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たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



写真は、プナンの子どもたちが、運び込まれたイノシシで遊んでいるところである。イノシシの鼻のカタチはトンカチに似ているので、それは、子どもたちの格好の遊び道具になる。このときはどうであったかはっきりとは覚えていないが、そのような場面で、とくに、その場に年寄りたちがいたら、猛然と、強い口調で、子どもたちがイノシシと戯れることを禁ずるだろう。子どもたちが、イノシシをもてあそんでいることを、烈火のごとく非難するであろう。そうした切迫した場面に、わたしは何度か出くわしたことがある。プナン人、とりわけ、年輩のプナン人は、人間にさいなまれた動物の霊が雷神のところに行って、人間からの仕打ちを打ち明けて、怒り狂った雷神によって、人びとが石に変えられたり、鉄砲水で流されたりすることを、ことのほか、恐れているからである。

わたしが気になっているのは、プナン人たちが、子どもたちのイノシシ遊びのような<まちがった行為>を、特別に、
「ポーニャラ(penyala)」と名づけていることである。それは、特に、人間が動物に対して犯すような、<まちがった行為>のことである。逆に言えば、それは、「そんなことをするな(amai maneu ke)」というような言い方で禁止されるような、たんなる<まちがった行為>のことではない。たんなる<まちがった行為>とは、たとえば、子どもたちが、暑いからといって何時間も川のなかで水浴びをするとか、用もないのにバイクばかり乗り回しているというようなことを指す。それらには、特に、名前はない。

つねづね、わたしは、プナン社会では、一般に、たんなる<まちがった行為>に対する許容度・寛容度が高いように
感じている。つまり、<まちがった行為>とされるようなものが、ほとんどないといってもいいかもしれない。逆に言えば、わたしたちの日本社会では、未成年の「不純異性行為」やちょっとしたセクハラ、万引きやのぞき含めて、<まちがった行為>がおびただしくあって、それらに対する圧力が強い(そういったからといって、それらをわたしは推奨しているわけではない!)。プナン社会では、あえて言えば、人の命に関わる(大胆な)行為などが、ゆるやかに、<まちがった行為>として意識されているくらいである。それに対して、「ポーニャラ」は、はっきり、くっきりした<まちがった行為>であると考えられている。<まちがった行為>の格がちがうといってもいいのかもしれない。それは、真の意味で、やってはいけないことなのである。わたしは、「ポーニャラ」で、雷にあたって死んだ小学校の先生の話を、複数のプナン人から聞いた。

プナン社会で、もし、通常の意味での<まちがった行為>が、人命に関わるものくらいしか、共有されていないのだとすれば、「ポーニャラ」としての<まちがった行為>は、ひときわ突出しているように思われる。それは、プナン人の道義心の中心にあるようにも感じられる。人間と動物の関係の正しいありようこそが、プナン社会の倫理の軸になっているのではないだろうか。しかし、わたしは、こういった類の議論をする人類学者をほとんど知らないので、どういう切り口で、このような問題系について組み立てていったらいいのか、
じつは、いま、かなり困っている。



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先日、京都の「菌塚」を訪ねた折、わたしは、宮沢賢治の『ビヂテリアン大祭』の以下のくだりを、ぼんやりと思い出していた。それは、ニュウファウンドランド島に集まった「ビヂテリアン(菜食主義者)」たちの思想を論難するために、シカゴの畜産組合によってまかれたとされる、黄色のパンフレットに書かれた文面である。

偏狭非学術的なビヂテリアンを排せ。
 ビヂテリアンの主張は全然誤謬である。今これを生物分類学的に簡単に批判して見よう。ビヂテリアンたちは、動物がかあいそうだという、一体どこ迄が動物でどこからが植物であるか、牛やアミーバーは動物だからかあいそう、バクテリヤは植物だから大丈夫というのであるか。バクテリヤを植物だ、アミーバーを動物だとするのは、ただ研究の便宜上、勝手に名をつけたものである。動物には意識があって食うのは気の毒だが、植物にはないから差し支えないというのか。なるほど植物には意識がないようにも見える。けれどもないかどうかわからない、あるようだと思って見ると又実にあるようである。
 元来生物界は、一つの連続である、動物に考があれば、植物にもきっとそれがある。ビヂテリアン諸君、植物をたべることもやめ給え。諸君は餓死する。又世界中にもそれを宣伝したまえ。二十億人がみんな死ぬ。大へんさっぱりして諸君の御希望に叶うだろう。そして、そのあとで動物や植物が、お互い同志食ったり食われたりしていたら、丁度いいではないか(宮沢賢治全集6、68ページ、ちくま文庫)。

このパンフレットの書き手の主張は、生物分類学を考えるならば、動物や植物というのは、われわれ人間側の都合で勝手に付けた名前であって、生物界は連続していて、どこに線引きができるのか、じつは、はっきりしない。そうであるならば、ビヂテリアンが動物を食べるのをやめるのならば、また、植物も食べるのもやめなければならないことになる。それを世界中の人びとがやったら、人類は餓死するに至る。そのようにして、人が絶滅した後にも、動物や植物は、お互い食ったり食われたりするということが残るだけだというのである。宮沢賢治自身、菜食主義者(1906年、22歳の頃から)であったと聞くが、じつに興味深い話である。

結局、ビヂテリアン大祭では、「異教徒」や「異派」たちは、全員が、あっけなくビヂテリアンへと改宗する。最後に、シカゴ畜産組合によるビヂテリアンたちの論難のためのパンフレット配布は、大祭の余興として、主催者側が仕組んだものであったというストーリーになっている。

川田順造によれば、「仏教信者としての宮沢賢治の立場は、すべての生物はみな、無量の劫から流転を重ねてきた長い間の親子兄弟であり、あるときは畜生のなかに生まれている。あらゆる生物に対する愛こそが大切だ、どうしてそれを食べることができようという、こまごまとした論理を超えたものだ。ことばを変えてこの立場を解釈すれば、他の生物の犠牲によってしか生きるすべのないかなしい業を自覚し、生きること自体が含む矛盾を受け入れ、自覚することでそれを超えようとする態度といえるだろうか」(川田順造『文化人類学とわたし』150ページ、青土社)ということになる。20世紀の初めの日本において、すでに、そのような思想を抱いた上で「ビヂテリアン大祭」を書いていたとは、
宮沢賢治恐るべし。

ところで、「毒ギョーザ」事件といういたましい事件によって、今日の日付をもって、今後ふたたび、大きく食の歴史が動くような気がする(思えば、現代日本社会では、食品偽装や中国産の食品をめぐる問題として、昨年くらいから、じょじょに顕在化していたのかもしれない)。今後の議論は、おそらくは、食品管理体制を含む食の安全の問題検討へと流れていくであろうと思われる。資本主義をベースとしながら、そういったかたちでしかそれぞれの口へと運ばれることがないような、わたしたちの食文化のありようは、そのままにして。しかしと、わたしは想う。ほんとうに大切なのは、わたしたちの生存を助けてくれる存在に対する想念のありようについて、深く考えてみることなのではないかと。そのことを置き去りにして、食の安全や食品管理だけについて話すことは、むなしいのではないか。わたしたち食べつづける人間と食べられる生き物、利用される存在との距離が、より近かったような世界へと行ってみたり、想いを馳せたりすることをつうじて、食そのものの根源へと思い至ることはできないものか。たぶん、文化人類学が検討できるのは、そのようなことであると想う。

