29日放送のNHK「その時歴史が動いた」より
歴史が大の苦手だったが、この番組は時々拝見して勉強させていただいてる。
道真が遣唐使の廃止を建議し、その後興福寺の僧達から「日本 (ひのもと) の倭 (やまと) の国は言玉 (ことだま) の幸 (さきわ) う国ぞ。此の国の本 (もと) つ詞 (ことば) に逐 (お) い依 (よ) りて、唐 (から) の詞 (ことば) を仮らず」と日本独自の言語表現を持つ機運が生まれたのも素晴らしい。
古今和歌集を編纂し、その道を開いた時平が歌舞伎の世界では悪役に描かれているというのはちょっとお気の毒。
一文字で意味が判る漢字とひらがなの融合は、考えてみれば素晴らしく有り難いことだ。20数年前までは、英数字カナしか扱えなかったコンピュータも今ではパソコンで自由に日本語入力ができ、こうして落書きを愉しむことが出来るようになった。この仕組みを考えた人も偉い。これも後世の人から見れば歴史的革命だろう。
「ひらがな革命」~国風文化を生んだ古今和歌集~
その時: 延喜5 (905) 年4月18日
出来事: 日本最初のひらがなで書かれた公文書・古今和歌集完成
私たちが学校で最初に学ぶ文字「ひらがな」。しかし、「ひらがな」が公式に使われるようになったのは漢字よりずっと後のことだった。そして、その背景にはある政治的意図があった。
平安時代中期、日本では中国に学んだ律令制度が崩壊の危機を迎え、抜本的な政治改革が求められた。この時、朝廷で政治を担ったのが、中国文化の教養で出世の階段を登った菅原道真と、エリート貴族で和歌の名手だった藤原時平の二人のライバル。
道真は衰退しつつあった唐に解決策を求めることをあきらめ、遣唐使を廃止。律令制度から脱皮した政治体制を作ろうと改革に乗り出す。しかし貴族たちの反発にあい志半ばで失脚。後を継いだ時平は、改革を進めるには律令制度導入以来、中国の思想や制度を絶対視してきた官僚達の意識変革が重要と考える。そして、新時代を告げるシンボルとして、和歌に使われ漢字より低く見られていた日本独自の文字「ひらがな」に注目、「ひらがな」で書かれた勅撰和歌集の編纂を命じる。
この完成を契機に改革は軌道にのり、『源氏物語』などの「ひらがな文学」が誕生、「国風文化」が花開く。
「ひらがな」が正式な日本語として認められるまでの知られざるドラマを描く。
歴史が大の苦手だったが、この番組は時々拝見して勉強させていただいてる。
道真が遣唐使の廃止を建議し、その後興福寺の僧達から「日本 (ひのもと) の倭 (やまと) の国は言玉 (ことだま) の幸 (さきわ) う国ぞ。此の国の本 (もと) つ詞 (ことば) に逐 (お) い依 (よ) りて、唐 (から) の詞 (ことば) を仮らず」と日本独自の言語表現を持つ機運が生まれたのも素晴らしい。
古今和歌集を編纂し、その道を開いた時平が歌舞伎の世界では悪役に描かれているというのはちょっとお気の毒。
一文字で意味が判る漢字とひらがなの融合は、考えてみれば素晴らしく有り難いことだ。20数年前までは、英数字カナしか扱えなかったコンピュータも今ではパソコンで自由に日本語入力ができ、こうして落書きを愉しむことが出来るようになった。この仕組みを考えた人も偉い。これも後世の人から見れば歴史的革命だろう。