たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

あべちゃん、すごい

2011年12月31日 11時20分12秒 | 文学作品

 

前々から阿部和重はすごいと聞いていた、阿部和重を読まないなんて、おまえの小説の読みはダメであるとまで言われた。で、読んでみたのである。

阿部和重 『インディヴィジュアル・プロジェクション』新潮文庫 ★★★★★★(11-58)

現実そのものの歪みだろうか、現実認識と現実のズレだろうか。主人公のオヌマは、映像専門学校の学生たちとともに故郷の山形で、スパイ養成のためにマサキによって作られた高踏塾でかつて訓練を受けたことがあるが、今は、渋谷国映で映写技師として働いている。高踏塾で一緒に訓練を受けた経験があるメンバーのうち4人が高速道路で事故死したことをきっかけに、オヌマは、やがて、否応なく「危機的情況」に巻き込まれてゆく。オヌマは、その流れの背後に、高踏塾時代の訓練によって、暴力団から奪い取ったプルトニウム爆弾をめぐって続けられている暴力団と高踏塾のメンバーとの抗争を嗅ぎつける。オヌマが働いている映画館にアルバイトで働き始めたカヤマという謎の男とともに、渋谷の女子中学生売春のいざこざに巻き込まれるなかで、オヌマは、一人の暴力団の男を殺害するに至る。しかし、その事件の相棒のカヤマについて知っている人物が誰もいないというあたりから、これまで語られてきた物語の信憑性が崩壊するように感じられる。頻繁に映画館にオヌマを訪ねてくる口頭塾の友人・イノウエの部屋は、オヌマの部屋そのものだった。オヌマはまた、マサキ、カヤマ、イノウエでもあるのだろうか。現実をどう捉えればいいのか。突き刺すような文体によって語られる、暴力とセックス、さらには、オヌマが背負う、身の回りのあらゆる物事に対する苛立ちの感情。そうした情況が、オヌマの現実認識を歪めてしまったのだろうか。その後、イノウエは実在の人物として、オヌマの日記のなかに再び登場してくる。しかし、この小説の最後に付けられた「感想」とはいったい何なのか。オヌマの語りがレポートであったというのか。この小説は、こうした複雑な仕掛けにより、多くの謎に満ちている。

阿部和重『シンセミア』I,II,III,IV、朝日文庫 ★★★★★★(11-59,60,61,62) 

とにかくこの化け物みたいな長い小説を、ついに読み終えることができた。ウィリアム・フォークナーの日本版のサーガのようだ。山形県東根市神町での太平洋戦争後の進駐軍による日本のアメリカ食文化化の過程でパンが広がり、「パンの田宮」が勃興するエピソードからこの物語は始まる。半世紀を経て、その神の町に、相次いで、事故死や自殺、失踪事件が起きる。そこでは、産廃処分場の建設をめぐる利権がらみの抗争、東北の小さな田舎町で暇を持て余した挙句の果てに20代後半の男どもが地下に潜って続けるビデオ盗撮サークルの荒れた活動、根っからのロリコン趣味を世間にひた隠しにして生きるのではなく正義心を盾に大っぴらに職業として選んだ警官の破廉恥な行動、うしろ暗い過去を捨てて嫁いで来たものの家業の存亡の危機に深く悩み傷つく夫とともにコカインに刹那的な快楽を求める嫁など、社会と時代によって生み出される現実に翻弄されながら、欲望をむき出しにして生きる神町の住人の日常が描き出される。この物語には、高い理想を抱いて潔く生きているがゆえに、共感できるような人物など一人も登場しない。みな人をとことん愛し愛されたいと欲しその果てに憎み恨み妬み、さらに思い悩み深く傷つき、どうしようもなく制御することできなくなって、ゴロツキのように怒号したり、暴力をふるったり、殺傷したりする性悪を抱えこんでいる。なぜそうした登場人物たちに共感することができないのかを考えてみると、そうした人物が、ある意味では、本当は弱く傷つきやすい自分のことであり、我々自身だからではあるまいかと思えるようになる瞬間がある。そう思えた瞬間に、この物語は、私の物語であり、現代日本の物語に転じる。己の欲に忠実であらんとする人たちは、話のクライマックスである2000826日に、次々に、無残な死を迎える。最後に、この憂える物語の背後には、50年前の戦後の神町に過ごした人たちによって生み出された狂気が潜んでいたことが明るみにされる。格調の高い説明調の文体と、最初は非常に読みにくく感じるが、慣れてくると次第に微笑ましくさえ感じられる山形弁が絶妙に溶け合っている。阿部和重、恐るべしである。

