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kametaro爺さんのよもやま話(ペイント画を含む)

日常の生活の中で、主に気付いたことやしたことをまとめておきたい。また、ブログにアップしたい

お伊勢参りをしてきました。おかげ横丁  その5

2011-10-21 09:48:09 | 観光
ようこそお越しくだいました。

伊勢2000年の昔から。神様が鎮座されるところです。
ここに住まわせていただいている私たちは、暮らしのすべてが神様のおかげであると感謝しております

そのような思いから「おかげ横丁」が誕生しました。
江戸時代のおかげ参りの頃の伊勢の人情と風情を再現し、商いをさせていただいています。
本日はどうぞごゆっくりとおすごしください。
                      おかげ横丁のご案内 チラシ文

おかげ横丁の言葉の起こりは珍しいおですね。この横丁のお店の方々の、お客を迎える
表情やしぐさが、神と共に日本全国の人を・・・、伊勢へ伊勢へと引きつけるのでしょうね。

お伊勢参りをしてきました。内宮 その4

2011-10-20 08:34:30 | 観光
天照坐皇大御神(あまてらします すめ おおみかみ、天照大御神)を主祭神とし、天手力男神、万幡豊秋津姫命を相殿に祀る。三種の神器の一つの八咫鏡を神体とする。

伊勢信仰の中心となる神社で、日本全国の神社で授与される神宮大麻はこの皇大神宮の神札である。

『日本書紀』によれば、天照大御神は宮中に祀られていたが、崇神天皇6年、笠縫邑に移し豊鍬入姫命に祀らせた。垂仁天皇25年、倭姫命が後を継ぎ、御杖代として天照大御神を祀るための土地を求めて各地を巡った。この経路は『日本書紀』にあまり記述がないが、鎌倉時代初期成立と考えられる『倭姫命世記』には詳述されており、その途中に一時的に鎮座した場所は元伊勢と呼ばれる。垂仁天皇26年、伊勢国にたどり着いたとき、「この国に留まりたい」という天照大御神の神託があり、倭姫命は五十鈴川上流の現在地に祠を建てて祀り、磯宮と称したのが皇大神宮の始まりである。

お伊勢参りをしてきました。外宮 その3

2011-10-19 09:04:55 | 日記
外宮(げくう)・・・豊受大神宮


伊勢神宮には、太陽を神格化した天照大御神を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮が存在し、一般に皇大神宮を内宮(ないくう)、豊受大神宮を外宮(げくう)と呼ぶ。

内宮と外宮は離れた場所にあるため、観光の場合は時間の都合上、内宮のみ参拝することもあるが、本来はまず外宮を参拝してから、内宮に参拝するのが正しい方法とされている。元来皇室の氏神であることから皇室・朝廷の権威と強い結びつきがある。広義には、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた、合計125の社宮を「神宮」と総称する。この場合、所在地は三重県内の4市2郡に分布する。

歴史 [編集]
延暦23年(804年)に編纂された社伝『止由気宮儀式帳』によれば、雄略天皇22年、天皇の夢に天照大御神(内宮祭神)が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」と神託したので、同年7月7日、内宮に近い山田の地に豊受大御神を迎えて祀ったのに始まる。延喜式神名帳には「度会宮 四座」と記載され、大社に列している。

日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)。毎日午前8時から午前9時までにかけての朝大御饌、午後3時から午後4時までにかけての夕大御饌の毎日2回、外宮御饌殿において御饌を供えて行う神事をした。

神話の世界から日本が誕生し、天皇の祖先、神武天皇が即位された。戦前の日本歴史
の始まりであった。そして、神武天皇から昭和天皇まで、全部の天皇の名前を小学校で
覚えさせられた、記憶がある。

お伊勢参りをしてきました。神話の部 その2

2011-10-18 08:34:17 | 日記
神話 天照大御神(アマテラスオオミカミ)と 須佐之男命(スサノウノミコト)


須佐之男命の所業は、高天原の神聖への侵犯・冒涜であるので、天照大御神は、ついに「天の岩屋」の戸を閉じて、中に籠ってしまいます。

そのため高天原から葦原の中つ国まで、天地に光が失われ暗黒になりました。
暗闇に乗じて悪魔・怨霊がはびこり、天変地異がひきつづいて、混乱状態に陥りました。

八百万の神々が集まり、日の神を復活させるためのてだてを図りました。

天の岩屋の前に伏せた空の桶を、足拍子おかしく踏み鳴らし、神がかりして、乳房をあらわに、裳の紐を陰ほとまで、垂らして踊りまくったので、八百万の神々、どっと笑いました。
 その有様を、天照大御神は不審に思って身を乗り出し、やがて姿を現す時、天上も地上もふたたび光明をとりもどしました。
 天照大御神の至上の権威が確立されて、またしても須佐之男命は「神やらい」(追放)に処され葦原中国に降った。

