「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

なんとなく・・・?

2008-09-29 15:19:57 | 遠野
 ブログをやっていなかったら一眼デジどころかコンデジも持っていなかったかもしれない?・・・あっ、これは間違いで以前からホームページをしてましたのでコンデジに関しては撤回・・・笑

 しかし、一眼デジはなんとか手にしたものの、未だこれは・・・と納得の画像が撮れていないが現実でもある。
 写真、カメラの知識も去ることながら物事を捉える感性も必要、しかし、まずは知識と腕をあげなければ・・・そのためにはとにかく「ちょす」こと・・・笑・・・ちょっとした散歩も一眼デジを首からぶら下げて・・・が日常化しつつあります。

 ということで、考えて撮ったものではないですが、とにかく撮る・・・フィルムカメラと違って現像も必要なく、気に食わなければ削除・・・便利な世の中になったものです。


 午前早くは雲が多かったものの、まずはお隣の菩提寺福泉寺へ・・・。






 10月17日は秋の例大祭、平日ということもあっていつも通りのお祭りであろうと予想はしておりますが、とにかく晴れてくれればと願っているところです。
 紅葉はこの頃に最盛期とはいいませんが、山麓辺りは良い色合いが出る頃でもあります。
 本格的な紅葉はお祭りの一週間後、昨年は二週間後でしたが、それでもなんとなく今年は少し早いような・・・?・・・こまめに散歩がてら紅葉の進み具合をチェックしたいと思っております。
 ちなみに神楽、しし踊り、民謡は無いと思います・・・汗(電話番号に注目・・大汗)


 お稲荷さん


 末娘が通う某中学の校長先生一族のお稲荷さんとか、もうひとつは我家の操本家のお稲荷さん。


 大観音堂


 ここまでが登りのコース、途中撮影しながらゆっくりと・・・足腰の運動にも丁度良い。




 色づきはじめた木の葉もありますが、紅葉はもう少し先となります。

 後は下りのみ、本日は気分を変えて西国33ヶ所霊場逆コースで戻って来ました。


 帰宅すると今度は愛車「濁酒特区スッケ号」に乗り、青空を求めて綾織方面へ・・・・。


 綾織町新里 中宿から
 石上山方面




 西門館跡、高清水方面




 大久保方面




 二日町付近から東側・・・大久保方面

 


 遠野方面




 オリンパスブルー・・・?・・・そこまでは至らずも、なんとか青空も広がり、だんだん良い色合いが出せるようになってきた感覚・・・?


 ついでに千葉家南部曲屋




 黄金色の稲と澄んだ青空、そして間もなく色とりどりの紅葉と青空、是非に紅葉の時期の遠野へ・・・。




 おまけ

 少し久しぶりのネネ 

 タンスの上で悪戯の思案中か?




 「こりゃ、何処さあがってら、早ぐ降ってこぉっ」




 「邪魔すんなニャー・・・怒」


 しかし・・・

 間もなく・・・









 いつもの如くであーる・・・笑
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みそラーメン

2008-09-26 20:23:53 | その他
 ローカルながら・・・「蕎麦、天ぷら、鰻の南部○敷」というCMがございますが、岩手県に本店を持ち宮城や秋田へも支店を持つ和食ファミレスチェーンに関係あるラーメン店が数件あり、本日花巻に買物に行ったついでに名物ラーメンを食べて参りました。




 ここに来たなら、迷わず味噌ラーメンと餃子が自分的には定番・・・。

 鉄鍋に入ったラーメン、鉄鍋は南部鉄器だという・・・名称が南○ラーメンといわれるのも理解できます。
 そして自分にとっては味噌ラーメンそのものといったイメージがあり年に何度かは食しておりますが、今回はかなり久し振りということになります。




 もやしと焼肉一枚といった、いたってシンプルな具であるが、シャキシャキ感があるもやし、そして何よりも味噌ラーメンを食べているんだという実感が沸くスープ、これが濃くて美味い・・・決して味噌味ラーメンではなく、味噌ラーメンそのもの・・・・。



 

 そして少し遅れてやってくる餃子、癖もなく食べやすい餃子・・・しかしこれがまた濃いめのラーメンスープをいただいている身には良い塩梅でなかなか美味い。

 岩手県内、全国にはもっと美味いラーメンは結構あると思いますが、時折、味噌ラーメンでも食べたいなぁ・・・と、ふと、思った際には此処を真っ先に思い出す・・・案外県内にも此処のラーメンファンもいるとか・・・?・・・これからの季節、味噌ラーメンで冷えた身体を温めながら・・・いかかでしょうか?