(写真は、「菌塚」の裏面)



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菌塚  


関西方面出張の最終日に、京都にある「菌塚」に立ち寄った。叡山電鉄・修学院の駅から、山に向かって15分ほど歩いたところに、曼珠院門跡がある。曼珠院の拝観を終えて、受付で記帳した後、立ち入りを許され、そのいしぶみに対面した(写真)。

100万種類以上の「菌類」が、自然環境のなかに生息しているとされる。人間と菌類との関係はひじょうに深い。マツタケは、菌根と樹木の根との共生体である。コウジカビを培養、繁殖させたコウジは、古くから醸造に用いられてきた。抗生物質ペニシリンは、アオカビの一種を用いてつくられる。科学技術の進歩によって、菌のバイオテクノロジーへの応用は、21世紀の重要な産業であると期待されている。

石碑の裏には、「人類生存に大きく貢献し犠牲となれる無数億の菌の霊に対し至心に恭敬して茲に供養の堪を捧ぐるものなり 曼殊院門跡第四十世大僧正 圓道 筆」と記されていた。建立のいきさつ、建立者である元大和化成株式会社社長・笠坊武夫さんのプロフィールなどについては、以下の「菌塚のホームページ」に詳しい。
http://www11.ocn.ne.jp/~kinzuka/

そのホームページには、菌塚の建立に寄せて書かれた、菌研究者たちのことばが載せられている。以下に、何人かのことばを引きたい。

◆・・・この世の生きものの中で、目にも見えず、一番小さい、一番弱いもので、人間のために用を果し死んで行って呉れたものへの限りなく深い心持をこめて、菌塚を建てられると云う・・・笠坊さんは菌塚を建てて、日本又は世界の微生物学とその応用にたずさわるものに菌の無限の慈悲を解らせようとして下さっているのではないだろうか。又この笠坊さんの考えていられる自然の慈悲心及び無眼の深さを悟ることこそ、発酵の分野に於て良い仕事をする殆ど唯一のと迄言へる一つの秘訣はあるまいか・・・

◆菌が声を出さないという簡単な事実から、私達は罪の意識を持たずにどれ程の菌の個体を殺生して来たことでしょう。抗血清を作るために僅か二匹の家兎を採血致死させた学生は、二度と抗血清を作る実験を拒否して、専ら微研や製薬会社に抗血清の製造をお願いする仕儀にたち至っています・・・家兎の死では私達は死と対面しますが、菌ではその対面手続が不要だという私達人間側の勝手な事情によるものであります・・・

◆人間と微生物は、相互の認識以前から交歓の道を持っていた。醸造である。やがてここにも人智は展開し、その生命力を、さまざまな形で生産活動に応用する時代となった。人間の一方的働きかけにより、微生物は本来の生態を変えられ、大いに困惑したであろう。しかし、意識を持つものと、持たないものの差はあれ、仏の目から見れば、いずれも同じ、救いを求める衆生である・・・

◆小学校の頃、母から針供養の話を聞いたことがある。十二月八日にコンニャクや豆腐に針をさしてまつり、古針を集めて供養して流し、この日一日は針を紙に包んで裁縫をしないという。無生物に対する人間の心づかいに少なからぬとまどいを感じながらも、子供心に納得し感心したことがいまだに脳裏にファイルされており、長じて人や家畜などの供養に際し必ずこのことが思い出される。微生物を産業に利用するための技術開発を行うことをなりわいとして、三十年余を数えるようになった。その間、自身であげた成果は誠に取るに足りないものにすぎないが、研究のため使用した微生物は数えきれないほど多い・・・これまでに微生物と針供養との回路は閉じたことが無かったように思える・・・

これらのことばをつらぬいているのは、菌類が人間のために役立って死んでいってくれたことに対する感謝の念である。菌というまとまった存在に対して、魂みたいなものを認めているのかどうかは明らかではないが、菌に対する石碑を建立し、それに対する供養を念じることへの共感のことばがつづられている。それは、大阪の天保山公園の「獣魂碑」に見られた、人間の犠牲となって死んでくれた家畜に対する供養と供養碑とほぼ同型の観念と実践のかたちであるように、わたしには思われる。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/d/20080121

はたして、菌研究者たちの日々の実践の積み重ねが、そういった思いを抱かせるようになるのか、あるいは、菌研究者たちが、日本の仏教的な供養の考え方、あるいは、間存在を擬人化して、それに働きかけるような汎性的な捉え方に慣れ親しんでいるために、このような仕儀にたちいたったのかは、まったく明らかではない。さらには、こういった菌研究者たちの態度が、日本人の菌研究者だけの特徴なのか、あるいは、西洋の菌研究者の世界にも見られるのかも、わたしには、いまのところ分からない。



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本年度秋学期に初めて試みた授業「比較文化特論(性の人類学)」を、とりあえず、全日程27回分を終了することができた。受講者は、70数名と、初年度としては多かったように思う。授業概要としては、当初、以下を掲げておいた。

わたしたちすべてがもつ深い性の悩み。それは、いまから14億年前に、生物進化の過程で性が誕生したときから、すでに、ひそんでいた。この授業では、人類学の観点から、とりわけ、性行動に焦点をあてる。第一に、人間へといたる長い進化の道筋において、どのような性行動がおこなわれてきたのかを概観する。第二に、文化人類学のこれまでの蓄積をふまえて、人類社会の性の文化の多様性に照準をあてる。さらに、第三に、現代のわれわれの社会の性をめぐる問題について考えてみる。

これに沿って、以下のシラバスを提示し、多少の入れ替えを含めて、ほぼすべての項目を網羅的に講じた。

1.性の人類学入門
*第一部 性の進化史*
2.基本事項の整理(『みんな気持ちよかった!』第1部)
3.生き物の多様な性~14億年前の性の誕生から~(配付資料①)
4.霊長類の性(1)~発情と交尾のメカニズム~(②)
5.霊長類の性(2)~子殺しの行動学~(③)
6.霊長類の性(3)~ボノボに見られる性行動~(④)
7.ヒトはなぜパンツをはくのか?~ヒトの過剰な性について~(⑤)
*第二部 性の文化人類学*
9.性の文化人類学研究~比較文化考察から民族誌へ~(配布資料⑥)
10.生まれた子の父親は一人ではない~英文読解~(⑥)
11.性の民族誌(1)~マリノフスキー「トロブリアンド諸島民の性生活」~(⑦)
12.性の民族誌(2)~菅原和孝「カラハリのブッシュマンのザーク関係」~(⑧)
13.性の民族誌(3)~椎野若菜「ケニア・ルオ社会の寡婦」~(⑨)
14.性の民族誌(4)~松園万亀雄「ケニア・グシイ社会の性」~(⑩)
15.中間試験 論述試験
16.性の民族誌(5)~若杉・縄田「女子割礼をめぐる諸問題」~(⑪)
17.性の民族誌(6)~須藤健一「ミクロネシアの性」~(⑫)
18.性の民族誌(7)~ギルバート・ハート「ニューギニアの儀礼的同性愛」~(⑬)
19.性の民族誌(8)~伊藤眞「ブギス社会のチャラバイについて」~(⑭)
20.性の民族誌(9)~奥野克巳「プナンのペニスピンとその背景」~(⑮)
*第三部 現代の性*
21.映画(110分の映画)を観る(『予告された殺人の記録』)
22.性の歴史(1)~古代から中世(『みんな気持ちよかった!』第2部9章まで)
23.性の歴史(2)~ヴィクトリア朝の反セックスブーム(同書・第2部10~13章)
24.性の歴史(3)~性解放の現代(同書・第2部14~16章)/”sex and the city”
25.性をめぐる権力について考える~フーコーをめぐって~(配布資料⑯)
26.ラブホテルにみる現代の性
27.期末試験

