塵埃日記

つれづれなるままに、日々のよしなしごとなど。

IS日本人人質事件:政府批判とテロ批判

2015年02月12日 | 政治
   
IS(Islamic State:イスラム国)によって日本人の人質2人が殺害されたとする動画が発信されてから、10日ほどが経ちました。交渉の余地があるのかも分からないテロリスト集団に対し、政府の措置は適正だったのか、人質を救出することはできなかったのか、また今後日本や日本国民はどう対応するべきかなど、多くの議論が喚起されています。しかし、これまでのテロリストとはさらに一線を画すISについて、我々が知り得る情報はあまりに少ないうえに正誤の判断のしようがなく、私ももちろん個人的には意見をもってはいますが、とても責任をもって主張できるというものではありません。

ただ、どの意見が正しいとか正しくないなどという以前に、事件発生以来国内でしばしば見受けられるある「議論の進め方」について、明らかにおかしいだろうと感じていることがあります。

それは、日本政府(安倍内閣)の責任を追及する意見に対して、「テロリストに味方するのか」とか「悪いのはISなのだから、そちらを責めるべきだろう」といった反論が、世論だけでなく政府側からも噴出しているという点です。今回の場合、「政府を批判すること」と「ISを非難すること」は、別に両立しないものではないと考えています。ISが非道であることは当然ながら、政府の対応もまずかったと双方を責めることは、論理的にも道義的にも何もおかしいことではありません。

あらかじめ申し上げておきますが、現下このような政府批判をもっとも声高に行っているのは民主党や共産党などの国会野党ですが、決して彼らを擁護しようというわけではなく、彼らの主張と私の意見が同じであるというものでもありません。ただ、悪いのはISなのだから政府批判はお門違いであるというのは、私からみれば論点のすり替えに他なりません。

このような、「政府批判はお門違い」という論調は、私の知るかぎりでは基本的にネットでの議論において勢いをもっているようにみえます。そうした論調が流行っているのがネット界だけであれば、(おそらく)実際の政治への影響は限定的なのだろうと思われます。ですが、ネットの議論を参考にでもされているのか、安倍総理大臣自らがまったく同じ論法を使っていることに、失望と危機感を覚えています。

今月に入っての予算委員会で、2億ドルの支援表明に際して昨年1月17日に安倍首相がエジプトで行った演説について、共産党の小池晃氏が「(人質の)2人に身の危険が及ぶとの認識がなかったのか」との質問をしました。演説時、日本政府は2人が人質に取られていることをすでに知っていたといわれ、そうであれば、演説が2人の身に及ぼす影響について首相が考えていなかったはずはないので、小池氏の質問は私の最大の関心事でもありました。これに対し、安倍首相は人質の2人について言及することはなく、「小池氏の質問はまるで、ISILを批判してはならないという印象を受ける」と反論しました。自身に向けられた質問に答えていないばかりか、「政府批判はお門違い」論ではぐらかしてしまっています。

ネットの議論であれば、それこそ誰も責任を負わない世界ですからいたって自由ですが、国会における総理大臣となれば、そうはいきません。少なくとも、首相が国会論戦で論理のすり替えを行ったとなれば、訊かれてはまずい質問をされてしまったと感じたのだという印象を与えてしまいます。お答えになっていない以上、安倍総理の真意が奈辺にあったのかは分かりませんが、しっかりと意見をお持ちだったのであれば、論理のすり替えなどせず、小池氏の質問を真っ向から受け止めるべきだったでしょう。

繰り返しますが、私は別に小池氏の肩をもっているわけではありません。というより、前述のとおり私の一番知りたいことを質問して下さってはいますが、はぐらかされて引き下がってしまっており、肝心の言質は得られず仕舞いでまったく意味がありません。はぐらかされたことに対してツッコむことすらできず、こちらはこちらで質問よりも揚げ足取りが目的と揶揄されても仕方のない有様です。

冷戦の終結まで、基本的に戦争は国家間で行われるものとされてきました。その固定観念が根幹から覆されたのが、いわゆる9.11でした。当時の同時多発テロを主導したタリバーンは、ISと同じようにみえますが、彼らは冷戦後に空白地帯となったアフガニスタンの権を「奪取」した集団であり、まだギリギリ国家間闘争の枠組みに収まっていました。これに対し、ISは国際社会の枠組みを真っ向から否定し、主義主張もはっきりせず、ただただ残虐性のみが際立っています。明らかに、戦争・紛争の手法やプレイヤーが、新たなステージに移行しているといえるでしょう。

