳で、女に手を出してそれを怨んだ男に背後から刺されて死ぬ。<三好>は、盗人をしたり、女を売ったりして、地廻りとして暮らすが、燃え上がるようにして生きることができなくなったと、桜の木に縄をかけて首吊り自殺する。幼いころ天狗にさらわれ異類と交信する<文彦>は、天狗に引き裂かれたヒサシの女房に金を届けた後、路地の松に首をくくって死ぬ。<オリエントの康>は、新天地を求めて南米行きを画策して鉄心会を興すが、いざこざに巻き込まれ二回もピストルで撃たれながらも生き残ってブェノスアイレスに行き、そこで、革命運動で命を落とす。若いころから人付き合いをせず鼠小僧のような盗人となった<新一郎>は、3年間南米のラプラタに行き、帰国した後、水銀を飲んで死ぬ。<達男>は、北海道に働きに行き、自分と境涯のよく似たアイヌの若い衆と親交を深め、その若い衆が達男として路地に戻ってくる。じつは、達男は、開拓抗争に巻き込まれて刺し殺されていたのである。

全編をつうじて、人倫を超えて男たちがのめりこんでゆく女たちとの色事の描写がことのほか生々しい。その華やかな活動の果てに、身を持ち崩して若くして死に至る中本の一統の男たちの、さらには、人間のなんと儚きことよ。

アレッホ・カルペンティエール『失われた足跡』(集英社文庫、1994年★★★★★★

ついでながら、表紙をいっしょにスキャンしてしまったので、
今回は読んでいないけれど、わたしがいまのところ最強の文学だと考えている、カルペンティエールによる桃源郷の物語。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/9cc7dcd20076a67d2d273cce611a51ec

 


ブラッド・メリディアン

2010年03月26日 07時20分01秒 | 文学作品

血の子午線、わたしはこういった思わせぶりなタイトルが大好きだ。コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』(原著1985年、黒川敏行訳、早川書房、2009年。この小説を読み始めたのは、そういう動機からであったが、読み終えて、緻密な作品の仕組み立てにわたしは唸った。とりわけ、自然と人間というテーマに関して、大きな示唆があった。

 「人間は狼より貪欲でも凶暴でもないというのか。この世界のあり方は花が咲いて散って枯れるというものだが人間に関しては衰えというものがなく生命力の発現が最高潮に達する正午が夜の始まりの合図となる。人間の霊はその達成の頂点で燃え尽きる。人間の絶頂(meridian)は同時に黄昏でもあるんだ」と、冷徹な殺戮の知的武装を行う、身長2メートル10センチの判事は言う。

ブラッド・メリディアン、「血の絶頂」は、この作品の舞台となる19世紀半ばのアメリカのメキシコ不法侵略を背景として描かれるグラントンの頭皮狩り隊の蛮行を示している。わたしたちはこの書から、判事による虐殺を肯定するたくさんの言葉があふれているにもかかわらず、インディアン殺害などの数々の残虐な社会事件や人間の精神の脆弱性を非難するというような倫理観のしずくを一滴
たりとも読み取ることはできない。それは、コーマック・マッカーシーの作家としての力量によるとでも言おうか、血を流す殺害のシーンが、殺害そのものとしてたんたんと繰り返し描かれているからである。そのなかで、以下のようなくだりが出てくる。

 子犬は穴に潜りこむ動物のようにもがきながら少年の手のなかに戻ろうとしたがその薄青色の公平な眼は寒さと雨と判事を同じように怖れていた。 
 両方くれ、と判事は言った。ポケットに硬貨を探した。
      (中略)
 
 さあとれ。 少年は硬貨をじっと見つめた。
 判事はその掌を拳に握ってまた開いた。硬貨は消えていた。指を宙でくねくね動かしながら少年の耳の後ろへ持っていきそこから硬貨をつかみとって少年に渡した。少年はそれをミサのパンを入れる聖体箱のように両手で捧げ持ち判事を見上げた。だが判事は子犬をぶらさげてすでに歩き始めていた。石橋を渡り増水している水を見おろして子犬を持ちあげ川に投げ棄てた。


まさかと思う。それだけはやらないでほしかったと思う。同時に、そうした命を粗末に扱うシーンをつうじて、子犬を川に投げ棄てることがどうしていけないことなのか、人と同じ生命を有しているから可哀相に感じるからなのかという問いがわたしのなかから沸き起こってくる、
この作品では、そういった根源的な問いに、いたるところで出くわすことになる。  

