落葉松亭日記

ニュース・評論スクラップ、凡夫の日々雑感、山歩記など

真珠湾攻撃70周年(終)

2011年12月30日 | 歴史
今年は真珠湾攻撃70周年にあたった。
当方のような戦後教育を受けた者は、「日本は侵略国」と洗脳されたようなものだったが、大東亜戦争がなぜ起きたか、さまざまな史実の判明や論評を目にし、その洗脳があらかた解けた。
しかし、政治家や学者、教育界の中には相変わらず東京裁判・自虐史観にとらわれ、精神は敗戦のまま、米中や近隣国の思惑に左右され翻弄される者が多い。
同盟国米の弱体化、中共の肥大化で一見平和とも思える世界が実は脆いものとわかってきた。

先般、ブログ「花うさぎの『世界は腹黒い』」で「日本は普通の国を目指せ」と情報を発信されていた方が亡くなられた。その中で紹介されていた記事を拡散させていただく。
改めて先の大戦の概要を学び直し、これからの日本を考えるよすがにしたい。

大東亜戦争の真意
http://www.geocities.jp/ryokuin_seidan/img1/japan1_index.htm
■ククリックド・プラモード(タイ、元首相)
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。
日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、産まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。
それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。 我々はこの日を忘れてはならない。」
( 十二月八日、現地の新聞「サイアム・ラット紙」において )

■ラグ・クリシュナン(インド、元大統領)
インドは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。
それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈もした。
驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。
(昭和44年「日本経済新聞」)

■ブン・トモ(インドネシア、元情報・宣伝相)
我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。
インドネシアの場合は、三百五十年間も失敗が続いた。
それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。
我々は白人の弱体と醜態ぶりをみて、アジア人全部が自信をもち、独立は近いと知った。
一度持った自信は決して崩壊しない。
日本が敗北したとき、 「これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる」と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。

■ラダ・ビノード・パール(インド、極東国際軍事裁判判事・法学博士)
要するに彼ら(欧米諸国)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の一七年間(昭和3~20年、東京裁判の審理期間)の一切を罪悪と烙印する事が目的であったにちがいない。
 ・・・・・ 
私は1928年から1945年までの一七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。
この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。それを私は判決文の中に綴った。
その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であるということがわかるはずだ。
それなのに、あなた方は自分らの子弟に
「 日本は犯罪を犯したのだ 」
「 日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ 」を教えている。

満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、頽廃に流されていくのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。
あやまられた彼らの宣伝の欺瞞を払拭せよ。
あやまられた歴史は書き変えなければならない。
(昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)

■朴 鉄柱(韓国 平成二年一月逝去・六十八歳 、韓日文化研究所 昭和四十二年十月)
「ソウルから日本を眺めていると、日本が”心”という字に見える。北海道、本州、四国、九州と、心という字に並んでいるではないか。日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない。それに対して韓国は、断絶につぐ断絶の歴史で涙なくしてみることはできない。」
「現在の日本の自信喪失は敗戦に起因しているが、そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。
平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後まで取り組んだ。
それまで日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。
最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。
『事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし』というのが、開戦時の心境であった。
それは日本の武士道の発露であった。
日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨て身の一撃を与えた。
それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。
日露戦争と大東亜戦争ーこの二つの捨て身の戦争が歴史を転換し、アジア諸国民の独立をもたらした。この意義はいくら強調しても強調しすぎることはない。」

「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。
彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。
戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる、というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。
日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。
日本こそ勝ったのであり、日本の戦争こそ、『聖なる戦争』であった。
ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐに回復できたではないか。
二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが、しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。」
( 昭和42年10月 )

■H・G・ウェルズ(イギリス、歴史学者)
「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。」

■ジョージ・S・カナヘレ(アメリカ、ハワイ日本経済協議会事務局長・政治学博士)
日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えた事である。
(中略)
インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。
これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり、復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。
日本によって与えられたこのような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。