性の進化から説き起こし、性の民族誌を読み、ヨーロッパの性の歴史を踏まえて、今日の性を辿るというのは、少し、詰め込みすぎであったのではないかと、いまは思っている。来年度に向けて、まだまだ改良の余地はある。

わたしとしては、第二部の<性の文化人類学>で示された、人類における性の多様性のところが、じつに面白かった。受講生には、すべての項目にわたって、プリントを事前に配布していた。事前に受講生がすべてを読んできたということがなかったことは、期末試験の結果を見ていて分かるが、他方で、受講生がそうした事前読解の時間を十分に取ることができないというのもまた事実であり、そのあたりは、来年度には、授業として、すっきりとしたかたちで、工夫をしてゆかなければならないと思っている。実践面での改善の余地は、まだまだある。しかし、
性をめぐる描写と議論、とりわけ、その重要な部分を、エスノグラファーのことばを追いながら、わたしなりにまとめてゆくことは、おそらく受講者よりも、むしろ、わたしにとって、ひじょうに味わい深く、示唆に富むものであった。

中間試験(論述)では、
地球上に「性」が誕生した理由
動物行動学の観点からの「ホモセクシュアルの進化」
ヴェネズエラのバリ社会の「複数の父親」について
を出題した。
全体的に、できがよかった。
他方、期末試験(論述)では、
①ブギス社会の「チャラバイ」からみた日本のジェンダー観
②ベッカーの「性肯定社会」と「性否定社会」について
「誘惑のシナリオ」という恋愛の実践知について
という問題を出題した。こちらは、全体的に、できが悪かった。たしかに、中間試験に比べて、抽象度が上がって、難易度がアップしているような気もする。事前に、問題内容を詳しく教えなかったこともあるかもしれない。

 (写真は、本日朝の崇貞館)



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昨日の学内の会議で、学生のモラルの低下が、にわかに取り沙汰された。それに歯止めをかけるために、どうやら、今後、指導法を検討したり、懲罰規定を考えていくらしい。一部から失笑も漏れた、そのような動議に、大学教員は(も?)、はたして本気で向き合わなければならないのだろうか。大学の教員は、今後、「教室では帽子を取るのが最低のマナーですよ」とか、「図書館で借りた本は返すことがモラルですよ」と、大学生たちに真顔で諭せとでもいうのだろうか。わたしとしては、そのような議論そのものに賛成であるとか反対であるというよりも、どちらかというと、どうして人間社会に、モラルや道義というものが存在するようになったのかという点のほうに関心がある。いったいぜんたい、倫理というものが、人の心の内底から沸き起こってくるということは、どういうことなのだろうか。倫理の根源には、いったい何があるのか。そのことを考えることは、結局は、上のようなチープな議論に反対することになるのだけれども・・・そういったことをしばらく考えつづけていて、なかなか答を見出せないでいるのだが、いつもいつも、わたしは、人間の原初的な暮らしにおける倫理の起源の問題という、同じようなところに戻ってしまう。

人々が、まだ狩猟をおこなっていた時代には、人間が手にすることができる富や財産のなかに、およそ堅固なものは、なにひとつ存在しなかった。ときたま獲物として手に入る動物も植物も、生命を育て、いつくしむ森の神のものであった。人間は森の神からこれらの獲物を、『贈与』として受け取るのだ・・・(中略)・・・動物の豊かな肉体が、獲物として人間にもたらされる・・・人間が自然にたいしていつも礼儀深く、感謝の気持ちをおこたらないかぎり、森の神は人間への贈与を続けてくれた。ここから自然のエチカ(倫理)が発生したのである・・・(中沢新一『純粋な自然の贈与』21~22ページ)

中沢新一は、ひとりでは生きていくことができない、取るに足りない、ちっぽけな存在であることに思い至ることに、倫理の発生の起源があると読んでいる。あるいは、そのことを別の角度から言えば、知識や力量において、自らを圧倒する存在(=神や父母、隣人)に対する敬念や畏れなどが、倫理が作動することのベースにあるということである。それらがモラルやマナーと呼ばれているものの下層にあるのだとすれば、けっして、「ああしなさい」、「こうしなさい」、「こうすることがマナーですよ」というような、言語レベルでの上っ面の教育や指導では、どうにもならないということを示しているのではないだろうか。倫理やマナーは、生き死にを含む人間の実存の問題に深くかかわらないかぎり、個人の内面に、どっしりと根を降ろすことはない。あとは、せいぜい、やってもいいこと、やってはいけないことという線引きをして、やってはいけないことをした場合には、処罰をして、社会秩序を維持した気持ちになっていることくらいしか、やることがないのではと思う。

(雪がうっすら積もった昨日のキャンパス)



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プナン人の神話では、ヒトがかつては洞窟のなかに住んでいたことが語られる。

最初、プナンは、石の洞窟のなかで暮らしていた。その後になって、森のなかで、それぞれの小屋がけに暮らすようになった。

初期の人間は、半人半獣(半分人間で半分動物)であった。 さらに、それは神(baley)でもあった。

ジャウェイ(Jawei)という人は、じつは、クウプ(kuup)=蛙であった。彼は、森のなかにあるものについて名前を教えるだけでなく、あらゆる知識を人びとにさずけてくれた。

彼は、後に、(蛙なので)水のなかに帰っていくことになるが、それまでに、森において利用できるすべてのものについて、プナンに教えてくれていた。いや、たったひとつだけ教えてくれなかったものがある。彼が、水のなかに戻るときに、それを指し示して、「モー・・・」ということばを残したという。それは、味つけをする味の素のような葉っぱなのだが、プナン人は、今日、それをモケ(meke)と呼んでいる。

さらに、神話は、人と獣と神が溶け合って暮らしていた時代のことを語る。しかし、奇妙なことに、その時代、人は、ブタ(buin)を飼って暮らしていたのである。というのは、今日、プナンは、ブタを飼わないからである。もっぱら、イノシシ猟をおこなう人びとであり、ブタを飼うことを毛嫌いしている。