さらに、自然をめぐる記述に関して、この作品はじつに含蓄のある言い回しが用いられる


分け隔てのない厳しさが支配するこの土地はすべての現象が平等の地位を与えられおり一匹の蜘蛛であれ一つの石であれ一枚の草の葉であれどんなものも優先権を主張できない。蜘蛛や石や草の葉といった事物がはっきり見えていてもそれらが親しい事物であることにはならない。というのも眼はある特徴や部分を根拠に全体を判断するがこの土地ではあるものがつねに明るいとか暗いとかいうことがないのだからこのような土地の視覚的な民主主義のもとであらゆる優先順位は不動のものではなくたとえば人間と岩とは思いもよらない共通点を持っているのだ

 わたしは(研究の文脈で)、これまで、こうした言葉を探してきた。じつにあっけらかんとここに答が示されている。光線だけに優位をあずけようとはしない自然のある部分では、事物の
順位はつねに入れ替わるというのである。だからこそ、人と岩には共通性がある。その延長線上に、判事がいう次の言葉には合点がゆく。

判事は野営している暗い森のなかを見まわした。自分が蒐めた標本のほうへ顎をしゃくる。そこにある匿名の生き物たちはこの世界のなかで取るに足りない存在あるいはまったく無にすぎないと思えるかもしれない、と判事は言った。だがごくちっぽけな屑みたいなやつがわれわれを滅ぼすかもしれないんだ。岩の下にいる人間の知らないちっぽけな生き物がね。自然だけが人間を奴隷にできるのであってありとあらゆるものが掘り出され人間の眼の前で裸にされて初めて人間はこの地球の宗主になれるんだ

人間は自然を奴隷化しなければならないというふうに判事は考える。言い換えれば、自然だけが人間を奴隷化できるがゆえに、人間は自然を克明に知ることによって、地球の宗主となれるのである。ここに描かれているのは、人間の自然に対する西洋形而上学の
弁証法の典型ではないだろうか。同じ理屈で、判事は、人が人を支配するために、支配される奴隷の証として、いとも簡単に他者に死をもたらしたのではあるまいか。

もう一点加えて、マッカーシーの文体は特異である。人の語る言葉に引用符がない。動物の動きも人の動きも、同じようなものとして、一文のなかに記述が凝縮されている「訳者あとがき」でも触れているように、こうした技法は、「人間だけを特権化しない」記述法になっているのかもしれない。たしかに、人の言葉は、自然と人間の連続性の位相において捉えるならば、鳥のさえずりや樹々の揺れと同じように、“音”であるにすぎない。この作品を読んで、わたしには、人類学のモノグラフは、文体が一律的であり、記述理論の洗練さにおいては、もっともっと前へと進まなくてはならないのではないかと
感じられた。


ポールとフローラの反逆精神、マリオの作家魂にひれ伏す

2010年03月25日 17時08分44秒 | 文学作品

マリオ・バルガス=リョサの『緑の家』は、25年ほど前に、わたしに彼が書くような小説を書く意欲を与えてくれた。それは結局ものにはならなかったが、彼の近著『楽園への道 El paraiso en la Otra Esquina』(原著2003年、田村さと子訳、河出書房新社、2009年)は、わたしに何かを書くことの意欲をふたたび漲らせてくれたような気がする。リョサの作家魂に脱帽である。

エキゾティズムが広く行き渡っていた19世紀後半のヨーロッパで、ポリネシアに楽園を求め、現地の女たちとの放縦な暮らしの果てに、独特の絵画を生み出したポール・ゴーギャン。彼は、ヨーロッパの芸術活動がその内部での限界に達した状況で、地球上のプリミティブな環境には、異なる美の価値が存在することを、芸術作品をつうじて示した。その意味で、彼の思いは、人類学者の根っこの部分に重なる。

ポールには、彼が生まれる4年前に死んだフローラ・トリスタンという名の母方の祖母がいた。19世紀半ば、アンドレ・シャザルの性的欲望の対象となり、3人の子どもを出産するが、彼女は結婚生活のなかで、結婚とセックスに対する嫌悪を増大させ、夫のもとから逃れて、やがて、女性解放運動の「スカートをはいた煽動者」となる。波瀾のうちに、彼女は、41歳の短い生涯を閉じる。彼女もまた、女性のためだけでなく、あらゆる社会的弱者の正義を主張して、孫のポール・ゴーギャンと同じように、社会の楽園の建設を夢見たのである。