■バ・モウ(ビルマ元首相 独立宣言より)・・ビルマは現在のミャンマー
約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。
英国はさらにその伝統的陰謀賄賂及び想像し得るあらゆる詐欺及び術策の武器を使用せり。
 ・・・・・
ビルマ人は徐々に搾取され時の進むに従い総ての国民的実質、莫大なる物資的資源、機会、文化、言語、さらに遂にはその生活様式までも失い・・・愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの生存のため苦難を受け遂には斃れたり。

ビルマ人はアジアを結合せしめアジアを救う指導者を待望しつつありしが遂にこれを大日本帝国に発見せり。
ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものなり。
(一問に百答 日下公人 PHP研究所)

■モハマッド・ナチール (インドネシア元首相)
大東亜戦争というものは、本来ならば私たちインドネシア人が独立のために戦うべき戦争だったと思います。
もしあの時、私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。
大東亜戦争とはそういう戦いだったんです。

■アーノルド・J・トインビー(イギリス、歴史学者)
第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。
その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。
日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。
(1965年十月二十八日、英紙「オブザーバー」)

英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。
それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。
なぜなら1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。
1941年、日本はすべての非西洋国民に対し、西洋は無敵でないことを決定的に示した。
この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のベトナムに明らかである。
(昭和43年三月二十二日「毎日新聞」)

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        日本の敗戦から20年あまり後・・・ 
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 日本は早くも奇跡的な復興を遂げます。
 明治維新以来、奇跡的な急成長を遂げてきた大日本帝国。
 その国力は、敗戦でも衰えることがありませんでした。
 敗戦により、急成長のスピードが一時的に少し低下したものの、日本の国力は健在でした。
 そして、日本復活を告げるイベントが催されました。 戦前開催できなかった、東京オリンピック です。
 その後間もなく、日本復活と歩調をあわせるかのように、東南アジアで  東南アジア諸国連合 (ASEAN) が結成 されました。
 下は 東南アジア諸国連合 のロゴマークと旗です。
 旗の縦横の比率は日本の国旗と同じです。
 また、四角と丸の比率も日本の国旗と同じです。
 偶然ではまずありえないでしょう。
 ASEAN のロゴマークは 赤い丸に白い縁取り です。 こういうマークは殆ど見かけません。
 私の知っている範囲では、戦前から今日に至るまで、赤い丸に白い縁取り というデザインで  知名度のあるマークといえば、ただ1つです。

 このロゴマークと旗は、東南アジアの国々から日本へのメッセージだったのだと思います。
 一体何のメッセージだったのでしょうか?  考えてみてください。
  ASEAN HP    http://www.aseansec.org/
  ASEANの旗   http://www.aseansec.org/7095.htm#ASEAN
  ASEANのロゴ   http://www.aseansec.org/7095.htm
 東南アジアには もうひとつの日本があります。 多くの仲間がいます。
 日本人はこのことを知っておかなければならないと思います。
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◆ダグラス・マッカーサー(アメリカ、日本占領連合軍最高司令官・元帥)
 日本の潜在労働者は、量においても質においても、私がこれまで知っている中の最も立派なものの一つである。しかし、彼らは労働力はあっても生産の基礎素材を持たない。日本には蚕のほかに取りたてていうべきものは何もないのだ。日本人は、もし原材料供給が断たれたら(経済封鎖されたら)一千万から一千二百万が失業するのではないかと恐れていた。それ故に、日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが、安全保障のためであった。
(1951年5月3日米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会における発言)

◆ハミルトン・フィッシュ(政治家「悲劇的欺瞞」(TragicDeception1983))
 ルーズベルト大統領は、その絶大な権力を使って遂に米国を日本との戦争に巻き込むことに成功した。そのことは、米国を欧州における戦争に参戦させるという彼の最終的な目的を達成させた。

◆ジョイス・C・レブラ女史(アメリカ、コロラド大学歴史学部教授)
 大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。
 日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。
(中略)
 さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。
(「東南アジアの開放と日本の遺産」秀英書房、256~7ページ)

