たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

セックスと震災

2011年10月28日 23時11分42秒 | 大学

今日、秋晴れの下、大学祭が始まった。
大学祭期間中にキャンパスに行くのは、10年ぶりくらいのことだ。

講演会と討論会。学生からの依頼だし、まあ何とかなるのではないかと思って、両方気軽に引き受けたのだけれど、いま、すごく後悔している。もはや、なんともならん、まとまらんのだ、特に、後の方が。
5教科9科目の大学共通一次試験(現・センター入試)が近づいているのに、生物と日本史はやったけど、地学と
世界史がまだ全部見終わってもいないというような、いまになっても数年に一度見る夢のようだ。

講演会の「人、このセクシュアルなもの」については、思いつきで付けたタイトルに振り回されてしまった。
内容をぎゅうぎゅうに詰め込みすぎたような気がする。
質疑の時間はカットかも。
ま、いいっか、来場者はそれほどいないだろうと思う。

http://obirinfes.web.fc2.com/kikaku2011/arp.html

トークセッション「どうする?!3.11.震災復興と日本の行方」。こっちのほうだ、悩んでいるのは。こ
の10日ほど、震災関連の本を読んだ。と言っても、10冊にも満たない。

『現代思想2011.5.特集:東日本大震災 危機を生きる思想』『atプラス2011.8.特集:震災・原発と新たな社会運動』らをパラパラ。
山折哲雄『絆、いま、生きるあなたへ』は、前半は、震災から着想を得たエッセイで、後半は、死をめぐるエッセイだった。
『やまかわうみ2011.夏 特集:災禍の記憶』『季刊東北学2011夏 特集:地震・津波・原発 東日本大震災』などもパラパラ。
いくつか読むと、震災を機に新たに何かを考えているというよりも、あらかじめ考えていることがあって、震災が来て書いたというものが多いように思う。

最後にたどり着いたのが、高橋源一郎「恋する原発」だ。源さんにシンクロしてしまった。自らを追い込んで書いている気がする。文字に向き合う迫力が感じられもした。
『早稲田文学4号 特集 震災に』には、重松清と古川日出男の対談が載っていて、古川は早々に4月の段階で浜通りに行って、『馬たちよ、それでも光は無垢で』を書いたという。読みたいと思った。さっき、在庫があるということを調べて、閉店近くだったが、大手の本屋に行ってきた。古川日出男の棚に駆けて行った。なかった(泣。一冊誰かが抜き取ったような跡があった。店員も調べてくれたが、在庫がなかった。
あ''~、明日、どうするかだ。

http://ameblo.jp/obirin-slc/image-11057277304-11566483059.html

(写真は、まったく関係がないが、サラワクのカヤンの「生命樹」)
 


「恋する原発」

2011年10月27日 17時43分18秒 | 文学作品

高橋源一郎「恋する原発」『群像』2011.11.pp.6-131.(11-45)★★★★★★

雑誌掲載にストップがかかったというような情報が伝わってきて、そのことによって逆に、読書欲をそそられていたのであるが、日々、被災地の復興・復旧の遅れ、被曝と放射線量の影響、政治家たちの正義ぶったり、な~んも考えてなかたりするような言葉言葉言葉、自治体の原発承認をめぐるメールやらせ問題、さらには、脱原発・原発推進などをめぐる「知識人」たちの「知識人」ぶった批評など、震災後の意見表明や珍見提出にうんざりして、やや食傷気味のところに、「恋する原発」は、一見、「不謹慎」な内容ながら、ほ~、なるほどね、すごい!、と思わされるようなスパーキングな読後感を与えてくれる。

ストーリーは、AV監督という職業を恥ずかしく思っている男のチャリティーAV作成をめぐる奮闘の日々の物語。最初に、
AVの作品が、たんなるAVではなく、どんどんとヘンテコになって来ている現実が描き出される。そのうちに、主人公たちは、2011.3.11.の地震の揺れにみまわれる。前半部分でまず驚かされるのは、放送禁止用語のお構いなしの連呼・連発である。慣れてきて、読者(である私)は、そのうちに、何も感じなくなって、やがて作者の術中にはまっていくのだ。