須佐之男命は、悪・罪・穢れ・不作・死・暗黒など、あらゆる負を一身に担うた。

日本の国の肇めの神話である。戦前の歴史の「日本の誕生」の神話の話でした。

お伊勢参りをしてきました。昔のお伊勢参り  その1

2011-10-17 08:34:52 | 観光
9月下旬にお伊勢参りに行ってきた。3回目の参りであったが、行くたびに旅情が違ってくる。色々の面から考えてみたい。まとめたものをアップします。


■昔のお伊勢参り (一生に一度のお参り国民の最大の夢だった)

 お伊勢参りは昔は「おかげ参り」と呼ばれ「おかげで元気です」という感謝のお参りであった。交通機関のない時代であり、江戸から15日、京・大阪から4、5日かかった。一生に一度はお参りしたいと伊勢講を作り代表だけお参りしたり、断りなしに抜けがけしてお参りする「抜け参り」もあった。現在は年間7百万人ぐらい参拝するが、江戸中期の最高潮の頃には450万人お参りしている記録がある。当時の人口は現在の3分の1だから年間五人に一人が御参りしたことになる。そしてその世話をしたのが御師である。

◆江戸時代の「お伊勢参り」ブームの火付け役は?
 江戸時代になると幕府は神宮を保護し、遷宮の実質的な責任者となった。また、御師の布教活動を公認し、お札のオマケに暦をつけることを許可した。神宮大麻は益々全国に広がった。伊勢神宮は国民的な神社となり、爆発的なお伊勢参りが流行りだした。

ジャズが横浜を包むシリーズ―横濱ジャズプロムナード その4/4

2011-10-16 09:21:57 | 日記
① ジャスの誕生と経過・・・インターネットより

ジャズ(英: jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ南部の都市を中心に発展した音楽形式。
アフリカ系アメリカ人の音楽形式と西洋音楽の技術と理論が融合して生まれた。演奏の中にブルー・ノート、シンコペーション、スウィング、バラード、コール・アンド・レスポンス(掛け合い演奏)、インプロヴィゼーション、ポリリズムなどの要素を組み込むことが特徴的とされている。
その自由な表現形式は黒人音楽家のみならず白人音楽家にも注目され、技法や理論など急速に発展した。20世紀半ばには人種の枠を越えた音楽のジャンルとして認識され、現代音楽理論をも内包する高度な体系をつくりあげた。
その結果、人種、国籍や狭義のジャンルを越えた音楽芸術の現代的様式の一つとなり、様々な方向性に発展を見せる現代の音楽の源流を形作った存在であると考えられている。


② 横濱と JAZZ

「横濱」といえばジャズというイメージを持たれる方はどれくらいいるだろうか?異国の玄関口として、多彩な西洋文化を受け入れ音楽文化を成熟させてきた横浜。同じく港町ニューオリンズで生まれたジャズは時を経てシカゴから日本へ。
そして今日、横浜に住まう人々の生活にジャズはとけ込み、毎年「横濱JAZZPROMENADE」のような大きなイベントが開催されている。

なかでも関内からベイエリアにかけては、毎日熱いステージが繰り広げられているホットなスポットだ。今回は、その中核を担っている美味しく食べて聴けるジャズライブレストランをご紹介。それは「横浜 Jazz のある美味しいお店」である。

来年も、ジャズイベントに参加したい。高樹レイさんご招待有難うございました。

たくさんの方に読んで頂きありがとゆございました。
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ジャズが横浜を包むシリーズ―横濱ジャズプロムナード その3/4

2011-10-15 09:07:38 | 日記
① 知人の高樹 レイ(VC)とスペッシャルグループは、2011-10-9 (日) 「 横浜ジャズプロムナード 2011 」の赤レンガ倉庫1号館会場で、13:50から14:50分に演奏されたジャズ会場は大変広い。立見者まで出る大盛況だった。
ボーカルの歌に、おしゃべりに観衆は、すべてを引き付けられていた。私語も完全にない。
歌い手と器楽演奏と聞き手の3者が1点に集中して昇華した素晴らしいジャズだった。
更に、ジャズの中に今までと違って、リンゴ追分、ソーラン節等を取り入れ、新しいジャズを披露した。
 爺も、高樹レイさんに感動し、ジャズがマスマス好きになれそう。


② 高樹 レイ・スペッシャルグリープ
 高樹レイ + 竹内 直(ts) 菊池太光(p) 丹羽 肇(b) 柵木雄斗(ds)
 丹羽 肇(b)さんは、当日博多から上京し、当日の内に帰宅するとのこと。
九州ツアー一環のグループメンバーとのことで。

③ 高樹 レイさんは、大学卒業後通訳として活躍,偉大な musician(ハービーハンコック,ウェイン・ショーター,ビリーハーパー etc)との交流を深め,その後,仕事も兼ねて単身渡米した。
帰国後,FM東京,FM横浜などの DJ を経て,プロの JAZZ VOCALIST として,都内各地で活動を始め現在に至る。
”ツムラJAZZ VOCAL 新人賞にもノミネートされるなどして数年で実力が認められるようになった。今後のジャズでの活躍を期待しています。
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ジャズが横浜を包むシリーズ―横濱ジャズプロムナード その2/4