阿部和重『グランド・フィナーレ』講談社文庫 ★★★★★★(11-63) 

読みながら、ナボコフの『ロリータ』を思い浮かべた。同じロリコンものなのだけれども、それとはいくぶん趣が異なる。1・では、ちーちゃんという8歳になる自分の娘の寝姿や裸の写真などだけでなく、映像制作会社の仕事の関係で、少女たちの写真をパソコンのポータブル・ストレージのなかにため込んでいたことが露見して、妻・紗央里との離婚に追い込まれ、法的に、妻にちーちゃんの親権を剥奪されてしまった、37歳の「わたし」が、ちーちゃんのことを想いながら暮らす陰鬱な日々が綴られる。2.では、ちーちゃんのことを深く思いながら、単身、故郷である山形県の神町に戻った「わたし」が、実家の文房具店を手伝いながら、小学校6年生の女子児童2人、亜美と麻弥と知り合い、彼女たちが、のっぴきならない事情で離ればなれにならなければならなくなり、死んでしまおうとまで思い詰めた心境で懇願され、学芸会で演じる劇の指導を引き受け、会に向けて、劇の稽古をする日々が綴られる。劇の開演時刻に、遅刻せずにやってくる二人の少女。「わたし」が、いつも持ち歩いている、かつて自分の娘・ちーちゃんに贈ったにもかかわらず、母親・紗央里によって捨てられた、音声学習機能の付いたぬいぐるみ・ジンジャーマンが、「おはよう」と、劇の開演を告げるところで『グランド・フィナーレ』は、謎を残して終わる。いったいこの最後のシーンは、何を暗示しているのか。「わたし」のロリコン趣味からの脱出か、あるいは、惨たらしいロリコン犯罪の開始なのか。作者によっては語られることはない。冴えわたる阿部文学。

 


道論

2011年12月19日 12時47分18秒 | エスノグラフィー

いまさらではあるが、ふたたび、道とは何か、である。
プナン語で道はジャランだが、それは、周辺諸民族からの借用語ではないだろうか。
というのは、プナンは、とりわけ、密林のなかで、道を道として
認識しているふうには見えないからである。
藪を切りひらいて歩む結果として、道ができるとは思っていない。
例えば獲物を追って、木々を切って突き進み、その痕跡が線としてつながって、
「道」のようなものになる。
しかし、彼らはそれを道と呼ばない、なんとも呼ばない。
そのうちに、木々が繁茂し、「道」の痕跡は消えてなくなる。
プナンは、そうしたものを道であるというふうには思っていない。
つまり、密林のなかには、道はない。
いや、彼らには、
道の概念がない、いや道の概念が私たちのそれとは違うのだろうか。
プナンにとって、道とは木材伐採会社や政府が作った道のことである。
ちなみに、広辞苑を引くと、道は、「人や車などが往来するための所。通行する所。」とある。
そもそも密林のなかでは、そうした意味における道が不要だということは、直観的に分かる。
プナン語には東西南北という方位はなく、自らの位置は、川の上流と下流、山の上と下によって測られる。

 



 


