本日放送のNHK「歴史秘話ヒストリア」では、鈴木孫一と雑賀衆が取り上げられていました。この番組は、ときどき新しく発見された事実などを拾って興味深い内容もあるのですが、あらかじめ決まったイメージや結論に沿うように話が構成されるという、歴史を扱ううえでもっとも慎まなければならない悪挙に訴えることが少なくありません。今回の孫一と雑賀衆でも、その傾向は如実に表れており、いつにもまして鼻につくものでした。
「雑賀衆と鈴木孫一」というと、おそらくコーエーさんの影響で、織田信長という大敵に屈することなく歯向かい続けた反骨のヒーローのようなイメージが定着しています。たしかに、雑賀衆は地力では圧倒的に劣るものの、優れた鉄砲術を駆使して信長を大いに苦しめました。ですが、近年の研究では、雑賀衆も決して一枚岩ではなく、生き残りのためにそれぞれがお互いを牽制し合いながら自家の道を探っていた姿が浮かび上がってきています。孫一についても、くわしくみていくと、従来のステレオタイプ的なイメージとはだいぶ違った人物であったことがうかがえます。
そもそも雑賀衆とは、現在の和歌山県紀ノ川流域の小領主たちの緩やかな連合体を指します。鈴木孫一は、そのなかのリーダー格の一家ですが、それでも所領の規模はたかが知れています。名前は「孫市」とも、苗字も「雑賀」とされることもあります。雑賀衆は、大名クラスの大兵力を動員することはできませんが、鉄砲術に通じ大量の鉄砲を所有していたとされ、信長に抵抗する勢力に傭兵のような形で加担し、信長軍を苦しめていました。
雑賀衆の鉄砲術を危険視した信長は、天正五年(1577)にいわゆる雑賀合戦と呼ばれる雑賀衆攻略に乗り出します。このときも、孫一らは鉄砲隊を効果的に使って、大軍を追い返すことに成功しています。番組では、雑賀衆が一丸となって信長に抵抗したかのように放送していましたが、実はこのとき、雑賀衆は信長方の工作による切り崩しに遭っていました。それどころか、数だけでいえば寝返った領主の方が多いとさえいえます。
四周に敵を抱える信長軍は、雑賀攻めが長期化するのを厭い、一旦囲みを解いて帰っていきます。すると、孫一らは寝返った雑賀衆のメンバーへ報復攻撃にでました。同じ雑賀衆同士で、血で血を洗う内戦状態となったのです。
雑賀合戦から8年後の天正十三年(1585)、紀州に再び大軍が押し寄せます。信長はすでにこの世になく、大軍を率いてきたのは羽柴秀吉でした。秀吉の攻勢の前に、やはり雑賀衆は分裂し、態勢を固められないまま雑賀郷は制圧されてしまいました。このとき、雑賀のヒーロー鈴木孫一はどこにいたのかというと…なんと、秀吉軍の陣営にいて、かつての仲間を狩っていました。孫一を反骨のヒーローに仕立てたい番組では、もちろんこの事実にはまったく触れていません。雑賀衆が滅ぼされたとき、孫一は滅ぼす側として参戦していたのです。
当然、「なぜ?」と思われるところでしょう。話は3年ほどさかのぼります。鈴木家は浄土真宗を信仰していましたが、その総本山である石山本願寺が信長と和解すると、孫一は親信長派に転向してしまいました。そして、織田家の支援を受けて、反信長派の雑賀衆領主を攻撃しはじめました。
この時点で、一般的なイメージとは大きくかけ離れてしまっているように思いますが、天正十年(1582)に本能寺の変が起こると、事態はさらに動いていきます。信長という後ろ盾を失った孫一は、知らせが届いたその日のうちに雑賀から逃亡し、信長の一族が守る城へと駆け込みました。翌日には、信長の威を借りた孫一に苦しめられていた反信長派の雑賀衆領主たちが、ここぞとばかりに鈴木氏の館を焼き討ちにしました。
帰る場所を失った孫一は、途中の経緯は不明ですが、信長亡き後に台頭した羽柴秀吉に仕えるに至りました。その後は、前述のとおり、秀吉麾下の武将として雑賀攻めに参加しました。
繰り返す通り、雑賀衆や孫一を反骨のヒーローに仕立てたい番組では、親信長派への転向以降の変節や、雑賀衆内の不協和音については一切触れられていません。正統派の歴史番組を喧伝していながら、事実を無視したり捻じ曲げたり、都合のいいように史料を選んだりといった、歴史と真摯に向き合おうとしない番組の姿勢には、こうしてしばしば失望させられます。
ちなみに、この回にこんなに食い付いたのは、今年の冬に、雑賀合戦の際に孫一らが拠ったとされる雑賀城跡や弥勒寺山城跡を訪ねたばかりだったから、というのもあります。雑賀衆を滅ぼした後に秀吉が築いたのが、後の和歌山城です。