ある小屋で、女性がブタを飼っていた。さらに、そのブタには、名前まで付いていた。女性は、朝夕に、ラウィン(Lawing)というブタの名前を呼んで、餌を与えていた。ラウィンとは、また神の名前でもあった。その神は、自分の名前が呼ばれるのをいぶかしく感じていた。小屋に人間が居なくなったころを見計らって、神のラウィンは、ブタのラウィンを連れ出して、川原の土のなかに埋めてしまった。

神によって、プナン人の前から、飼いブタが消されてしまったのである。そのようにして、プナンが
ブタを飼育・所有しなくなったことの起源が語られているようにも思える。

そのブタを飼っていた女性の悲しみがいっこうにおさまらないので、人びとは、彼女のために、川原にブタを探しに出かけた。人びとは、そこで、ヘビ(berungan=「虹」という意味)に出くわして、それを持ち帰り、みなで等分して、料理をした。そのヘビは、じつは、さきほどの神ラウィンの化身でもあった。一組の兄と妹が、そのヘビを似ていると、突然しゃべり始めて、「大水が起きる」と言った。人間が、そのヘビの姿を見て、あざ笑ったからである。

プナンの神は、いろいろなものに変化する。あるときはブタに、あるときはヘビに、そして、あるときには雷神に変化して、人びとが行ったルール違反(動物をさいなんだり、からかったりすること)に激怒し、雷鳴を轟かせ、稲妻で人を石とし、川を鉄砲水で溢れさせて、あらゆるものを押し流す。ここでは、そのような自然災害(malui)の起源が語られている。

ヘビのことばを受けて、その兄妹は相談して、その場から逃げることにした。逃げ遅れたそのほかの人たちは、大水が起きて、流されて死んでしまった。その兄妹は、ジャウェイが教えてくれたように、ウウムの実(buwe uum)を下方に投げ入れて、大水が山の上にまで迫ってきているのを察知し、どんどんと高台へと逃げて、生きのびたのである。

その二人の兄妹は、木の上でリス(puan)が交尾するのを真似て、性交をした。そのようにして、生まれてきた子どもたちも同じように性交することによって、プナン人の子孫は、その後、どんどん増えていった。

リスは、森のなかでいっせいに交尾をして、異様な鳴き声を立てるので、プナン社会では、セクシュアルな動物として知られている。しかし、これには、異伝がある。人が性交を始めるようになったのは、森の木々が揺れて、その後、木が生えてくるのを見て、木が揺れるのを真似て性交するようになったというものである。

・・・(続く)

(写真は、大水で歩けなくなった道と人の移動用の木船)



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広辞苑で、「不在」を引くと、「その場所にいないこと。家にいないこと。るす。」とある。「不在証明」であるとか「不在者投票」ということばがあるように、それは、ある場所にあるべきものがいない(ない)こと、すなわち、トポロジカルに存在しないことを示している。その意味では、以下で述べることは、「非在」=「存在するのではない」ということばでくくったほうが適当であるのかもしれない。

プナン人は、時間や方位(方角)の観念をもたないだけでなく、直観的に述べるならば、反省しないし、感謝を述べるようなこともほとんどないし(感謝を表すことばがない)、向上心のようなものもなく、学校に行こうとしたがらない。だから、プナン人のなかには、字を書いたり読んだりできないような人がたくさんいるし、足し算も大きな数字になるとできない人が多い。

さらに、プナン語には、薬指に関する呼び名もない。プナン人は、ほとんど儀礼のようなものを行わないし、飲み物や食べ物をめぐる禁忌(マレー語でクンプナン)もない。うつ病や自閉症などの心の病のようなものもない。そのような「ないないづくし」に、わたしは、頭を抱え込んでしまう。

文化人類学者は、しかしながら、そのような自らが生まれ育った土地における「非在」のようなものにおどろき、そのおどろきを手がかりとして、考えてきたのではなかっただろうか。「非在」は、わたしたちの魂をゆさぶるような、根源的な問いとなる。「反省する」というのは、いったいどういうことなのか。「向上心」とはどういった心の持ちようなのか。「心の病」とはいったいぜんたい何なのか。

プナン社会でのフィールドワークを終えてから、1年間ひねくりまわして、ようやくそういったことが、うっすらと見えてきたような気がする。「非在」は、わたしたちとの(在ることの)「ちがい」というような、ゆるいものではない。わたしたちが日々経験する事柄や概念のカタチそのものが、見あたらないという火急の事態なのである。その意味で、「非在」は、「ちがい」の発見に由来するおどろきを、大きく超えているように思う。

(写真は、川で遊ぶプナン人の子ども)


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先週の金曜日、大阪に着くのがずいぶん遅くなってしまったが、一路「獣魂碑」がある、大阪港近くの天保山公園を目指した。地下鉄・大阪港駅を出たときには、あたりがすでに暗くなりはじめていた。公園に入ると、人はまったく見当たらず、一匹の大きな黒い犬が、出迎えてくれた。というよりも、その犬は、じつは臆病なんだけれども、それがゆえに何をするか分からないような感じを漂わせながら、門のあたりをうろついていたのである。「獣魂碑」やいずこに?、と探しはじめた。いくつかの石碑や石塔に出くわしたが、当の「獣魂碑」を、なかなか見つけることができなかった。そのうちに、陽はどっぷりと暮れてしまった。誰かに問い尋ねようにも、人は歩いていない。「獣魂碑」は、どこか草むらのなかに隠れているのかと思って、茂みのほうに歩を進めたとたん、その暗がりから、さっきの黒い大きな、臆病そうな犬が飛び出してきた。びっくりした。向こうもびっくりしたようである。そのうちに、「テリー、テリー」という、女性の呼び声が聞こえきた。どうやら、その犬を探しているようだ。おいおい、夕暮れ時に、公園内で犬を放し飼いしないでくれよ。あ、そうだそうだ「獣魂碑」「獣魂碑」!ようやく、わたしは、お目当ての「獣魂碑」にたどり着いた(写真)。

特に、その碑が、いったい何のために建てられたのかについての説明書きは見当たらなかった。夜の闇に、おぼろげに「獣魂碑」という文字が浮かび上がっていた。以下は、ホームページなどから得たデータである。このあたりには、第二次世界大戦前に、陸軍の糧秣廠(りょうまつしょう)大阪支廠があった。糧秣廠とは、食糧製造所のことである。豚やニワトリなどの家畜が、ここで解体・処理されて、軍人の食糧として船積みされたのである。そのような家畜(の魂)を供養するために建てられたのが、この「獣魂碑」であったらしい。昭和17年7月に、大阪陸軍糧秣支廠長の土正雄が建てたという記録が残っているという。

わたしたち人間が生きるために犠牲となってくれた動物(獣)に対して、感謝を表明し、その霊を供養するという態度。それは、日本人の動物(獣)に対するいにしえの態度の特徴である。動物の命を奪って、その肉を食べることによって、生き延びられている人間。そのことを深く、重く理解していたからこそ、あるいはそのような理解が陸軍施設の人たちの間に深く浸透していたからこそ、
そうした石碑が建てられたのだと思う。

