前々から阿部和重はすごいと聞いていた、阿部和重を読まないなんて、おまえの小説の読みはダメであるとまで言われた。で、読んでみたのである。
阿部和重 『インディヴィジュアル・プロジェクション』新潮文庫 ★★★★★★(11-58)
現実そのものの歪みだろうか、現実認識と現実のズレだろうか。主人公のオヌマは、映像専門学校の学生たちとともに故郷の山形で、スパイ養成のためにマサキによって作られた高踏塾でかつて訓練を受けたことがあるが、今は、渋谷国映で映写技師として働いている。高踏塾で一緒に訓練を受けた経験があるメンバーのうち4人が高速道路で事故死したことをきっかけに、オヌマは、やがて、否応なく「危機的情況」に巻き込まれてゆく。オヌマは、その流れの背後に、高踏塾時代の訓練によって、暴力団から奪い取ったプルトニウム爆弾をめぐって続けられている暴力団と高踏塾のメンバーとの抗争を嗅ぎつける。オヌマが働いている映画館にアルバイトで働き始めたカヤマという謎の男とともに、渋谷の女子中学生売春のいざこざに巻き込まれるなかで、オヌマは、一人の暴力団の男を殺害するに至る。しかし、その事件の相棒のカヤマについて知っている人物が誰もいないというあたりから、これまで語られてきた物語の信憑性が崩壊するように感じられる。頻繁に映画館にオヌマを訪ねてくる口頭塾の友人・イノウエの部屋は、オヌマの部屋そのものだった。オヌマはまた、マサキ、カヤマ、イノウエでもあるのだろうか。現実をどう捉えればいいのか。突き刺すような文体によって語られる、暴力とセックス、さらには、オヌマが背負う、身の回りのあらゆる物事に対する苛立ちの感情。そうした情況が、オヌマの現実認識を歪めてしまったのだろうか。その後、イノウエは実在の人物として、オヌマの日記のなかに再び登場してくる。しかし、この小説の最後に付けられた「感想」とはいったい何なのか。オヌマの語りがレポートであったというのか。この小説は、こうした複雑な仕掛けにより、多くの謎に満ちている。
阿部和重『シンセミア』I,II,III,IV、朝日文庫 ★★★★★★(11-59,60,61,62)
とにかくこの化け物みたいな長い小説を、ついに読み終えることができた。ウィリアム・フォークナーの日本版のサーガのようだ。山形県東根市神町での太平洋戦争後の進駐軍による日本のアメリカ食文化化の過程でパンが広がり、「パンの田宮」が勃興するエピソードからこの物語は始まる。半世紀を経て、その神の町に、相次いで、事故死や自殺、失踪事件が起きる。そこでは、産廃処分場の建設をめぐる利権がらみの抗争、東北の小さな田舎町で暇を持て余した挙句の果てに20代後半の男どもが地下に潜って続けるビデオ盗撮サークルの荒れた活動、根っからのロリコン趣味を世間にひた隠しにして生きるのではなく正義心を盾に大っぴらに職業として選んだ警官の破廉恥な行動、うしろ暗い過去を捨てて嫁いで来たものの家業の存亡の危機に深く悩み傷つく夫とともにコカインに刹那的な快楽を求める嫁など、社会と時代によって生み出される現実に翻弄されながら、欲望をむき出しにして生きる神町の住人の日常が描き出される。この物語には、高い理想を抱いて潔く生きているがゆえに、共感できるような人物など一人も登場しない。みな人をとことん愛し愛されたいと欲しその果てに憎み恨み妬み、さらに思い悩み深く傷つき、どうしようもなく制御することできなくなって、ゴロツキのように怒号したり、暴力をふるったり、殺傷したりする性悪を抱えこんでいる。なぜそうした登場人物たちに共感することができないのかを考えてみると、そうした人物が、ある意味では、本当は弱く傷つきやすい自分のことであり、我々自身だからではあるまいかと思えるようになる瞬間がある。そう思えた瞬間に、この物語は、私の物語であり、現代日本の物語に転じる。己の欲に忠実であらんとする人たちは、話のクライマックスである2000年8月26日に、次々に、無残な死を迎える。最後に、この憂える物語の背後には、50年前の戦後の神町に過ごした人たちによって生み出された狂気が潜んでいたことが明るみにされる。格調の高い説明調の文体と、最初は非常に読みにくく感じるが、慣れてくると次第に微笑ましくさえ感じられる山形弁が絶妙に溶け合っている。阿部和重、恐るべしである。
阿部和重『グランド・フィナーレ』講談社文庫 ★★★★★★(11-63)
読みながら、ナボコフの『ロリータ』を思い浮かべた。同じロリコンものなのだけれども、それとはいくぶん趣が異なる。1・では、ちーちゃんという8歳になる自分の娘の寝姿や裸の写真などだけでなく、映像制作会社の仕事の関係で、少女たちの写真をパソコンのポータブル・ストレージのなかにため込んでいたことが露見して、妻・紗央里との離婚に追い込まれ、法的に、妻にちーちゃんの親権を剥奪されてしまった、37歳の「わたし」が、ちーちゃんのことを想いながら暮らす陰鬱な日々が綴られる。2.では、ちーちゃんのことを深く思いながら、単身、故郷である山形県の神町に戻った「わたし」が、実家の文房具店を手伝いながら、小学校6年生の女子児童2人、亜美と麻弥と知り合い、彼女たちが、のっぴきならない事情で離ればなれにならなければならなくなり、死んでしまおうとまで思い詰めた心境で懇願され、学芸会で演じる劇の指導を引き受け、会に向けて、劇の稽古をする日々が綴られる。劇の開演時刻に、遅刻せずにやってくる二人の少女。「わたし」が、いつも持ち歩いている、かつて自分の娘・ちーちゃんに贈ったにもかかわらず、母親・紗央里によって捨てられた、音声学習機能の付いたぬいぐるみ・ジンジャーマンが、「おはよう」と、劇の開演を告げるところで『グランド・フィナーレ』は、謎を残して終わる。いったいこの最後のシーンは、何を暗示しているのか。「わたし」のロリコン趣味からの脱出か、あるいは、惨たらしいロリコン犯罪の開始なのか。作者によっては語られることはない。冴えわたる阿部文学。