2011年9月12日(月)
膝の痛みなどで2年間のブランクがあって、やや不安を感じながらも楽しみにしていた富士登山。富士川SAでは頭だけしか見えなかった富士が、西富士道路から国道139号線に入る頃から次第に姿を現してきた。
富士山スカイラインに入ると、真っ青な空を背景に秀麗な姿を惜しみもなく見せてくれる。
前を行くトラックのナンバーも「富士山」。いわゆるご当地ナンバーだが、山梨・静岡両県の陸運局区域にまたっがっているのは珍しい。
市街地から郊外住宅地、そして緑の樹林帯を延々と走って西臼塚駐車場を過ぎると、右に折れて昔の料金所をくぐり登山区域に入る。この辺りから霧が出てきて、高鉢駐車場からの写真は撮れなかった。途中で片道相互通行個所があり、あとで聞くと3月の大震災で決壊した道路の復旧工事中だった。家を出てから6時間強で着いた五合目の駐車場はかなり埋まっていたが、幸い出た車のスペースに駐車できた。
この上がTVCMでお馴染みの広場だが、霧のヴェールに包まれて富士は姿を見せない。
16:40 身支度をして歩き出す。新しい公衆トイレの横から登山道へ入ると観光客の姿は次第に少なくなる。
並行して走るブル道を右に見下ろす頃、霧が晴れて山頂部が姿を見せた。オンタデなどが赤く色づき始めている。来月には見事な草紅葉が見られるだろう。
17:00 六合目着。ここには二軒の山小屋がある。定宿の宝永山荘では渡井夫妻が笑顔と握手で迎えてくれたが、この時期にしては客が多く広い小屋の中は混雑している。 夏の最盛期以外は下にいる筈の箱入り娘さんの環さん、と次男坊のお嫁さんも忙しく立ち働いている。小屋の前の、いつもは冷やしラムネなどを置いてある台が祭壇風に飾り付けてあるのを見ていると、お茶を入れてくれたタマちゃんが「今夜はお月見よ」と教えてくれた。そうか!天気予報ばかりに気をとられ、今夜が「中秋の名月」ということをすっかり忘れていた。
<このタマちゃんはとても気の利く明るい娘で、昔から変愚院と仲良しです。>
飾り付けられたお供えの数々。富士山の水で育った山麓の野の幸とお酒、お菓子、お団子。酒には月に因んで懐かしい「月山」や湯殿山のお神酒も…。地元の人を中心に持ち寄られたもので、真っ赤で大きなケイトウを生けた女性のお宅は剣ヶ峰を仰ぐ富士の中腹にあり、「何度登ったか数え切れない」そうだ。
いつものように、高度に体を慣らすのを兼ねて宝永火口まで散歩に行く。足元のコケモモも少しづつ色づいて秋を告げている。
火口への降り口で何人かが、宝永山腹に流れる霧を見ている。ブロッケン現象が見えるという。
霧が濃くなると、はっきりとブロッケンが現れた。朝の穂高や笠ヶ岳などで何度か見たことがあるが、夕方のものは珍しい。(1986年、始めて富士に登った時も七合目で見ている)。始めて見た若者二人が驚いていた。記念写真のシャッターを押してあげるついでに、この現象が、「背中の太陽と一直線になる正面に霧のスクリーンのあること」の条件が重なった時に見ることのできる、珍しいものだと話してあげると、とても素直に喜んでいた。
影富士の上に満月が登ってきた。(17:57)
雲海の上に愛鷹山が顔を出している。雲の絨毯の上を歩いて行けたらなあ。
美しい夕焼けが明日の晴天を約束するようだ。(18:04)
夕焼けを見ていると真下の道を登ってくる一団がいて、そのリーダーは村山古道の再興者・畠堀操八さんだった。このメンバーは「村山古道を歩く」会で、11日に田子の浦を出て二日かかって六合目に到着したところ。畠堀さんとは2006年9月にこの小屋で隣り合わせで寝たこともあり、挨拶をするとすぐに思い出してくれた。上の写真は宴会後のもの。この後、外に出て月を見ながら「村山古道」に対する行政の動きへの不満など、いろいろな話を聞かせて頂いた。
*「村山古道」に対する行政の動き=1.静岡森林管理署は「国有林への立ち入り禁止」を主張し、地元民の立てた道標の撤去を求めている。 2.世界文化遺産の登録を前に。「修験道遺跡」の保護と調査を理由に、地元住民を含めた村山古道への立ち入り禁止を求めている。詳しくはこのサイト をご覧ください*
「お月見の会」の宴会が始まった。宝永山荘のオーナー渡井夫人が自慢の腕を揮った「イノシシ鍋」などのご馳走が並んでいる。タマちゃんの話では猟師さんが仕留めたイノシシの肉だそうで、私たちも頂いたが、じっくり煮込んであって本当に美味しかった。
この会は去年から始まり、「富士の恵みに感謝の会~富士山六合目で見る十五夜~」と銘打って20名限定でネットで会員を募集したものである。私たちも渡井夫人から「常連さんです」とメンバーの皆さんに紹介された。写真は、この会のコーディネイター・向笠友子さん。
富士宮のギャラリー大蔵のオーナーで、自身も内外でいくつもの賞を受けている画家である。このTシャツももちろんご自身の筆によるもの。
私たちはプライベートルームで夕食。数あるメニューのうち、名物「富士宮焼きそば」を注文した。天婦羅(高度が高いのでとてもカラッと揚がる…タマちゃん談)と猪鍋汁、それに生ビールを頂いた。
向笠さんから「お供えのお下がりです」と、大鉢に山盛りの枝豆と茹でたピーナツを頂いた。
とても食べきれない凄い量だ。
外に出ると煌々と名月が輝いていた。下界の町明かりが美しく輝いている。
明日に備えて早めに二階の寝室へ上がる。隣は白人の青年。0時半に起きてご来光を見に登ると話していた。
とてもいい時に行かれましたね。
私は富士山まだ登ったことなしなので詳しいこのレポート拝見しているとわくわくしてきます。
続きが楽しみです。
確かに変化に乏しく、登り一方で苦しいだけの山です。
しかし、やはり魅力があって1年たつとまたシンドさを忘れて行くたくなる不思議な山です。
お天気ばかり気にしていて、お月見の夜ということを忘れていました。
満員の小屋でしたが、おかげでいろんな出会いもあり楽しい夜でした。
解説もいいです。
-------------------先に触れましたB社の
米人社長は現社長の前任のようでした。済みません。
これまでの白人に加えて韓国の人が多くなったようで、道標にもハングル文字が併記されていました。
次回のリポートもよろしくお願いします。
ブロッケンのことですが、夕方は初めてと思ってそう書きました。あとで
気になって古い山日記を見ると始めて義父と富士に登った1986年にも(7月28日16時15分頃)、
七合目で見ています。人間の記憶は不確かなものですね。
先のレポートは書き換えます。