神の現在、神々の近代

2011年12月18日 23時00分53秒 | 大学

 今日、文化人類学専攻主催で都内のフィールドワークを行った。

 テーマのひとつめは、"原宿/Harajuku/はらじゅく"。
 行く用事がないのでほとんど行ったことがなかったが、その一帯は、20年ほど前に、私が原宿で家庭教師を暫くやっていたころに比べて、ずいぶん垢抜けた印象だった。
 JR原宿駅の竹下口から竹下通りを歩き始めたころ(午前11時)には、女子小中高生、その親たち、地方からの観光客?、外国人観光客などが、こちら(原宿駅)からあちら(明治通り)に向かって、ぎっしりぞろぞろと歩いていた。クレープの店、食べ物屋、アクセサリーや雑貨屋、アイドルショップをただただ通り過ぎるような人人人また人。
 アイドルショップに入ってみた。驚いたのは、たくさんの「万引き禁止」の貼り紙。万引き対策として生写真には穴があけられ、紙に番号を書くというオーダーの方式。面白そうとだ思ってAKB48のクリア・フォルダと卓上カレンダーを買ってみた。
 あちらにたどり着いて、今度は、
あちらからこちらに向かおうとしたら、人の流れに逆らう格好になって、なかなか進めず、待ち合わせに遅れることを懸念して、表参道まで迂回して、ようやく竹下通りの入り口にたどり着いたのである。
 竹下通りのありようは、明治神宮への参道と好対照であるように思えた。竹下通りは、ある意味、現代の参道ではないか。では、竹下「参道」の神とは何ぞや?

 テーマのふたつめは、靖国神社。
 私は、東日本大震災による死者の弔い、慰霊のあり方が、少し前から気になっている。そもそも弔いや慰霊というのは何であるのか?靖国神社における戦没者の弔い、慰霊に照らして考えてみたいと思ったのである。
 ずいぶん前になるが(もう6年前か)、熊本大学と桜美林大学の学生で、靖国神社のフィールドワークを行ったことがある。
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/030214llasukuni.html

 そのころより、遊就館の戦争展示は、ずいぶんパワーアップしたように感じた。
 今回は、磯前順一の論考「死霊祭祀のポリティクス」を手がかりとしながら、「合祀」について考えてみた。戦没者を英霊として神社に鎮座させる(招魂)ことで、国家は、国に遺恨をもつ荒魂に居場所を与えないように配慮することによって、
生き残った者たちの感情を操作してきた(感情の錬金術説)。そうした戦没者の「合祀」によって、個々の死のありようが、切り捨てられてきたのではあるまいか。沖縄や台湾など出身の兵士だけでなく、無念や残念の思いを抱いて死んでいった英霊たちを含めて、すべての英霊を一括して祭神化することによって、死者の弔いを完了させることなどできないのではないか。
 磯前は言う。「誰かに救いを求めることをせず、自分のなかで苦しみ、あがき続けること。それが生者が死者たちに対して成しえる精一杯の慰霊なのかもしれない。であるとすれば、靖国神社とは、日本という均質化された社会にぽっかりと口を空けた、我々を脅かす漆黒の歪みを有する空間とでもいうことになろうか」
 そうした議論が、短い時間ではあったが、フィールドワーク後のディスカッションで討議された。

 


ポスト3.11のエコロジー

2011年12月05日 17時48分33秒 | 自然と社会

『現代思想 2011 VOL.39-16』の特集は、「ポスト3.11のエコロジー」。その軸には、今日の人類学がある。3.11以降考えなければならない問題として人と自然の関係が主題化されており、その意味で、冒頭の「エコロジーの大転換」と題する管啓次郎+中沢新一の対談はひじょうに興味深い。ヒトは自然のなかに埋め込まれているのであり、自然と社会というときの「と」の対立構造で考えることは誤りだという問題の提起。四者による討議、「生存のエコロジー」では、自然などの間なるものを人間から切り離して捉えることは、近代社会の設定そのものであり、それがラトゥールやストラザーン、ドルゥーズ=ガタリの思想の軸になっているのだという。そこではまた、人と人が関わり合い、生業を行うなかで、様々な生き物と関わりながら、たがいに交際の仕方を変えることによって、人間は人間になり、動物は動物になるということを描き出すことこそが、本来の民族誌であるという、胸がすっきりとするような<民族誌宣言>がなされている。「機械状アニミズム」では、ガタリと人類学者ヴィヴェイロス・デ・カストロの思想が交差的に語られる。ガタリは、主観性を主体や人格から切り離すだけでなく、人間からも切り離して、主観性の脱中心化に取り組んだという。そのことを梃子にしながら、そこでは、アニミズムが論じられる。「大地に根ざして宇宙を目指す」では、社会の自由な構築と自然の真理の開示を保証する社会と自然の分離という虚構の上に増殖するハイブリッド・モンスターの暴走を阻むために、グローバルな環境に対する先住民運動が検討される。最後に、ヴィヴェイロス・デ・カストロの「強度的出自と悪魔的縁組」の邦訳。英語で読んだときにはさっぱり分からなかったが、日本語で読んでも難解だ。難解すぎる。ドゥルーズと人類学の対話。


