袴田事件(1)

この数日、大きな話題になっている「袴田事件」について基本的な点を記してみたい。これに関する問題意識は、若いころ戦後数年間におこった種々の「黒い霧」事件(この最たるものが1949年の「松川事件」)に関して、その多くが戦後のどさくさの中で、アメリカ占領軍とつながりをもっていた当時の日本の一部支配層が反共(労組や日本共産党の勢力をつぶそうとした背景があった)の方針の具体化だったと、作家の松本清張氏などの説に共感したことがあったことを思い出したからでもある。

今テーマとしたい袴田事件はそういう思想的背景はないようだが「死刑囚」とされてきた袴田巌(はかまだいわお)さんの人生がめちゃくちゃにされてきていることに大いなる疑問をもっていることを理解いただきたい。

袴田巌さんの名前をもって言われるこの事件の始まりはおおよそ次のようだった。

 1966年(昭和41年)6月30日に現在地名・静岡市清水区横砂東町の民家で味噌製造会社の専務一家が殺害され、集金袋が奪われ、この民家が放火された強盗殺人・放火事件。この被害者は、男性A(当時41歳)と妻B(当時38歳)、次女C(女子高2年生)、長男D(中学校3年生)の一家4人である。4人の遺体にはいずれも刺し傷があり、前日に集金された現金約50万円のうち37万円が発見されなかった。また現場からは凶器の一部と思われる短刀の鞘らしきものが発見されたため、同署は強盗殺人放火事件と断定して捜査本部を設置、県警本部捜査一課とともに捜査を開始した。確定判決によれば、凶器は刃渡り12 cmの小刀のみとされている。
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