『楽園への道』は、約50年の時を経て語られる、ナショナルな制度やヨーロッパ的なものへの反逆児・
フローラとポールの歴史小説であり、本の奇数章ではフローラの死の直前の活動が彼女の過去の回想とともに語られ、偶数章では、ポールのタヒチ渡航の知の暮らしと絵画の成立の経緯が綴られる。二つの物語は、フローラの娘でありポールの母であるアリーサを介して部分的に重なるが、けっして交わることなく進行する。それは、『緑の家』以来のマリオ・バルガス=リョサが得意とする対位法的な小説の技法である。読者は、永遠と続く同じ物語をうんざりしながら付き合うのではなく、一つの完結した物語が適当な長さで終わり、次にまったく別の話が続いていくのに身を任せる。じつに読者にやさしい組み立てになっている。ワクワクしながら、読者は、次の物語に進んでゆくことができる。

ポールはタヒチに渡り、性を爆発させ、それを芸術にぶつけ、やがて、性と芸術をともに枯渇させていった。もちろん、フィクションなので、物語には、作家の想像力が深く入り込んでいる。例えば、男でもあり女でもあるタヒチの樵夫である若者ジョテファに、ポールは欲情する。

身を任せ、なすがままにされたい。樵夫によって女のように愛され、乱暴に扱われたい。ポールは恥ずかしい気持ちを克服しながら背を向けたままジョテファに近づき頭を若者の胸にもたせかけた。あざけるような様子もなく明るく笑いながら、少年は彼の肩に両腕を回して、自分の身体にぴったりと引き寄せた。身体がうまく収まり一つになったのを感じた。ポールはめまいに襲われ、目を閉じた・・・ジョテファの片手が水の中で彼の性器を探っているのを感じた。愛撫されているのを感じるとすぐに小さな声を上げて射精してしまった。その少しあと、ジョテファも彼の背後で同じように射精した。少年はずっと笑っていた。

ポールがタヒチに来るずっと前、1887年に、フィンセント・ヴァン・ゴッホは、ポール・ゴーギャンの絵を見つめて言った。

「これは人間の血と臓腑から生まれた大作だ。性器から放出される精液のようだ」ポールを抱擁しながら懇願した。「俺もペニスで絵を描きたい。教えてくれないか」このようにしてはじまった友情だが、悲惨な結末を迎えることになってしまった。

ポールは、タヒチから移動してマルキーズ島で、「名前を口にするのが憚られる」性病を患ってそれを進行させ、やがて「性欲自体起きなくなっていった。ただ脚が狂いそうなくらい焼きついて痒く、身体が指すように痛み、心悸亢進のせいで呼吸困難に陥った」後に、やがて55歳で生涯を閉じた。

ポール・ゴーギャンにとって、楽園ポリネシアは、貧困、不運、病気にさいなまれた土地であり、そこが、彼の終焉の地となったのである。その意味で、タヒチやマルキーズは、たんなる楽園ではなかったが、そのことが意味する人間的真実にわたしは打ちのめされた気がする。

(写真は、《我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか》 1897-98年ボストン美術館。萌えグラファーからもらったゴーギャン展の絵葉書より)


レプトスピラ、運の感染症よ、いつからおまえは

2010年03月24日 16時51分45秒 | フィールドワーク

レプトスピラ症は、鼠などの動物の尿のなかに保菌されている菌を、ヒトが経口あるいは経皮感染した場合に発病するという。鼠などの尿が川のなかに流れ、土壌のなかにたまり、そのなかの細菌が運悪く、いつかしらわたしの身体に侵入したのであろう。日に二度も三度も裸で川で水浴びをする習慣がある熱帯の狩猟民の生活環境では、水を浴びて経皮感染するという状況は、避けることができない。レプトスピラは、洪水の後に大発生すると言われているが、わたしの調査地で洪水があったわけでもない。鼠は小屋の周りをウロウロしていて、プナンは捕まえると食べるのであるが、今回は、わたしは、鼠そのものを眼にする機会がなかった。いったい、いつその菌はわたしに侵入したのか皆目見当がつかない。運が悪かったとしか言いようがないのか。あるいは、よくぞこれまでこの感染症に罹らなかったというべきなのか。

実直でシャキっとした担当医の先生は、レプトスピラは、ボルネオ島では2000年にエコチャレンジの大会があって、参加者がそれぞれの国に帰ってから発病して話題になったことがあると教えてくれた。なんでもパシャパシャと川の水を浴びただけで感染したらしい。
チーム医療の別の先生は、日本では年間20例くらいの症例があり、なかでも、料理店などで働く店員が鼠の尿から感染する都市型のレプトスピラもあると言っていた。