九十九、百

2011年12月04日 15時48分40秒 | 文学作品

鈴木善徳「髪魚」『文学界2011.12.』★★★★(11-56)

本年度の文學界新人賞の受賞作の一つ「髪魚(はつぎょ)」を読んだ。サラリーマンの男が、川が氾濫した後に、川原で見つけた年老いた男の人魚をアパートの4階の自室に連れ帰って飼うという話だが、どこか川上弘美を髣髴とさせるところがある。髪が薄くなり白髪の年老いた男の人魚というのが斬新だ。赤羽の人魚屋には、水槽のなかには若い雌の人魚が売られている。「しかし、この人魚の幻のような寝顔を見ていると、つい広子の寝姿と重ねてしまって、僕は激しく落胆した。二か月ほど前、隣の大きなくしゃみ音で目を覚まし、彼女の顔を覗き込むと、洟を唇まで飛ばしていた。僕は花粉症か、と呟きながら、ティッシュペーパーでそれを拭ってやった。それが悪いわけではないが、眼前に横たわる人魚の寝顔を眺めていると、何やら人間の醜さや滑稽さを自覚させるために、この生物が創造されたような気になってくる。」とな。年老いた男の人魚が来てからというもの、幻を見るようになり、人魚の観察を通して、主人公は様々に思いを巡らせる。「この生物を観察していると、姿は我々と似ていても、時間や尺度と言ったものに縛られている印象をまったく受けない。僕たちは労働時間だの法律だの文明だの倫理とやらに捕らわれて、時折文句を言いながら、結局自分たちがそれを考案したことも忘れてしまっている。本来は生物なんて、もっといい加減で良いはずなので、なぜか僕たちは、それを恥じる。」と、文明論、人間論が差し挟まれる。人魚は、お弾きを用いる占いが巧いなんてのは、まったく知らなかった。馬券をあてて、62倍で主人公を儲けさせたりするのだ。最後に、主人公は、年老いた人魚を川面に放り込む。「一度沈んで見えなくなり、そして浮かんできた男はなにやら困った表情で僕を振り返り、もでなどー、と鳴いた。それから尾鰭を川面に叩きつけ、一度も振り返ることなく、人魚は川のなかへ沈んでいった。」幻想性と世俗性がほどよく溶け合って、いい物語だ。今後の活躍に期待したい。 

赤瀬川原平『新解さんの謎』★★★★★文春文庫(11-57)

