たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ファーストコンタクト

2006年04月30日 20時30分35秒 | フィールドワーク
B川の上流にU川が注ぐところ、そこが私の調査村である。ラジャン河上流の町ブラガから、4WD車で、雨期でぬかるんだ道を抜け、4、5時間行ったところに、そのプナン人のロングハウスはある。隣の二軒のクニャー人(焼畑稲作民)のロングハウスからは、かなり見劣りのする、みすぼらしいつくりのプナン人のロングハウス(13世帯、62人)。その通廊の真向いにある家族の家に、私は居候することになった。水道、トイレなどはない。電気は夜7時から11時くらいまで、(油さえあれば)発電される。

最初の厄介は、蚊の多さであった。昼となく夜となく、私は肌の露出部分を蚊に刺され、蚊に供給した栄養分に比例して、痒みに苦しめられることになった。しかし、そこはたんに蚊の王国であっただけではなく、マラリアの流行地であった。確認しただけで、3人がマラリア熱におかされていた。みな脾臓が腫れていた。ロングハウスの周りには、薮が生い茂り、あちこちに泥水の溜りがあり、ごみが散らかっていた。私は、トゥアイルマー(ロングハウスの長)に、蚊を駆除するため、村人総出で掃除するように進言した。その後、蚊が減ったように感じるのは、私が協同労働に対して金を支払ったという気のせいだろうか。

私は、滞在の翌日から、ロングハウスの通廊をぶらぶらして、プナン人の言語を学び始めた。e、n、ng、vの発音が非常に難しい。他方で、プナンは、ほとんど英語を解さない。このことは、サラワクの他の集団に比べてきわだっている。小学校を出ると、プナンは、ほとんどそれ以上教育を受けないためだと思われる。バラム河流域のプナン(東プナン)が、高い教育水準にあるのと対照的である。闘う先住民として知られる東プナンは、政府によって定住させられ、木材伐採によって森を奪われることに抵抗し、自らを知的に鍛え上げ、向上させてきたのではないか?それに対して、西プナン(プラガ近辺のプナン)は、政府と木材企業の施策を自らに引き受けて、日々の生に向き合ってきたのではあるまいか。向上心というようなものは、あまり感じられない。しかし、向上心とはいったい何ぞや?それは、社会的につくられた幻想なのではないか? 生きるために食べる、プナンは、そのことに重きをおいているように思える。現代人は、そのプリモーディアルな活動に対して、その後、どれだけの粉飾を行ってきたのだろうか。われわれは、既にものすごく遠くまで来てしまっている。とはいうものの、プナンの生活が、今日、素朴なかたちで、生きるために、森の獲物に頼るだけではないことはいうまでもない。獲物が獲れなくて、隣村まで食べ物を買いに行かなければならないし、そのためには現金がいる。現金を得るために、働いたり、人を頼らなければならない。

森に深く依存した生活において用いられる《感覚》を記述するという私の当初の計画は、彼らを取り巻く社会環境の複雑さとの関係で、そんなに鮮やかに行くものではないということの一端が、ファーストコンタクトで、少し見えたような気がする。 イノシシ、ヤマネコ、ネズミジカの肉が食事に出た。におい、味、硬さなどにそれぞれの特色がある。

カピット2

2006年04月17日 18時29分08秒 | フィールドワーク
レジデントオフィスに行く。レジデントはあいにく不在で、今月一杯有効の【仮の】許可をもらう。ということは、今月末にもう一度、ここに戻って来なければならないってことだ。面倒だが、致し方あるまい。レジデントオフィスと町の中で、情報収集にあたる。【ジャングルの産物に深く依存して生きている人びと】、これが今回の私の調査対象である。 Lというグループは、80年代末にマラリア撲滅プロジェクトの仕事で訪れた時には、10軒くらいがロングハウスに住んでいたが、しょっちゅう森に出かけて、狩猟に頼って生活していた。いや、現在では、彼らはすでに定住生活に慣れている。マローがイバンになったみたいなものだよ。ダム建設地域一帯のPは、既に近代化して、膨大な金をせがむはずだ。ノマド、あるいはセミノマドのPのところに行きたいのであれば、インドネシアとの国境地帯の辺地に行かなければならない。河川とロギングロードで、ここから3日ほど行ったところにいる。ここでは、情報は錯綜している。

カピット

2006年04月16日 20時44分57秒 | フィールドワーク
クチンで、8時半のボートに乗り、南シナ海を通って、2時にシブに到着。2時半のボートでラジャン川を遡り、6時すぎにカピットに到着。5年振りである。カピットは、首狩族を制圧して、地域平和を確立するために開かれた、かつての軍事拠点の一つ。現在は、ラジャン川中流の経済および政治の中心地、と言っても、素朴で、居心地のいい、とても小さな町。この町のインターネット屋で、いまこれを打っている。