このように 今までに経験したことのない新しい局面にあって、どのような対応が正しいか間違っているかなどということは、結果を見なければわからない部分も多いでしょう。そのようななかで、片方を責めるならもう片方は責めてはいけないとか、まして一方が悪ならもう一方は無条件で批判を免れるなどということはあり得ません。また、歴史の常ですが、今は正しいといわれても、後世の判定では間違っているとされることも(その逆も勿論然り)少なくありません。今回の件でいえば、我々一人一人が、ISへの非難の目と、政府への検証の目を、並立してしっかりと光らせることが重要なのではないかと考えています。

  



ヤマト運輸のクロネコメール便廃止: 国が後押しする日本郵便の市場独占

2015年02月01日 | 政治
   
先月22日、宅急便でおなじみのヤマト運輸がメール便事業を3月31日をもって廃止すると発表した。ヤマト運輸の説明によれば、郵便法に規定される「信書」の定義が曖昧であり、利用者が違法状態となるリスクを避けられないためとされる。これに対し、高市総務相は「信書は郵便法で明確に定義されており、(中略)個別の照会には丁寧に回答している」と反論した。しかし、定義が明確であれば、事業者や利用者が丁寧な回答を必要とするほど困ることはないはずで、総務相の発言は矛盾している。

ただ、私が思うに、今回の件の一番のポイントはそこではない。郵便法の内容が時代に合っていないこと、さらにいえば、国が合法的かつ狡猾に民間企業であるはずの日本郵便株式会社(以下「JP(Japan Post)」)の市場独占を後押ししているといわざるを得ない現状が問題であると思われる。

日本の郵便事業は、郵便法によって国の事業として独占することが定められていたが、小泉内閣による郵政民営化により、そのままJPにスライドして適用されている。すなわち、日本における信書の取り扱いはJPが独占するとされている。ここが第一の狡猾な点であるが、一民間企業であるJPの独占と断言しながらも、JP自体は独占禁止法違反とはならない。なぜなら、独占状態は法律によって創出されているのであり、表向きはJPが故意に独占しようと動いたわけではなく、またJP単体では独占状態の解消は不可能だからだ。

かといって、現行法の名のもとに公然と独占状態の存続を明言していては、当然ながらいつかは糾弾されてしまう。日本のビール事業は4大ビール会社に限るとか、日本の鉄道事業はJR各社の独占とするといった法案が検討されるようなもので、もちろん論外だ。そこで第二の狡猾な点として、郵便法でJPの独占が明示されているにもかかわらず、郵政民営化に先立つ公社化の際に施行された信書便法において、民間事業者の信書事業参入は可能とされた。この時点で新しく制定された信書便法と矛盾しているのだから、旧来の郵便法は改正されなければならないはずだが、そうはなっていない。独占の維持と新規参入の門戸開放という本来相反する2つの看板を並べて掲げ、独占の2文字をぼやかしつつ堅持しようとする姿勢がうかがえる。

また、時代の要求に応えたかのようにみえる信書便法にも、大きなまやかしがある。業務開始にあたっては総務省の認可を受けなければならないが、そのためには全国に一定数の集配設備を設置することや、全国へ3日以内に配達できるシステムの構築、事業収支の事前見積もりなどの要件を満たす必要がある。だが、国家事業として整備されたインフラと同様のものを民間会社に前提条件として要求するなど、無茶にもほどがある(3日以内の配達に至っては、JPでも完遂できていない)。「門戸は開いていますよ」といいながら、門前に戸口より大きな番犬を置いて、事実上入れないようにしているのが実態だ。

第三の狡猾な点として、JPと競合する可能性の少ない分野については、信書便事業を認めているものもあるという事実が挙げられる。先の信書便法には、一般の信書便事業のほかに特定信書便事業という別の認可基準が設けられている。こちらは、①対象品の長さ、幅、厚さの合計が90cmを超えるか、重量が4kgを超える②3時間以内に配達する③料金1000円以上、の3つのうちどれかを満たせばよい。これらに該当するもっともメジャーなものは、バイク便や自転車便などであり、おそらくJPがこれらの事業を手掛けることは、将来的にも想起されていないであろう。逆に、重量が4kgに達したり、3時間以内に届けてもらわないと困ったり、1000円分以上の切手を貼る必要のある信書をポストに投函する人はまずいないだろうから、JPの独占的地位は安泰である。

