ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

11回目の富士(3.御殿場道を下る)

2011-09-18 10:22:34 | 山日記

目を悪くしてから遠近感が捉えにくく、油断するとつまずいたり尻餅をついたりする。また、完治していない膝を庇うので下りにも結構時間がかかる。登ってきた道を下るのが最短だがゴツゴツした急坂の道は膝を悪化させる恐れがある。一部ブル道を使うことは3年前に試みたが距離が長く時間もかかる。同じ長い距離を歩くならと、前に二度使った御殿場道から宝永山の馬ノ背(鞍部)を越えて六合目に帰ることにした。

今日は「お鉢巡り」を割愛したので、ゆっくり剣ヶ峰で滞在して下山にかかる(12:15)。
前に見えるピークは三島岳、その下の大きな屋根は公衆トイレ、その左が山小屋・富士館で、浅間神社奥宮は広場を挟んだ左側、浅間ヶ岳の下になる。足元の火山岩の砂礫がザラザラ崩れるので、先を行く人同様、ヘッピリ腰で右手の鉄柵も手助けにしてゆっくり下る。

振り返ると、やはりキツイ登りだ。3月の地震で大内院(火口)周辺の壁も崩れ、工事が行われている。

そのせいもあって、直径500m、深さ200mの火口の眺めも以前より荒々しさを増したように感じられる。
正面のなだらかな山が久須志岳(3,740m)、右へ大日岳(3,750m)、伊豆岳(3,750m)。

浅間神社奥宮は木花之佐久夜毘売命(木花咲耶姫このはなさくやひめ)を祀る。もとは修験道・村山三坊の支配する大日堂だったが、明治の神仏分離令で浅間大社の所有になった。村山修験の流れをくむ畠堀さんらのグループは私たちが剣ヶ峰に向かうとき熱心に祈りを捧げていたが、今は下山の準備をしていた。途中、ブル道も使って五合目まで下り、3日間の行程を終わるそうだ。畠堀さんに記念写真を撮って頂いて、お別れした。(12:27~12:37)

剣ヶ峰と反対側(内陣を逆時計回り)に数分も行くと御殿場道の頂上である。鳥居がたち柵で囲まれたところは銀明水。もう一つの雪解け水が伏流となって湧く金明水は、久須志岳のふもとにある。右に見える銀明館の前から御殿場への下山道が始まる。(12:36)

富士宮道に比べて楽とはいえ、下り始めはやはり傾斜が強い。ごつごつした岩の道が何度も屈折しながら、次第に高度を下げていく。途中に目標となる山小屋や道標もないため、かなり長く感じる。ふと右を見ると富士宮道を下る村山古道グループらしい人影が見えた。

一時間近く下って、ようやく勾配が緩まり、やや歩きやすくなった。この御殿場道はもともと登山者が少なく、ある統計では夏でも富士宮道の7分の1とかで、自分のペースで歩けるのはいいが少々心細い。午後になって雲が湧いてきたが、まだ沼津方面の市街地や駿河湾が見えている。目の下に小屋の屋根が見えたので、ともかくそこまで下りて休憩しようと頑張る。始めて登ってくる若者に出会う。しばらくして下ってきた中年の男性に追いつかれ、言葉を交わし先に行ってもらう。小屋はどうやら八合目で、休業中の見晴館らしい。建物の横の岩に腰を下ろして、たっぷり水分を補給し10分ほど休む。

次の七合九勺、赤岩八合館の入口や窓は、番号を打った木材を積み重ねて締め切り、厳重に冬の備えをしている。ガスが出てきたが、まだ頭上は青空で陽が射している。10分ほど前に休んだばかりなので、休まずに通過する(14:30)。

この小屋には2008年8月皇太子浩宮殿下が宿泊している。このとき、皇太子一行は富士宮新五合をスタート、宝永山荘前を通って宝永山馬ノ背から御殿場道に出て、この山小屋で一泊。翌朝、山頂でご来光を見て御殿場道を下った。それ以後、今私たちが辿っているこのルートは「プリンスロード」と呼ばれるようになった。

ここからも同じように入口や窓を厳重に戸締りした小屋が短い間隔で現れる。合目を表す標識や道標は一切なく、小屋の看板も外してあるので、どの辺りを歩いているのか全く分からない。後で御殿場市のホームページなど見ると、赤岩八合館の後は気象庁避難小屋、砂走館(七合五勺)、わらじ館(七合四勺)と続いている。