ようやくフィールドへ

2006年04月15日 13時45分36秒 | フィールドワーク
到着後、諸手続きで、半月もクチンにいたことになる。明日(日曜)出発して、月曜日にはディヴィジョンで手続きをし、火曜日にはディストリクトオフィスに出向くことができるだろう。その後、調査地を最終決定するまでに、数日かかるのではないだろうか。なんとか、来週末あたりには、フィールドに入りたい。

マレー・シネマ

2006年04月13日 21時34分34秒 | エスノグラフィー
今朝、ようやく調査ヴィサ(プロフェッショナル・ヴィジット・パス)が発行された。

サラワク入国(州)後、12日もかかっている(手続き後、8日)。 今回はそれでも、カウンターパート(マレーシア大学サラワク校東アジア研究所)の迅速な対応により、事はすんなりと運んだような気がする。 ここでは、まずは、州計画局が、調査計画を含めて問題がないかどうかを調べて、調査計画自体に対して許可を与える。 この点に関しては、私は、前回あるプロジェクトの結果報告会で、政治的にセンシティブなトピックに触れようとして、カウンターパートに差し止められたというハラハラさせられた経験があるのだが、それは、カウンターパートやプロジェクトリーダーの次回の調査に配慮した計らいだったのであり、いまに至って、何の問題も残しておらず、ホッとしている・・・ そして、その州計画局の許可書を持って、イミグレーションで所定の手続きを行うというのが、この国(州)で確立された調査ビザ取得の手続きである。

日本人研究者にとって悩ましいのは、夏休みや春休みのわずかな時間を利用して1ヶ月間ほどの調査をしようとするときに、10日もヴィザ取得に費やさなければならないということである。 私の場合には、今回は一年間の予定なので、それはどうってことないが・・・ 一年間、860リンギット(1リンギット33円)というのは、高いけど。 とにかく、昨日、無事にセミナーも終えたし、7月末の国際会議のペイパーも、にわか仕立てながら(既出の和文論文のできのよくない英訳版)、なんとか書き上げたことだし、あとは、この週末に、フィールドに向けて旅立つのみになった。調査スポットの最終的な決定に関しては、現地に行って、少し動き回って決める必要がある。

・・・というようなことを書いていて、急に思い立って、映画館に行ってきた。

ちょうど"Gubra"という題のロードムービーが始まる直前だったので、チケットを買って入った(8リンギット)。 実は、それがマレーシア映画であることを知らないで、入ったのだが・・・ 紋切り型のハリウッド映画には、うんざりしているしている(とつねづね思っている)が、それに反して、私は豪華絢爛たるハリウッド映画をどこかで期待しているのかもしれない。

最初、マレーシアのありふれた民家で、妻が夫にコーヒーとパンを用意しているシーンを見たとき、そのみすぼらしさに、この映画は失敗だったのかもしれないと一瞬思った。 しかし、これは、秀作だった。 最初のシーンは、夫が、モスクにアザーンを唱えに行くのを、妻が送り出すシーンであった。彼ら夫婦とその子は、イスラームの教えに従う、敬虔で幸福に包まれた一家として描かれている。 この映画には、彼ら以外に様々な夫婦、カップル、複雑な事情で独身となった身の人物などが出てくる。 オルケド(女)とアリフは、若いマレー人の夫婦。 オルケドの父親が突然入院する。そこから、物語は回転する。 オルケドは、かつて、ジェイソンという名の恋人を失ったらしい。病院でジェイソンの兄に出会う。彼女は、夫・アリフが他の女性と浮気をしている現場に出くわし、かわって、ジェイソンの兄(名前を失念した)にどんどんと惹かれていく。 病院には、中国人のジェイソンの父親も入院している。マレー人の妻に階段から突き落とされて、足を骨折したという。病院内でも、喧嘩ばかりしている。 いまは、売春で身を立てている二人の女性も出てくる。一人は子持ち、一人は若い女性で、故郷に持ち帰るお金を稼いでいる。男に身体を売る商売。彼女たちには、つねに修羅のような現場があるようだ。彼らは、敬虔なイスラーム教徒である夫婦を頼り、彼らに守られて、その地域の中で生きている。 やがて、ジェイソンの親たちは、自然ななりゆきで不仲を解消しようとする。 他方で、夫が死ぬと考えただけで絶望的になると打ち明け、そうならないために、お前が先に死ぬのを待っていると交わされて、ギクッとするオルケドの母親。いろいろなことがあったのであろうオルケドの親夫婦は、いまではつねに仲睦ましく見える。 その映画には、マレー人、中国人が作り出す小さなマレーシアの生活・感情世界が、さみだれ式に描かれている。生のありようが、閉じてしまうのではなく、未来に向かって開かれているように語られているのだといえるのかもしれない。英語、マレー語、中国語が、錯綜して交わされるようなマレーシア世界と、人びとが織りあげる複雑な生のありようがパラレルにつづられる。 そういった意味で、つくりは異なるが、私は、小津安二郎監督の『東京物語』を思い出した。