An outbreak of leptospirosis was reported among participants in the Eco-Challenge Sabah 2000 Expedition Race held in Borneo from August 20 to September 3, 2000. Illness was associated with exposure to water from the Segama River. Symptoms included fever, chills, headache, muscle aches, joint pains, and conjunctivitis. No deaths were reported. See MMWR and Emerging Infectious Diseases for further details. Leptospirosis is transmitted to humans by exposure to water contaminated by the urine of infected animals. Travelers who participate in activities which place them at risk for leptospirosis should take doxycycline 200 mg once weekly as prophylaxis
http://www.mdtravelhealth.com/destinations/asia/malaysia.php

3月10日にクアラルンプールで、わたしは、まず最初に首筋から背中にかけて酷い凝りに襲われ、その翌日(11日)、突然の悪寒とその後の発熱に見舞われた。38度台の後半。頭痛と発熱に苦しめられ、12日の夜行便に乗るために養生しようとして、一日中眠っていた。バファリンを一日4回処方するも、症状はほとんどやわらぐことはなかった。わたしは病院に行くかどうか迷った。行けば、入院となって、予定便では帰国できないどころか、いつ帰国できるか分からない。マラリアだろうか、デング熱であろうか、おそらくそうした類の感染症のような気がした。そうこうしているうちに、12日の夜になって、熱は引き、ダルさはあるものの、飛行機には乗れると踏んでKLIAへ向かった。夜行便の飛行機のなかではとにかく眠った。幸い高熱は出ず、両脚がだるくてどうにかなってしまうのではないかと思われたが、翌13日の朝、なんとか成田空港に到着した。ふたたび高熱に襲われたのは、13日に帰国した午後のことである。激しい頭痛と高熱、倦怠感。都内の専門の病院を訪れ(なんとわたしは車を運転して救急外来にたどり着いた)、血液検査をして標本で反応を調べもらって分かったのは、マラリアでもデング熱でもないということであった。しかし、症状としては、眼の充血、黄疸、肝臓、腎臓機能の低下、血糖値の上昇などが顕著に見られ、より詳しく検査して病気を特定した上で、加療する必要があると言われ、わたしはその日から入院することになった。

ときどき脳の内側に走る激痛、高熱、倦怠感。鎮痛剤を処方してもらっても、ほんの暫時しか、ほんの僅かしか熱が下がらない。苦しかった。マラリアの高熱はいったん引くが、その高熱がずっと持続する苦しみ。16日になって、ようやくレプトスピラ症であると診断された。治療として、日に4回、ペニシリンが点滴投与されることになった。ああ、アレクサンダー・フレミングよ。最初は、アレルギー反応からか、40度の熱が出たが、ペニシリン投与2日目から徐々に症状は安定するようになった。問題は、機能低下の数値が回復するかどうかである。腎機能の経過を観察するために、ずっと点滴も投与され、夜中も含めて、1時間ごとに小水を出しにトイレに立つのが辛かった。検査をしてもらって分かったのは、リスキーな熱帯のフィールド状況のなかで、わたしの健康はじょじょに蝕まれきたということであった(詳細省略)。いかに予防に迂闊であったことか。幾つかの点でフォローアップが必要であるとされるが、入院12日目の今日になって退院することができた。

<マラリア闘病記は以下>
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/4962e74a56965adf303c9f2ecb7b03fc
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/b725492aa964841502547364b698343d

いったいこの間の入院生活とは何であったのか。時間のリアリティーが著しく欠けている。

今回の入院中に、たくさんの方々からお見舞いや励まし、さらには申し出などのメールや電話(手紙も)をいただいた。日本国内で入院するのは初めてであるが、前二回のマレーシアでのマラリア時の孤独な入院生活に比べていっそうそう感じるのかもしれないが、人の温かい言葉が支えになるということを、わたしはうっとりとするくらい有り難いと感じた(できればもう一度入院してもいいくらいだ!)。この場を借りて、謝意を述べさせていただきます。奥野克巳


謝るとはどういうことか

2010年03月12日 13時53分27秒 | エスノグラフィー

 クアラルンプールに来てから体調を崩している。昨日はずっと高熱に呻いていた。いまは落ち着いているが、もう一度熱がぶり返せば、マラリアかもしれない。あ~、あの病気だけにはもう二度と罹りたくない。偏頭痛もなければ、食欲がないこともないので大丈夫だとは思うが。