◆ロスロップ・スタッタード(アメリカ、歴史学者)
 すでに四百年の間、連続的勝利によって、白人は本能的に自己の膨張は無限に継続するものと信ずるに至った。1904年の日露戦争以前には、自己の膨張が停止するというような思想は白人千人中の一人にも考えがおよばなかった。(中略)1900年は、四百年間みなぎりきった白人潮勢の頂点であった。白人はその時、威名と実力の頂上に達したのである。その後わずか四年にして日本は猛然起って露国に抗し、旅順港に巨砲弾を浴びせて世界を驚かした。その刹那に白人の退潮が始まった。
(長瀬鳳輔訳『有色人種の勃興』政教社、147,151頁)

◆グラバイ・デサイ(インド、インド弁護士会会長・法学博士)
 このたびの日本の敗戦は真に痛ましく、心から同情申し上げる。しかし、一旦の勝負の如きは必ずしも失望落胆するに当たらない。殊に優秀な貴国国民においておやである。私は日本が十年以内にアジアの大国として再び復興繁栄する事を確信する。
 インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお陰で三十年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド四億の国民は深くこれを銘記している。インド国民は日本の国民の復興にあらゆる協力を惜しまないであろう。他の東亜諸民族も同様である。
(1946年デリーの軍事裁判に参考人として召還された藤原岩市F機関長に対する挨拶)

◆ジャワハルラル・ネルー(インド、独立後の初代インド首相)
 チャンドラ・ボーズが日本と協力してつくったインド国民軍《INA》の裁判で、弁護士として法廷に立ち  「これら立派な若者達の主たる動機は、インド解放への愛情であった・・・彼らの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった。余はチャンドラ・ボーズ氏の独立への情熱を疑わない」と述べた。
(貝塚茂樹編『民族解放の星』講談社、253~4頁)

◆アリフィン・ベイ(インドネシア、ナショナル大学日本研究センター所長・政治学博士)
 日本に占領された国々にとって、第二次世界大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形をとり、他面では近代化した日本の精神的、技術的面との出会いであった。
 日本が戦争に負けて日本の軍隊が引き上げた後、アジアに残っていたのは外ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が第二次大戦後に新しく起こった東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されているのである。
 その一つに、東南アジアの教育に与えた影響があげられる。
 (中略)
(日本は)目標達成のためにどれほど必死にやらなければならないかということを我々に教えたのであった。この必死の訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。
(「魂を失った日本」未央社、57~65ページ)

◆ガザリー・シャフェー(マレーシア、元外相、アセアン創設によりハマーシェルド賞受賞)
 日本の某代議士の「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対しご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」という挨拶に対して、「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやったではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南アジア諸国の独立も考えられないんですよ」

 さらに続けて、玉井顕治、名越二荒之助、中島慎三郎の三氏に対していわく。
 「私は威張る人も、ぺこぺこする人も嫌いです。日本はもっと大きくアジアに眼を開いてください。現在、日本は南方の発展途上国に対する援助額はダントツです。押しも押されぬアジアの経済大国ではありませんか。
 『ルック・イースト』『日本に学べ』という呼びかけは、シンガポールやマレーシアだけではありません。口に出しては言わないけれど、アジアの国々のこれは本音なんですよ。かって反日感情の強かった国々にも、次第に親日感情が起こりつつあります。そうしたなかにあって、日本は欧米にばかり目を向けず、アジアに対して責任を持つ国になって欲しいのです。日本はかつてアジアに対して責任を感じ、そのために、戦争であれだけの犠牲を払ったのです。この尊い戦争の遺産を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。自動車は前を見て運転しなければ、進路を間違えますよ」
(昭和六十三年七月十九日、於赤坂プリンスホテル)

◆朱 耀翰 {韓国 元国会議員 ゴーマニズム宣言第六巻p232}
 「アメリカ大統領ルーズベルト君、君は口を開けば必ず正義と人道を唱えるが、パリ講和条約の序文に人種差別撤廃文案を挿入しようとしたときこれに反対し削除したのはどこの国だ? 黒人と東洋人を差別待遇して同じ席にも着かせずアフリカ大陸で奴隷狩りをしたのはどこの国であったか? しかし君らの悪運はもはや尽きた。一億同胞なかんずく半島の二千四百万は渾然一体となって大東亜聖戦勇士とならんことを誓っている!」

◆ニミッツ元帥(アメリカ 太平洋艦隊司令長官)
 この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。故郷に帰ったら伝えてくれよ。この島を守るために、日本軍人は全員玉砕して果てた。その壮絶極まる勇気と祖国を想う心根を!