2011-10-14 08:46:39 | 日記
① ジャズ会場は、横浜市開港記念会館、関内ホール大ホール、関内ホール小ホール、ランドマークホール、横浜赤レンガ倉庫1号館、ヨコハマNEWSハーバー、ランドマーク、NHK横浜放送局、みなとみらい大ホール等の10会場で2日間開かれた。1会場で11:30~20:30まで5回開催された。2日間で100のジャズ演奏が実施された。日本の有名なボーカルや器楽演奏者達が横浜に勢ぞろいしたのである。横浜のホテル・旅館は一杯であったとのことである。
フリーチケットも、4000円から7500円(2日共通)であった。客はどこの会場も一杯であった。

②街角ライブ藻、横浜ワールドボーターズ前、関内駅前、馬車道通りなど14か所でされた。例えば、首都大学東京、帝王バンド【千葉大】、等の学生バンドや一般のバンドなど、1会場に5回から9回のジャズ演奏が実施され、ジャズ会場以上に多くの演奏がなされた。
実に多くの会場でジャズが演奏されている。ジャズの愛好家も、目的の会場に時計と睨みっこしながらの移動であった。ジャズ人の流れは忙しく夥しかった。

③ それに相まって、赤レンガ倉庫の広場には、「ドイツビール飲みイベント」が開かれ、賑やかさを更に助長させている。関内駅前の横浜野球場では阪神タイガーズとの公式戦があり、これ又大騒ぎの催しで、横浜を挙げての賑やかさであった。他の都市では見られない表情であった。(140)


ジャズが横浜を包むシリーズ―横濱ジャズプロムナード その1/4

2011-10-13 07:26:37 | 日記
10月9日に、「横浜Jazz Promenade」に参加しました。当日、赤レンガ会場に出演するジャズボーカルの「高樹 レイ」さんに招待されたからである。
まず、驚いたのは横浜、特に「みなとみらい」地区がジャズ環境にスッポリと包まれていた。

 横浜で3000人近いミュージシャン

戦後多くのジャズバンドが生まれ育った横浜で、3000人近いミュージシャンが参加して街角やクラブなどさまざまな場所で演奏を披露する「横濱ジャズプロムナード」が開幕された。

② 横濱ジャズプロムナード


まち全体でジャズを楽しもうと18年前から毎年横浜市で開かれている国内最大級のジャズの催しです。ことしは、広場やホール、ジャズクラブなど48会場で演奏が行われ、このうち横浜市西区みなとみらいの広場では、大勢の市民や観光客が集まるなか、小学生から社会人までの6つのアマチュアのバンドが登場しました。会場ではなじみのある有名な楽曲がかわるがわる演奏され、観客たちは演奏に合わせて足でリズムを取ったり手拍子をしたりして、ステージを楽しんでいました。家族連れで訪れた30代の女性は「街角でジャズが聞ける雰囲気が大好きで来ました。演奏も上手で私もあんな風に弾けたらなと思います」と話していました。横濱ジャズプロムナードは9日まで開催され、東日本大震災で被災した宮城県気仙沼市の小中学生も参加して、2日間で3000人近いミュージシャンが演奏を披露することになっています

③ ジャズ愛好家が全国から集まり、ホテルも一杯とのことです。(159)

柏地元のコスモス畑・・・

2011-10-12 09:10:38 | 日記
東葛インターネット普及会の写真クラブ(フォトクラブ)のコスモス撮影会を3連休あけの10月11日に実施した。

場所は、利根川と有名な布施弁天のに近い柏市の農業公園である。

快晴とはいえないが陽の照りが適当で、撮影には恵まれた天気と思う。
爺は、自転車で犬を前の荷台に載せ、サイクリング気分で50分の道のりのペタルを踏んだ。

定刻の10時に予定の人員(15人)が集まり、コスモス撮影の要点を講師から説明された。

メンバーは、2人の講師にわかれて、現場で撮影の指導を受けた。
普段のクラブの学習の成果を、実践と実証する。自分に実践を反省して軌道修正して別な方法を探った。

本日撮影した写真を、10月末発行ホームページの写真の部に載せることで解散した。

今日の撮影会は、写真という趣味の実現、そのクラブに遊参気分でのハイキング、顔見知りの同僚友人との交流と会食、ルンルン気分である。

こんな場と機会を、自ら求めて、その中に安住できることが高齢者の大事な生き方ではないだろうか。これを前々日、前日にアップした、第三の居場所と主張する高齢社会研究家の澤岡詩野さんの考えと共通するように思える。

こんなことを皆さんに知ってもらい、自分の、周りの友人の「第三の居場所つくり」に
自ら進んで作り上げてほしいと思った。(126)