 ところで、カミスは、ある日の午後、カヌーで川をさかのぼって、薪にする材木を切りに出かけて帰ってきた。見ると、左足の運動靴しか履いていない。父に右の靴はどうしたのだと聞かれて、カミスは川に流してしまったとひと言返答した。その運動靴は、カミスの父が狩猟で使うからと、店の主人にたのんで、前日わざわざ町から取り寄せた真新しいものだった。父はそのことをブツブツと述べ立てて機嫌が悪くなったが、その不平をほとんどカミスは聞いていなかった。カミスは次から次へと材木を運び込むだけだった。

 一般に、プナンは、ほとんど謝らない、謝罪しない。"mani maam"という謝罪の言葉はある。一応は、「すみません:申しわけありません」と訳すことはできる。しかし、それは、マレー語の"minta maaf"からの借用語であるように思われる。わたしは、これまで、じっさいに、その言葉が日常のやりとりのなかで使われたのを聞いたことがない。借りた金を返さなくても、謝罪しないでそのままにしておくし、借りた物品を壊しても、そのまま何も言わず謝罪もしない。彼らは、謝罪そのものをしないように見える。あらかじめ述べておくならば、彼らは謝罪しないだけでなく、そういった事態に対して、悪いことをしたとも思わないようなのである。

  ひるがえって、わたしたちは、何か過ちを犯した場合、悪いことをしてしまったという気持ちがあれば、相手に対して謝る。自分が悪かったことを認める言葉を発する。すると、謝罪される側は、謝罪の言葉を聞いて、相手が非を認めたことに心を鎮め、すーっと気持ちが軽くなる。このことを逆の角度から述べれば、つねに、自らの行いを反省し、悪いと思ったら、謝罪の言葉が発せられることが期待されているということになる。そういったことをしないプナン人に照らせば、わたしたちは、そうしたリズムのうちに人間関係を刻んでいることになる。  

 このことは、プナンには、謝罪する心が欠けているということではない。謝罪の言葉を発して、それに応じて、心をなだめるというやりとりによって事を進めることがないのである。自分が悪かったことを認めるのをよしとしないのではない。そもそも、そういうやりとりが行われないのである。

 謝罪の言葉を発しないということは、非を認めないということだろうか。謝罪の言葉を発しないけれども、非を認めるとはあるように思う。プナンの場合、前者、すなわち、非を認めることがないから、謝罪の言葉を発しないように思える。過失は、状況のなかで起きてしまったことなので、「仕方がない("iyeng ibo")」と考える傾向にある。驚くべきことかもしれないが、プナンの謝罪しないことの根っこのところには、非を非として認めないということがある。

 プナンは、過失が生じた場合、なぜ非を認めることもなく、謝罪の言葉も発することがないのだろうか。これは、にわかに回答を得るのが難しい問いである。一つ、彼らにとっては、物質にせよ非物質にせよ、それらを、いくらでも代替可能なものであると捉えていて、非を認めたり、謝罪するというようなことが、ずっとこれまでの長い間必要なかったというようなことが考えられる。もう一つ、彼らが、自らの行いを振り返って、反省しない人びとであることと関わっているのかもしれない。

 別の難題は、逆に、わたしたち現代人は、過失が生じた場合、なぜ非を認めることを求められ、非を認めたことを謝罪の言葉で表すように期待されるのかという問題である。さらには、謝罪の言葉が発せられたことによって、なぜ人は心の平静を少し取り戻すことができるのか。その過失によって失われたものは、元に戻らない場合がじつに多いのに。一般に、わたしたちは、そうした言葉を介したやりとりにおいて、心をかよわせることによって、安堵を得たり、ほっとしたりするのである。

 例えば、以下のようなことを試みに考えてみよう。わたしたちは、かけがえのない身内を殺害した犯人から、謝罪の言葉が発せられることのみを、絶望的に期待することがある。このことから見えてくるのは、わたしたちの過失に対する取り組みが、血を血で洗う報復の禁止、真実の法的探求や賠償請求の手続きの煩雑さなどによって、言語による謝罪だけに狭められてしまっている可能性である。つまり、根源には、人類社会には、過失に対する仕返しや脅しなど、もっともっと多様なかたちでの反応があったのではないか。過失への対応を、謝罪の言葉を引き出すことだけに限定することによって、わたしたちは、目に見えない心のやりとりに対して期待するようになってしまったのかもしれない。文化的な制約によって、憎むべき相手に、自分と同じような目に合わせたり、報復したりすることが、控えさせられてきたからである。謝罪の言葉を引き出すことである達成を得るという事態は、われわれの時代の、心(精神)の関する説明の過剰さと符合するのではないだろうか。  

