ずいぶん長い間、民族誌を書くことをサボっていたが、最近、書く(準備をする)必要に迫られて、何を書けばいいのかを考えるようになった。フィールドノートをペラペラとめくっていて、ふたたび<感覚>の問題へと立ち戻ることになった。他の狩猟民からの報告に比べて、<感覚>に関しては、プナンに、顕著な特徴を見出すことはできないと、いつのまにか結論づけていたが、じつは、そうでもないのかもしれないということを、フィールドノートが教えてくれるような気がする。
<嗅覚>をめぐって
わたしは、新刊本の匂いが好きである。とりわけ、青土社の新刊本がいいと感じる。しかし、プナンは、そういったかたちでの、自分たちの匂いの感覚を話すということはあまりないように思える。匂うは、プナン語で、bau である。「オナラが匂う(=臭い)」、「女(女性器)が匂う(=女性がウヨウヨいる)」というような言い方はよくするのであるが。逆に、プナン人たちは、動物の<嗅覚>をめぐって、豊富な知識をもっている。ハンターたちは、どの動物が人間が発する匂いに敏感であり、どの動物が匂いに鈍感であるのかについて、リストアップすることができる。イノシシ、ブタオザル、シカ(サンバー)などは、匂いに敏感であり、狩猟行では、それらの動物を追う場合、風上に立たないように注意する。
<味覚>をめぐって
プナン語で「味わう」を意味する tegen は、「感じる」という意味にもなる。「味わう」とは「感じる」ことでもある。おいしいは jian であるが、砂糖の味などの甘味があれば、mii と表現する。甘味が、プナン社会における<味覚>の最高位にあるのだといえる。何をおいしいと感じるかというよりも、特有の味を感じる(味わう)ということが、共同体(文化)のなかで共有されている。滋賀県出身のわたしの祖父や父、叔父は皆、一尾5、6千円もする「鮒寿司」を好んで食べていた。家に入っただけでも、台所から強烈な臭い匂いが漏れてくる。中毒みたいに、食べていた。強烈だという意味で、それと同じような食べ物がプナン社会にある。それは、potok と呼ばれる動物(シカとサル)のもつ煮込みである。特に、植物の葉っぱしか食べないサルの臓物の煮込みの味(匂いも)は強烈である。プナン人たちは、薬膳であると言って、平らげる。何を味わうのかは、川田順造がいうように、「作る行為と食べる行為、共に同じ味覚を享受する行為など、他者とのコミュニケーションの基底をなしていることが多く・・・ノスタルジーや共属感覚」に結びついている。
<聴覚>をめぐって
夜のイノシシ猟についていったとき、ハンターであるプナンの男性は、雨が降るから小屋に引き返そうといったことがあった。そのとき、わたしには、近くに流れる小川の音しか聞こえなかった。彼のいうとおりに小屋に引き返すと、バケツの水をひっくり返したような大雨が降った。彼は、遠くの雨の音を、近くの川を流れる水の音から聞き分けたのである。これは、なかなかに難しいことだと思う。また、プナンは、とりわけ、ハンティングに出かける男たちは、動物の鳴き声を、それが何の動物なのであるのかということを聞き分けることができる。もちろん、その前提には、動物がどのような鳴き声をするのかということに関する知識がある。そのことからすると、聴力がよいということだけではないのかもしれない。身の周りのものに関する知識を動員しながら、聞き分けをおこなっているのではあるまいか。さらに、プナンは、鳥の声の「聞きなし」に長けている。ロギングロードで、木材会社の車やローリーがやって来るのを聞き分けるのも、その早さ、遠さの点において、わたしは、プナン人たちにはかなわない。「聞く」は、プナン語で、ngenini という。
<触覚>をめぐって
「触れる」は、プナン語で、menapai という。他方、「持つ」は、tuyah である。わたしには、プナンが、その二つの言葉を同じような意味で用いているように思える。amai menapai も、amai tuyah も、両方とも、「さわるな」「触れるな」という意味である。プナン同士は、人との交わりを「触れる」という行為から始めるということはない。マレーシアで一般におこなわれているような、握手で関係を始めるというようなことがない。その意味で、わたしたち日本人の対人関係の築き方に近いのかもしれない。しかし、挨拶みたいなものを、基本的には交わさないという意味で、日本人のそれともちがう。プナン人にとって、人間同士が「触れる」ことは、親密さの表現になっている。親密な男女、親子は、よくお互いに触れ合う。「触れる」ことで特徴的なのは、糞便処理である。彼らは、木の枝で、糞便処理をおこなってきた。その感覚は、子どもたちが、狩猟小屋やロングハウスの細い柱にお尻をすりつけて、糞便を処理することに受け継がれているように思える。
<視覚>をめぐって
プナン語の「見る」、naat の使い方は、英語の see に、ある意味で似ている。英語を勉強し始めたころの、わたしの違和感のひとつは、「また会いましょう(see you !)」ということばにおいて、「会う」というのが「見る」と同義のものとして用いられていたことであった。なぜ「見る」が、「会う」という意味になるのか、分からなかった。プナン語の naat は、「見る」でもあり「会う」にもなる。つまり、プナン語でも、「会う」ことは、「見る」ことなのである。動物の<視覚>についても、プナン人は、細密な知識をもっている。イノシシは、懐中電灯の明かりは「見る」ことができないが、月明かりに照らし出されるヒトの明るい色のズボンは「見る」ことができるのだという。だから、夜のイノシシ猟に出かけるときには、明るい色の服装をすることはよくないこととして知られている。
以上、プナン人の<感覚>をめぐる雑感の一部。
(写真は、ある狩猟小屋でのわたしの寝床)