『恋するために生まれてきたの・大正生まれだけどいいですか?』という「AV業界を震撼させたシリーズ」の第一弾、『稲元ヨネさん七十二歳・夫が戦死してから五十年ぶりのセックスです、冥途の土産にしたかった』
 では、ヨネさんと二十二歳童貞カネダとのセックスが記録されている。それを見た視聴者の反応は、おおむね、4つある。「(1)目を瞑る。(2)ヴィデオのスイッチをOFFにする。(3)他のヴィデオに替える。(4)試練だと思って、見つづける。」私なら、(4)かなと思ったけど、「多くの視聴者たちが(1)を選んだ」らしい。そして、そのヴィデオの反響はすごかったらしい。三人が出家し、全財産をアメリカ動物虐待防止協会に寄付したやつもいた。「女の裸を見てもなにも感じなくなった」・・・「男に生まれてきてすいません」というような反響も。ロケバスでは、怒涛の叫びが巻き起こったという。「戦争に反対する!あらゆる抑圧に反対する!・・・」。「あの72歳のヨネさんの裸体とセックスシーンを世界のテレビのゴールデン番組で放映したら、この世から戦争なんかなくなるんじゃないだろうか。」そのAVには現実への強い喚起力があるのだ。

ところで、
何で、このヨネさんのAVヴィデオが震災に関わるのかというと、そのAVを撮影した15年前に、小学校の先生にレイプされてから30年間セックスしていなかった、ヨネさんの姪のヨシコさん(40歳)が、その作品のおまけのコーナーのなかでセックスをしていたのだが、当のヨシコさんは、いま福島のハズレにある、小学校に設けられた避難所で避難生活をしているからである。AV製作のスタッフは、『大正生まれですけどいいですか?』のシリーズに出演後に亡くなったおばあさんの法要に出かけて行って、自分たちが元気であることを知らせるためにセックスして、それを撮影する。ある人は、それを冒瀆だという。そりゃそうだろうなと思う。「それって冒瀆なのかな。おれは麻痺しているから、わからんけど。ちゃんと、お布施も持ってゆくし・・・最後には脱いじゃうわけだが。」う~ん、やっぱり狂ってんじゃないかと、私は思うけど。

そのあたりの問題を、作家・高橋源一郎はこの作品でターゲットにしているのではないだろうか。震災後の復興復旧、原発や被爆問題、それらをめぐる行政のごたごた、議員たちの正義を振りかざした言葉、知識人の批評などによってつくられてゆく現代日本社会の浮ついた現実に切り込むために、高橋は、映画やニュースからは捨象される一方で、現代日本人の現実であるAV産業のなかの「チャリティーAV」というヘンテコな、キワモノ的な慈善事業を描き出すことで、日本社会の狂気へと迫ろうとしたのではないだろうか。高橋は、「チャリティーAV作って、その収益性を寄付するより、ふつうにAVをサクサク作って、その収益を寄付したほうが手っとり早いんじゃないですか?」と、主人公の口からまともなことをしゃべらせている。

最後には、フクシマ第一原発前広場での、「ウィー・アー・ザ・ワールド」をバックミュージックとして、一万組・二万人同時集団セックスというチャリティーAVが行われる。
最後の最後になって、「っていうのはどう?そんな案却下。なんで!そんなのAVじゃないからだよ!」という言葉で締めくくられ、それが「案」であったことが明かされる。

さらに、この作品には、そのクライマックスに行く手前に、骨太の「震災文学論」が差し挟まれている。「ぼくはこの日をずっと待っていたんだ」という、インタヴューを受けたある著名人の「不謹慎な」言葉によって、高橋は、震災後の「がんばれ東北、がんばれニッポン!」という現代日本社会の風潮に安住することなく、そういう見方に挑んでいるように思える。そのなかで、
川上弘美『神様2011』、宮崎駿『風の谷のナウシカ』、石牟礼道子『苦海浄土』が取り上げられている。「わたしたちは、『死』や『老い』を『汚れ』とみなすようになった。おそらく、『病』や『障害』や『貧困』も。『汚れ』は浄化されなければならない。つまり、私たちの視線から遠ざけられなければならない。」震災や死や貧困や障害は、それほど、酷ったらしいことなのだろうか。それらはこれまでつねに人を苛んできたし、それゆえに、人はそれらとうまくやって来たのではないだろうか。「おそらく、『震災』はいたるところで起こっていたのだ。わたしたちは、そのことにずっと気づいていなかっただけなのである」。


『日本の大転換』

2011年10月22日 23時36分56秒 | 自然と社会

「3.11.以降」に対する私の思い付きは、先住民や我々の祖先の考え方を称賛する一種のロマンティシズムかもしれない。http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/77fe92d594b936accaad3dae93771da1