 映画『赤目四十八瀧心中未遂』のなかで、アパートの一室で黙々と鶏の肉を串刺しにする仕事をする主人公の友として、新明解国語辞典が出てくる。思い出して、赤瀬川原平の『新解さんの謎』を読んでみた。飛びっきり面白い。辞書というのは、凡そ、言葉の定義をしながら、「守り」の姿勢に貫かれているものだが、新明解国語辞典は「攻め」の辞書だと、SM嬢(SMはイニシャル)の報告を受けた主人公は言う。いやいや「攻め」の態度を持ちながら、それだけではなく、彼は、人格をさえ持っているようなのだ。「辞典なのに、自分の好きなものには、おいしいだの、うまいのだの言っています。いいんでしょうか?おいしいものは別に桃だけじゃないです。コーヒー牛乳だっておいしいと思います。」たとえば、辞典には、こんなふうに載っている。「はくとう【白桃】[「黄桃オウトウ」と違って]実の肉が白い桃。果汁が多く、おいしい。」「かも①【<鴨】①ニワトリくらいの大きさの水鳥。首が長くて足は短い。冬北から来て、春に帰る。種類が多く、肉はうまい。」「あこうだい②アカヲダヒ【あこう<鯛】[赤魚の意]タイに似た深海魚。顔はいかついが、うまい。」「これはレッキとした辞典である。辞典というのは言葉の意味の多数決を発表するもの。というのが常識。でもそんな選挙結果を待たずに、自分の投票内容をどんどん公表してしまう。新解さんはそういう人だ。」すごいのは世の中だ。「世の中②【世の中】①同時代に属する広域を、複雑な人間模様が織りなすものととらえた語。愛し合う人と憎しみ合う人、成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間。」ひぇ~。世の中とは、そういうことだったのか。続いて、実社会。「じっしゃかい③-シャカイ【実社会】実際の社会。[美化・様式化されたものとは違って複雑で、虚偽と欺瞞ギマンとが充満し、毎日が試練の連続であると言える、厳しい社会を指す]」。新解さんによれば、虚偽と欺瞞が充満しているのが実社会なのだ。新解さんは、言葉の定義をしながら、それだけに留まらず、主張する。動物園がスゴイ。「【ー園④-エン】生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捉えて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設。」いまでいうならば、新解さんは、アニマルライツ派に違いない。いや~、それにしても、作家・赤瀬川原平の観察眼はあっぱれである。視点を移動し、新明解国語辞典を捉えている。きっと日常をこんな感じでいつも観察しているんでしょうね。これからは、新明解国語辞典以外の辞典は使えないかもしれない。

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【補論】
ようやくこれで、2010年1月1日から始めて100冊読破達成だ!
一年で100冊というのはスゴイと思うが、絶対無理だ。
桜庭一樹は一年400冊読んでいるというのは本当か!
いや~、文学はじつに面白い。
人類学があんまり面白くない⇒個人的には、民族誌が
書けない⇒書き方が問題ではないか⇒文學にヒントがあるのではないか;
そう考え、意識して、文學を手当たりしだいに、最初は<世界文學>、次に、<日本文學>と、思い付きで読んできた。
そのうちに、しだいに、文學そのものにはまり込んでしまった。
次はこれを読もう、あれも・・・と考え、暇を見つけては本屋に立ち寄るうちに、書斎は読んでない文學で埋もれてしまっている。
あやうく授業や会議に遅れそうになったこともある、朝眠くて起きられないこともあった。
でも、中毒のように、やめられないのだ、読んでしまうのだ。
そこではないか、人類学に徹底的に欠けているのは。
読みたいと願うような民族誌の蓄積。

いま、人類学は、理屈をこねくり回した挙句、理屈だけに溺れてしまっている。
じつに下品だ。
かたや、文學は、実験や批評を含めて、作品の層が圧倒的に厚いのだ。
その意味で、文學>>>>>人類学なのだけれども、そんなことは洟っから分かっている。
人類学にも、文學との比較をめぐって、不毛かつ無益な議論が山とある。
民族誌を書きたいけど、書けない⇒書けないから文學を読む⇒読むと面白いし、どんどんばしばし読む⇒読んでいると時間がなくて書けない;
当分、私の民族誌執筆企画は、このままの状態で推移するだろう。


五拾四、五拾五

2011年12月03日 10時24分20秒 | 文学作品

舞城王太郎 『山ん中の獅見朋成雄』(やまんなかのしみともなるお)講談社文庫★★★★★(11-54)