 

次の小屋の前で始めて「七合目」の文字を見つけた。建物は日ノ出館である。(14:45)
ガスが次第に濃くなって辺りを包んできた。この御殿場道の下りでは二度目の2006年8月、霧に包まれて宝永山への道を失い、標高差を100mあまり登り返した苦い経験がある。その時の記憶では、ジグザグの道を六合目まで下って森林限界らしいところをトラバースしている。しかし今回は日出館の少し下、ブル道と合流するところに小さい標識があった。

登山道と分かれて右に折れると、すぐにブル道を横切るように「御殿場口新五合目」へを示す次の標識がある。

下山道の大砂走りに入ったが視界は霧に閉ざされ、勾配は次第に急になる。砂煙をあげながら下り、時々立ち止まって宝永山へのトラバース道を探すが、目標になるものもなく次第に不安が募る。霧が薄れたときに見上げると日ノ出館らしき建物と二人の人影がぼんやり見えた。更に下って、しばらく立ち止まって待つが二人が降りてくる気配はない。前は砂走りを下る区間はもっと短かった記憶があるので、また前回の二の舞で下り過ぎたかと思う頃に、左の六合目から来る道とT字形に交わるところに出て、道標があった。

右に折れるとほぼ同時に霧が晴れて、正面に宝永山の斜面が見える。

また霧が深くなった。前回はこの分岐を行き過ぎたが、今はこんな立派な道標が立っていて安心だ(15:18)。ほぼ平行な道を3分ほどで宝永山の馬ノ背の少し上に出た。左に下り、宝永火口と山頂とのコル、馬ノ背に出る。(15:27)

馬ノ背に荷を置いて人影の見える宝永山に向かう。また青空が出てきて山頂の姿が美しい。

美しく整備された宝永山頂(2,693m)には、女性3人に囲まれた羨ましい男性がいた。地元から日帰りできたグループで、私たちの写真(前出)を撮ってくれた女性は自称第一夫人。第二、第三夫人とも毎回入れ替わるとか(笑)。(15:35~15:45)

馬の背に帰ってしばらく待っていると霧が流れて、ようやく富士山頂部が姿を見せた。(15:57)
ここからが結構長い。ざらざらの斜面をゆっくり下る。上から見ると綺麗な道に見えるが、砕けた赤い溶岩が崩れやすく歩き難い。

30分ほどかかって宝永第一火口の底に着いた(16:30)。大きな火山岩がゴロゴロしている。2年前の2009年10月にも大きな落石があったところだ。最後の休憩をして、昨日ブロッケンを見た第一火口縁へ登る。生ビールの待つ宝永山荘まであとわずか。青空を背にしたエビ茶色の宝永山が見送ってくれている。 


11回目の富士(2.富士宮道を登る)

2011-09-17 10:27:15 | 山日記

9月13日(火)
昨夜は何度も目を覚ました。ご来光を見るために登る何人もの足音、声高な若者のグループの話し声が窓の外でする。隣で寝ていた外国人もしきりに寝返りを打っていたが、0時に小屋の嫁さんが起こしに来て出て行った。その後もトイレに行く人が廊下を通ったり、話し声などで眠りは浅かった。

5時前、朝方になってウトウトしていて♀ペンに起こされる。東の空が明るんできた。

5時33分、宝永山の斜面から太陽が顔を出す。村山古道のメンバーは、その前に頂上を目指して小屋を出ていった。

5時35分、弘子夫人の見送りを受けて出発。小屋の裏には大きな柵に通行止めの標識があるが、みんなそれを跨いで登っている。静岡県は9月5日から冬季登山期間として、六合目から上を通行禁止にしているが実効はない。事故のあった場合の行政の責任逃れ対策だろうか。特に今年は8月に天候が不順だったので、例年になく9月の登山者が多いと渡井さんに聞いた。

この富士宮ルートは、頂上への他の三つの登山道(御殿場、須走、吉田)に比べて距離が短く(五合目~山頂 約5km)、短時間で登れるのが利点だが、勾配のきつい個所が多い。最初の目標となる新七合目の標高が2,780mだから2,490mの六合目から標高差290m。しかし、歩き始めの身体には、最初から急坂の登りは長く感じる。前にあった旧六合の小屋がなくなったので尚更である。