◆スリム中将(イギリス第十四軍司令官)
 たたかれ、弱められ、疲れても自身を脱出させる目的でなく本来の攻撃の目的を以て、かかる猛烈な攻撃を行った日本の第三十三師団の如きは、史上にその例を殆ど見ないであろう。
(「敗北から勝利へ」)
 かくの如き望みのない目的を追求する軍事上の分別を何と考えようとも、この企図を行った日本軍人の最高の勇気と大胆不敵さは疑う余地がない。私は彼等に比肩し得べき如何なる陸軍も知らない。(同書)

◆蒋介石
 ラモウ・騰越を死守しある日本軍人精神は、東洋民族の誇りたるを学び、範として我が国軍の名誉を失墜せざらんことを望む

◆ベルナール・ミロー(フランス ジャーナリスト)
 これら日本の英雄達は、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れ去られてしまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。
(『神風』)
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引用・参考文献 『「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編、展転社』
おまけ・終戦直後の新聞記事より
「国体を護持し得るか否かは、片々たる敵の保証(ポツダム宣言)にかかるのではなく、実に日本国民の魂の持ち方如何にかかる。特攻魂に端的に現れた七生報国の烈々たる気魄は、我々がこれを祖先よりうけついだものであるが、これは永劫に子孫に伝えねばならぬ。
 日本国民が果たしていつの日に再生し得るかは、一に日本国民の魂がこの試によっていかに鍛えられるかによってきまるのである」

動画「凛として愛」教科書では教えない真実の日本 1~7
1:http://www.youtube.com/watch?v=Hpz5rFqI7jA
2:http://www.youtube.com/watch?v=shv750vHcIU&feature=related
3:http://www.youtube.com/watch?v=vQOQm52iAnk&feature=related
4:http://www.youtube.com/watch?v=vQOQm52iAnk&feature=related
5:http://www.youtube.com/watch?v=kTP3t4cdL3Q&feature=related
6:http://www.youtube.com/watch?v=mWMcs7Cv9f4&feature=related
7:http://www.youtube.com/watch?v=Cx5Wyl8C8YI&feature=related

古森義久氏論評 11.12.28
2012年、変革を迫られる日本の安全保障米国に庇護された「無抵抗平和主義」はもう通用しない
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34046
2011年もいよいよ終わりが近づいた。年の終わりを機に日本の内外の出来事を振り返ると、国難と呼べる東日本大震災が3月に起きたことが、当然ながら最初の重大ニュースとして想起される。だがその次には、日本の安全保障の環境が激しく変わったことが大きな出来事だと言えよう。
 ただし安全保障の環境の変化は、地震や津波のように目にみえる一瞬のニュースとして起きはしない。いくつもの現象や傾向が重なり合い、相乗し合い、巨大な潮流のような変化を生んでいく。そんな変容だと言える。
 だが、その変化への日本の対応能力があまりに貧弱に見えるのである。この点にはまさに日本という国家への大きな危険がちらついている。新しい年の日本にとって、切迫した課題だと言っても過言ではない。

 日本の安全保障の変容としては、まず中国の軍事動向からの大きな影響が挙げられる。中国の海軍や空軍の大増強は、もう疑問の余地のない事実である。その軍拡は中国の領有権の主張や資源獲得の争いに陰に陽に利用される。
 日本との領有権紛争や資源争いでも、中国がそうした軍事力の効果を少なくとも「無言の威嚇」として使うという現実は2011年には様々な形で示唆され、実証されたと言える。

