ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

山岳霊場巡礼(3) 金峯山

2011-09-22 11:07:58 | 矢田だより

*しばらくお休みしていた久保田展弘著「山岳霊場巡礼」の読書感想文?「大峰山と熊野三山━山と海の他界信仰」の章を3回に分けて見て頂きます。『』の部分は同書よりの引用です**

金峯山は役行者による開山とされている。
「日本霊異記」には40余歳まで山中で修行を積み、不思議な験術を身に付けた「役の優婆塞(えんのうばそく)」として登場する。神々を使役して金峯山と葛城の峰の間に橋を渡そうとしたところ、土地の神・一言主は己の姿が醜悪なために昼は姿を見せず、夜だけしか働かなかった。

 
<これがその岩橋の橋台(橋桁を支える部分)だ!?>

そのため役行者に折檻される(!神様なのに…!)。恨んだ一言主が役行者が謀叛を企んでいると讒訴したために、母親を人質にされて捕縛され、伊豆大島へと流された。しかし、流刑中も夜になると富士山へ飛行して遊んだという。この流罪は「続日本記」(正史)に文武3年(699)5月24日のことと明記されている。韓国連広足に「呪術で人を惑わしている」と讒言されたとされる。



<伊豆・浄蓮の滝近くで見た役行者石像。「大瀬海岸には飛行の蓑を懸けた蓑掛岩がある」など、伊豆に残した足跡が説明板に記されていた。>



<吉野桜本坊所蔵の役行者像>
役小角(行者)が元興寺で孔雀明王呪法を学んだのは17歳と言われるが、その後、葛城山中で修行、さらに大峰山系で修行を重ねた。

金峯『山上で一千日の苦行をし、祈りを込めた満行の日に「金剛蔵王権現」を感得したと伝えている』。『役の行者は、みずから修錬のすえに感得した蔵王権現の姿を、桜の本で刻み、蔵王堂に祀ったというのが伝承である。以来、吉野では、桜は権現の神木として、たとえそれが枯木であっても、 薪などにはしなかった。』

吉野山のサクラはその後の寄進などにより、現在の上千本、奥千本で知られるように日本を代表する名所になった。

金峯山という名前は青根ヶ峰の金峯神社祭神が金山彦(金属精錬の神)であるように、もともと金属との関連を匂わせている。それが仏教と習合した後は黄金浄土の信仰となって「かねのみたけ」と呼ばれ、『現世の富貴と長生を願う庶民信仰として』広まっていく。
 こうして吉野山の最隆盛期には山下百数十坊、山上にも三六坊があったという。これらの坊にいた山伏の集団が巨大な兵力集団として勢力を持つ。古くは壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)が隠棲し、兄・頼朝に追われた義経はここに隠れ、足利尊氏に幽閉されていた花山院を脱出した御醍醐天皇は、一山の大衆を頼って南朝(吉野朝)を置いた。吉野山は「軍書に悲し…」と言われるようにさまざまな歴史の舞台となった山でもある

<勝手神社:文治元年(1185)、雪の吉野山で義経と別れた後、追手に捕らわれた静御前は、この社殿の前で舞をまった。居並ぶ荒法師たちも涙したという>

<吉野朝宮跡:蔵王堂の裏手にある南朝の皇居跡。この付近の大小20に及ぶ寺院のうち、最大の実城寺が行宮(後醍醐天皇の御座所)となった>

ところで地図上に名前のない金峯山、また大峰山は、どの山を指すのだろう。本書によると『吉野山の、山下蔵王堂あたりから、山上の蔵王堂あたりまでをふくむ一帯が、金峯山 ということになる。』
 ここでいう「山上の蔵王堂」とは、山上ヶ岳(1719m)の蔵王堂のことである。そして大普賢岳、弥山、さらに八
経ヶ岳(1915m)を経て、『釈迦ヶ岳、大日岳、地蔵岳、さらに玉置山から熊野川にいたる一大山脈を大峯山と呼んでいいのだろうと思う』と記されている。