もう1つ、扱いが気になるものが電子メールである。郵便法によれば、信書とは「特定の受取人に対し、差出人の意思を表示し、又は事実を通知する文書」と定義されている。手紙や葉書をはじめ、私信の類はすべて信書にあたるわけだが、私のみたところ、電子メールはどう考えてもこれに該当する。手紙やはがきなどの文書を紙で送るか電子情報で送るかの違いでしかない。したがって、メールソフト提供者やメール事業者、およびメール送信者はすべて摘発されなければならないはずだが、そうはなっていない。当然ながら、郵便法は電子メールなどない時代につくられたものであるから、新しい概念を法律に照らし合わせ、必要であれば法律を改正しなければならないはずだ。だが、どのように判断しているかは知らないが、解釈で切り抜けているのだとすれば、それは定義が曖昧だからこそできる芸当といえる。電子メールも、おそらくJPが参入することはない事業であり、それゆえに法改正ではなく解釈の範囲で簡単に済ませてしまっているのだと考えても、邪推ではないだろう。

以上にみたように、ドラスティックな郵政民営化の裏で、郵便事業全体に関する法律や制度についは、いまだ現状や時代のニーズに応えているとは言い難い。それ以前に、そもそもJPが民間会社であるというのなら、自由な参入による市場競争にさらされなければならない。少なくとも、郵便法から「独占」などという文言は排除されなければならないはずだが、堂々と明記されたままとなっている。こうした姿勢からは、国やJPおよびその親会社である日本郵政が、法律や定義のズレを利用してJPの独占的地位の保全に奔っているとの疑念が生じざるを得ない。

今週月曜に始まった通常国会について、安倍総理大臣は「改革断行国会」にしたいと意気込んだ。改革対象の筆頭に挙げられているのは、JA全中解体を主体とする農協改革といわれる。こちらもとても期待される改革であり、ぜひ成し遂げていただきたいと思う。他方で、安倍氏も小泉内閣のもとで積極的に取り組んだであろう郵政民営化は、残念ながらまだ道半ばといえる。組織の解体という困難を抱えた農協改革に比べて、こちらであれば法律を数本改正するだけで済む。改革姿勢をアピールするのであれば、比較的簡単な郵便法および信書便法の改正を並行して議論しても、罰は当たらないように思われる。

 



8月第三週の不可解な動き:総理の靖国不参拝とロシアの北方領土軍事演習

2014年08月18日 | 政治
   
 日中は相変わらずの酷暑が続いていますが、少しずつ日が短くなってきたり、夜が涼しくなってきたりと、秋の足音がわずかながら遠くで聞こえてきているのを感じています。ブログがだいぶご無沙汰になってしまいましたが、とりあえず暑さのせいということにしておきたいと思います(汗)。

 さて、69回目の終戦記念日を迎えた先週、日本とその周辺で私には腑に落ちない政治上の動きが2つほどありました。

 1つは、安倍首相が靖国神社を参拝しなかったことです。このように書くと、「日本の総理大臣が靖国を参拝するのは当然!」という右寄りな方々の主張と同じように聞こえますが、そうではありません。少なくとも、私が今回感じた違和感は、日本国首相が靖国神社を訪れるべきか否かという問題とは別のところにあります。

 安倍首相は昨年12月26日、電撃的に靖国神社を参拝しました。「参院選にも勝利し、支持率が安定してきたので昨年中に1度参拝しておきたかった」という漠然とした動機以外に、今もなぜその日を選んだのかの理由がまったくわからない突然の参拝について、私はこちらの記事で疑問を呈しました。私はこのタイミングで参拝を敢行するのは愚挙であったと考えていますが、その理由は100%外交上のものです。突然の靖国参拝は、対日強硬姿勢が行き詰まって袋小路に陥っていた韓国の朴槿恵大統領に活路を、南シナ海での権益拡大を狙う中国には中韓接近という形でつけ入る隙を与える結果となってしまいました。したがって、昨年末の靖国参拝は、その日に行かなければならなかったという特段の事情がない限りは、外交上の大きなミスであると私は考えています。

