「共稼ぎ」の始まりのころのこと。「この家はきたないね」

大学を終えた1960年、私は札幌の私立高校に勤めた。当時は女子高。まだまだ私立高校が公教育の一翼であるという認識はそれほど一般化されていなかったのではないだろうか。しかし人口急増期、高校が足りないこともあって私立高がどんどん増えてきた。私も、クラス担任をし、授業を週20時間もち、分掌の仕事(教務とか生活指導など)、クラブ活動(当時は新聞局)を援助する、その上で私立学校の教職員組合の活動の最前線で仕事をした(道私学教祖。この時の重大なテーマは私学への公的助成を求める活動だった)。

妻も同じように市内の私立校の教師。結婚しても学校の仕事は増えることはあっても減ることはない。当時の言葉でいう「共稼ぎ」だった。その後3人の子どもたちを育てることになったが、私の朝の分担業務は子どもを保育園に連れて行くことだった。自転車、バイク、そしてマイカーで。迎えは妻がやった。

そういう典型的な共稼ぎ家庭だった。だから、ウチの中の整理・掃除・その他の家事は、今のように電化製品がなかった時代だから、タイヘンだった。
あるとき、私学の仲間でいろいろ相談する集いがあり、わが家が会場になり、仕事を終えた仲間たちが5,6人やってきた。そのウチの一人(Aさんとしておこう)が、わが家に入るなり「やあ、この家は汚いね」と独り言的に言った。私はこれを聞いていなかったが、妻はこの言葉を半世紀たった今でも忘れていない。

このAさんが自分の体験を出版したということで、ある人がその書を送ってくれた。そのことを知った妻が、半世紀以上前のAさんのわが家での発言を思い出して、「あんな思いやりのない人の本など見たくもない」という意味のことを言った。

今、掃除機も食洗機も洗濯機もあって、自動でそれぞれの仕事をしてくれるから、家事の点では非常に助けられる。当時は、そういうことはなかったから、共稼ぎ家庭は夫婦それぞれの協力体制が必須だが、手を抜く作業は各家庭で適当に認め合っていた。そういう慣習が確立しているわが家を訪問したAさんは異次元の世界からの男だったのだろう。

そういう「今は昔」?の物語の一つ。「共稼ぎ」のウラとオモテの、人によっては思い出したくない一つの短い話。
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