陽が登るにつれ右手からの光線が強く眩しく感じられる。振り返ると宝永山荘の小屋の屋根が小さくなり、雲の帽子をかむった愛鷹山が見える。その向こうに天城連山が浮かんでいる。少し雲は多いものの、上空は青く雨の心配はなさそうだ。ボツボツ夜の間に登った人が下りてくるのに出会うようになった。ちょうど1時間で新七合に着いた(06:35)。小屋の前で村山古道グループが休んでいた。ここのご来光山荘をはじめ、この上の小屋はすべて来年まで閉まっている。

ざらざらの砂礫の道や火山岩が転がる道を交互に登り、ブル道を横切るところで3,000mを越え、新七合から頭の上に見えていた小屋に着く(07:30)。てっきり八合目と思っていたら元祖七合目・山口山荘だった。過去10度も来ているのに、頼りない記憶だ。小屋の横でバナナとビスケットで朝食に代える。水分は前に他の人が欠乏して弱っていたのを教訓に、いろんな飲料を一人2Lづつ持ってきたので、存分に補給する。畠山さんを先頭に村山グループ(何人か下山して6人に減っている)がゆっくりと、しかし着実な足取りで登っていく。私たちも15分ほど休んで出発する(07:45)。ここからは溶岩塊の岩場で、歩き難く傾斜も強まる。

先ほどからつかず離れず登ってきた馬の尻尾のような長い髪の毛を後ろでくくった(まさにポニーテール)若者に「先に行って」というと「ワタシハジメテデスカラ」と答える。艶やかな綺麗な髪なので若い女性とばかり思っていたら、なんと韓国青年だった。「日本語ヘタですか」 (吉本カッ!)と言いながら何やかや話かけてくる。「山始めてです」というので、♀ペンが「日本では?」と聞き返すと「韓国でも」。何でも義理の兄さんが富士宮にいてそこから来たらしいが、ジャンパーを手にしたTシャツ姿で手にはペットボトル1本の空身。「この上、小屋開いてますか」「自動販売機ありますか」「頂上まであと何時間ですか」とうるさくてしょうがない。「私たちはジイサン、バアサンだから先に行ってくれ」というと、しばらく行って岩の上に腰を下ろして待っている。「日本のオジイサン、オバアサン強い。韓国でもそう。韓国若者弱い」そうだ。またアト何時間と聞くので、八合目から2時間といってやったら、ついに「アイゴー!八合目までで止めます」と言った。そして、やはり前後して登ってきた若いペア(あまりイチャイチャするので、どこの国の人かと思うと日本人だった)に話しかけに行った。ヤレヤレ。

今年の富士は若い人に人気があるようだ。それもカラフルな新素材のファッションに身を包んだ軽装の人が多い。なかにはウエストバッグ一つの人も。まあ、今日は大丈夫だろうが天候急変の時はどうするのだろう。さすがに年には勝てず、何人もに追い抜かれる。下りてきて道を譲るのに待ってくれた人が、上に向かって「オーイ!きりぎりす!」と叫んでいる。すると帽子からスパッツ、靴まで全身を明るいグリーンに統一した若者が跳ぶように駆け降りてきた。(吉本カッ!)

おかげで気もまぎれて、あまり辛くなく八合目のテラスが頭上に見えた。最後の急坂をゆっくり上ると八合目・池田館(08:30)。村山古道メンバーの記録係らしい女性が写真を撮ってくれた。このグループとは、ここまで追いつ追われつしながら来たが、追われるとシンドイので後は少し間をあけて追尾しよう(08:40発)。

八合目(3,200m)から再び砂礫の道になり、ゆっくり踏みしめるように登る。右手に昔は9月でも万年雪の残っていた大きな沢が見えるが、温暖化のためか雪のかけらもない。始めて富士に登った時、お世話になった九合目・万年雪山荘の前で、また村山古道の女性にシャッターを押してもらう。(09:30)

25年前に75歳だった義父は、15時10分に五合目駐車場を出て18時50分、3時間40分でここに着いている。今回私たちは六合目からで4時間かかっている。100歳を越えた今でも義父が元気な筈だ。