 それならば、終戦記念日に靖国神社を参拝しなかったことに違和感を覚えるのは変だと思われるかもしれません。私が腑に落ちないとしているのは、今回安倍首相が靖国へ行かなかった理由が「外交上の配慮」とされていることにあります。つまり、昨年末は外交上の配慮をしないで参拝したにもかかわらず、今回は配慮するので参拝しませんとは、何たる矛盾というより無節操だろうと感じるのです。外交上問題があるから参拝しないというのであれば、昨年末の時点でするべきではなかったし、今回配慮するとした外交上の問題は、昨年末の参拝が大きな要因となって惹き起こされたものなのですから。

 国内に目を向けてみても、肝心の終戦記念日に参拝しなかったことで、右寄りの人たちからも失望を買ったのではないでしょうか。結局外交上の理由で膝を折ってしまうということになれば、昨年の参拝はただのパフォーマンスだったのかという批判にもつながりかねません。韓国が折れる寸前まで追い込んだところで、靖国参拝で敵に塩を送り、今回の不参拝でこちらが反対に譲歩しただなんて、敵失サヨナラ負けに近いのではないでしょうか。

 さらにいえば、安倍首相は靖国に参拝したいのなら、先週まであと半年待てばよかったのです。終戦記念日には少なくとも閣僚の何人かが必ず参拝するわけですし、そこへ首相が加わったとしても、中韓からみれば「今年は行くのかな?行かないのかな?…っあ~~、行きやがったか~」くらいで、諦観混じりの対応となったはずです。8月15日に日本の首相が靖国に行くかもしれないことは織り込み済みであり、もちろん抗議はしますが、半ばルーチンワークのようになっています。ところが、まったく関係のない師走に突如として参拝したものだから、隣国の激情に余分に油を注いだり、「こいつをどう利用してやろうか」などと悪巧みを練られてしまったりするのです。靖国参拝は、それ自体の是非と関係なく、するのなら8月15日を基軸としなければならないし、8月15日にしないのであれば、他の日にもすべきではないと考えています。

 2つ目の出来事は、先週火曜日に行われたとされる、クリル諸島でのロシアの軍事演習です。クリル諸島とはロシア側の呼称ですが、このなかには日本の北方領土が含まれており、実際に北方領土内でも演習が行われたとされています。

 この報道に触れて私が疑問に感じたのは、ロシアの目的です。わざわざ日本側の抗議を無視してまで行われたのですから、日本に対する何らかの重大なメッセージがあるとみるべきなのでしょうが、どうもそれがよく分かりません。ストレートに考えれば、ウクライナ情勢を受けての欧米各国の対露制裁に日本が加わったことへの報復とみるべきでしょう。

 ですが、北方領土はウクライナと違い、ロシアが実効支配している土地です。ですから、半分残念なことに、北方領土で軍事演習をされたからといって、日本には実害(とくに経済的な)がほとんどありません。もちろん、既成事実化が進展してしまうとか、ロシアが領土交渉に応じる可能性が低くなるといった問題はありますが、少なくとも制裁に対する報復という目的とはそぐわないように思われます。それどころか、ロシアは武力で国境を変更・確定しようとする不誠実な国であると明言しているようなものです。

 かといって、プーチン大統領は日本の総理大臣と違って実益を犠牲にしてパフォーマンスに走るような人には見えないので、何か目的があるはずではあるのです。それがどうにも見えてこないのが、とにかく腑に落ちません。

 かなり穿って考えて、1つ思いついたのが、今秋に予定されているとされるプーチン大統領の公式訪日です。今回の演習を受けて、プーチン氏来日に黄信号が灯り始めたとされています。ふと国際情勢を俯瞰してみると、現状で日本はプーチン氏に来てほしいと思っていても、プーチン氏は行きたくないと考えている可能性が高いといえます。そこで、今回の演習によって、できれば日本側からの抗議によって「プーチン氏は行きたいのに行けない」という状況を醸成しようとしているのではないかな、という筋書きがふと浮かんできました。それならば、①領土で譲歩しないイメージをアピールし②強いプーチン像再びで国内での支持を高め③日本で会いたくない欧米側の記者団などの前に出なくて良くなるという、一石三鳥くらいは狙っているのかな~っと、邪推がはたらきます。
 
