今回の八戸訪問では、根城南部氏(遠野南部氏・以下八戸氏と記)が、寛永4年、太守南部利直の命により、遠野へ村(領地)替えとなり、遠野入部への街道が実は近年考えられていた道ではないのではないのか?・・・・そんな疑問を感じた藤九郎さんが僅かな資料の記載や口伝、土地勘等を駆使して、実際に旧道らしき道を探訪したとのエントリーを見聞きして、これは一度自分も訪ねてみたい、そんな思いから実現したことでもあります。
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しかしながら、八戸からみれば「登り街道(八戸街道)」とされる近世八戸藩が参勤交代で利用した街道が、そもそも旧街道としての位置付けで、その道は根城八戸氏時代から存在し、遠野入部に利用したのだろうという思い込みが強かった為に、それ以前の旧街道の存在はノーマーク、しかも前回(4年前)は、細かな下調べもなく、八戸から三戸という現代感覚のルートを選定し、素人同然の探訪を実施し失敗という経緯、さらに私自身、八戸を含む近隣地域の土地勘がないこと、点と点を結んで線としなければならないこと等、課題を背負っての今回の探訪であり、詳細については後に藤九郎さんから資料の写しを譲っていただいた後に考証したいと考えております。
ということで、とりあえず八戸~二戸間の概略のみをご紹介いたします。
○近世八戸藩
寛文4年(1664)太守南部重直(盛岡南部家)が後継を定めぬまま死去、幕府の裁量にて10万石の家禄の内、重直の弟、重信に盛岡8万石、同じく直房に2万石で八戸藩を創出させた。
いわば盛岡の分家ということになりますが、遠野へ移転した八戸氏を根城南部氏、或いは八戸氏、遠野南部氏と呼称し、近世八戸藩を八戸南部氏と区分けしている。
櫛引八幡宮
寛永4年(1624)3月9日・・・八戸弥六郎直義一行は住み慣れた根城を後にした。
朝卯の下刻といいますから午前7時頃に八戸根城を出門・・・。
そのまま、櫛引八幡方面へ向ったと推測されます。
櫛引八幡宮参道・・・門前町としての雰囲気が残されている。
櫛引城跡の東側付近
○櫛引とは四戸か?
九戸の乱で九戸政実に加担し命運を共にした櫛引氏一族の館跡が近在に存在している。
櫛引八幡はその昔、四戸八幡とも称されていたともいわれる。
また、櫛引八幡から僅か2キロの距離にある櫛引城、根城八戸氏の支配下との感覚ながらも、櫛引八幡との大きな関わりが感じられる。
櫛引氏は四戸氏系ともいわれるが金田一氏、足沢氏、島守氏と同系列ともいわれ、二戸の金田一が四戸との説も語られるも金田一は二戸の内との見解、櫛引八幡がかつて四戸八幡といわれたところを見ますと、四戸氏縁の社、そして一戸~九戸の地名での四戸の一部が櫛引である可能を秘めているという説を支持したいと思ってます。
脇道に逸れましたが、それらしい細い道が南方向へ続いてます。
東側の国道340号線はかつての八戸街道となっている。
我々が辿った道は・・・櫛引八幡~通清水~杉沢~中野~鳩田~・・・
中野館跡から
鳩田というところまでは点と点を繋げながらなんとか来たのですが、いつの間にか旧八戸街道に合流してしまった。
その後は旧八戸街道沿いに進む。
そしてひとつの基点である観音林(軽米町)
前回の探訪で、観音林は三戸町にあるものとばかり勘違いして、色々と現地の方々に聞いてみましたが、誰一人観音林のことを知る人はいなかった。
それもそうである観音林は岩手県の軽米町であったためでもあります。
まさに曰く付きの観音林・・・・なんとか今回行き着くことができました。
八戸直義一行との別れを惜しんだ領民達の見送りを受けながら八戸領内を進む一行、中には三戸境である観音林まで見送った人々も多数いたといわれている。
直義一行は観音林で昼食。
一里塚の説明板にある通り、おそらく八戸氏が遠野入部の際も一里塚は存在していた可能性があると思います。
進路を二戸方面へ、仁左平の山間部
対で残されている一里塚・・・ひとつしかみてません・・・汗
当時の雰囲気が残る旧街道跡
林道の脇には当時の道跡と思われる溝が続いている。
○爾薩体
仁左平(にさたい)とは、古代東北における古名、爾薩体のことといわれる。
弘仁2年(811)文室綿麻呂による閉伊、爾薩体の遠征が行われ、中央の権威も現二戸地方にも浸透としたといわれる。
堀野の一里塚
直義一行は金田一へ出て、福岡(二戸)に宿泊。
第1日目終了・・・・。
追分の石
奥州街道と登り街道(八戸街道)の分岐点・・・追分の石は国道4号との分岐付近に移動されているとのこと。
ということで、詳細までご紹介とまでは至らず、江戸時代の旧街道以前の街道跡、まさに点と点を結びながらの探訪、土地勘もないものですから、地図を見てもよく理解できていないが現実でもあります。
このことについては、資料等に照らして再検討しながら考察して参りたいと考えてます。
なお、八戸直義一行は二日目は難所の奥中山越え、巻堀泊(盛岡市玉山区・当時は遠野領)
三日目は盛岡に至り、紫波佐比内泊(遠野領)
四日目の3月12日、未の下刻・午後3~4時頃、鍋倉城に入城。
さて、このことは地元ということで、機会がありましたら探訪含め検証したいと思ってますが、当時の遠野の主要道・・・上宮守~小峠~砂子沢~附馬牛東禅寺~松崎~遠野城下。
八戸直義一行は駒木で領民達の出迎えを受け、遠野城下へ向ったといわれますが、東禅寺から大萩、天ヶ森山麓を巻くような道があって荒谷、安居台、忍峠、松崎沢の口、宮代、光興寺を経て猿ヶ石を越えて畑中、加茂明神を通って城下入りしたのではないのか?
またもしかして、安居台~矢崎に至り、駒木とは矢崎のことか、それとも矢崎から下駒木に進路をとったものか?それとも早池峰古参道に近い道があってそこを通ったものか・・・・?これまた難しいながら妄想含みで検証したいなあ~・・・と思案中です。
なお、遠野さくら祭りでの八戸直義一行の入部行列・・・・実際は馬上の侍13騎(直義含)が最初に遠野城下に入ったとのことで徒歩組は夜遅くに及んだとのこと。
上宮守で昼食を食べ、それから小峠越、綾織の砂子沢から峠を越えて附馬牛の大萩へ・・・・それから遠野城下となればかなりの遠回り、徒歩の人達が午後の3時や4時に城下に入れる道理がみつからない・・・騎馬なら可能と私は考えている。