うっとうしい梅雨空が続き何気なく過ごしてしまう毎日だが、知人のブログに岡山大空襲慰霊祭のことが書かれていた。
私と兄、母は昭和20年の今日岡山市内に疎開していてこの空襲に遭遇した。私は1歳程度で自覚がない。以下は母の記録の一部である。
岡山空襲 B29・約70機138機。死者1737人。罹災人口12万人。罹災家屋25,000戸。
日本本土の主要都市を襲った米軍の無差別爆撃で29万9485人、236万戸が灰や瓦礫になった。
私と兄、母は昭和20年の今日岡山市内に疎開していてこの空襲に遭遇した。私は1歳程度で自覚がない。以下は母の記録の一部である。
戦争は日々に激しさを増し、内地の空にはB29が毎日襲って来るようになりました。警報の度に、赤ん坊の次男を柳行李に入れ、長男にリュックを背負わせて近くの防空濠に走り込むのが毎日の日課となりました。子供二人を育てるには食糧不足、家の食糧事情を少しでも良くしようと、警報解除のサイレンを聞くと直ちに、雑炊食堂の列に並んで待ちました。そんな生活を見兼ねて、母は岡山への疎開を勧めてくれたのでした。当時私の実兄も出征中で、兄嫁も二人の子供を連れて留守を守って居ましたので、その家に同居させて貰う事となり、家財道具を整理して、やっとの思いで岡山へ引っ越したのでした。
しかし岡山も安泰では有りませんでした、六月二十九日灯火管制で暗い部屋が一瞬パット昼の様に明るくなったのです。「あっ・空襲」と直感して飛び起きました。その時早くも暗いガラス越しにB29の不気味な黒い機影が見えたのです、無数の焼夷弾が雨のように降り注いできました。何の警報も無く、不意の空襲で有りました。此の儘では、此の家も焼け出す、皆焼け死には必定、何とか外へでなければと、次男を背負い、綿入りの「ねんねこ」を水で濡らし、頭から被せ、長男を起こし、非常用のリュックを背負わせ、寝惚けてむづかる手を掴んで外へ出ました。
ブシュ・ブシュと嫌な音を立てて、焼夷弾が雨の降るように落ちてくる。路地には泣き叫ぶ人の声、右往・左往する人の影で一杯です、阿鼻叫喚・焦熱地獄とはこの事でしょう。そうだ表通りの「柳川筋」で電車の敷設工事をしていた溝があった。無我夢中でその方向に突進して、溝の中へ飛び込んで身を伏せました。溝の中では傷ついた人が助けを求めて叫んで居ます、猛火は風を呼び、風はまた猛火を呼んで、火の粉が凄い音を立てて、私共を横殴りにして往きます。道の両側の家々は一軒残らず焼け落ちて、正に生き地獄です、あぁ是までかと思いました。死ぬなら三人一緒に死にたい、子供を必死に抱き締めて伏せて居りました。
何時間か過ぎました、夜が明け始めました、B29の機影も何時の間にか見えなく成って居ました。「あぁ・助かった」是が世に言う・岡山の大空襲で有ります。一メートルそこそこの細い溝が私共母子三人の命を守ってくれたのです、姉達三人も無事でした。煙と煤で真っ黒に成った顔を見合わせた時、暫くは本当に言葉も出ませんでした。雨がふりだしました、ともかく里の興除村へ帰ろう・・と宇野線大元駅に向かって歩き始めました。道路には傷を負うた人々が犇めき・呻いて居りました。牛が真っ黒に成ってぶすぶすと燻って居りました。本当に戦争は惨めです。長い順番を待ってやっと罹災者専用列車に乗る事が出来ました。妹尾駅に着いたとき、やれやれ帰れたと気が緩み、へたり込んで仕舞いました。
その後八月六日には広島・八月九日には長崎に原爆が投下され、死の灰が降り、街は全滅しました。八月十五日天皇陛下の玉音放送で終戦と成り、敗戦国となったのであります。様々なデマが飛び、なにを信じて良いか分かりませんでした。昭和の乱気流に巻き込まれた者のみが知る、恐ろしい体験でありました。
しかし岡山も安泰では有りませんでした、六月二十九日灯火管制で暗い部屋が一瞬パット昼の様に明るくなったのです。「あっ・空襲」と直感して飛び起きました。その時早くも暗いガラス越しにB29の不気味な黒い機影が見えたのです、無数の焼夷弾が雨のように降り注いできました。何の警報も無く、不意の空襲で有りました。此の儘では、此の家も焼け出す、皆焼け死には必定、何とか外へでなければと、次男を背負い、綿入りの「ねんねこ」を水で濡らし、頭から被せ、長男を起こし、非常用のリュックを背負わせ、寝惚けてむづかる手を掴んで外へ出ました。
ブシュ・ブシュと嫌な音を立てて、焼夷弾が雨の降るように落ちてくる。路地には泣き叫ぶ人の声、右往・左往する人の影で一杯です、阿鼻叫喚・焦熱地獄とはこの事でしょう。そうだ表通りの「柳川筋」で電車の敷設工事をしていた溝があった。無我夢中でその方向に突進して、溝の中へ飛び込んで身を伏せました。溝の中では傷ついた人が助けを求めて叫んで居ます、猛火は風を呼び、風はまた猛火を呼んで、火の粉が凄い音を立てて、私共を横殴りにして往きます。道の両側の家々は一軒残らず焼け落ちて、正に生き地獄です、あぁ是までかと思いました。死ぬなら三人一緒に死にたい、子供を必死に抱き締めて伏せて居りました。
何時間か過ぎました、夜が明け始めました、B29の機影も何時の間にか見えなく成って居ました。「あぁ・助かった」是が世に言う・岡山の大空襲で有ります。一メートルそこそこの細い溝が私共母子三人の命を守ってくれたのです、姉達三人も無事でした。煙と煤で真っ黒に成った顔を見合わせた時、暫くは本当に言葉も出ませんでした。雨がふりだしました、ともかく里の興除村へ帰ろう・・と宇野線大元駅に向かって歩き始めました。道路には傷を負うた人々が犇めき・呻いて居りました。牛が真っ黒に成ってぶすぶすと燻って居りました。本当に戦争は惨めです。長い順番を待ってやっと罹災者専用列車に乗る事が出来ました。妹尾駅に着いたとき、やれやれ帰れたと気が緩み、へたり込んで仕舞いました。
その後八月六日には広島・八月九日には長崎に原爆が投下され、死の灰が降り、街は全滅しました。八月十五日天皇陛下の玉音放送で終戦と成り、敗戦国となったのであります。様々なデマが飛び、なにを信じて良いか分かりませんでした。昭和の乱気流に巻き込まれた者のみが知る、恐ろしい体験でありました。
岡山空襲 B29・
日本本土の主要都市を襲った米軍の無差別爆撃で29万9485人、236万戸が灰や瓦礫になった。