中沢新一著『日本の大転換』(集英社新書)を読むと、そんなふうに思えてくる。

震災を原発というエネルギー形態の災禍の枠のなかに捉えて、それを
用いて暮らす現代人の「経済」まで視野に収めて、乗り越えを考えてみるという行き方はひじょうに魅力的である。

原子力によるエネルギーは、太陽圏という生態圏の「外部」の高エネルギー現象を生態圏の「内部」に持ち込む技術である。それは、生態圏にとって「外部」の超越神を自立的に生態圏に介入させることによって成立した一神教思考とパラレルだという。他方で、生態圏では、抽象的な商品経済や経済の合理性の精神が、その内部を貫いて、現実との間にノイズを生み出している。原子力発電は、これまで、そうしたグローバル型の資本主義によって担われてきた。

原発事故は、資本主義的な小手先の知性でブレイクスルーできるようなものではない。原発から自然エネルギーへの転換は必要であるが、それを、たんにビジネスの話で終わらせるべきではない。必要なのは、強力なビジョンを用意しておくことである。人が原子炉をコントロールし、自前で、富の源泉を確保できたという思い込みは、太陽や自然からの「贈与の次元」を失うことであった。もしそうであるならば、原子力開発に続く「第八次エネルギー革命は、原子力発電からの脱出をめざすとともに、人類の思考のうちにこれまで長いこと隠されてきた贈与の次元をよみがえらせる運動でもあるのだ」。

原発事故は、資本主義経済の今日の深刻な行きづまりに関わっているというのが、どうやら、大枠で議論の底にあるようだ。中沢さんは、「フュシス(自然)」+「クラティア(管理)」としての「フィジオクラシー(重農主義)」を構想したケネーの経済学に、未来を開く鍵があると述べて、現在、著作を準備中だという。


けやき広場のホーミー

2011年10月21日 23時00分01秒 | 大学

水曜日の昼休み、曇り空、けやき広場。馬頭琴の癒し系の音色を聞いて、学生や教職員がたくさん聞きに来てくれた。朝から大慌てでビデオを充電して、モンゴル民族音楽コンサートを撮影しようと意気込んだが、機器がうまく作動せず、急遽ICレコーダーで録音した。スピーカーの調子がいま一つだったが、ホーミーの「アルタイ山賛歌」の生演奏は迫力があった(演奏と写真)。参加学生の頑張りで、討論会も無事終了し、懇親会もけっこう盛り上がった。留学生と関係学生たちの努力に感謝。これで、専攻の今年のイベントは終わった。非・海外志向だという今日日の大学生が、少しでも遠い世界に対して興味関心を抱いてくれればいいのになあと思っている。


震災に思う

2011年10月20日 22時15分06秒 | 自然と社会

2011年3月11日。春休みの一日、いつもの年のその時期にそうであるように、私は海外にいた。東北の地震と津波の報を聞いて、しばらくして密林に入った。3月末に帰国すると、国内が節電で薄暗く、エスカレータがいつものように動いていないことに、震災の影響を感じた。オフィスの棚から書類が落ち、ともに落下したはずのワインボトルはなぜか割れていなかった。3週間授業開始が遅らされて、私は、邪気なく、むしろ春休みが長くなったと歓迎したほどである。そのあたりに、いつだったか、ゼミの卒業生と会って話をした時に、地震当日の話題になったことがある。彼女は、都内のビルで仕事中に、地鳴りがして、やがて揺れ出し、地の力みたいなものを感じだのだと言った。それは人を超えた力のことではないかと思った。荒ぶる地の神が、突然、動き出したかのように。地震大国・日本の住民にとって、地震という厄災は、そうしたものとして、考えられ、イメージされてきたのではないだろうか。

そんなことに気づくうちに、今回の震災は、自然の力、自然の神を封じ込めようとする努力は虚しい、儚いことであるということを示唆しているのではないか、と思うようになった。そうした単純な事実を想った。科学技術を用いて、自然を操作し、電気エネルギーを生み出したり、大海原からの巨大な波の伝来を止めるための防潮堤を築くという人の営みは、人ゆえ、人ならではのものであって、そうした人の企てをやすやすと超えるものこそが、大いなる自然たる神だという点を、私たちは心深くに刻みつけなければならないのかもしれない。