プルーストI

2006年04月08日 11時47分54秒 | 文学作品
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の抄訳版(全3巻)を、サラワクに持ってきた。20世紀最高の文学の一つとの誉れが高く、この20年ほどの間、ず~っと読みたいと思ってきたが、なかなか手がつけられなかった。おおよそ、現代日本社会で生活していたら、文学を志す者や研究者以外、プルースト読破に時間を割くことは難しいのではないだろうか。全訳を持ってこようとも思ったが、重いし、途中で挫折することもあるとあると考えて、抄訳版にした。抄訳版と言っても、1冊あたり450~500ページのものが、3冊もある。第1巻を、ほぼ読み終えたところである。

圧倒的に長い。大部の中に、濃縮して詰め込まれた描写。母親やその他の家族への思いなどによって構成される幼少期の思い出から、物語は始められる。語り手の周囲に立ち現れる人びとが織りなす社会。その中で、重要な関係を取り結ぶことになる大切な人。そのようなうちの一人(スワン)の行動や感情の動きが、じつは、語り手の聞き語りの形式なのだけれども、あたかも、第3者によって語られているかのように、つづられていく。その意味で、錯綜しているように見える。しかし、考えてみれば、<わたし>の過去の記憶は、じつは、そのようにして、親しい人たちから聞かされた話を鵜呑みにして形づくられていることがあるという点で、その構成は、考え抜かれたものなのかもしれない。

やがて、語り手は、フランスの社交界へと入っていく。スワン夫人に対する憧れ、その娘・ジルベルトとの恋のかけひきが、微細に描かれる。ジルベルトとの恋のかけひきの他愛もない現実。しかし、そのような他愛もない現実の中にこそ、人間の行動の本質が宿っているのではないか、ということに気づかされたような気がする。語り手は、得体の知れないシャリュリュス男爵、(そのときは)若くて美しいだけの海辺の少女たちなどを観察することで、語り手の観点から、現実を切り刻んでいるように思える。 その意味で、感情面の現実に踏み込んだ、フランス社交界のエスノグラフィーであるように思える。そのような読みは、邪道であろうか。

通信

2006年04月06日 16時05分25秒 | フィールドワーク
今日は、久しぶりにホテルの部屋から、インターネットが通じた。日本で買ったヴォーダフォン(Nokia NKII702)をモデムとして使っているが、乱調ぎみで、つながらないことが多い。 

それに、日本で契約したヴォーダフォンは、マレーシア国内では、正常なかたちでの通話はできない!(電話をかけることはできるが、相手には、了解不能の番号が表示される) フィールドのためにケータイを買ったばかりなので、じつは、解決するためのもっと深い手法があるのかもしれないが・・・ 

さて、マレーシアはITにいち早く注力し、比較的早くにインターネットが広がったが、現段階での使い勝手は、それほどよくないと感じる。クチンには、インターネットカフェは数件あるが(いつも人が多い)、日本語のディスプレイと入力にかなり難がある。日本人の旅行先のメインストリームからは外れているので、日本人があまり来ないのが一因であろうか。 州都クチンでさえこんな感じなので、これから先、諸連絡、とくに日本とのそれはどうなるだろう。たんに通じませんでしたくらいでいいのかも。10年前のフィールドは、そんな感じだったんで(あきませんかね、一部の関係者の方、そんなええ加減なことでは??) 日本の大学は、そろそろ入学式と新学期が始まるころですね、もうずいぶん日本から遠ざかったような気がしないでもない・・・

クチン

2006年04月05日 13時16分41秒 | フィールドワーク
フィールドワークの準備で俄然忙しくなってきた。

昨日、研究員として受け入れてもらっているマレーシア大学サラワク校の東アジア研究所を訪ねて、J所長や人類学者のJさんに会った。 

書類を作ってもらって、今朝、イミグレーションオフィスに提出してきたところ。ビザ発行までに10日ほどかかると言われた。クチン滞在が少し延びそうである。 

その間にセミナーをやれとのJ所長の仰せで、断りきれずにいたところ、タイトルと要旨をすぐに出せと促され、そんなに都合よく準備しているわけがなく、苦し紛れに浮かんだセミナーのタイトルが、"Anthropological Research of Sense in Sarawak"であった。