ひとつ気になることがあった。「獣魂碑」の周りに、いくつかの石が置かれていた。セメントでつくられたと思われるようなものもあった(写真には、「獣魂碑」の周りにいくつかの石が見られる)。「獣魂碑」にだけでなく、それらの石の前にも、
水と花が奉げられていた。ことによると、それぞれの石に献花がされるのが先で、「獣魂碑」にもなされているのかもしれないと思った。よく見ると、セメントづくりの前には、カタカナ3文字で名前らしきものが書かれた札が立てられていた。ひょっとすると、それは、「ペットの墓」ではあるまいか。「獣魂碑」という動物の供養碑の周りに、自らの愛したペットの墓をつくるということが、ペットを飼う人の気持ちとしては、あるのかもしれない。そして、その気持ちも理解できなくもない。それは、「獣魂碑」を支えるベーシックな考え方とは、いささか異なるのだけれども・・・

とにかく、それらについて、どういうことなのだろうという疑問があって、さきほど、公園を管理している大阪市の八幡屋公園事務所に電話で聞いてみた。事務所のスタッフは、そのようなものがあるとは知らなかったし、公園内に個人的な建造物の許可は、基本的に、認めていないということであった。きわめて新しい現象なのかもしれない。



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昨日、大阪のI先生のオフィスで、医療人類学の研究打ち合わせ会があった。午前10時からの一般的な意見・情報交換。つづいて、1時半ころからは、アメリカをベースとする医療人類学のM先生による医療人類学教育の話題提供があり、さらには、5時半ころからは、医療人類学を学ぶこと/教えることについて、参加者の間で、意見・情報交換がおこなわれた。午後10時すぎに懇親会が終わると、ヘトヘトだった。以下、医療人類学をめぐる雑感とメモ。

改めて確認できたことは、医療人類学のニーズは、「医療人類学が、<現代社会>の健康および疾病をめぐる問題に対して貢献できるにちがいないと想定している人たちの心のなか」にあるということである。したがって、医療人類学の主流は、人類学の応用(=応用人類学)なのである。けっして、医療をめぐる人間行動の研究にあるのではない。

アメリカ人医療人類学者は、医療人類学教育の概要について、ていねいに話題提供してくれた。医療人類学教育の対象は、①医療スタッフ(医師、看護士、保健士、薬剤師・・・)、②人類学者、社会学者、③大学院生、④学部学生、⑤地域住民、の4つに分類できる。

それを踏まえて、医療人類学の教育とは、具体的には、以下のような4つのプログラムからなるという。

①実証主義のデプログラミング
すべての事象を科学や合理へ還元して考えることを終わらせ、直観や解釈を重視する態度を評価することを教える。
②相対性を培うこと
謙虚さの態度や物事に対する多様な見方があることを教えたり、バイアスや偏見を取り除かなけれならないことを教える。
③社会理論の教育
人類学の文献を読解して理論を学んだり、民族誌を読んだりすることを教える。
④フィールドワークの技芸と分析についての教育
社会的な絆を作り上げて、調査をどのように行えばいいのかについて、とりわけ、強力な調査トレーニング・ツールであるビデオ撮影の手法をもちいて教える。

思いっきり簡単に言ってしまえば、これらのプログラムは、医療(近代医療)が、より柔軟にかつ人間的に医療を行うことを目指すプログラムである。このなかで、わたしが個人的に、ひじょうに興味を抱いたのは、ビデオ機材を用いて、自らの調査のやり方について撮影し、調査手法をアップグレードしていくというメソッドである(④)。それは、文化人類学の調査手法の精度を上げることにつながると思う。

その点はとりあえず脇に置くとして、要は、M先生の話題提供をとおして、医療人類学は、主に、医療スタッフのためのプログラムとして、練り上げられているというような印象を受けた。がちがちの合理主義・実証主義者が圧倒的に多いがゆえに、仮想上もっとも扱いにくいターゲットは、医師や病院で働く人たちを含めた医療スタッフなのである。

さらに、全体の討論をとおして、現代社会の医療状況のなかで、患者=人間と直に向き合う看護士に対して、医療人類学教育を行っていくことの必要性が強調されたように感じた。つまり、医療人類学の当面の戦略目標は、現在全国で150に膨れ上がった、看護系の学部へと医療人類学を送り込んで、わたしたちの健康および疾病を一手に引き受ける牙城たる医療の領域へと、じょじょに、医療人類学の考え方、やり方を
行き渡らせていこうということなのかもしれない。

そのことは、たしかにそうであるのかもしれないと想う。「医療人類学が、<現代社会>の健康および疾病をめぐる問題に対して貢献できるにちがいないと想定している人たちの心のなか」に、深く深く根を下ろしていることはたしかである。ところが、わたしは、その考えを、単純なかたちで、わたし自身の問題として引き受けることはできないでいる。そのようなことは、医療人類学の一部であると想っている。そうではない、人間行動としての医療とは何かという、伝統的な、根源的な問いを、医療人類学は含んでいるはずであると感じているからである。伝統的な、根源的な問いへと向き合うなかから、医療人類学が行われ、教育現場で教えられることが重要であると想っている。その意味において、医療人類学は、文化人類学と道行きを同じくするのだとも考えている。どうやら、この点に関して、昨日の討議者たちの間には、大きな異議はなかったようなのだが。

わたしの胸に突き刺さるのは、医療人類学(=文化人類学)の外側から眺めていると、この学問が、しばらくのあいだ、元気を失っている、精彩を欠いているように見えるという、最近、よく聞く意見である。そのことは、医療人類学が、その知識や手法を、現代社会の問題に応用すること、あるいは、現代の医療問題を検討することだけに心を砕いてきた
ことに一因がある。医療人類学(=文化人類学)は、肥大化する「自己」を諌め、「治療」する学問であることを、いつごろから、自らの使命としたのであろうか。現代社会に従属的なチープな学問となった結果として、それは先細ったのではあるまいか。同時に、文化人類学が「他者」ではなくて、「他者」について語る「自己」について、延々と、無産的な議論を続けてきたことにも原因がある。「自己」省察的な議論が席巻し、皮肉なことに、医療人類学(=文化人類学)は、「他者」を見失い、人間を見失ったのである。わたしがいまの医療人類学に対してできるのは、未開のフィールドにおける具体的なトピックを例示しながら、そういった点へと立ち入って、問題を提起することなのかもしれないと、やや楽観的ながら、感じた。

(写真は、去る1月18日の宗教人類学の期末試験の風景。本年度すべての授業はこれで終了した!)