私たちが深く懐におさめて、享受しているため、簡単には批難することはできないかもしれないが、自然を人間と対立させ、それを制御しようとする、ヨーロッパ形而上学に特徴的な自然と文化の二元論が、いま、私たちの足元に潜んでいることが、ようやく見えかけてきている。その延長線上に、精神を持ち、思考する主体である人間が、人間以外の自然の事物・対象を奴隷として、自らの統御の下に置いてきた。しかし、人が完全に自然をコントロールすることなどできはしない。そのことは、私たちを養ってくれる自然=神に対する反逆、反乱、抵抗でさえある。そうした自然と文化の二元論をベースとする科学への信奉が広く世界に行き渡り、自明化する以前に、人の心根にあったものが何であったのかを、私たちは問い尋ねてみなければならないのかもしれない。

赤道直下の熱帯に生きるボルネオの狩猟民・プナンは、科学以前に生きる人びとであると言えよう。プナンにとって、最大の自然の脅威は、湿り気を帯びた水蒸気がやがて天高く一か所に滞留し、凄まじい雷鳴を轟かせて、激しい雨をもたらす、気象の急変である。雷神は、稲妻を走らせ、落雷して木々をなぎ倒し、生命を奪い、鉄砲水を引き起こし、あらゆる事物を水のなかへ流し去り、時代を一気に神話の時代へと遡らせる。プナンの理屈は、天界にいる、そうした神々の怒りを引き起こすのは、日々の狩猟で得た獣に対する人による不遜な、不敬な振る舞い、すなわち、人が、動物と戯れたり、動物をからかったりしたことに因があるというものだ。プナンは、だから、(決して言葉に出して語らないが)自然が与えてくれる恵である獲物の扱い方に、念入りに注意を払う。そのことによって、狩猟民プナンは、間接的に、自然=神に対する畏怖、恐れを表現しているのだ。逆に言うならば、人は、自然の前では、ただただ逃げ惑って、猛威が納まるのを待つしかない、ちっぽけで、不甲斐ない存在なのだということを、彼らはよく知っている。

必要があって、ちょっとだけ考えてみた。

(写真:アレット川の濁流)


『春を恨んだりしない』

2011年10月15日 22時44分27秒 | 文学作品

先週の火曜日のこと。ちょっと遅くなって、夜9時半ころだった。オフィスから出て車を走らせていた。時速50キロくらいは出ていた。連なる数台前の車の間を右から左に猫が横ぎったのが目に入った。とすぐに、今度は左から飛び出してきたようだ。前の赤い外車の左の車輪に轢かれた。ぐったりする猫。フロントランプに照らされた眼が光ったが、私には避けることよりほかにどうすることもできなかった。前の外車は何事もなかったように走り続けた。翌朝、反対車線に、猫の轢死体があった。その夜にも、車を走らせながら、猫の轢死体を見た。多摩の猫たちに何か異変でもあったのだろうか。

その後、数日して、ずいぶん久しぶりに、はっきりとした夢を見た。いまから23年前に亡くなった祖母が電話をかけてきた。黒電話を取った。「スーパーで自然に死なはったよ」という言葉だった。たった、それだけだった。夢のなかで、私は母が死んだと思って苦しくなった。翌朝、一人暮らしをしている母とは、もう3か月くらい会ってないことに気づいて、電話をしてみた。それが、月曜日のことだ。今朝、母から電話があり、伯父(母の兄)が亡くなったらしい。夢は、いや死者が、現実に入り込んできた。

池澤夏樹『春を恨んだりしない:震災をめぐって考えたこと』(中央公論社、11-44)を読みながら、そうした三人(猫)称の死、二人称の死をめぐる最近の出来事が、つねに頭のなかに浮かんでは消えていた。それは、ほとんどこの本の内容とは関係のない出来事である。その本には、震災の、震災後の全体像が書かれている。そのなかで、震災の死者たちの話が印象深いからであろうか。

「破壊された町の復旧や復興のこと、仮設住宅での暮らし、行政の力の限界、原発から漏れた放射性物質による健康被害や今後の電力政策、更には日本の将来像まで、論ずべきテーマはたしかに多い・・・しかし、背景には死者たちがいる。そこに何度でも立ち返らなければならないと思う。・・・死は祓えない。祓おうとすべきではない。」

池澤は、未来の死者まで、死者の域を拡げてゆく。

「更に、我々の将来にはセシウム137による死者たちが待っている。・・・その死者は我々自身であり、我々の子であり孫である。不吉なことだが否定も無視もしてはいけない。この社会は死の因子を散布された。放射性物質はどこかに落ちてじっと待っている。」という。