 ウクライナ、ガザ、イラクのテロ国家と、武力衝突がらみだけでも今年だけで新しい問題がいくつも出てきています。そのようななかで、日本周辺でも不可解な動きが散見される状況というのは、なんとも不気味です。発足以来、政策については拙速な感の否めない安倍政権ですが、難しい国際情勢下での国の舵取りだけは、慎重に過たないようにお願いしたいところです。
 
  



ウクライナ上空マレーシア航空機撃墜事件雑感

2014年07月22日 | 政治
  
 7月17日に発生したウクライナ東部上空でのマレーシア航空機撃墜事件は、発生から4日が経過した今も、ブラックボックスはおろか遺体の収容すらなされていない異常事態が続いている。

 撃墜の「主犯」について、ウクライナ東部の親ロシア派武装集団(およびその背後のロシア)と、ウクライナ政府(および欧米諸国)との間で批判合戦が繰り広げられている。しかし、大方の国際世論は前者のほぼ仕業として確定してきているように思われる。

 私も、まず親ロシア派武装集団(以下親露派)の攻撃によるものだろうとみている。ただ、その判断のもととなっているのは、どちらがより信用できるかといった観念的なものではない。ウクライナ軍と親露派の戦闘はすでに数ヵ月に及んでいるが、この間親露派が航空機を使用したという話は聞いていない。空爆を行ってきたのはウクライナ軍の方であり、ロシア軍が直接軍事介入を宣言したのでなければ、ウクライナ側が空に向けてミサイルを放つ理由がない。すなわち、今回の撃墜をウクライナの犯行とするのは、それこそ朝鮮戦争でのソ連軍のようにこっそりロシア空軍をウクライナ上空で活動させていたのでなければ辻褄が合わない。

 この点はロシアも重々承知しているようで、プーチン大統領の声明を聞いていると、ミサイルを撃った直接の作為犯には決して言及することなく、戦闘を止めなかったウクライナが悪いと、あまりにも苦しい言い訳にとどまっている。その裏には、親露派の犯行であるとする証拠がいずれ見つかるのは所与として、その後も効力をもち得る理由づけを模索しているようにも見える。

 犯人はほぼ確定しているのだから、あとは散乱した残骸からロシア製の兵器によるものだとする確証を得るのみということになる。だが、犯人探し以上に、私は今回の事件で気になったことがある。それは、ウクライナ東部の親露派武装集団が、ロシアの制御下に収まってはいないのではないかという懸念だ。撃墜のあと、親露派がブラックボックスや遺体の回収に奔走し、現場になるべく外国人を入れないように固めていたというが、こうした行為そのものは親露派の側に立てば理解することができる(それこそが、自ら主犯であるといっているようなものでもあるが)。他方で、どこまでが本当かは分からないが、報じられているところによれば、現場の警備兵の一部は酒に酔っていたとか、遺体を物色していたなどといわれている。

 遺族の方々にはまったく申し訳ないが、遺体から金品を奪うという行為は、古今東西人類の歴史において、人間集団の変わらぬ業のようなものだ。ただ、金目のものを失敬するという程度ならともかく、クレジットカードを盗んであまつさえ早速使った形跡があるという話を聞くに及んで、少々驚いてしまった。そんなことをすれば、当然そのデータは公になるわけであり、「親露派が遺体を辱めた」というプロパガンダに利用されることは目に見えている。もし親露派と呼ばれる彼らが、ウクライナ東部地域の分離独立およびロシアへの編入などという高度に政治的な目的を達成しようと本気で考えているなら、そのような軽率な行為はもっとも戒められるべきもののはずだ。また、彼らが背後に控えるロシアの指揮下にきちんと組み込まれているなら、かのプーチン政権が遺体の扱い方について細かく指示をしていないとはとても考えられない。仮にしていたとしても、それが末端まで浸透していなかったわけだから、親露派武装集団とは思想も指揮系統も整っていない、ただの武装したならず者の集団に過ぎない可能性を露呈してしまったといえる。