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プナン人は、日ごろ、反省するそぶりを見せない。自らの反省について、口にすることはない。わたしは、プナン社会のフィールドワークをつうじて、そのことを強烈に意識するようになったのだが、それは、わたしのたんなる思い込みにすぎないのだろうか。プナン人と付き合う前から知っていたボルネオ島の焼畑稲作民・カリス人たちと比べると、そういうことが言えるということだけなのであろうか。あるいは、わたしたち日本人と比べて。あやふやな話であるが、いずれにせよ、プナン人たちが、反省しないというのが正しいのだとすれば、はたして、反省しないとはいったいどういうことなのだろうか。それに対して、人が反省するとはいったいどういうことなのか。確かなことは、プナン人が、わたしがそれまでは考えてもみなかったことを、考えさせてくれたということである。反省しない生き方というのは、ストレスがたまらないし、その意味で、現代日本社会において、反省しないで暮らせたならば、なんて気が楽になるだろうかと感じられて、反省しない生き方を宣言したくなるような誘惑に掻き立てられる。どうして、日本社会では、反省しないで過ごすことができないのだろうか、あるいは、反省しないでやり過ごしていくこともできるのだろうか。そういうことをひっくるめて、プナン人たちは、反省するという人間行動に関して、わたしたちに問いを投げかけてくれているともいえる。

ところが、図書館や本屋で、反省することとはいったいどういうことなのか、あるいは、反省しないとはいったいどういうことなのかについて調べようとしても、たいていの場合、反省するという生き方を称揚するような、ありきたりの人生論や人間論に出会うだけで、がっかりさせられることになる。そういった文献は、反省することが人生を深めることを教えてくれても、反省するとはいったいどういうことなのかについては、何も答えてくれないのである。はたして、哲学者は、反省するということを、いったいどのように考えてきたのだろうか。そのような文献を調べることは、わたしにとっては、かなり骨の折れることであった。例えば、カントは、「反省的判断力」というようなことについて言ったということが分かった。覚束ないのであるが、それは、どうやら道徳とも関係しているらしい。フィヒテによれば、「自我の反省理論は、<自分と関係し、自分自身のうちへと向きを変えることによって、自分自身を認識する自我--主体>について語る」ことらしい(ヘンリッヒ『フィヒテの根源的考察』法政大学出版局、1986年、pp.60)。なんとなく分かるが、それでもまだ雲をつかむような感じだ。ということで、なんだか分けのわからないままに、哲学をベースとする研究の検討をここで断念することにしよう。

となると、わたしとしては、手がかりを、自然主義に求めたくなる。ヒト以前の動物は、はたして反省するのだろうか、反省しないのだろうか。そのあたりから、反省の起源を探るというのは、どうだろうか。「反省するなら、サルでもできる」という言い方がある。残念ながら、チンパンジーやゴリラなどが、反省するのかどうかということについての研究があるのかどうかさえ、わたしは、いまのところ見つけられないでいる。心や人間性の起源を取り上げる近年の霊長類学は、いったい、その点に関して、踏み込んでいるのだろうか。分からない。他方で、脳科学は、どうであろうか。『脳のなかの倫理:脳倫理学序説』(紀伊國書店、2006年)の著者ガザニガは、道徳にふれて、難しい善悪の判断を迫られる状況で、脳がどう働くのかに関しては、これまでのところ明らかにされてきていないが、善悪に関わる判断が脳活動で説明できるとする研究が、近年、盛んに行われてきている、と述べている(225~227ページ)。反省が、脳のどのような活動に対応するものであるのかについて、あるいは、すでに研究が進められている可能性があるのかもしれない。現在のわたしの力量では、自然主義が、反省について、どのような研究を進めているのかについて明らかにすることは難しい。

で、反省することと、反省しないことに関して、何が分かったのかというと、結局、いまの時点では、何も分かったとはいえないのである。情けないことであるが。

ふたたび、プナンについて。
彼らは、反省するのではなくて、反省しないのであるから、その<不在>を、真正面から記述によって浮かび上がらせるということは、なかなか難しい。いまは、反省しないとはどういうことなのかということについて、言えそうな幾つかのことを、書き留めておきたいと思う。一つには、
反省することには、善・悪の観念が、関わっているのではないかということである。悪いことをした、やってはいけないことをしたからこそ反省するのであり、悪いことややってはいけないことなどがない場合には、反省心は起こらない。あたりまえのことかもしれないが。その意味で、プナン人の善・悪の観念の詳細な解明は、重要であるかもしれない。二つには、悪いことをした、やってはいけないことをしたら、それを吸収するような(社会的な)仕組みがあれば、一般に、反省心を起すような必要はない。例えば、子どもが悪いことをしたと気づいたら、親が無言で抱きしめてやるというような。プナン社会では、特に、親子の間柄で、そんなようなことが起きている。三つには、反省することが、しでかしたことと弁証法的にとでも言おうか、よりよきあり方へと発展するということが、考えられることがないような場合には、反省心は起きないだろうと思われる。つまり、発展や向上というような概念がないような社会意識のもとには、反省は有効に働かないように思われる。なんとも煮え切らない言い方であるが。他方で、わたしは、そういった心理学・社会学的な観点からではなくて、今後は、もっと自然主義的な観点から、この種の問題を突破したいとも思っているのだが、どうなることやら。

(写真:桜美林大学・明々館8階からけやき広場、栄光館、崇貞館を見る。買ったばかりのNikon D80で撮影。)



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日本語で「指」に付けられた名前は、「親指」から順に、一般に、「人差し指」、「中指」、「薬指」、「小指」である。英語では、順に、thumb、index finger、middle finger、ring finger、little fingerである。 中国語では、「拇指」、「食指」、「中指」、「無名指」、「小指」である。

このなかで気になるのは、第一に、中国語の「食指(しょくし)」という言い方である。興味関心をもつという意味の「食指が動く」は、その指が動いたのを見て、食事にありつけると言ったという、故事に由来するらしい。第二に、中国語の「無名指(むめいし)」という言い方である。その指のことを、日本語では、「薬指」と呼んでいる。鎌倉時代に「薬師指」と呼ばれ、江戸時代に「薬指」と呼ばれるようになったという説がある。その指が薬指と呼ばれるようになったのは、それが、薬を水に溶くのに用いられたからだといわれているらしい。

中国語の「無名指」とは、名前がない指という意味ではないのだろうか。プナン語には、その指(=薬指)に対する呼称がない。その指は、一般に、何かに役立つという観点からいえば、他のどの指にも勝ることはないと思われる。つまり、それが、何かをするときに、単独で使われるようなことはまずない、と言っていいのではないか。

プナン語では、親指から順に、pun(親指), uju tenyek(人差し指), uju beluak(中指),ingiu(小指)と、薬指を除いて、4本の指にたいして呼び名がある。薬指に呼び名はない。名前のない指だから、あえて呼ばない、名前を付けない。有史以来、圧倒的にそれを呼ぶ必要がなかったのではないだろうか。わたしのような外側からやって来た人間が問い尋ねる以前には。

そのように考えると、中国語で「無名指」と呼ぶのは、もともとは、名前がなかったところへ、他の指にすべて呼び名があるのに、その指にだけないのはおかしい、何か名前をつけておいたほうがいいという具合に、人びとが判断したからではないのかとも思える。名前がない指をそのまま放っておくのではなくて、名前がないということを、その指の名前にしてしまうというような、まどろっこしい動きが起こったのかもしれない。