低い屋根、頑丈な石積み作りの九合五勺・胸突山荘。(10:15)
最後の胸突八丁の急登りに備えて、ハチミツ漬けのレモンを食べる。二人で重いザックを担いでテント泊していた頃、よく口にした懐かしい味が元気を与えてくれる。

柱だけ残った鳥居の跡を過ぎるといよいよ胸突八丁。前を行く村山古道グループは相変わらず悠揚迫らない足取りだが、一人かなり足を引きずるようにしている人がいた。私たちは二度ほど立休みして息を整えて登る。

この鳥居をくぐると、いよいよ富士宮山頂だ。

11:10 富士宮頂上。浅間大社奥宮に参拝した後、右手のご来光を見る岩場でしばらく休む。人影のなくなった社前で写真を撮って剣ヶ峰に向かう(11:25)。

富士宮頂上の標高は約3,730mなので最高峰・剣ヶ峰との標高差はあと50m足らず。まず砂漠のような道を左手に三島岳(3760m)を見ながら行く。右手の「このしろ池」は干上がって全く水が見えない。正面に見える景色は、白いドームがなくなって測候所も無人になってから荒涼とした廃墟のように変わった。V字の底の部分から道は左下へ降りるブル道になる。右へ折れると最後の難所、「馬の背」と呼ばれる急勾配の砂礫の道になる。

滑り落ちそうな急斜面を一歩一歩踏みしめながら「富士山特別地域気象観測所」に近づく。

観測所前の階段を登り、建物の前にある「日本最高峰・富士山」の碑で記念写真(11:40)。シャッターを押してくれた若者たちの顔も、この空のように晴れやかでにこやかだ。ここに来ると誰も、今までの登りの苦しさなど忘れて達成感に浸っているようだ。碑の右手に二等三角点(3775.63m)が見えるが…

実際の日本最高点(3776m)は数メートル左奥に離れたこの絶壁の上である。赤いペンキのマークがあり、なぜか溶岩の隙間に硬貨が散らばっている。下を覗きこむと足が竦み思わず腰を下ろした。

さらに山頂の一番奥には電子基準点が設置されている。国土地理院の発表では『ピラーの高さは3mあり、電子基準点の標高(アンテナ底面)は3777.5m』でここが正式な日本最高点ということになる。『なお、これにより一般に知られている富士山の標高3776mを変更することはありません。』 ということだ。

正面の柵が見える辺りに昔は鉄梯子があり、「お鉢巡り」コースに入るのに利用した記憶がある。また(写真)左手には展望台があり、3年前にはここで大展望を楽しめたが、今はロープが厳重に張り巡らされて登れなくなっている。今日は雲も多いし、何度も見た風景なので特に残念でもない。無風快晴で陽射しが強い。唯一、日の当たらない基準点の陰で、富士山では定番にしている柿の葉寿司の昼食をとる。


居待月(2011.09.15)

2011-09-16 10:33:09 | 我が家の歳時記

富士山の六合目で十五夜のお月さんを見てからもう3日経ちました。
十六夜(いざよい)、十七夜(立待月)と数えて、昨夜は居待月。ただし、少し欠けた月はベッドから眺めました。
今夜(16日)は雨のようですから、寝待月はもう無理でしょうね。

月下美人は、十五夜の頃が見頃だそうです。我が家では6月の末から、長らく美しい姿と香りを楽しませてくれましたが、いよいよこの二輪で今年の見納めのようです。

ホトトギスの茎にトンボが羽を休めています。

シュウカイドウは庭のあちこちで満開になりました。

ワラベノカンザシが秋を告げています。本格的な秋も間もなくやってくるでしょう。


11回目の富士(1.六合目の月見)

2011-09-15 21:23:36 | 山日記

2011年9月12日(月)

膝の痛みなどで2年間のブランクがあって、やや不安を感じながらも楽しみにしていた富士登山。富士川SAでは頭だけしか見えなかった富士が、西富士道路から国道139号線に入る頃から次第に姿を現してきた。

富士山スカイラインに入ると、真っ青な空を背景に秀麗な姿を惜しみもなく見せてくれる。

前を行くトラックのナンバーも「富士山」。いわゆるご当地ナンバーだが、山梨・静岡両県の陸運局区域にまたっがっているのは珍しい。

市街地から郊外住宅地、そして緑の樹林帯を延々と走って西臼塚駐車場を過ぎると、右に折れて昔の料金所をくぐり登山区域に入る。この辺りから霧が出てきて、高鉢駐車場からの写真は撮れなかった。途中で片道相互通行個所があり、あとで聞くと3月の大震災で決壊した道路の復旧工事中だった。家を出てから6時間強で着いた五合目の駐車場はかなり埋まっていたが、幸い出た車のスペースに駐車できた。

