かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

おくのほそ道 2007 その22 壷の碑

2007年10月23日 | Tohoku ( Japan )
いよいよおくのほそ道2007も最終日。といっても、三日目。
今日は、多賀城へ行こうと思い、仙台から、東北本線に乗って北に向かう。



新幹線ができてから、東北本線もすっかりローカル線になった。ドアの開け閉めボタンはともかく、ワンマン電車用の整理券発券機がついている。乗り放題切符だったからいいものの、初めて乗る人は、びっくりするだろう。利府行きに乗ったら、何と行き止まり。岩槻で乗り換えねばならなかったのだ。すっかり忘れていた。
それはともかく、国府多賀城駅に到着。多賀城は、今は、仙台のベッドタウンだが、奈良時代は、陸奥の国府で、大和朝廷と蝦夷の戦いの場所となった所。当時の日本?の北限だ。



多賀城市のH/Pを見ると、散策コースが二通り。基本的には、その短い方のコースに沿っ
て散策。まずは、市川橋遺跡。といっても、ほとんど住宅街のど真ん中。説明板があり、この奈良時代の水時計(漏刻といい、陸奥にも設置されていたとの記録があるという)を復元したものが、展示されている。



そこから、10分ぐらい行くと、『壷の碑』がある。
これは、芭蕉さんが、仙台を出て始めに向かった場所。おくのほそ道2007で、巡った場所の中では、最初に訪れた場所である。

この碑は、何と762年に建立されたもの。多賀城改修の記念碑と考えられており、発見当初から、歌枕にある『壷碑』と考えられていた。どうやって計ったのかは知らないが、世界?各地からの距離等が刻まれている。芭蕉さんは、この碑を見て、涙を流さんばかりに感動したという。



石碑は、格子窓越しに見ることになるが、字がはっきり残っているのがわかる。ややはっきり残りすぎていて、偽作との説もあるようだが、確定的な結論は出ず、今は重要文化財に指定されている。

後で、寄った東北歴史博物館で買ったこの石碑を模ったしおりに、石碑の読み下し分が載っていたので、距離の書いていある部分のみ、注釈をつけて、載せておく。

多賀城 京を去ること一千五百里。
    蝦夷(えみし=東北地方の北半分)の国の界(さかい)を去ること百廿里。
    常陸(ひたち=茨城県)の国の界(さかい)を去ること四百十二里。
    下野(しもつけ=栃木県)の国の界(さかい)を去ること二百七十四里。
    靺鞨(まつかつ)の国(中国大陸沿岸州)の界(さかい)を去ること三千里。


ちなみに当時の一里は、535メートルだそうなので、どの程度正しいか、チェックしてみてはいかが? 靺鞨(まつかつ)というのは、どこか特定できないけど。
ちなみに、辞書ではこう書いてあった。『中国、隋・唐の時代に、中国東北部から朝鮮半島北部に住んでいたツングース系諸族の中国側からの呼び名。七部に分かれ、その一部である粟末(ぞくまつ)部は、渤海(ぼっかい)国を建国。黒水部はその支配下に入らず、のちに女真と称された。勿吉(もっきつ)』

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