日本を脱出し、マレーシアに来て、何でこんなに必死にならなければならないのかと思いつつも、東アジア研究所を、いろいろな国の研究者や学生が集い、相互啓発するための場としたいというJ所長の願い、思いにも部分的に共鳴しつつ、この数日でなんとかせねば。 

つねに思慮深く、尊敬すべきサラワク出身の人類学者Jさんと相談の結果、これまでのところ、ある程度、調査地について見通しを立てることができた。

サラワク到着

2006年04月02日 12時24分37秒 | フィールドワーク
成田からクアラルンプール経由で、真夜中に、マレーシア・サラワク州・クチンに着いた。あまり知られていないが(ために)、アジアのなかで快適度の高い都市である。むっと暑い。特有の匂いがする。

1999年から毎年一度(以上)来ているが、来るたびに変化がある。今回は、2ヶ月前に、クチン空港が巨大化して、オープンしていた。この町に、こんなに人が来るのかな???あるいは、今後、サラワクは、これまで以上に、ツーリストに荒らされてしまうのだろうか? 成田からクアラルンプールに向かう飛行機のなかで、レイモンド・オハンロンの『ボルネオの奥地へ』一冊を読み終えた。Into the Heart of Borneo という、いまの私の心境にぴったりの本なのだが、その旅行記のドタバタ具合と害虫の記述に、私は暗い気持ちになった。

本全体についての感想としては、今年初めに、必要に迫られてNくんが、<クールー>を題材としたクリッツマンの『震える山』を読み、「初笑いでした」と評したが、それと同じくらいの程度の本であった。

著者オハンロンは、イギリス文学博士。コンラッドやダーウィンの研究で知られるらしい。19世紀のヨーロッパ知識人の足跡をたどり、実感したかったのかもしれない(あとがきより)。 著者とジェームズ・フェントンは、(おそらく)1980年代の初め、ボルネオサイという幻の動物を探索するために、イバンのガイドたちとともに、バレー川をさかのぼり、数々の困難を克服しながら、その水が発するインドネシア側へと達する。そのドタバタ旅行記の中で、頻繁に出てくるのが、ウキットと呼ばれる狩猟採集民である。ウキットであれば、ボルネオサイについて知っているはずなのである。

イバン人によれば、彼 ら は ボルネオの狩猟採集民プナン人よりも賢い、「世界中でいちばん偉大な狩人」(p.194)である。森の隅からオハンロンたち一行を密かに吹き矢で狙っていて、森の中を誰よりも速く走ることができる、「ジャングルの王様」(p.192)、ウキット。それだけでなく、ウキットの娘は、小柄でかわいいという。 しかし、ウキットは、実は、彼らがどこにいるのかつかんでおく必要がある政府によって、ロングハウスを与えられてバルイ川の流域に引っ越してしまっていることが、本の終わりのほうで、イバンによって明かされる!次に、バルイ川のウキットのロングハウスへと向かうオハンロンたち。再び、ドタバタが続くが、最後に、飛んでいる鳥さえ捕まえることができたというウキットの老人が、かつて、槍を使って、八頭のボルネオサイを殺したことがあるという話を聞いたところで、その旅行記は終わっている。 

<ペニスピン>(パラン)やカヤン社会を中心に広まった<ブンガン宗教>などの文化をめぐる記述は、全体的に薄っぺらいが、本をつうじて、学ぶべき点がないことはない。 

その一つは、著者のボルネオの動物に対する関心である。ボルネオの吸血陸ヒル。ボルネオには二種いるニシキヘビ・・・しかし、それらへの関心(執着?)は、全編をつうじて、自らの身に不幸が降りかかることへの不安に支えられているように思える。オハンロンは、医療キットを持ち歩き、「マラリアの予防薬を飲み・・・モルヒネの入ったシレットの数を数えたりした。また・・・孤独なバナナを実験台に皮下注射のやり方を練習した・・・」(p.166-7)。  

オハンロンのボルネオの動物への関心は、動物や昆虫の類に苦しめられることへの怯えと表裏一体なのである。その気持ち、私は一笑に付すことはできない、ボルネオの奥地への入り口にいる身としては。  

レイモンド・オハンロン 『ボルネオの奥地へ』白根美保子訳、めるくまーる社。