中学生の獅見朋成雄(しみともなるお)には、父方の遺伝によって、背中に鬣(たてがみ)が生えている。一頭の美しい馬が、彼の書道の師匠である杉美圃モヒ寛(すぎみほもひかん)が山ん中で、ぶん殴られて怪我をして死にかけていることを知らせてくれたとき、成雄は機転によって、モヒ寛を救い出すことに成功する。成雄は、犯人とその美しい馬を追って、学校をさぼって、山ん中を探索する。この小説には、音があふれている。しゅりんこき しゅりんこき と硯の上で墨を磨っていると本当に心が落ち着いてくる」「しぞりりりんに。しぞりりりんに。 僕は自分の背中の毛を剃る音を聞く」・・・闇のなかで、灯りを付けずに、「すむっさしむっさ」というわらじの音をさせて動き回る三人組の描写も秀逸だ。成雄は、やがて、トンネルを通って、異世界にたどり着く。その異世界が何であるのかは、小説のなかで一切明かされることはない。異世界は、どうやら、西川壕(にしかわごう)なる人物によって営まれているようだ。異世界の住人は、死者や霊的存在だというのではない。成雄は、その山ん中の世界に留まる。不思議なのは、「人盆」と呼ばれる儀礼がおこなわれることである。そこでは、ニキビや傷など何もなく、毛も完全に剃られた美女の背中を盆として、料理を食べるという習わしが行われていた。なんと、人が死ぬと、その肉を「人盆」で食べるというのだ。カニバリズムではないか!やがて、成雄は人を殺し、監禁された後に、風呂で働くようになり、人盆のための美女の毛を整える仕事などをするようになる。人盆をめぐる議論。モヒ寛の言葉。「違う。食の高みに盆があるんやのうて、食とは別の、人間の営みの暗い部分に人食いがあるんや。人間の畏れのなかにカニバリズムがあって、盆っていうのはその畏れを楽しむために、ホントに恐るべき人間の脳が作り出した、単なる装置や。盆をやってるときに人が楽しんでるのは食やないぞ。あれはカニバリズムをひっくり返すスリルを楽しんでいるやぞ。鶏肉や魚の肉やらを女の子の背中から拾って口に運ぶ時に、皆、人間の肉をむしって食べてるんやぞ!カニバリズムが行われている、山ん中の神話的世界、すごい。

池澤夏樹 『母なる自然のおっぱい』新潮文庫★★★★★★(11-55)

これは、文句なしに、当代随一の自然をめぐる思考の書だと思う。自然を礼讃し、人間の自然破壊を憂えて警告するエコロジー派の行き方に対して、池澤夏樹は、人間と自然の関係を根源的なところから考えることから出発している。その意味で、そのまなざしは、人類学に近いものがある。池澤の一貫したまなざしは、現代において、自然主義が流行するのは、人間が不・自然(あるいは非・自然)な存在だからだというものである。それゆえに、まずは、人間を自然のなかに位置づけ直すことから出発しなければならない。自然界には自然死という言葉はない。動物はみな捕食者であり、獲物(被捕食者)であり、その意味で、動物はみな事故死が病死する。、そうした根源的な事実から出発し、人類が知性を発達させ、ついには暴走させて、死ではなく、この生命に、生きることにしがみつくようになった過程で、人は、自然の事物に対して、他の動物に対して、絶対的優位を築き上げてきたのである。池澤によるこの先祖返りは深いと思う。池澤夏樹は、そうした議論を踏まえて、山について、川について、地形について、樹木について、すべて「自然」の側に立って考えようとしている。人や動物は皮膚をつうじて、内と外を区別し、外が内に侵入することを極度に恐れ、身体という砦にたてこもっている。他方で、樹木は違うという。樹木には風が通り、雨が降り込み、日の光が射す。枝に囲まれた空間は樹木の内部でもあり外部でもある。木はゆったりと長い時間そこに立っているだけで、人も動物も木々の下に立つときに安らぎを感じる。私たち人は、環境から切り離されているがゆえに、「不自然で反自然な自分をもてあます」存在なのである。池澤さんが、ここまで踏み込んだ思考をしているとは、全く知らなかった。脱帽。


公開授業(性の人類学)のお知らせ

2011年12月02日 08時39分32秒 | 大学

「比較文化特論(性の人類学)」公開授業

 

インテル入ってる?