 ふたたび、謝罪しないだけでなく、謝罪する心持ちをもたないプナンについて。フィールドワークの初期に、プナンが反省をしないことに、わたしは気づいていた。反省しないことと謝罪しないことの距離は近いように思える。何度か通っているうちに、その問題に気づいた。同時に、ぐるぐると同じところを回っていて、なぜ彼らがそうした人たちなのかという問いに対して、いっこうに答が出る気配がない。検討内容がそもそも直観にすぎないと言われればそれまでだが。しかし、人類学は、そういった類の学問だとも言える気がする。


動物と人間が交感する世界、その断片

2010年03月11日 10時12分29秒 | エスノグラフィー
ジャングルのなかにはイノシシシの足跡があちこちにくっきりと残っていた.昨日のものもあれば今朝ついたと思われる真新しいものもあった.ぬた場ではつい先ほど何頭かのイノシシが水浴びをしたようだった.おれたちが近づいたのに気づいて逃げたのかもしれない.おれたちはジャングルのなかをもう四五時間歩き回っている.そのうちに陽は高く登ったがその陽射しはジャングルの奥深くにまでは差し込まない.昼なお湿って暗い濃緑の魔境.数条の淡い光が暑熱があることを知らせているかのようである.遠くの峰からリーフモンキーの鳴き声が聞こえる.クゥオークゥオークゥオクゥオクゥオクゥオクゥオ.棘のある植物を踏みつけて足裏に突き刺すちくりとした痛みが走る.倒れた樹々の合い間を潜り抜けて砂地のぬかるんだ小川を飛び越えたとき遠くで猟犬がいっせいに吠えているのに耳を澄まして立ち止まる.ウォンウォンウォンウォン.カスットにディマックスにピディンと名づけられた三匹の忠犬が獲物を追いつめている.その吠え方はしだいに大きくなっている.どうやらこちらに近づいてきているようだ.重なり合う犬たちの吠える声.ウォンウォン.ウォンウォンウォンウォンウォンウォン.その声を聞きながらおれはジャングルのなかの道なき道をどんどんと登ってゆく.「トゥアイラワキトゥベット(ロベット奴らはこちらに来るぞ)」.前を行く父はひと言そう言っておれに注意を向け右手をあおって一気に稜線にまで駆け上がるように促した.稜線に先回りしてイノシシをしとめる腹だ.おれの後からついてくる日本人の男は朝の暗いうちから陽が高くなるまで何も口に入れていないためにおそらく空腹で動きが鈍っているのだ.おれたちプナンは狩猟に出かけるときには何も口にしないのがしきたりなのにまだこの男はそのことのほんとうの意味を分かっちゃいない.おれは父がしたように男に一気に稜線まで駆け上がるように手で合図した.分かったような目つきを確認した瞬間男は苔が生えて湿った岩に足をとられて滑り落ちた.岩と石の塊がゴロゴロゴロンと鈍い音を立てて落ちてゆく.木の蔓につかまってなんとか事なきを得たようだ.「ジアン(大丈夫か)」.いやかまっちゃいられない.ウォンウォンウォンウォンウォンウォン.犬たちは泣き止まない.少し遠くで犬を呼ぶ人の声もする.ウー.アジャンが猟犬たちを指揮している.稜線にたどり着くと視界が開けた.一気に暑熱が頭のてっぺんから全身に注がれる.父もまた自分たちの居場所を知らせるために声を出す.ウーウー.父は猟銃の筒に銃弾を補填してイノシシを撃ち殺す手はずを整えた.耳を澄ましうろうろしながらどこでどう構えたらいいものか思案している。遠くでセイランが果実が成っているのを知らせて飛んでいく。クトゥオゥクトゥオゥ.日本の男は遅れてようやく稜線上にたどり着いた.流れ落ちる玉のような汗.一瞬犬の吠える声が止む.ザワザワザワという音がして犬かと思いきや一頭の大きなメスのイノシシがジャングルからすっと姿を現した.あっ.稜線へと飛び出してものすごい勢いでふたたびすぐに深いジャングルへと姿を消した.イノシシの魂はおれたちから逃げようとしたのだ.父にはその一瞬なすすべがなかった.銃を構えることさえできなかった.イノシシの後をうなりながら追う二匹の猟犬カスットとディマックス.アジャンが槍を片手にもって息を切らして唾を吐きながら走ってきた.すぐさま二匹の犬、父、アジャンの順にジャングルへと入る.スミゴロモがイノシシが獲れることを告げながら宙を飛んでいく.キョンキョンキョン.「カウモクトゥベット(ロベットここで待っていろ)」.銃をかついだジャウィンが稜線を走りあがって来ておれに一瞥をくれると犬の吠え声をたよりにあっという間に彼らの後を追ってジャングルに入っていった.ウォンウォンウォンウォンウォンウォン.よりいっそうけたたましく吠える犬たち.ピディンがようやく追いついた.やがて犬たちは轟々とうなりはじめた.ウーウーウー.イノシシの喉もとに喰らいついたのだ.キーキーキー。イノシシが断末魔の呻き声をあげている。キーキー。父とジャウィンが犬たちにイノシシのそばから離れるように指示している声が聞こえる.ウフウフウフ.「タエカスット(カスット離れるんだ)」.つぎの瞬間ドッドォーンという大きな銃音がジャングル全体に深くこだました.それを聞いておれはジャングルへと一目散に駆け込んだ.倒木を飛び越え山刀で藪を切り裂きながら傾斜のあるけもの道をずんずんと駆け上がる.イノシシは一発の銃弾でしとめられ血を流してそこに倒れていた.もうぴくりとも動かなかった.さっき目にした奴だ.ウーウーウー.ウフウフウフ.駆けつけた父とアジャンとジャウィンは倒れたイノシシの周りで血の臭いに興奮の極みにある犬たちをなだめ鎮めようとしていた.発射された弾のこげた臭いがあたりに漂っていた.