ところで、池澤によれば、自然にあるのは、感情の絶対零度である。

「津波があと一メートル下で止まってくれていたら、あと二十秒遅かったら、と願った人が東北には何万人もいる。何万人もの思いは自然に対しては何の効果も影響力もなく、津波は来た。それが自然の無関心ということだ。」

だから、自然には害意などなく、自然を恨んだりしないしてもしかたがない。しかし、人は、そうした事実に耐えられないのだと、池澤は言う。だから、

「春を恨んでもいいのだろう。自然を人間の方に力いっぱい引き寄せて、自然の中に人格か神格を認めて、話し掛けることができることができる相手として遇する。それが人間のやりかたであり、それによってこそ無情な(情というものが欠落した)自然と対峙できるのだ。」


『神様2011』

2011年10月09日 21時30分36秒 | 文学作品

川上弘美 『神様2011』 講談社 (11-43) ★★★★★

川上弘美の1993年のデビュー作の短編作品『神様』では、動物(くま)と人が普通に会話を交わし、散歩に出かけるという、世界の分類秩序を破壊するような、アニミズム的世界が描かれるのだけれども、読者は、夢を見ているような、淡い幻想の世界に心地よく酔いしれる。川上は、東日本大震災後に、その物語の舞台を震災後にして書き換えた。それが、『神様2011』である。そこでは、主人公とくまが、防護服を身に着け、散歩に出かける。

「川原までの道は元水田だった地帯に沿っている。土壌の除染のためにほとんどの水田は掘り返され、つやつやとした土がもりあがっている。作業をしている人たちは、この暑いのに防護服に防塵マスク、腰まである長靴に身をかためている」というふうに、震災後の風景のなかでくまとの散歩がつづられる。震災前と震災後。震災後には、文字表現のレベルでも、ずいぶん暑苦しくなる。防塵服だの被爆線量という原発関連用語が、『神様』の夢幻の世界を、何やら重苦しい雰囲気にしてしまうのだ。

自宅に帰ってからの描写を比較してみると:

・部屋に戻って魚を焼き、風呂に入り、眠る前に少し日記を書いた。熊の神とはどのようなものか、想像してみたが、見当がつかなかった。悪くない一日だった。(神様、1993)

・部屋に戻って干し魚をくつ入れの上に飾り、シャワーを浴びて丁寧に体と髪をすすぎ、眠る前に少し日記を書き、最後に、いつものように総被爆線量を計算した。今日の推定外部被爆線量・30μSv、内部被爆線量19μSv。年頭から今日までの推定累積外部被爆線量・2900μSv、推定累積内部被爆線量・1780μSv。熊の神とはどのようなものか。想像してみたが、見当がつかなかった。悪くない一日だった。(神様、2011)

私は、川上の試みを好ましく思う。

さて、私は、東日本大震災関連のシンポジウムで、いったい何を話すのだろうか。


峠うどん物語

2011年10月03日 07時54分12秒 | 文学作品

 

重松清 『峠うどん物語』(上)(下)講談社、★★★★ (11-41、42)

この季節、ついつい本を読んでいて夜更かししてしまうが、先週(9月25日)の朝日新聞の日曜版の読書欄に、中島岳志さんによる、『峠うどん物語』の書評が載っていた。タイトルの時代小説のような雰囲気が気に入った。中島さんは、ジェレンケヴィッチ(とは書いてなかったが)の、「二人称の死」(知人、親族の死)、「三人称の死」(他者の死)の概念を散りばめて、東日本大震災後の私たちが、「死者と向き合ったばかりの他者と出会う。死者を通じて自己の人生を凝視する人たちを見つめ、自分も少しずつ変容していく」ことになる主人公の女の子・よっちゃんと同じところに立っているという、冴えのある論評を書いていたのであるが、その書評に触発されて、帰宅途中に、多摩センターに最近できた丸善で買って、読んでみた。二分冊だけど、それほど苦にならない。重松の文章は、すとんすと~んと頭のなかに入ってくる感じがする。もともと木々に囲まれた峠の上のうどん屋の前に、市営の斎場ができて、斎場で死者を見送った人たちがたくさんやってくる店になった。店を営む職人肌のおじいさんと明るいおばあさんの孫であるよっちゃんは、中学時代、書き入れどきになると、峠のうどん屋を手伝うようになり、目の前に斎場があるため、「三人称の死」に出会うようになる。10の物語のうち、私が好きなのは、というのは、この場合、こみ上げてくるものがあって泣いてしまったのは、霊柩車の運転手を務める70歳のトクさんの話(トクさんの花道)の他、よっちゃんの母親とその家族の過去の苦い経験と、いままさに死に直面している、その因となった男の話(二丁目時代)など、時々、聞こえてきたり、遠くの方から私たちに迫りくる、「死」との対話の物語である。それらは、私たち日本人のいまとここの死の現実に近い。作家・重松清は、会話のなかから、人物の心理を細やかに描き出すだけでなく、そうであることの背景をも巧みに埋め込んで、読者、すなわち、私の心を揺さぶり続ける、つまり、泣かせてくれるのだ。重松は、泣かせる小説にかけては、定評があるらしい。豊崎由美によると、泣ける小説を書くためのコツは、「作者は泣くなってこと。泣きのポイントこそ冷徹に書き、決して酔いしれないこと。・・・よく泣く人に泣きの感情がわかっているかといえば、それはちがう。『泣く』という感情のメカニズムを理解しているのは、実はある種の悪い人なんじゃないでしょうか。それこそ、そういう感動的な場面を書きながら、『これで世間は号泣間違いなし』なんて笑いながら書けるような人が”本物”じゃないのかなあ」。あたってるのではないかと思う。そして、この本で、作家の術中に嵌ってしまった。