この上がTVCMでお馴染みの広場だが、霧のヴェールに包まれて富士は姿を見せない。

16:40 身支度をして歩き出す。新しい公衆トイレの横から登山道へ入ると観光客の姿は次第に少なくなる。
並行して走るブル道を右に見下ろす頃、霧が晴れて山頂部が姿を見せた。オンタデなどが赤く色づき始めている。来月には見事な草紅葉が見られるだろう。

17:00 六合目着。ここには二軒の山小屋がある。定宿の宝永山荘では渡井夫妻が笑顔と握手で迎えてくれたが、この時期にしては客が多く広い小屋の中は混雑している。 夏の最盛期以外は下にいる筈の箱入り娘さんの環さん、と次男坊のお嫁さんも忙しく立ち働いている。小屋の前の、いつもは冷やしラムネなどを置いてある台が祭壇風に飾り付けてあるのを見ていると、お茶を入れてくれたタマちゃんが「今夜はお月見よ」と教えてくれた。そうか!天気予報ばかりに気をとられ、今夜が「中秋の名月」ということをすっかり忘れていた。
  <このタマちゃんはとても気の利く明るい娘で、昔から変愚院と仲良しです。>

飾り付けられたお供えの数々。富士山の水で育った山麓の野の幸とお酒、お菓子、お団子。酒には月に因んで懐かしい「月山」や湯殿山のお神酒も…。地元の人を中心に持ち寄られたもので、真っ赤で大きなケイトウを生けた女性のお宅は剣ヶ峰を仰ぐ富士の中腹にあり、「何度登ったか数え切れない」そうだ。

いつものように、高度に体を慣らすのを兼ねて宝永火口まで散歩に行く。足元のコケモモも少しづつ色づいて秋を告げている。

火口への降り口で何人かが、宝永山腹に流れる霧を見ている。ブロッケン現象が見えるという。

霧が濃くなると、はっきりとブロッケンが現れた。朝の穂高や笠ヶ岳などで何度か見たことがあるが、夕方のものは珍しい。(1986年、始めて富士に登った時も七合目で見ている)。始めて見た若者二人が驚いていた。記念写真のシャッターを押してあげるついでに、この現象が、「背中の太陽と一直線になる正面に霧のスクリーンのあること」の条件が重なった時に見ることのできる、珍しいものだと話してあげると、とても素直に喜んでいた。

影富士の上に満月が登ってきた。(17:57)

雲海の上に愛鷹山が顔を出している。雲の絨毯の上を歩いて行けたらなあ。
美しい夕焼けが明日の晴天を約束するようだ。(18:04)

夕焼けを見ていると真下の道を登ってくる一団がいて、そのリーダーは村山古道の再興者・畠堀操八さんだった。このメンバーは「村山古道を歩く」会で、11日に田子の浦を出て二日かかって六合目に到着したところ。畠堀さんとは2006年9月にこの小屋で隣り合わせで寝たこともあり、挨拶をするとすぐに思い出してくれた。上の写真は宴会後のもの。この後、外に出て月を見ながら「村山古道」に対する行政の動きへの不満など、いろいろな話を聞かせて頂いた。
*「村山古道」に対する行政の動き=1.静岡森林管理署は「国有林への立ち入り禁止」を主張し、地元民の立てた道標の撤去を求めている。 2.世界文化遺産の登録を前に。「修験道遺跡」の保護と調査を理由に、地元住民を含めた村山古道への立ち入り禁止を求めている。詳しくはこのサイト をご覧ください*

「お月見の会」の宴会が始まった。宝永山荘のオーナー渡井夫人が自慢の腕を揮った「イノシシ鍋」などのご馳走が並んでいる。タマちゃんの話では猟師さんが仕留めたイノシシの肉だそうで、私たちも頂いたが、じっくり煮込んであって本当に美味しかった。