欲望をめぐる二つの手法

2010年03月10日 12時12分25秒 | エスノグラフィー
 東南アジア屈指のメトロポリス、KLに着いた。コンクリートの照り返しがむわっとして、夜になるまで熱が冷めない。以下、今春のプナン滞在で考えた、独占欲と所有をめぐる粗雑な覚書。

 幼ない子は、与えられた果物やお菓子などを自分だけのものとして独占しようとする。よく見かける光景である。プナンの子どももまた然り。プナンの大人は、まず、この幼子の独占欲に手をつける。子どもたちは、それらの食べ物は、けっして独り占めしてはいけないのだよ、となりにいる誰かに分け与えなければならないのだよ、と教えられる。いわば、本能としての個的な所有欲を、徹底的に殺がれる。

 なぜ、そんなことをするのか。それは、あらゆる人間存在に、すべてのプナンに、生きるチャンスを広げるためである。モノをみなで分け合って、生きてゆくためである。いま分けて、あとから分けてもらう。そうすることによって、お互いに支えあって、全体として、生き延びるためである。

 分けることは、たんにモノだけに止まらない。プナンは、すべての人物に、あらゆる機会に参画する機会を分け与える。機会も分け与える。何かをするときに、独占的にするのではなく、みなでいっしょにしようとする。

 行きたいと主張すれば、老人であれ子どもであれ、狩猟に連れてゆく。動物をしとめるハンターでなくても、その人物が、動物肉の運搬、薪割りや解体・料理など、何らかの役割を担うならば、しとめられた動物肉を売ったときには、受け取った金銭を均等に分配する土台となる員数に数え上げられる。他方で、動物肉を売らないで、自分たちで消費する場合には、動物を撃ち殺した人物が、多少多めに肉の分け前を得るとか、脳や睾丸などの最も美味なる部分をもらい受けるというようなことはいっさいない。プナンは、徹底して、参画したメンバーの間の平等な分配にこだわる。みなが見守るなかで、動物肉は、とにかく綺麗に、きっちりと均等の分量に分けられる。

 仕事の量や地位を見計らって、誰かに偏って与えるというようなことは、プナンの掟にはない。逆に言うと、分配作業において、そういった社会的要素は消し去られる。おおよそ存在すると考えられるすべてのものは、参加したメンバーの間で均等に配分される。とにかく、プナンは、そのようにして生きてきた。

 この徹底した非・個的所有の考え、分有主義とでもいうべきものを突き詰めてゆくならば、<精神>や<感情>もまた、そこでは、ある種、全体性のなかで分配されるようなものとして考えられているのではないかと思いたくなる。それは、はたして、いったいいかなることなのか。プナンは、わたしが帰国してしまうと、さみしい、悲しくなるという言い方をよくする(こうした感情表現に、わたしは、これまで幾度も打ちのめされてきた)。そうした情動が、共同体のなかで、分配され、分有されるのである。優しさにあふれた女性だけでなく、酔いどれであれ、子どもであれ、とにかくみなが一斉に、さみしい、悲しいとささやき出す。感情もまた、全体性のなかで分有される。