以下のホームページを見ると、中国語だけではなくて、他の言語においても、薬指には「名前がない指」という名前が与えられているのだという。「フィンランド語の nimeton sormi、ブルガリア語の benzimen pryst、モンゴル語の nereguy hurgan は全て、名前がない指を意味する」とされている。
http://www.sf.airnet.ne.jp/ts/language/yubi.html

他方で、 プナン人は、そういうふうにして、名前がない指にあえて名前をつけて来なかった。ある意味で、あっぱれとでも言おうか。ないのであれば、それでもいいと考えてきた。

しかし、あってもなくてもいい、名前さえ与えられない指を、どうして人間はもっているのだろうか。進化論は、そのことを、どういうふうに説明しているのだろうか?ひょっとしたら、薬指そのものは、単独ではそれほど役に立つものではないが、5本集まったときに、一体化して、使い勝手を得るのかもしれない、というようなことかな?・・・

追記:それよりも不思議なことは、プナン語では、指も手も同じ一つのことばで表わすということかもしれない。指は uju で、手もまた uju という。

(写真は、オオトカゲを解体するプナン人)



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プナンの人たちは、写真のように、木の枝が二股になった部分を、「ピバン(pibang)」と呼ぶ。ピバンは、プナンの簡易的な建築(物)の要である。ピバンがちょうどいい高さのあたりにある生木を利用して、その向かい側に、同じ方向にピバンが向くように、切ってきた木を地面に突き刺して、二つのピバンにかかるように横木をわたす。次に、それと同じようなものを、横木と平行にしつらえる。今度は、横木にたいして垂直方向に、細い木をいっぱい並べていく。細い木が平面をなすようにして。そのようにして、あっという間に、「テラス(terasu)」と呼ばれる食器台、食器置き場が完成する。あるいは、「パー(paa)」と呼ばれる、まき置き場ができあがる。小屋の床と屋根をつくるときにも、ピバン(木の枝の二股)を利用する。床をつくるときには、太い木の枝を利用する。横木もまた太い木を使う。固定するために木の繊維やひもを利用するが、クギは、基本的には用いない。屋根をつくるときには、二つのピバンに横木をわたし、それと平行に、もうひとつ同じものをつくり、そのすきまに葉っぱを並べてゆく。あるいは、ビニールシートをかける。雨露をしのぐ屋根のできあがり。そのようにして、シンプルだけども、美しい住まいがつくられる。人が眠り、語らい、食べ、遊ぶ空間。そこを立ち退くさいには、それらの食器台や小屋を、そのままにほうっていくことにたいして、ぜんぜん惜しい気がしない。それがまだ残っていれば、次にそこにやってきた人たちが、それを修理して利用することになるだろう。

付記:ピバン(木の枝の二股)に、「二つの」「二つに分かれた」という意味はなかったと思う。つまり、プナンは、その形状を見て、一本であるはずの枝が二つに分かれているということを、日本人のように、直観的には意識しないのではないかと思われる。詳しくは、次回のフィールドワークで調べてみたい・・・

 



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今日は、休日なのに、朝からずっと研究室で仕事だった。終わらない。見通しさえ立たない、トホホホホ・・・!卒論の最終検討もやった。明日が締切りである。卒論を読んでいる最中に、海外から電話が入った。サラワクのプナンたちからである。プナン人たちの居住地から1時間ほど車で行ったところの巨大ダム建設地にある公衆電話から電話しているとのことだった。いきなり、プナン語だった。今度、いつ来るのかを、尋ねられた。"Siran kau avi?" "Tujuk ayah langit belelek telu" ・・・咄嗟に、プナン語が口からついて出た。もちろん、リンギット(=金)ももってくるように言われた。さあ、もうすぐ行きます。

(写真は、サラワク州に建設中の巨大ダムが遠くに見える:入り口のゲートには、撮影禁止のマークがあった!)



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感覚とは、たしかに、わたしが書きながらしっくりいかなかったように、五感として、きっちりと分けられるものとしてあるわけではない。視覚や触覚などの感覚は、それぞれが独立したものとして、わたしたちの経験をかたちづくるわけではない。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/b7eefd868939410e0de102fbebdd573f

鷲田清一は、メルロ・ポンティを援用しながら述べる。

ひとはガラスを見るとき、その硬さや脆さをともに見るし、鳥が飛び立ったばかりの枝の動きのなかにそのしなやかな弾性を見る。あるいは灼熱した鋼にその可延性を、鉋の刃にその硬さを、鉋屑にその柔らかさを、綿織物の繊維にその乾燥ぐあいや生温かさを、砂地に打ち込まれる一塊の鋳鉄にその重みを見る・・・(中略)・・・純粋な感覚的性質(たとえば純然たる視覚所与)を個々の感官と結びつけて孤立化させる見方そのものがある抽象を介したものなのであって、逆にこういう感覚のあいだの越境や交差こそ、じつは感覚の常態である。感覚とは異なる感覚のあいだの『交換』や『転調』という出来事にほかならない(鷲田清一『感覚の幽い風景』pp.99-100、2006年、紀伊國屋書店)。

まさに、視覚や触覚などの感覚同士が互いに越境し、交差し、交換し合って、転調するというのが、人間の感覚経験の真実なのである。そのようにして、触れるとは、身体の表面が偶発的に物に接触することではなく、外物への強い関心を介して、撫で、まさぐることである。ところ「が、これはなにも触覚にかぎられることではなかったのだ。触診、聴診のみならず、見ることもまたすぐれて世界をまさぐる行為なのだろう」(前掲書、p.95)。

さらに、鷲田は、佐々木正人を援用しながら、新宿の街を歩く視覚障害者に感じられる音がかたちづくる環境のレイアウトについて触れている。

どんな雑踏のなかにいても聞こえてくる列車の轟音。それが新宿という空間を貫く大きな軸になる。音が突如広がることで靖国通りに面したことが気づかれる。地下道を歩いていて音の微細な変化に壁の切れ目とわかる。六台の公衆電話のピーピーという音のあいだに点字ブロックを発見する。このように、さまざまな音の肌理が重なりあい、被いあうなかで、頭上の開けが、壁の屈曲面が、環境の密度や圧迫感や凹みが感知され、これらがナヴィゲーションの手がかりとなる『壁』をかたちづくる。それだけではない。ちょっとした空気の流れや、床の肌理、地面の勾配の感覚がそれらに連動する。音環境もまたレイアウトのなかで、まさにまさぐるように探られるのである(p.93)。

プナンのハンターに感知されるジャングルの環境レイアウトも、これとよく似たものとして描くことができる。わたしが付き添った狩猟行は、以下のようなものとして、記述できるかもしれない。