 さらには、北朝鮮の金正日総書記の死去による政治の激変があった。北朝鮮の次期最高首脳として28歳の金正恩氏が選ばれたが、内部からの反発が火を噴いた場合、その混乱が日本にも影響を及ぼすことは不可避だろう。
 まして北朝鮮はすでに日本全土を射程範囲に収めた弾道ミサイルを多数、保持している。しかも、今や年来の核兵器開発の成果を弾道ミサイルに装備できる核弾頭として完成させる日が近づいている。

無抵抗平和主義の放棄を日本に迫る米国

 他にも日本の安全保障への暗い影が広がる要因はあるが、まず中国と北朝鮮という2つの原因から考えてみよう。日本への影響を米国側の視点や期待から眺めると分かりやすい。
 米国がイラクやアフガニスタンからアジアへと軍事戦略の最重点をシフトさせる方針を打ち出したことも、2011年の大きな出来事の1つだった。
日本の安全保障にとってもその意味は深い。このシフトの主要な原因は、中国の軍拡への対応である。北朝鮮への抑止という目的も密接にからんでいる。

 米国のこうした「アジア重視」の新たな動きについては、この連載コラムで何回か伝えてきた。特に「日本が中距離ミサイルを配備する日」(2011年10月5日)というリポートでは、米国側の新しい対中軍事態勢を踏まえての同盟国としての日本への期待について詳述した。米国歴代政権でアジア安保政策を担当した元高官ら5人の調査と提言だった。

 その中では「21世紀のアジアの同盟」と題する部分で、日本に対して、概略として以下のことを求めていた。

・戦後の年来の軍事抑制を撤回し、無抵抗平和主義を放棄する。
・南シナ海などの海洋の防衛や抑止に大幅に参加する。
・中国の台湾攻撃への抑止として南方防衛を強化する。
・中国が増強する中距離弾道ミサイルへの抑止として同種のミサイルを配備する。

 いずれも日本の現状からすれば、実行は極めて難しい戦略目標だろう。今の民主党、野田政権下では、「とんでもない」として一笑に付される提案もあるだろう。だが、同盟国としての米国の期待は今やここまで高くなったのだ。

 米国と日本は同盟パートナー同士でありながら、安全保障への認識や目標にはそれほどのギャップが広がってきた、ということでもある。

北朝鮮の恫喝に日本はどう対応するのか

 そして、その後に起きた異変が北朝鮮の金正日総書記の死去だった。
 この事態にも、米国では精密な事前の研究をしていたことは、当連載の10月20日のリポート「米国は見透かしている、北朝鮮崩壊時の日本の中途半端な対応を」で伝えた。さらに実際に金総書記が死んだ後の北朝鮮にはどのような危険要因があるのか、特に日本への意味も含めて、12月21日付のリポート「米国が北朝鮮新政権に抱く3つの懸念 実力不足の後継者は何をしでかすのか」で報告した。
 後者の報告では、議会調査局で長年、北朝鮮の分析を続けてきたラリー・ニクシュ氏が特に深刻な懸念を表明したのが、北朝鮮がついに弾道ミサイルに装備する小型核弾頭を完成させるという展望だった。私はその報告には書かなかったが、同氏は以下のことも実は述べていた。

 「北朝鮮は、スカッドやノドンという中距離、長距離の弾道ミサイルに核弾頭を装着して、発射できるようにする実戦配備が、核武装での長年の最大目標だ。あと2年ほどでそれを達成する危険性が高くなった。
 その場合、北朝鮮はもう外部からの圧力などでは絶対に後退させることのできない公然たる核兵器保有国となる。米国当局は実はもうその場合への対策まで構築しているが、日本はどうなのか。その種の核ミサイルの射程に完全に入る日本にとって、その核弾頭完成がまったく準備のない衝撃とはならないことを期待する」

 北朝鮮が公然たる核兵器保有国となり、しかもその核の大量破壊力を日本への恫喝に使ってきた場合、日本はどうするのか、なんの対応策も考えてはいないのではないか、という懸念の表明でもあった。