 また、そのような<精神>や<感情>は、人間だけでなく、動物にもあるというプナンの考え方に照らせば、彼らは、動物の<精神>や<感情>に深い部分でシンクロして、死んでゆく動物の思いに気づいた上で、動物の殺害を行っているとも考えられる。さらに、情愛について。情愛は、男女の間のそれであれ、血を分けた親子と養子縁組した親子のネットワークのなかでのそれであれ、やはり、非・個的に所有され、分有されているように見える。つまり、そこでは、愛もまた分有されるのである。プナンの感情生活にふれてみるならば、わたしには、今のところ、そうとしか思えない。

 とりあえず、そうした<精神>や<感情>の分有の可能性の検討は置くとして、ここでは、幼少期の独占欲の否定というプナンのやり方を、それとは異なる、わたしたちのやり方(=日本社会のやり方)と比較しながら、少しだけ考えてみたい。

 わたしたちのやり方は、占欲を否定しない。そのやり方は、個的な欲望を無理やり捻じ曲げるのではないという意味で、素直である。自然なやり方は、プナン的なやりかたではなく、むしろわたしたちのやり方のほうなのかもしれない。

 そのようにして、思いどおりに、個的所有の欲望を認められるようになった子どもたちは、自らの所有独占欲に従って、あれが欲しい、これが欲しいと、親や縁者におねだりをするようになるだろう。所与の環境のなかで、手探りによって、一種の所有独占の臨界を経験する子どもたちは、やがて、自らが個的に所有するようになった知識と能力に従って、社会的な自我の確立を成し遂げるだろう。

 重要なことは、独占欲を否定しないで、個的な所有を認める考え方が、知識と能力などもまた、個的に所有されているという考え方を支えてきたという事実である。知識や能力もまた、プナンの場合、全体性のなかで所有され、生かされる。つまり、全体性のなかで分有されるものとして存在する。ところが、わたしたちの社会では、知識や能力は、個人の独占物として、その人が暮らす個的な環境のなかで、後天的にそなわるとみなされてきた。

 わたしたちの社会では、知識や能力などの目に見えない財産を含めてすべての財産が、そのように組織化されているため、プナンのように、あらゆる人間存在に対して均等に機会を与えるというやり方では、社会を組み立てて、成り立たせることはできなくなっている。わたしたちの社会は、あらかじめそれ相応の知識と能力をもった人格だけを選抜して、逆に言えば、諸人格をふるいにかけて、不適切だと思われる人格を排斥して、特有の知識技術集団を組織するように方向づけられてきた。プナンのやり方に照らすならば、わたしたちの社会は、そうした競合=選抜原理から成り立っていると見ることができるだろう。

 そのような体系の「功」としては、競争を働かせることによって、優秀な人材を生み出し、秀逸な知識や技術を磨き上げてきたということである。また、個人の知識を増やして、能力を高めるという「清く尊い」努力によって、個人は、個的な所有欲を満たし、所有財産を手中にする。そうした場合、所期の目的は達成され、幸福を手中に収めることができる。その一方で、「罪」としては、ある人格は、過酷な準備に時間とエネルギーを注がされたにもかかわらず、選抜者によってふるい落とされ、心に大きな傷を抱えることになる。過剰な競争によるストレスが生み出す心の問題は、今日、わたしたちのような社会においては大きな課題である。

 独占したいという欲望への初動の対応のちがい。

 一方は、独占欲を殺ぐことによって、全体で所有し、みなでいっしょに生き残るという考え方を発達させてきた(プナン)。他方は、独占欲を認め、個人的な所有の考え方を社会の隅々にまで行き渡らせ、幸福の追求という理想の実現を、個人に駆り立てるようになった(わたしたちの社会)。前者(プナン)には、格差は生じえないし、個人に開かれた向上欲や努力などもない。後者(私たちの社会)には、個人の格差を前提として、格差をあらゆる面で増殖させるが(地位の格差、希望の格差など)、秀でた個性による知識と技術の高さを育むことになる。  

  乱雑な二項設定かもしれないが、二つの方法のうち、一概に、どちらがいいとは単純には言えない。わたしにとっては、独占する欲望を禁じ、みなで分かち合うというプナンの狩猟民的なやり方が、競争を排除し、すべての人にとって優しく組み立てられているという意味で、どちらかといえば、好ましいと感じられることがある。