■「加瀬英明のコラム」メールマガジン 2011/11/30 (Wed)
http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi
軍事アレルギーは亡国をもたらす
自らの国を護るのは自然の理
東日本大震災に当たって自衛隊の活躍は、自衛隊が日本国民が頼れる最後の砦(とりで)であることを強く印象づけた。
大規模な天災であれ、外敵による侵略であれ、私たちが最後に頼れるのは、国軍の他にない。
10月に、君塚英治陸上幕僚長の講演を聞く機会があった。幕僚長は東日本に災害救援のために出動した陸上自衛隊の男女隊員が、国民の負託にこたえていかに献身的に活動したのか、詳細にわたって話され、聴衆を感動させた。
幕僚長は会場が防衛省に隣接する関連施設だったせいか、迷彩が施された凛々しい戦闘服を着てこられたので、被災地で健闘した隊員の生々しい臨場感が会場に伝わった。
10月には、アメリカのパネッタ国防長官が就任後はじめて訪日して、一川防衛大臣と会談した。一川防衛相は冒頭、「先の『トモダチ作戦』で、日米同盟のありがたみを感じた」と、挨拶した。もちろん、君塚幕僚長も講話のなかで、アメリカ軍による「トモダチ作戦」に触れた。
もっとも、防衛省と自衛隊にとって外国の軍隊が「作戦」をたてたり、遂行するのは当然のことであるものの、作戦という言葉は、わが防衛省と自衛隊にとっては禁句である。そこで「作戦」というかわりに、「運用」と言い替えている。
国譲りの第一義は適正用語の採用
防衛省の内局として、人事教育局、経理装備局などと並んで、運用企画局がある。「運用」は分かりにくいが、作戦を意味している。防衛省と自衛隊の行政用語は、日本語を母語としている者にとっても、判じ物ばかり並んでいる。
戦闘服も禁句だ。敗戦後の日本は戦争を凶事として、いみ嫌うようになったためである。そのために、行政用語では「迷彩服」と呼ばれる。
自衛隊の草創期に「特車」と呼ばれた戦車が「戦車」となったものの、「兵」が禁忌にふれるから、いまだに歩兵は「普通科」であり、砲兵が「特科」と呼ばれている。自衛隊の階級の呼称も、大多数の国民にとって謎めいている。
自衛隊が昭和29年に自衛隊法によって創設されてから、57年たつ。それなのに、自衛隊が使っている用語は自衛隊の本質を目隠しするものだ。このような誤魔化しが、多く存在する。
日本の安全と独立を守るためには、国軍を欠くことができない。自衛隊が国軍であることは、誰の目にもあきらかである。
ところが、日本国民は軍を輕んじることによって、現実から目を背けている。日本が置かれた国際環境に目を瞑って、断崖にそった険しい道を目隠しをして歩いている。
今日の日本は、李朝朝鮮によく似るようになっている。日本が朝鮮並みの国家となっている。
李氏朝鮮は、高麗朝の将軍の1人だった李成桂(イソンゲ)が、高麗朝をクーデターによって倒して、李朝を創設した。その時に、李成桂は国王をはじめ王族を1人も残すことなく、鏖(みなごろし)にした。
自守自立こそ国の姿
そのために、李朝はクーデターを恐れて、正規軍を廃した。李朝は軍人に対するアレルギーによって支配されていたために、自国の軍隊を恐れて、宗主国であった明に国防をいっさい委ねた。
李氏朝鮮は日韓併合まで、27代と517年にわたって続いた。
秀吉が「仮道入明」(明へ侵攻するのに当たって、朝鮮を通過する)を求めて、西暦1592年4月に、小西行長、宗義智が率いる倭軍(ウエグン)(と、朝鮮側が呼んだ)が、釜山浦(プサンポ)に上陸した。慌てて集められた朝鮮軍は、日本軍に蹴散らされた。僅か20日後に、首都の漢城(今日のソウル)を占領された。漢城は宗主国である「漢人(中国)の都」という意味である。
秀吉の朝鮮進攻のもたらしたもの
