福澤諭吉が栄え新渡戸稲造が消えたのはなぜ?(2)

札幌農学校スタートの時(1879 M9)から翌年5月まで教頭(事実上は校長)の立場にあったクラークは、キリスト教の精神でその任にあたった。この短い期間ではあったが、札幌農学校の卒業生、そして直接間接に薫陶を受けた人びとに「クラーク精神」と呼ばれる「心」を伝えることになった。
これを藤田正一さんは次のようにまとめた。
Be Ambitios, Be Gentleman, 自由、平等、博愛。そしてこのクラークスピリッツは、利他、正義、キリスト教、勤労の精神に通じ、弱者(女性、貧者、子ども)へのまなざし、その立場に立つことを教えた。
札幌農学校が輩出した人たちに、内村鑑三や新渡戸稲造などがいる。

戦後、東大総長として大きな影響を与えた人に矢内原忠雄という人がいるが、矢内原さんは明治以降の日本の大学教育に二つの流れがあった、一つは東大に代表される国家主義、もう一つは札幌農学校から展開された民主主義だ、と言っていた。

戦前の日本で卓越した国際人(国際連盟の事務次長)であり、クラーク精神の申し子的人物だった新渡戸稲造が戦後の日本人の中に、平和と民主主義をいっそう広げる役割を果たすということは、戦後政治の主流をつくってきた自民党のお歴々からは避けなければならないことだった。
新渡戸稲造が5千円札にいったんは登場した(1984年)が、2007年にこの札は発行停止になったのは、そういう思惑があったと言えないだろうか。

福沢諭吉はもちろん「学問のすすめ」の刊行によって明治の代表的啓蒙思想家とされるが、藤田さんんの指摘をヒントに「学問のすすめ」や「福沢諭吉教育論集」を読むと、これまでのイメージとは異なる福沢像が浮かび上がる。
彼は、例えば次のように言う(岩波文庫「福沢諭吉教育論集」)。「女子の教育を視よ」。各地に女子英語学校ができている。これをもって「世の愚人は…『教育の隆盛』」というだろうが、「我が輩は単にこれを評して狂気の沙汰とするの外なし。三度の食事もおぼつかなき農民の婦女子に横文の素読を教えて何の益をなすべきや」。時には偶然にも大に社会を益したることもあるだろうが、そんなことは千百人中の一だ。「狂気の沙汰に非ずして何ぞや」。
「学問のすすめ」で強調していることは、実学だ。「漢文学や古典などで財産を殖やした人はいない」。現実的でない学問は二の次にして日常業務に必要な実用の学問を大事にしたい、と福澤は訴えている。

この福澤の教育論は、「心豊かな人間になれ」と人格の向上を呼びかけた新渡戸稲造(クラークスピリッツの体現者)とは大きく異なる。 
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