 そのように考えると、今回の撃墜事故は親露派のミスという以上に、プーチン政権の一連のウクライナ経略構想において致命的なダメージを与えかねないように思われる。4か月ほど前に、こちらの記事にウクライナ問題に関する個人的な見解を述べさせていただいた。そのなかで、私はプーチン政権の一番の狙いはクリミア半島の獲得にあると考察した。広大な領土に比して使える海が極端に少ないロシアにとって、クリミア半島は数少ない外海へのアクセス経路である黒海ルートを掌握する要衝中の要衝であり、それに比べれば国境を接しているうえに広大な領土といえど、ウクライナ内陸部については、ロシアにとってはリスクを冒してまで手に入れる価値はほとんどないといえる。クリミア半島では直接軍事介入の可能性にまで言及しながら、内陸部との国境付近に配置したロシア軍についてはあっさり撤退に応じていることからもその姿勢はうかがえる。

 すなわち、クリミア半島さえ手に入れば、プーチン政権としては海もないウクライナ東部の州の1つや2つなど、興味の埒外とさえいっても過言ではないと思われる。そのような場所で、国際世論の批判を一手に浴びるような事件が起きてしまったのだから、プーチン大統領としてもまさに寝耳に水、瓢箪から蜂といったところではないだろうか。ロシアとしては、欧米諸国が直接的な制裁には二の足を踏んでいる間にクリミア領有の既成事実化を着々と進める腹積もりだったのではないかと推測されるが、今回欧米人に直接の死者を出す事態となってしまったため、欧米諸国もよりダイレクトな報復措置を講じざるを得ない状況となった。欧米が本腰を入れてしまったとなれば、もちろん戦争には発展し得ないまでも、彼らが片目をつぶって見逃してくれる可能性は一段と低くなってしまうことになる。別に欲しくもないウクライナ東部の州の武装集団のせいでそのような事態に発展してしまったということに、さぞやプーチン氏も苦虫を噛み潰しているのではないかと思われる。

 今後の推移については、何より親露派が当のロシアの統制下にないことが明らかとなったために、まったく予想がつかない。ただ、遺体の返還が遅れれば遅れるほど国際世論の批判が高まることは自明なので、ロシアはおそらく親露派を説得している(というよりなだめている)最中なのではないかというのが私の推測だ。ブラックボックスについては、「ロシア製のミサイル」に撃たれたと機長らが認識できたとは思えないので、誰の手に渡ろうと実はそれほど証拠能力はないのではないかと考えている。

 末尾になってしまったが、人のミスによる撃墜という悲劇に加え、遺体すら帰ってくる見通しがつかない遺族の方々の心痛や想像に余るものがある。今回の撃墜事件は純粋な戦闘行為ではないが、戦争というものがもたらす理不尽さを感じるには十分すぎるといえるのではないだろうか。

  



ウクライナ情勢の個人的解釈

2014年03月04日 | 政治
  
 いよいよ今年も3月に突入してしまいました。2月中は、大きな話題といえばソチ五輪と大雪の2つに絞られてしまい、何か書こうかと逡巡しているうちに時間が経ってしまいました。そのようななか、東欧ウクライナで親欧米派の野党議員らによる政変が起こり、親ロシア派のヤヌコヴィッチ大統領がロシアへ亡命する事態となっています。

 私が学生時代に西欧史を専攻していたこともあってか、周囲からはしばしば漠然と「どういうことなのか」と訊ねられます。とはいえ、私も東欧については専門外ですので、ヨーロッパの大国との関連で多少知っているという程度に過ぎません。それでも、日本の一般の方々よりはアドバンテージがあるだろうということで、簡単ながら現下のウクライナ情勢について、メディア報道に付け加える形で解釈と解説をしたいと思います。

 そもそも、ウクライナは面積も人口規模も比較的大きい国ですが、日本との関係はほとんど希薄といってもいいでしょう。ウクライナの位置や首都について尋ねても、すらすらと答えられる人はそう多くないのではないでしょうか。それは、ウクライナには残念ながら世界に誇れるほどの産業も天然資源もなく、世界の主要な通商ルートとも外れているというあたりに起因しているものと思われます。ですが、これはアジアや西欧からの見方であり、ロシアの視点に立つと、ウクライナの重要性が一気に増します。