ホーミー

2011年10月02日 08時22分13秒 | 大学

ホーミーは、基本的には、喉を使って、唸るような低い音と甲高い音の二つを、同時に発声するモンゴルの伝統的な歌唱のことだが、モンゴルで聞いてから、我々が慣れ親しんだ既成の「音楽」の概念を打ち破るかのような不思議なホーミーの音色に、いま、虜になっている。

唇、上顎、喉、鼻、胸、言葉のホーミーという6種類のホーミーの紹介。
共演したジャズ・サックス奏者、坂田明さんもノリノリ。
http://www.youtube.com/watch?v=NNVrmW0VL2I

Khan Bogd
http://www.youtube.com/watch?v=RME7sT9wkeI&feature=related

女の子がホーミーで"Amazing Grace "やってる。
http://www.youtube.com/watch?v=mO4Uh-Mini4&feature=related

「モンゴル国ホーミーコンクール優勝」ってタイトルがついている。
この映像って、レイプ?
http://www.youtube.com/watch?v=FSSJih4dqQE&feature=related

Lonley Planet のMongoliaのなかで紹介されていたホーミー歌手、Dangaa Khosbayar。
http://www.youtube.com/watch?v=v44nsJxE9RY

ホーミーのホーミページ。これも、Lonely Planetに載っていた。
http://www.khoomei.com/

10月19日(水)の昼休みの桜美林・けやきの広場でのミニ・コンサートでは、二曲披露してもらう予定(参加自由・無料)。
http://www.obirin.ac.jp/topics/event/year_2011/0928_2.html


【新刊】『人と動物、駆け引きの民族誌』

2011年10月01日 07時38分25秒 | 人間と動物

出た! 『人と動物、駆け引きの民族誌』 奥野克巳編著 はる書房、2300円。

表紙は、見本段階ではブルーだったけど、淡い生姜色になって、ちょっとカワユイかも。

人と動物の関わりについて、地球上のいろんな場所からの民族誌をつうじて、分かることがたくさんあるのではないだろうか。

この本のなかには、人と動物の駆け引きを、臨場感をもって、力強く描いている民族誌もある(気がする)。

しかしながら、もっと民族誌を突き詰めて、緻密の上に緻密を重ねてゆかなければならないのではないかとも思う。

本書を、個人的には、マリノフスキー以降のエスノグラファーたちの霊に捧げたい。

第1部 人と野生動物

 第1章 密林の交渉譜:ボルネオ島プナンの人、動物、カミの駆け引き

 第2章 狩猟と「男らしさ」と「森の小人」:パプアニューギニア、アンガティーヤでの人間ー動物関係の一断面

第2部 人と儀礼動物

 第3章 いたぶる供犠:ラオスの農耕民カントゥとスイギュウの駆け引き

 第4章 幸運を呼び寄せる:セテルにみる人畜関係の論理

第3部 人と飼育動物

 第5章 牛を喰い、牛と遊び、妖怪牛にとり憑かれる:コモロにおける牛と人間の「駆け引き」について

 第6章 ウシの名を呼ぶ:南部エチオピアの牧畜民社会ボラナにおける人と家畜の駆け引き

第4部 人と実験動物

 第7章 エピクロスの末裔たち:実験動物と研究者の「駆け引き」について