不登校の子どもが増え続けていることについて(1)

少子化現象が続く中でも、学校になじめず登校できない子どもたちが増え続けている。

私が1980年代に札幌市内の私立高校に勤めていたとき、今で言う不登校の女子生徒が自分の担任クラスにいて、何度も家庭訪問して、「どうして登校できないか」を聞いたり、「仲間はずれなど問題があったらなんとかするから」といった話を、お母さんともどもして「明日の登校」を約束した。しかし彼女はやはり学校に顔を見せなかった。

このころから「登校拒否」という言葉で子どもの「問題行動」の一つが生まれてきた。心理的な問題点などが言われていたのではないだろうか。

その後、「登校拒否」は「不登校」と若干のニュアンスを変えたが、ずっとわずかであっても増え続けてきた。そして今(2018年)不登校の小中学生が16万人をこえ前年度より2万人増えた。小学生は144人にひとり、中学生は27人にひとりという割合になった。札幌は2,635人、北海道では6,500人に達している。中学校では1クラスにひとり以上の「不登校生」。

文科省も毎年いろいろな「対策」を発表しているが、いずれもこの問題についての解決案は見えていない。

問題はこの「解決案」とは何だ、そしてそれとともにそもそも不登校をどう見るか、など問題の第一歩からはっきりした共通項がない。

私など、「不登校」という異常現象を意味する言葉もなくしたらいいのでは、とすら思う。明治以来、何歳になったら何年間の「義務教育」という概念ががっちり固まっているが、この「義務教育」の枠組みをもっともっと柔軟にする必要があるのではないか、とすら思う。
憲法では「保護者は子どもに教育を受けさせる義務を負う」とあり、この期間が9年間、そしてその始まりは6歳と法律が決めた。
これだけ個性、多様性、みんな違ってみんないい、というような言葉が大事にされていながら、学校のしくみだけはなぜ「確立したしくみ」なのだろう、と疑いをもつことから始めたい。

だから、私は小学校、中学校の開始時期、学校も今のような「画一的」なしくみを解除し、その辺りからいろいろな教育を受ける仕組みなどを柔軟にしたらいいのではないか、と思う。

そうすると「異常視」される不登校は「異常」ではなくなるのではないか、と思うのだがどうだろう。学校に通う時期と期間と学び方など、人によっていろいろあっていい。今の社会生活に対応できない人がたくさん増える。だから一定の枠が必要だ、という仕組みが大枠としてある。ここから疑問視する必要がありそうだ。
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