この会は去年から始まり、「富士の恵みに感謝の会~富士山六合目で見る十五夜~」と銘打って20名限定でネットで会員を募集したものである。私たちも渡井夫人から「常連さんです」とメンバーの皆さんに紹介された。写真は、この会のコーディネイター・向笠友子さん。
富士宮のギャラリー大蔵のオーナーで、自身も内外でいくつもの賞を受けている画家である。このTシャツももちろんご自身の筆によるもの。

私たちはプライベートルームで夕食。数あるメニューのうち、名物「富士宮焼きそば」を注文した。天婦羅(高度が高いのでとてもカラッと揚がる…タマちゃん談)と猪鍋汁、それに生ビールを頂いた。

向笠さんから「お供えのお下がりです」と、大鉢に山盛りの枝豆と茹でたピーナツを頂いた。
とても食べきれない凄い量だ。

 外に出ると煌々と名月が輝いていた。下界の町明かりが美しく輝いている。
明日に備えて早めに二階の寝室へ上がる。隣は白人の青年。0時半に起きてご来光を見に登ると話していた。 


11回目の富士登頂

2011-09-14 17:48:59 | 山日記

無事終了しました。今年は変愚院の喜寿の年でもあり、記念すべき登山ができました。
まだ帰ったばかりですので、まずはハイライトから。

9月12日(月)
夕方、宝永火口へ高度順化?の散歩に行って、ブロッケンを見ました。前に笠ヶ岳で朝、見たことはありますが夕方のブロッケンは二人とも初めてでした。(17:20)



六合目宝永山の前で(18:30)。ちょうど中秋の名月で、月見の会が開かれていました。

9月13日(火)
富士宮道を登り、剣ヶ峰山頂に立ちました。(11:15)

下山は御殿場道(いわゆるプリンスロード)をとりました。正面に宝永山の山稜が見えます(15:18)

宝永山に立ち寄りました(15:35)

9月14日(水)
無事登頂できたお礼に浅間神社本宮に詣でました。詳しくはのちほど…


金剛山(太尾西尾根~山頂~北尾根)

2011-09-11 17:17:13 | 山日記

【コースタイム】青崩07:15…太尾西尾根登山口07:20…水越峠分岐(標高735M)08:13~08:20…太尾塞跡08:55~09:00…大日岳09:40~09:45…仁王杉10:00…山頂葛木神社10:05~10:10…国見城址10:15~10:25…セト11:00~11:10…青崩12:10

いよいよ富士山行が近づいてきた。昨日、トレーニングに出そびれたので、今朝は少し早めに起きて金剛山に向かう。水越トンネルを出たところの、いつもの駐車場所はまだ早いので車の数は少ない。葛城山へ行くのとは反対の南へ、山荘風の民家の前の小さい橋を渡って舗装路を登る。

道脇にシシウドの白い花が咲き、下の道に置いたマイカーが小さく見える。5分ほどで手作りの標識を見て、左の植林の中へ折れる。なだらかな土道の登りから、すぐに木の階段道となる。しかし、よく手が入れられていて登りやすい。

急傾斜の登りが延々と続くが、今日は先日の葛城に比べて体調が良いのか、全く苦しさを感じずに登る。途中で勾配が緩み山腹を捲く個所が二度ほどあり、崩落したところを小さく捲くと、再び急坂の登りになる。尾根上のやや開けたところにでると、左の水越峠からの道が合流する。

ベンチがあり、矢印で地名と所要時間を記した標識があった。ここが標高735m地点。1時間近く足を休めずに来たので、ベンチで水分を補給する。少し風があり、ひんやりして心地よい。男性が二人水越峠からの道を登ってきた。「ここまでくると涼しいですね」と声をかけて、休まず登って行った。毎日登る人らしく軽快な足取りだ。

この鞍部から再び急な登りを終えて、しばらく平坦な道を行く。その後、トラロープが付けてある標高差150mの長い急傾斜の登りになる。 ゆっくりと登り終えると太尾塞址(標高961m)で、ダイアモンドトレールからの合流点である。この頃から下山してくる人に何人か出会う。少し休んで、緩やかな登りを行くと10分ほどで石ブテ尾根との合流点、六道辻に出る。この先は暗い樹林帯となって、緩やかに高度を上げながら登る。今日もまたアブの攻撃が朝からずっと続いていて、しばらく途絶えたかと思うとまた見計らったように出てくる。大日岳への最後の短い登りで、735地点で会った二人組が早くも下りて来てにこやかに挨拶していかれた。