  

~現代メキシコにおける男性同性愛の在り方~ 

 

上村 淳志

  

一橋大学大学院社会学研究科
 博士後期課程
 

 

 

■日時

20111213日(火)
2限(10:40~12:10

■場所

明々館 A003教室

 

■概要
メキシコでは、男女間のセックスの仕方を背景とした能動/受動の発想が力を持っている。
男性同士のセックスについても能動(攻め)と受動(受け)の力関係が読み込まれ、
受動(受け)を専門にする者は差別されてきた。
メキシコの男性同性愛者の多くは、そうした能動/受動の発想を壊す為に、
現在では攻めと受けの両方をこなす存在(「インテルナシオナール」と呼ばれる)になっている。
本講義では、現代メキシコにおける男性同性愛の在り方について紹介する。
 

■問い合わせ先

奥野克巳
okuno@obirin.ac.jp

 

写真はメキシコとは無関係。
トルコ・イスタンブール(1984撮影)


五拾壱・五拾弐・五拾参

2011年12月01日 07時51分09秒 | 文学作品

桜庭一樹『赤朽葉家の伝説』創元推理文庫★★★★★(11-51)

これは、鳥取の紅緑村のたたら場から発して製鉄業を営む赤朽葉家の1953年から現在・未来に至る歴史を、三代の女(万葉、毛毬、瞳子)をとおして綴った物語である。たたすまいとして、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を髣髴とさせるが、マルケスのマジック・リアリズムに比すると、やや薄味の出来栄えだ。そもそも、マルケスから離れて読んだ方がいいのかもしれない。

たたらを日本に伝え、製鉄の源流としてのサンカ、山の民が置き去りにした赤子の万葉を、赤朽葉製鉄の職工の夫婦が拾い、養い育てる。やがて、万葉は、赤朽葉家の当主の嫁・タツに見出され、赤朽葉本家に輿入れする。万葉は、未来が見えるという異能を持ち、後に、赤朽葉の千里眼奥様と呼ばれるようになる。

赤朽葉万葉を中心とした「最後の神話の時代 1953-1975」までを扱った第一部の後、万葉の長女で、女暴走族から足を洗って、売れっ子漫画家になった、赤朽葉毛毬を取り上げたのが、第二部「巨と虚の時代 1979-1998」である。毛毬は、過労で、一人っ子・瞳子を残して、32歳の若さで急死する。赤朽葉瞳子が自分自身を中心に、死んだ万葉が残した謎の言葉をめぐって綴られるのが、第三部「殺人者 2000-未来」である。

この3部構成は、現代日本社会の流れを実にうまく捉えていて、桜庭一樹は、瞳子の語りのなかで、紅緑村という小宇宙をとおして、
そのことを語らせている。

「祖母の昔語りでは、かつて紅緑村の強い男とは、丈夫でよく働く男のことであった。祖母によると、戦後の復興は、そういった労働者たちの汗とともにあった。母の話では、強い男とは喧嘩上等の、流行りの不良少女たちのことであった。男気を競っては喧嘩に明け暮れる。肉体の強さと、生き様のことであった。・・・では現代においては、強い男とは、いったいどういう人のことか。」

それは、彼女によれば、相手の苦しみに寄り添うような男なのである。あるいは、人が人の悲しみを憂えること。このことをもって、桜庭は、現代を、他の時代の流れにおいて醸成された特殊性のなかに読みとろうとしているように思える。私は、毛毬世代だ。

佐藤哲也『沢蟹まけると意志の力』★★★★(11-52)

蟹の卵から人間が生まれる。

「そうだ、意志の力だ。おそらくこのこどもは蟹の卵である種の意志を育み、そして自分はひとになろう、蟹になるのはやめてひとになろうと決意したのである。これは君、精神の作用としては実に自然のことだ。つまり彼は蟹の卵の中心にいて自我の萌芽にそっと触れ、そこでたった今自分が染め上げられようとしている動物的魂を恥じたに違いない。魂そのものが本質的に備えている直観の能力によって、これは低級な魂だ、だから自分はもっと上を目指そうと考えたに違いない。では上にはなにがあるのか。それは君、言うまでもない、直感の能力にも理性的な光にも恵まれたひとという種族が存在しているのだ。そして彼は決意し、意志の力によって、そう、我々が今こうしてみているように困難を乗り越えて野望を達したのだ・・・」