 日本は核に「とにかく反対」という情緒的なレベルでのエネルギーは強くても、自国への核の脅威というような事態への対応は、想定の対象にさえなっていないようだ。

米国が庇護してくれる時代は過ぎ去った

 北朝鮮の不測の事態への日本の対応能力に対する疑問は、前述の10月20日付リポートで紹介した米国の国防大学国家戦略研究所(INSS)のシミュレーション(模擬演習)報告でも明確にされていた。
 もし金政権が崩壊して、米軍あるいは中国軍が介入の気配、というような危機が起きた場合、日本は米国の同盟国として歩調を合わせる行動は取れない、取らないだろう、という予測だった。
 かといって、日本が独自の一貫性のある対応を取るとも予測はしていなかった。要するに、日本は北朝鮮の危機や有事には戸惑う一方で、明確な対応の態勢ができていない、という診断なのである。

 こうした米国の考察には、日本が「有事や危機に確固たる対応のできない国家」「安全保障の支えとなる軍事という現実をとにかく忌避するだけで、抑止という国際的に自明な対策のない国家」だとする認識が明白だと言える。戦後の日米関係の長い歴史では、米国はそうした軍事アレルギー、防衛忌避という国際的に異端な日本の基本を承知の上で、事実上の庇護をしてきたわけだ。
 だが、もうそうした時代や環境は去ったとする見解が、今の米側の主流なのである。その結果、米国では本来は軍事や同盟をかなり軽視する傾向のあったオバマ政権でさえ、日本に対し、普通の同盟パートナーとしての防衛や軍事の負担を求めるようになったのだ。

 軍事や安保からはとにかく顔をそむけ、米国にその対処を委ね、経済活動に専念するというのが戦後の日本の国家的針路だった。国民多数の支持を得たという意味では、国民的針路だったとも言えよう。

 だが、今や日本に隣接する周辺の状況が、そして日本の防衛を肩代わりしてきた米国の現実が、日本にそうした針路の継続を許し難くし始めたのである。そうした変化が2011年の激動の波によって日本に突きつけられたのだ。


石油を持つ国

2011年12月30日 | 政治・外交
イラン“制裁なら海峡封鎖” 12月28日 8時18分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111228/k10014955491000.html

イランの核開発問題を巡って欧米諸国が経済制裁を強めるなか、イランの副大統領は、原油輸出を禁じる制裁が科された場合、中東からの原油の主要な輸送路であるペルシャ湾のホルムズ海峡を封鎖するとして、強くけん制する姿勢を示しました。
イランの核開発問題を巡っては、今月、アメリカ議会の上下両院がイランと原油などの取り引きをできなくすることを目指した制裁法案を可決するなど、欧米諸国が圧力を強めています。
これに対して、イランのラヒミ副大統領は27日、首都テヘランで開かれた国際会議で演説し、「イランの原油輸出に対する制裁が科されたら、原油は一滴たりともホルムズ海峡を通過することはない」と述べ、原油輸出を禁じる制裁が科された場合、ペルシャ湾のホルムズ海峡を封鎖すると警告しました。
ホルムズ海峡は日本に向けたタンカーの9割が通過するなど、中東からの原油の主要な輸送路ですが、イラン海軍はこのホルムズ海峡を含む海域で今月24日から最大規模の軍事演習を行い、軍の力を誇示する動きを見せています。アメリカに続いて、EU=ヨーロッパ連合は、来月の外相会議に向けて、イランからの石油の禁輸などさらに厳しい制裁措置を検討する動きを見せており、イランとしてはホルムズ海峡の封鎖を警告することで欧米の動きを強くけん制するねらいがあるものとみられます。

イランが経済制裁への対抗措置としてペルシャ湾のホルムズ海峡を封鎖すると警告したことについて、アメリカ国務省のトナー副報道官は「明らかに脅しだ」としたうえで、「問題の本質から注意をそらそうという意図だろう」と述べて、核開発問題から国際社会の目をそらそうとしていると非難しました。そのうえで、「国際社会のルールに従わずに核開発を続ければイランへの経済制裁や圧力はさらに強まるだろう」と述べ、改めてウランの濃縮活動をやめるよう求めました。

