来し方、行く末に思いを続けて…
日記 … Kametarou Blog
今日は終戦記念日
もうあれから74回の「終戦」の記念日だ。1945年のこれはまさに終戦=敗戦の宣言日(ポツダム宣言の無条件受諾を全国民に知らせた日)。
私もこのことについてはかすかに記憶がある。その日から1年間は、戦争へのつらい思いと平和への確かな決意と世界に向かって日本が行った戦争への償いのアピールが私たちの生活と意識と周りの人たちとの確認だったのではないか。
今日の報道では、天皇のお言葉が「深い反省」を継承されていることが確認されている。しかし安倍首相の挨拶では「歴史の教訓を深く胸に刻み」とはあってもそれ以上のものではないことを報じている。
天皇の「反省」についてもこの内容は言われていないが、しかし「深い反省の上に立って」戦争の惨禍が繰り返されることを切に願うと強調された。
安倍首相がいう「歴史の教訓」とは何か、はもちろん触れていない。
私たちはどう考えても1931年から始まる日中十五年戦争と太平洋戦争は主要な側面は日本がこれを引き起こしたと言わざるを得ない。もしその昔言われていたように「持たざる国」である日本が周りの「持つ国」から陰に陽に圧迫を受けてやむを得ず(堪忍袋の緒を切って)アジアの恒久平和を実現するために(八紘一宇)戦いを始めたのだ。すなわち大東亜の聖戦だったのだ、ということは今の世界の常識からあり得ない。
私たちはどう考えても1931年から始まる日中十五年戦争と太平洋戦争は主要な側面は日本がこれを引き起こしたと言わざるを得ない。もしその昔言われていたように「持たざる国」である日本が周りの「持つ国」から陰に陽に圧迫を受けてやむを得ず(堪忍袋の緒を切って)アジアの恒久平和を実現するために(八紘一宇)戦いを始めたのだ。すなわち大東亜の聖戦だったのだ、ということは今の世界の常識からあり得ない。
だから安倍首相の式辞も「先の大戦で300万余の命が失われた」、広島・長崎・東京・沖縄などでの無数の犠牲の上で平和が成っていること、その「全ての御霊(みたま)安かれと心よりお祈り」と言っても、「どうしてその犠牲が生まれたのか」「戦争で300万の犠牲」というが、アジア各地での犠牲(日本の300万の何倍もの犠牲)はなぜ生まれたのか、を「反省」するのでなければダメなのではないだろうか。
今日のニュースに触れていつも感じることを改めて感じるのである。
今日のニュースに触れていつも感じることを改めて感じるのである。
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