 ウクライナは旧ソビエト連邦の構成国ですが、ソ連崩壊後は、ロシアを除いた旧ソ連独立国のなかではもっとも有力な国家の1つとなっています。さらに、ロシアと旧西側ヨーロッパ地域との間にあってロシアと境を接しています。同様のポジションにあるウクライナの北のベラルーシと並んで、ロシアにとっては重要な欧米勢力圏との間の緩衝国家となっています。ベラルーシのルカシェンコ大統領も、ヤヌコヴィッチ(元)大統領と並ぶかそれ以上に強権的な人物といえ、従順とはいえないまでも一貫して親ロシアの姿勢をとっています。

 これに対して、ウクライナの親欧米派はEU(欧州連合)への参加を希望していますが、西欧諸国やアメリカの側がロシアに喧嘩を吹っかけてまでウクライナをEU圏に引き込みたいかというと、おそらくそこまでの重要性は感じていないものと思われます。西欧諸国はウクライナ新政権への資金援助には前向きですが、NATO軍の派遣などの直接的な行動については否定的であると伝えられています。

 他方ロシアは、早くから軍による介入の可能性について言及しており、実際にクリミア半島での軍事活動が開始されているとみられています。ロシアは直接ウクライナと国境を接しているにもかかわらず、なぜ海峡を1つ隔てたクリミア半島で軍事介入の口火を切ったのか。ここに、ロシアの焦燥感と本気度が現れているといえます。

 クリミア半島は、黒海に突き出た口蓋垂(いわゆる「のどちんこ」)のような恰好をしています。黒海は、広大な面積に比して使える海が極端に少ないロシアにとって、外洋へ通じる数少ない内海です。そのうえ、黒海へのアクセスも満足とはいえず、それこそソチを南東隅とした、ロシアの外郭線からみればわずかな距離しか海に面していません。黒海における自前の軍港は、ノヴォロシスクほぼ1港のみです。

 ここで、クリミア半島の南西隅付近にセヴァストーポリという港町があります。ここには、近世ロシア帝国時代から海軍の要塞が築かれており、現在もウクライナから租借する形でロシアの海軍基地が置かれています。地図を開いていただければ分かると思いますが、ここを押さえられてしまうと、ロシアは黒海から外洋への自由なアクセスを失ってしまうことになります。クリミアを制する者は黒海を制す…とまで言うかは分かりませんが、事実19世紀半ばのクリミア戦争(露vs. 英仏土)や第二次世界大戦では、セヴァストーポリで有数の激戦が繰り広げられました。

 すなわち、クリミア半島の喪失はロシアにとって海防上の死活問題であり、ロシアがウクライナ本土よりもこの半島の確保を第一に動いたという事実は、ロシアが進行中の政変にいかに危機感を覚え、ウクライナの親欧米化を畏れているかを示しているといえます。今回の政変にともなうロシアと欧米の対立を「新冷戦」と呼ぶ風潮も出始めていますが、ロシアにいわせれば、第二次大戦後の冷戦黎明期とは逆で、西側の方がロシアの勢力圏に手を突っ込んできたといった印象なのではないかと思います。

 現在のところ、(表向きは)直接ロシア軍を投入してウクライナ国内の拠点を制圧するという挙にまでは出ていませんが、介入を表明しての軍事行動に至るのは時間の問題ではないかと考えています。

 ではロシアが露骨な軍事介入に出たら、欧米側も直接的な対抗措置を採るかというと、その可能性は極めて低いと思われます。地勢的に、対抗して介入したところでロシアを完全に抑え込むことは不可能でしょうし、冷戦のような深刻なイデオロギー対立があるわけでもないので、正当性にも欠けています。限定的な経済制裁というあたりが関の山でしょう。

 どの国にも地理的な制約というのはついてまわるものです。ウクライナの場合はロシアに接していてクリミア半島を有しているという点で、地勢的にロシアの影響から脱するのは困難という現実があります。ウクライナがEUやNATOの勢力圏へ傾倒しようとすればするほど、ロシアの締め付けや介入は強く露骨になっていくことは必定です。ウクライナが分裂するにせよ統合を維持するにせよ、また部分的にロシアに吸収されるにせよ、この地勢的な現実を理解し、両勢力圏の間を上手に立ち回っていく以外に、この国が発展していく道はないのではないかと改めて感じています。