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成23(2011)年 12月28日(水曜日)通巻第3527号    <年末最終号>
http://www.melma.com/backnumber_45206/

イランが国際社会を石油を武器に威嚇
「もし西側が制裁するなら、ホルムズ海峡を機雷封鎖する」


 イランの第一副大統領モハマド・レザ・ラヒミは「もし西側がイランを経済制裁するならば(対抗措置として)、ホルムズ海峡を機雷で封鎖する」と発言した(アルジャジーラ、12月27日)。
 イラン国営IRNAが報じたもので「一滴たりとも、ホルムズ海峡から原油タンカーを通過させない。敵の制裁目的は、この軍事的措置により潰えるだろう」
 或る意味で、この発言は軍事的威嚇。NY原油相場はたちまち1バーレル=100ドルを突破した。

 ホルムズ海峡を通過する石油は、じつに世界需要の三分の一を占める。
 日本に関して言えば60%前後はホルムズ海峡を通過するタンカーによる。もし、ホルムズ海峡が封鎖されるような事態となれば、世界で一番悪影響をうけるのは日本である。原油価格は1バーレル=150ドルを軽々と突破することになるだろう。

 ホルムズ海峡はわずか6・4キロという狭窄な海峡であり、ここを通過する原油とガスはイランのみならず、その奥にイラク、クエート、サウジアラビア、UAE,カタール、オマンがある。

 単なる脅しではなかった。
 イラン海軍は艦船ならびに航空機を駆使して機雷をばらまく訓練をしたのだ。「もっとも イラン海軍は定期的に機雷封鎖訓練を行っており、今回が初めてではない」と軍事専門筋は分析しているものの、すでにテヘランの英国大使館を襲撃するという暴挙がおきており、英国は激怒してイラン大使館を閉鎖した。

 イラン議会の多くは、海軍の軍事行動を選択すべきではないとしている。
 イラン原油はEUが輸入する原油の18%、一日平均で45万バーレル。
 EUの参加国27ケ国で構成するEU閣僚会議は一月にもイラン制裁案を討議するが、まだ制裁の具体的内容は俎上に乗っておらず、さらに中国がイランに「激情にかられての軽率な軍事行動」を警告している。中国も日本についでイラン原油に輸入の20%程度を依存するからだ。

   世界の火薬庫はイラク、アフガニスタンからイランへ。
    ◎

イランの核開発問題とは、イランが自国の核関連施設で高濃縮ウランの製造を企画していた、またはしている、という疑惑がかけられている問題のこと。(wiki)

そして、紀元前以来のイスラエル対アラブの怨念も背景にあり、核装備が要るのだろう。
米はイラクに大量破壊兵器があるとイラク戦争始め、日本もこれを支持したが不利益も被った。
日本政府はイラク政府に対する債権放棄に応じ大きな損害を蒙った。平成17年11月24日の外務省のプレスリリースによると繰延金利を加味しない場合、約7,100億円の債権削減と発表された[39]。日本国民からイラク戦争でアメリカに追従したが大量破壊兵器も見つからず、7,100億円もの債権放棄と原油高の長期化だけが日本にとっての結果となっており、不利益しかなかったとの厳しい批判が起こった。 イラク戦争によってイラクの原油輸出が減少したことも原油価格上昇の要因の一つになった。 湾岸戦争時、総計130億ドルもの資金を提供し大きな批判が国内から起こったため、直接資金提供を実施するのではなく債権放棄という形で国民からの批判を回避しているとの指摘が出された。(wikipedia)

2003年あったばかりのイラク戦争。
近年米は経済的にも弱体化しているので、イランとの戦争には至らないと思われるが、「歴史は繰り返す」の懸念もある。
日本はイランの原油に20%も依存するとのこと。西側の主張に与せざるを得ないのだろうか。