ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

高円山から滝坂の道(2011.09.27)

2011-09-27 19:37:26 | 山日記

<コースタイム>高畑(丸山駐車場)09:17…登山口(紅葉橋)09:50…大文字火床10:17~10:35…高円山(二等三角点432.2m)…高円山(最高所461m)…新池11:45…首切地蔵11:52~11:57…紅葉橋(コーヒータイム)12:35~12:52…春日大社13:20…高畑13:40

素晴らしい秋晴れの朝、駐車場は9時にならないと開かないと思い込んでいつもより家を遅く出た。(実際は公営駐車場は9時だが、民間の丸山駐車場は7時半から開いていた)。まだ、殆ど車の影のない駐車場から、春日大社の南側の車道を東に向かって登っていくと、陽射しを正面から受けてすぐに汗が吹きだしてきた。飛鳥中学校の前から御嶽教を過ぎた辺りで白毫寺に向かい、墓地の横から登るのが普通だが、前回(2008年11月)同様、直進して住宅街を抜ける。

柳生街道滝坂道の入口にあたる紅葉橋のすぐ手前に「巨樹に親しむ会」の立てた「滝坂の森演習林」の立派な標識があり、その横に火床への道を記す道標があった。ここから右の疎林の中に入ると踏み跡が入り乱れて少し分かり難い。前回は右に寄り過ぎて藪漕ぎをする羽目になったので、その時の下りの記憶を頼りに左の踏み跡に入る。涸れた小沢を左に見下ろしながら登るが、今度は少し左に寄り過ぎたらしい。しばらくで、ややしっかりした踏み跡に出たが、急坂の登りが連続して汗びっしょりになる。分岐から12,3分で勾配は緩まり、白毫寺から北寄りに来る道と出会う。更に10分ほど登ると、同じ白毫寺からだが南寄りにきた道に合い、すぐ上に明るい陽射しの草地が見える。

カンカン照りの台地に飛び出すと大文字の火床の最下部で、眼下に大仏殿の屋根や奈良市街、その背後に生駒山や矢田丘陵、左手遠くには台高の山々も見える。影を求めて「大」の字の「ノ」の端っこ、残った薪などを置いてある近くの木陰で腰をおろす。涼しい風が心地よく吹き抜けていく。軽装の人が登ってきて、少し立ち止まって汗を拭ってそのまま登って行った。

10分ほど休んで、大文字焼きの炭が残る火床に沿って草地を登る。展望はさらに広がり、振り返ると右手の若草山が見える。「慰霊奈良大文字送り火由来」碑(写真左下)の横を通る。大文字焼きは明治以来の戦争で犠牲になった方々の鎮魂のため、昭和35年に始まったことが記されている。108個あるという火床の一番上方に腰を下ろしていた先ほどの男性は、近くの人で毎日のようにここまで登ってくるとのこと。挨拶を交わして木陰の道に入る。

林間の急坂となり、しばらく長い石段が続く。三年前にはなかったと思うので、想像だが大文字焼きの薪を運ぶために整備されたのだろうか。登りきると道は右にカーブして山腹を捲いていく。分岐に上の高みにある三角点を示す道標がある。

クモの巣に悩まされながら緩く登ると二等三角点が埋まっていた。元の分岐に帰り、平坦になった道を行くとススキの穂がなびく、じめついた草地に出る。抜けると無舗装の林道になり、しばらく行くとドライブウエイに飛び出した。右手に展望台、その奥に自動販売機がある。向かい側のホテル敷地内の車道は、今日は車止めの鎖もないので始めて上へ登ってみる。

高円山ホテル裏手のこの高台に、地図では高円山最高所(461m)の標点があるはずだが、現在工事中でブルーシートなども見える。辺りを探し回ったが見つからないので、一応この白い土嚢で囲まれた小さな赤い杭ということにしておく。

ドライブウエイは歩行者通行禁止なのだが、前(2002年)にはすぐ横に途切れ途切れながら道が続いていた。今日はそれらしいものが見当たらず、一度踏み跡に入ってみたが途中で行き詰まり、道迷いもバカらしいので引き返して結局は地獄谷石窟仏の分岐まで通らせて貰った。