秀吉の朝鮮進攻は、韓国では「倭乱(ウエラン)」として知られる。日本では「文禄(ぶんろく)の役」(朝鮮側呼稱は「壬辰倭乱(イムジンウエラン)」)と呼ばれる。
李朝14代の宣祖(ソンジョ)王は日本軍に追われて、鴨緑江に近い義州(ウイジュ)まで逃げのびた。宣祖王はこのあいだ他に手立てがなく、宗主国である明に救援を請願した。
明は大軍を派遣して、翌年3月に平壌を奪還し、漢城を回復した。日本軍は朝鮮の南端の慶尚道の沿岸に築城して、立て籠った。
日本軍は翌年に慶尚道と隣接する全羅道に、また侵入した。日本でいう「慶長の役」(朝鮮では「丁酉再乱(ジョンユゼラン)」)である。日本軍は明軍を相手にして苦戦を強いられたが、その翌年に本国で秀吉が死んだために、撤収した。
2回の秀吉軍の侵入によって、朝鮮全土が焦土と化した。
16代目の仁祖(インジョ)王の時に、奴児哈赤(ヌルハチ)が満州族を統一して、後金を国号とした。後金は明軍を破って、遼東に進出した。奴児哈赤の子の皇太極(ホンダイジ)が1636年に国号を大清に改めて、中国内地へ向けて侵攻した。
李朝は宗主国の明を崇めて依存するあまり、「向明排金」、あるいは「親明排金」に固執した。そのために、清軍が仁祖5(1627)年に鴨緑江を渡って、朝鮮に乱入した。
「倭乱」の時と同様に、朝鮮軍は有名無実だった。李朝朝廷は救援を要請する急使を、明に何回も送った。仁祖王は江華島へ避難しようとはかったが、清軍によって阻まれ、南漢山城に逃げ込んだところを、包囲された。
ところが、当てにしていた明軍は来なかった。明は清軍の攻撃を蒙って、北京を防衛するのに大童(おおわらわ)で、李氏朝鮮の窮状を顧みる余裕がなかった。明も崩壊の寸前にあった。李朝は明に頼るあまり、外国にも外国の事情がありうることを、理解できなかった。
今日、ソウル市松坡洞(ソンパドン)に「大清皇帝功徳碑」が建っている。
碑には南漢山城を出た仁祖王が、清軍の軍営に設けられた「受降壇」まで出向いて、清の大宗の前に跪いて、頭を9回地面にこすりつけて拝礼することによって、清に臣従することを誓ったのに対して、「寛温仁聖皇帝」(神聖で思い遣り深い皇帝)が受け容れたことが、記されている。
仁祖王はこの時、それまで侮蔑していた胡販(蛮夷の満服)を纏って、皇帝に命乞いをした。明に代えて、清を宗主国として新らたに戴くことを誓った。
この時から、日本が日清戦争に勝って李氏朝鮮を大韓帝国として、清から独立させるまで、李朝は清に毎年多数の宦官と、全国から美女を選りすぐって、そのために設けた妓生学校で訓練を施した妓生を貢いだ。
歴史の歩みを凝視したい
李氏朝鮮はその後も軍事アレルギーを国是として、明に代えて清に国防を委ね続けた。歴代の国王を囲む朝臣たちは国を想うことなく、一身の栄達だけを願って、徒党を組んで政争に耿った。
第26代の高宗王のもとで高宗31(1894)年に、東学党の乱(甲後(こうご)農民戦争とも呼ばれる)が起った。窮乏した農民が決起して、全羅道を制圧した。李朝は自主独立の気概を欠いてきたから、いつものように清に派兵を請願した。
日本も清軍が朝鮮半島を占領することを怖れて、対抗して派兵した。その結果、日清両軍が衝突して、日清戦争が戦われた。
日本国憲法は、日本「政府の行為によって再び戦争の惨禍を」招かないために、日本の独立を「諸国民の公正と信義に」委ねて、陸海空軍を保持しないことを、うたっている。
自民党政権は陸上自衛隊の定数を18万人から16万人に、民主党政権はさらに15万4千人に、海上自衛隊の護衛艦が60隻から50隻に削減されていたのを48隻に、航空自衛隊の戦闘機が350機から300機に減らされていたのを、250機にした。
日本は“韓流ドラマ”を演じている。
日本の政治家には、朝鮮服がよく似合う。