意志の力で人間になったその沢蟹は、<沢蟹まける>と名づけられる。
なんたる莫迦莫迦しさ。
佐藤哲也は、その莫迦莫迦しさを真剣に哲学する。

「抽象思考とは文明の産物であり、言語文化の存在しない環境では決して発生することがない。そのことから沢蟹まけるが卵の中で、なんらかの衝動を感覚によらず直接知覚したとしても、その衝動が誕生の後に与えられた言語環境と結合する保証はどこにもないのである。」

と。

しかし、この沢蟹まけるが、この作品の主人公であるというのではない。

彼は、意志の力を持った存在の代表みたいなものとして描かれる。やがて、沢蟹まけるは、沢蟹たちに幸福をもたらすために東大の入学試験に落ち、私立三流大学を卒業し、世界征服をたくらむ株式会社マングローブに就職して、改造人間にさせられるが、彼は、そのマングローブ社と戦うことになる。沢蟹まけるは、意志の力だけはあるのだが、意志はないようなのである。このハチャメチャな物語。帯を見たら、「インチキにもほどがある」と書いてあった。なるほど!。

私が好きなのは、1.の最初の老婆が語るストーリーである。それぞれの時代に、村に<若侍><役人><陸軍大佐>がやって来て、村では、十人の若い男たちを供出して、重労働や力比べなどをさせるのだが、仕事や行事が終わると、村の若い男たちは、疲れを癒すために、湯でもてなされる。若者たちの帰りが遅いので村人が様子を見に行くと、若者たちは野壺のなかにひしめいて鼻歌を歌っていたのだという。村人は、狸に化かされていたのである。語り手の老婆もやがて狸に野壺に落とされるが、それを見ていた二匹の義憤に燃え立つ沢蟹が復讐を誓い、犯人の男を追う。しかし、無情にも、沢蟹が踏み潰されるという、なんと滑稽な話であることよ。

古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』新潮社★★★★(11-53)

これは、震災後文学の作品だ。

福島県の中通りに生まれた作家・古川日出男は郷里に残らずそこを出た人間だ。

「この土地―福島県、郡山盆地、その西部―に私は要らないのだなと思っただけだ。思っていただけだ。このことと福島県が『奪われる』ような事態は、何かが、いいや、何もかもが違う。当たり前にそこに残った人びとが穢される事由を誰かが説けるか。声がする。行け。お前が被爆しろ。あるいはただ、見ろ。私は福島県の中通りに生まれた。私は浜通りに行かなければならない」。

震災から一ヶ月後、彼は、浜通りを訪れる。東北6県を描いた彼の小説『聖家族』と、その小説の主人公である狗塚牛一郎・羊二郎という兄弟とともに。

「踏切の表示のかたわらのガードレールの、水平と垂直を(すなわち向き、方位を)慮外した曲がり方、傾ぎ方、折られ方、ほとんど憎しみ合い方。真っ赤な金属の箱が横転していて、自動販売機だ。Coca-Colaとある。読めるのに、読めても意味はない、同じような大きさの白い箱があって、冷蔵庫だ。常磐線のそばのそこは住宅地で、変電所にも近いがその変電所も何軒もの住宅もやられている。地面に割れたレコードがあって、もちろん音は聞こえないCDが散り敷かれていて、けれども無音しかない。ゴルフ用の十数種類のクラブ、それらは青い色彩の杖にしか見えない。根を抜かれた―まさに根こそぎにされた―植物は枯れているし、枯れないにしても汚泥色をしている。そんな千も万もの部分。どこまで描写すればいい?」・・・

作家たちが乗りこんだ柏ナンバーのレンタカーに、5人目の乗員として『聖家族』の主人公・狗塚牛一郎が乗り込んでくる。

「書け。それが彼だった。」

この物語は、震災のルポではなく、いつの間か、何か大きなものに命令されるように、作家と牛一郎との対話が挿入される。

それだけではない。

古川は、宮沢賢治の非・人間中心主義的な動物の物語に触発されて、相馬の馬たちの世界に迫ろうとするのだ。

大震災に対して文学者には何ができるのかという問いが潜んでいる。

震災、捨てた郷里、東北を舞台としてかつて書いた小説、被ばく覚悟での現場視察などのなかから、古川日出男は、文学者として、言葉を紡ぎ出そうとしてもがいているように見える。