ハンターがジャングルに入ってゆくと、動物や鳥の鳴き声が、遠くから近くから、塊となって
聞こえてくる。ハンターは、最初、足元に目を凝らす。古い足跡、新しい足跡、行く先へと向かう足跡、横切る足跡などを入念に見分けて、動物たちの行動を見究めようとする。そのまましばらく歩みをすすめ、木々が折れ重なって枝垂れかかっていた場所から、ジャングルのなかの少し開けた場所に出たあたりで、急に、川の水の音が退位し、空気の流れが変わり、音の反響のしかたが変化したように感じられる。同時に、これまで水の音や音の肌理の重なりあいによって、鈍く掻き消されていた「コッコッコッ」という、イノシシが果実をかじる音が、鮮やかに耳に響いて聞こえるようになる。その音を手がかりとして、ハンターは、今度は、イノシシそのものを視認することに全力を傾けようとする。ハンター自らが発する音を掻き消しながら、そうっと、そうっと、イノシシに感づかれることがないように、遠くからだんだんと、イノシシを撫でるような感覚で、ぎりぎりまで近寄って、ライフルを構える・・・

最後に、ふたたび、鷲田の言葉を引いておきたい。

メルロ=ポンティも指摘するように、知覚とはもともと間感覚的(intersensoriel)なかたちでしか生まれないのである。感覚はそのようなコミュニオンとして生成するのであるから、ひとつの知覚にそれぞれ単独の感覚(器官)のみを割り当てる「恒常性仮説」は、知覚というものを身体と世界との関係をその外側から見たものにすぎないのであって、その意味で抽象的である(p.106)。

分離された器官における分離された感覚質といったものは、きわめて特殊な態度のもとでしか生成しない・・・(中略)・・・こうした記述のなかで、「間感覚的な等価関係と転換とのシステム」としての身体は消え失せ、感覚相互の浸透や感覚と運動とのからみあいが見えなくなる(pp.107-8)。

(写真は、ジャングルのなかで撃ち殺されたイノシシとハンター)



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ずいぶん長い間、民族誌を書くことをサボっていたが、最近、書く(準備をする)必要に迫られて、何を書けばいいのかを考えるようになった。フィールドノートをペラペラとめくっていて、ふたたび<感覚>の問題へと立ち戻ることになった。他の狩猟民からの報告に比べて、<感覚>に関しては、プナンに、顕著な特徴を見出すことはできないと、いつのまにか結論づけていたが、じつは、そうでもないのかもしれないということを、フィールドノートが教えてくれるような気がする。

<嗅覚>をめぐって
わたしは、新刊本の匂いが好きである。とりわけ、青土社の新刊本がいいと感じる。しかし、プナンは、そういったかたちでの、自分たちの匂いの感覚を話すということはあまりないように思える。匂うは、プナン語で、bau である。「オナラが匂う(=臭い)」、「女(女性器)が匂う(=女性がウヨウヨいる)」というような言い方はよくするのであるが。逆に、プナン人たちは、動物の<嗅覚>をめぐって、豊富な知識をもっている。ハンターたちは、どの動物が人間が発する匂いに敏感であり、どの動物が匂いに鈍感であるのかについて、リストアップすることができる。イノシシ、ブタオザル、シカ(サンバー)などは、匂いに敏感であり、狩猟行では、それらの動物を追う場合、風上に立たないように注意する。

<味覚>をめぐって
プナン語で「味わう」を意味する tegen は、「感じる」という意味にもなる。「味わう」とは「感じる」ことでもある。おいしいは jian であるが、砂糖の味などの甘味があれば、mii と表現する。甘味が、プナン社会における<味覚>の最高位にあるのだといえる。何をおいしいと感じるかというよりも、特有の味を感じる(味わう)ということが、共同体(文化)のなかで共有されている。滋賀県出身のわたしの祖父や父、叔父は皆、一尾5、6千円もする「鮒寿司」を好んで食べていた。家に入っただけでも、台所から強烈な臭い匂いが漏れてくる。中毒みたいに、食べていた。強烈だという意味で、それと同じような食べ物がプナン社会にある。それは、potok と呼ばれる動物(シカとサル)のもつ煮込みである。特に、植物の葉っぱしか食べないサルの臓物の煮込みの
味(匂いも)は強烈である。プナン人たちは、薬膳であると言って、平らげる。何を味わうのかは、川田順造がいうように、「作る行為と食べる行為、共に同じ味覚を享受する行為など、他者とのコミュニケーションの基底をなしていることが多く・・・ノスタルジーや共属感覚」に結びついている。

<聴覚>をめぐって
夜のイノシシ猟についていったとき、ハンターであるプナンの男性は、雨が降るから小屋に引き返そうといったことがあった。そのとき、わたしには、近くに流れる小川の音しか聞こえなかった。彼のいうとおりに小屋に引き返すと、バケツの水をひっくり返したような大雨が降った。彼は、遠くの雨の音を、近くの川を流れる水の音から聞き分けたのである。これは、なかなかに難しいことだと思う。また、プナンは、とりわけ、ハンティングに出かける男たちは、動物の鳴き声を、それが何の動物なのであるのかということを聞き分けることができる。もちろん、その前提には、動物がどのような鳴き声をするのかということに関する知識がある。そのことからすると、聴力がよいということだけではないのかもしれない。身の周りのものに関する知識を動員しながら、聞き分けをおこなっているのではあるまいか。さらに、プナンは、鳥の声の「聞きなし」に長けている。ロギングロードで、木材会社の車やローリーがやって来るのを聞き分けるのも、その早さ、遠さの点において、わたしは、プナン人たちにはかなわない。「聞く」は、プナン語で、ngenini という。

<触覚>をめぐって
「触れる」は、プナン語で、menapai という。他方、「持つ」は、tuyah である。わたしには、プナンが、その二つの言葉を同じような意味で用いているように思える。amai menapai も、amai tuyah も、両方とも、「さわるな」「触れるな」という意味である。プナン同士は、人との交わりを「触れる」という行為から始めるということはない。マレーシアで一般におこなわれているような、握手で関係を始めるというようなことがない。その意味で、わたしたち日本人の対人関係の築き方に近いのかもしれない。しかし、挨拶みたいなものを、基本的には交わさないという意味で、日本人のそれともちがう。プナン人にとって、人間同士が「触れる」ことは、親密さの表現になっている。親密な男女、親子は、よくお互いに触れ合う。「触れる」ことで特徴的なのは、糞便処理である。彼らは、木の枝で、糞便処理をおこなってきた。その感覚は、子どもたちが、狩猟小屋やロングハウスの細い柱にお尻をすりつけて、糞便を処理することに受け継がれているように思える。

<視覚>をめぐって
プナン語の「見る」、naat の使い方は、英語の see に、ある意味で似ている。英語を勉強し始めたころの、わたしの違和感のひとつは、「また会いましょう(see you !)」ということばにおいて、「会う」というのが「見る」と同義のものとして用いられていたことであった。なぜ「見る」が、「会う」という意味になるのか、分からなかった。
プナン語の naat は、「見る」でもあり「会う」にもなる。つまり、プナン語でも、「会う」ことは、「見る」ことなのである。動物の<視覚>についても、プナン人は、細密な知識をもっている。イノシシは、懐中電灯の明かりは「見る」ことができないが、月明かりに照らし出されるヒトの明るい色のズボンは「見る」ことができるのだという。だから、夜のイノシシ猟に出かけるときには、明るい色の服装をすることはよくないこととして知られている。 

以上、プナン人の<感覚>をめぐる雑感の一部。

(写真は、ある狩猟小屋でのわたしの寝床)



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