大日岳(1094m)の頂上は、黄色のオオマツヨイグサやオオアハンゴンソウ、赤紫のゲンノショウコ、ピンクのシュウカイドウなどが咲いている草地で、周囲一面のススキの穂が秋を告げている。西側の展望が開けるが、カンカン照りで長居は無用とすぐに歩き出す。(♀ペンのウチワはアブ除けです)

緩く下った鞍部からまっすぐ行けば山頂広場に出るが、先に山頂の葛城神社へ行くために左に折れる。最高峰葛木岳(1125m )の下にある「この上神域のため立入禁止」の標識を見て、回り込むように行くと仁王杉に出る。トラックが入り工事の音が響いていた。葛城山を正面に見るブナ林から裏参道を葛木神社に登る。社殿手前に「災害支援」の大きな標識を付けた自衛隊のトラックが止まっていた。一週間前の豪雨で神社にも被害があったのかと思い、通りかかった巫女さんらしい若い女性に聞くと、通信隊の車で災害支援の通信中継車で神社には被害はなかったということだった。

参拝を済ませて転法輪寺へもお詣りする。行者堂の前では白衣姿の人たちが一心にお経をあげていた。今日の国見城址は土曜日のせいか人が多い。日陰に入ってベンチに腰を下ろしたが、ここもアブが襲ってくる。昼食には早いのでデザートの筈のバナナだけですませ、水分を補給して下りることにする。

山ガールさんにシャッターを押してもらって、北尾根を下る。下山口辺りもシシウドが満開。それにツリフネ、キンミズヒキ、ヤマアジサイ、アキノチョウジ、ツユクサ、アキカラマツ…。花の多いところだ。一時、崩落して通行止めだった道は、修復されて以前よりずっと歩きやすくなった。どんどん下るが、大きな岩が道の真ん中に二つ、でんと居座っている辺りから道が抉られて悪くなり、左の尾根の踏み跡に逃げる。

時間的に登ってくる人が多くなり、頻繁に出会う。黒栂谷との分岐のセトで、若い人の集団が出発したあとのベンチで休む。ここで昼食と思っていたが、人もアブも多いし、降りてからのビールを楽しみに出発。
少し登って山腹の捲き道になり、右手の葛城が見える場所にくる。前の木が茂ってずいぶんと見晴らしが悪くなった。ところどころに咲いているヤマジノホトトギスなど見ながら下る。右手に緑の金網が張ってあるところを過ぎて、植林の中の急な溝状の下りになる。ここも、一時よりは道が良くなったがちょっと嫌なところだ。気温が上がって、また汗がだらだら流れる。右手に石ブテ林道を見て、やや傾斜の緩んだ道を小学生らしい坊やがお父さんと登ってきた。「コンニチハ。カブトムシを3匹採った」と誇らしげな笑顔に元気付けられる。最後の掘割状の下りを終わり、セトからちょうど1時間でトイレのすぐ上のカンカン照りの林道にでた。

暑さとアブの多さは相変わらずだったが、二人ともまずまず快調に歩けて満足だった。汗を拭って、冷たいビールの待つ我が家へ車を走らせた。


山岳霊場巡礼(2) 比叡山

2011-09-09 10:08:37 | 読書日記


(1984年3月 両親と)

比叡山には何度も行ったが、いつもバスやマイカー利用で歩いて登ったのは一度しかない。
2004年9月12日、日吉神社近くに車を置いた。

『正面に日吉(ひえ)大社とも日吉山神社とも呼ばれる日吉神社の深い森が見える。比叡の山は、この辺りからは近すぎて、連峰の一部が厚ぼったい樹林の塊にしか見えない。』
日吉神社の末社は全国に3800あまりあると言われている。『神仏習合の思想示す日吉山王一実神道とよばれて…今では仏法を守護し、伽藍を守る神としても信仰されているのである。』
もともと農業神と神体山としての比叡山の地主神の性格と持っていた神を祀る日吉神社から『最澄は奥に聳える比叡の山なみに分け行っていく』

