塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

石田衣良氏とサイレントマジョリティ

2006年11月04日 | 社会考
≪中国、韓国と仲良くした方がいい?しなくてもいい?今回のこたえは数字のうえでは「しなくていい」派が圧倒的だったけれど、応募しなかった多数のサイレントマジョリティを考慮にいれて決定させてもらいます。中国・韓国とは仲良くしたほうがいい。あたりまえの話だよね。≫
毎日新聞で石田衣良氏

 『サイレントマジョリティを考慮に入れて』、ってこれ最高!!これさえあればあらゆる社会科学に天下御免の印籠を叩きつけることができます。というか、これで日々より精度の高い調査方法を模索する統計学者や、それを用いて分析・研究を進める広い意味でのあらゆる科学者(政治・社会・経済等々)を敵に回しかねないのではないかと心配です。

 サイレントマジョリティについてはあちこちでお祭りになっているようですが、ここではひとまず置いておくとして、僕が注目したいのは、これを発言したのが(一応)文学者であるということです。
 
 金沢大教授で社会思想史を専攻する仲正昌樹氏は、著書でドイツのギュンター・グラス、日本の大江健三郎(ともにノーベル文学賞作家)のように、政治的発言をして大きな影響力を発揮する文学者は多数いるが、それは通常とても「分かりやすく」、「単純」であると述べています。僕もこの意見には非常に共感を覚えます。文学者が政治的発言を行う場合、当然ながら基本的に文学的なロジックでなされるので、政治学の側から見ると右寄りの主張にしろ左寄りにしろ、どこかユートピア的に響くところがあります。

 その原因は、理想が彼岸の彼方にあるというわけではなく、その「方法」が極端に「分かりやすく」「単純」である点にあるのではないかと思います。通常、文学は自己や自分を含める何らかのカテゴリーと対峙することに重きを成します。つまり、人間あるいは人間集団の内面と向かい合う作業を主とするために、このロジックを政治に当て嵌めることで一対一対応のような構図が出来るのだと思います。
 
 逆に僕がやっている政治史(に限らず歴史科学全般)の分野は、どんどん細分化する傾向にあるので、僕としてはそうした研究・主張の蓄積を才能ある人が整理して単純化・定式化してくれることを願っているのですが、どうも文壇やその周辺の人達は最初から単純な図式を追及しているように見えるので、どうしてもユートピア的に映ってしまいます。

 しかし、石田氏の発言はそれ以前に方法論そのものを全く放棄している、つまり最早論じるにも値しないレヴェルに墜ちています。上記の文脈に属する文学者であれば、というよりも常識的に、統計の結果は結果として受け止め、自分の理想と方法に照らした上で分析・解釈し主張を進める、といのが求められる姿といえるでしょう。――おそらくは方法論など考えたこともないために――ロジックもレトリックもばっさり切り落として、自分にとって気持ちの良い主張だけを言い逃げしているという、凡そ論壇に立つものが最も恥ずべき行為をやってのけてしまっているように思います。

 石田衣良氏と言えば、日本の同時代小説を代表する一人であると記憶しています。文筆を生業とする者がこのような論説を公にして悦に入っているとは、日本文壇の堕落を痛感せずにはいられません。この話はもっと思うところがあるのですが、ネタが一発突発的なものだったのでとりあえず走り書き程度に留めます(これが出来るのがブログのいいところ?)。

 因みに、一年以上遡りますが、堀江氏逮捕以前のライブドアの記事に関して石田氏と立花隆氏を批判したITジャーナリスト佐々木俊尚氏のブログをふと思い出したので、参考までに紹介します。


※仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』光文社新書、2005年