大きな標識に導かれて左に下ると、新池の畔に出た。昔々、子供と一緒に来て池の土手で弁当を食べた懐かしい思い出がある。

ここからはすぐに首切り地蔵の前にでる。20名ほどの大グループが前の休憩所付近に群がっていた。ちょうど出発する様子だったので、静かになれば昼にしようと、しばらく待ったが一向にその気配がない。新しくなったトイレの前の水道でクモの巣でべとついた顔を洗って、下ることにした。

この柳生街道・滝坂の道は、何度も通った道だが古い石畳の道はいつ来ても風情がある。岩から滴り落ちる水、谷間を流れる水がそこはかとない冷気を運んでくる。 大文字山火床から首切り地蔵までは誰にも会わず、気味悪いくらいだったが、ここは何人か登ってくる人があり挨拶を交わす。

朝日観音。今日は光線の具合が良い。

夕日観音は♀ペンが傍まで行って写真を撮ってきた。

この辺り、ヤマナシの実がたくさん落ちている。寝仏を過ぎると、間もなく紅葉橋に着く。朝の登山口を見送って、舗装路が始まる手前で腰を下ろしてコーヒータイム。後は駐車場まで舗装路を歩くだけ。♀ペンの発案で春日大社にお参りして帰ることにした。


山岳霊場巡礼 (5)熊野三山

2011-09-27 08:11:47 | 読書日記

**2011年9月3日、西日本を襲った台風12号により被害を受けられた皆様へ、心からお見舞いを申し上げますと共に、一日も早い復旧をお祈り申し上げます。また熊野三山はじめ世界遺産である「紀伊半島の参詣道」が、元の美しい姿に帰りますよう心から祈っております**

奥駆道最後の行程は、この玉置神社から始まる。そして、大森山、五大尊山を上下して次第に高度を下げて七越峰から熊野川の河原に下りる。

『吉野から熊野への、奥駈け修行の最後の行は、本宮の旧社地に近い音無川の川畔で営まれる勤行で終る。』
私の奥駆道の終点もこの河原だった。国土地理院地図に「奥駆道備崎」と記されている地点の向い側は熊野本宮である。修験者たちは熊野川を渡渉して本宮に向かうが、私たちは堰堤の上を少し歩いて140kmに及ぶ全行程を終えた。

写真は別の年に中辺路を歩いた時、小辺路と交わる辺りから見下ろした景色で、深い谷間の向こうに大雲取、小雲取の山並みが何重にも連なり、見下ろす熊野川の河原に大齊原(本宮大社旧社地)の大鳥居が見える。

『興味深いのは、この本宮の旧社地が、かつて熊野川と音無川の合流点にあったことである。川の合流点に聖地をおくのは、インドのヒンドゥー教の聖地をはじめ、さまざまな宗教にその例は多い』 

吉野と熊野は、もともと一体として考えられていたものではない。それぞれ別の宗教的世界が、連続する山岳地帯を移動して修行の場とした修験道信者・山伏によって結びつけられたのである。

現在、熊野本宮の祭神はスサノオ大神が祀られているが、明治の神仏分離令の前までは信仰の中心は證誠殿に祀られた阿弥陀如来だった。

また、速玉大神はイザナギノミコトがイザナミノミコトの死体に触れた穢れを払うために吐いた唾から生まれたとされ、新宮の速玉神社の祭神となっている。しかし、ここには明治まで薬師如来が安置されていた。

そしてイザナミノミコトを祀る熊野那智大社に隣接して、

 

観音菩薩を巡拝する西国三十三観音霊場の第一番札所、青岸渡寺がある。三十三ヵ所巡拝は花山法王の頃から盛んになったと思われるが、法王は出家して那智に千日の籠山行を果たしている。

青岸渡寺から那智の滝が見える。

落差120m。那智ではイザナミノミコトを祀る本社よりも、ここ飛滝権現への奉仕が重んじられてきたという。この滝は千日籠もりには「山籠もり」の他に「滝籠もり」があり、明治に入っても42歳でこの滝で捨身入定を果たした行者があった。 また、近くには観音菩薩の住むといわれる聖地「ポータラカ」へ小さな箱に入って渡海入定した、多くの僧たち所縁の補陀落寺がある。

『蔵王権現から郡智の観音信仰へ。この一大山岳霊場には、いまも地つづきの信仰が生きている。大自然の息吹きと、その尽きないエネルギーが、神仏習合という、日本のもっとも自然で力強い宗教世界をつくってきたのである。』