私たちも日吉大社横手から石段を登って山に向かった。
林道が山道に変わり、次第に高度を上げる。見晴らしのない送電線鉄塔の立つ台地からは、なだらかで歩きやすい道になる。東塔本坂という参道で、昔はたくさんの人が利用した参道のようだ。短い急坂を過ぎると三体の石地蔵立つ草地に着き、ここからも坂本に下る道がある。亀堂を過ぎ、法華堂を見ると舗装の坂道になり、まもなく延暦寺の境内に入った。日吉神社から、途中の休憩を含めて1時間15分ほどだった。

 

 

後に伝教大師と呼ばれる最澄は比叡山で修行を終えたのち唐に渡り、帰国後、大乗仏教を広めるために比叡山寺(現在の根本中堂)を建立する。しかし、悲願であった戒壇を勅許を得て設立できたのは没後7日目。822年のことだった。『あらゆるものに生命が宿っている、この自然に満ちた山に入って、人は誰もが救われ、成仏することができるにのであった』

延暦寺は最澄の弟子で「念仏」を広めた円仁、中興の祖・良源(慈恵大師)、恵心僧都・源信など数々の名僧を生み発展し、鎌倉時代には、ここで学んだ法然、親鸞、道元、日蓮などが新しい宗教(宗派)を広げていく。しかし南北朝時代から戦国時代にかけて『多くの僧兵をかかえた比叡山は、大きな権力として、歴史の中に大きく揺れ動くこととなる。』織田信長の焼き討ちによって、山内すべての伽藍が灰となり、数千人の僧俗が殺戮された悲惨な歴史はよく知られるところである。

しかし、『焼失した本尊薬師如来像を、新たに美濃の横蔵寺から迎えた1543年に、千日の回峰行を満行した一人の僧があった』。この好運法師ら数少ない僧たちが比叡山に修学し、行を続けたために法灯は引き継がれ、再び現在見る姿になった。本書では、この章を今も行われている「千日回峰行」に同行した著者の貴重な体験記で終わっている。

『比叡の山上からは、琵琶湖が東に、西に京の市中が望める…盆地を囲む山なみのうちでもっとも高い比叡山を、京都の人たちは「お山」と呼んで親しんできた』

 

 

その「お山」の最高点へは、東塔と阿弥陀堂を結ぶ回廊の下を潜り、墓地と古いお堂の横を登る。給水設備があり、その裏の暗い杉木立の中の高みに登ると、「大比叡」の山名板があった。一等三角点(848.3m)がうずまっていたが、残念ながら背の高い杉木立に周囲を囲まれて、展望は全くなかった。


秋晴れの矢田丘陵(2011.09.07)

2011-09-07 13:56:57 | 矢田だより

5時45分、太陽が東の山に顔を出す頃、横山北のお地蔵さんの前を歩き出しました。今日はいつもと逆に東明寺の方から登ります。

大谷池の下にセンニンソウが咲いていました。

東明寺にお参りして(06:00~06:05)こどもの森へ登る途中にギンリョウソウモドキが朝日を浴びていました。春にはギンリョウソウが見られるところの、すぐ近くです。

尾根道に出て矢田山に向けて登っていくと、いろんなキノコが顔を出しています。
こんなユキダルマのようなのや…



写真よりもっと金色に光っていたキノコ

大きなケーキのようなキノコ

矢田山最高所の手前にあったヤブミョウガの群落。
写真を撮っていると、右手の斜面をうなり声をあげて、かなりの速度で藪をガサガサ分けて走っていくケモノがいました。イノシシでしょうか?生駒山系にはおりますが、平群谷を越えてこちらには来ていないと聞いていたのですが…。東明寺近くにはアライグマが出没しますし、この辺りの動物の生態系にも変化が出てきているのかも知れません。

矢田山最高所のまほろば展望所で気温18℃。腰を下ろしてビスケットとコーヒーの軽い朝食をとりました。(06:55~07:05)
このまま降りるには惜しい天気なので国見台へ足を延ばしました。

快晴の国見台(07:40~07:45)から南方の眺め。台高の山なみも見えました。

急坂を矢田寺へ下りました。お詣りを済ませて(08:15~08:20)アジサイ見本園へ行ってみると…

美しい秋咲きのアジサイが咲いていました。
この時期にならないと見られない、葉がシャクナゲのような確か中国原産と聞いた珍しいアジサイです。

北横山帰着、08:35。
3時間近く山中を歩いて、出会ったのは国見台での二人連れだけ。涼しくて快適な早朝の山歩きでした。