でっ・・・殲滅ながら、鉄鍋に口をつけてスープを飲み干すわけにもいかず・・・。





 花巻ついでに・・・某大手ホームセンターにて

 全国の支店唯一、遠野店のみ扱っているという御当地商品・ジンギスカンバケツが・・・・テレビの宣伝効果は大きいのか?・・・ここにもあった・・・笑






 さらにおまけ・・・
 ネットでの公開はこれで最後・・・駒木しし踊式定

 是より八幡宮・・・一部のみ










 これにて終わり・・・。

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駒木鹿子踊・亡父の遺品

2008-09-24 20:29:41 | その他
 遠野郷八幡宮例大祭と間もなく本格的となる稲刈時期との間に、当地方でも有名処の神社等の秋祭りが数多く開催されております。
 秋祭りでは各地に伝わる郷土芸能が見られるお祭りもあって、昨日(23日)は青笹町の六神石神社のお祭り見物・・・(2008、9,23エントリー)・・・といったところで、郷土芸能遠野郷しし踊関連のエントリーが続くことをお許しください。


松崎町駒木・・・小字名・中野

 法門山福泉寺五重塔・・・中野(海上)から


 何故にこの場所へ(上記画像)・・・実は駒木しし踊関連での新発見といいますか、駒木しし踊の創始者と伝えられる角助さんの墓前にて感謝も含めて報告することがあって、手を合わせて参りました。

 
 元祖角助の墓・・・松崎町駒木(海上・中野)






 
 遠野郷駒木しし踊・角助について


 駒木しし踊の由来等については、過去に何度か当ブログでも記述しておりますので過去ログをご参照願います。




 駒木しし踊のその年の踊りはじめやら遠野郷八幡宮例大祭に向かう前に此処角助の墓前で踊りを奉納することが、決まりとなっていたと聞いたことがありますが、踊りに参加する我長男や末娘が行って踊ったということは聞いたことがないので、既に廃れた習わしか?・・・・と思っていましたが・・・・。



 墓前の地面にカンナガラがひとつ落ちていた・・・おそらく踊り終わった後に掃除したのだろうと思いますが、こちらの習わしが今でも大切に続いていたこと、うれしく思いました。



 さて前置きが長くなりましたが、本題に入ります。

 駒木しし踊での大夫(太鼓)をしていた亡き親父、この世を去ってから我家と駒木しし踊との直接的な関係は無くなっておりましたが、長男が中学生となると、駒木しし踊に参加するようになり、末娘も小学高学年となるや参加するようになりました。

 それでもしし踊保存会と私との深い関りは無きに等しいことながら、しし踊の練習や遠野祭り等の付き添い、特にお祭り後の反省会等の懇親の場で、亡き親父より一回り近く年下で現在、保存会の重鎮、師匠格となっている方々から、よく聞かれることがありました。

 それは、親父が残した駒木しし踊の全歌詞を収めた書の在りか・・・について。

 幼い頃、ザラ紙みたいなもので綴られた書物があって、紐で綴じられていた書物、確かにみた記憶があり、触ろうとして強く親父に何度か叱られた記憶もある・・・・しかし、家を建て替えしてから、何処へ仕舞ったものなのか、親父自身も長らく探していたような?・・・その存在は否定しないまでも、私自身は興味がなかったので、空返事をしておりました。

 そんなことが数年、毎年聞かれるものですから、頭の片隅には今年も聞かれるかな?なんて思ってますとやはり・・・なんでもその方は若い頃に一度親父から借り受け必要なページのみ書き写したとか、コピーがある時代でもなく、書き写すだけでもたいへんで、途中で返してしまったとか?・・・・あったら貸してほしいとは言いませんでしたが、もしあるのなら大変貴重な資料でもあるので、大切にした方が良いとの助言・・・この言葉を受け母親も巻き込んで、とにかく暇を見つけて家中を探しました。
 そして遂に・・・・。



 昭和34年に書かれた書・・・

 昭和34年といいますと親父と母親が結婚した年であり、親父はまだ20代中盤の青年ということになりますが、聞くことによりますと、当時の大師匠が江戸期(文化年間?)に書かれた駒木しし踊の演目、歌詞の巻物を持っていたとかで、それを借り受け、裏紙やノートに書き写したとのこと。
 それを今度は我家と親戚のある方にお願いして清書していただいたものが、画像の書物ということになります。(清書した親戚は当時20歳前の青年)
 無論、読めない字、意味が難解な内容もあって、途中で原物を何度か借りたりして、一冊にまとめ上げたものなようです。

 さらに後で親父が太鼓の調子やら、太夫の動き等も書き足している。


 その一部中身は・・・・






















 全頁67頁、これを発見した時は、身震いと共に中身をまだ良く見てはいないが、亡き親父への尊敬の念が込み上げてきたのは事実でもありました。
 それ同時に、我歴代が駒木しし踊での大夫としての家柄であったこと(祖父の名は無い、小国(川井)から婿養子と入り間もなく太平洋戦争に出征、戦死)をみれば、長男たる私の代でしし踊との関わりを断ってしまっていること、何処か肩身が狭いという思いも頭をもたげてくる。

 しかし、幸いにも地域で絶えることなく伝承されていること、孫である我長男がしし踊をしていることで、何処か救われる思いもございます。

 私にできることは、この親父が残した貴重な書物を後世に伝える、そして画像や活字としてさらに複製して資料として残すこと、場合によっては保存会へ複製したもの等の寄贈も視野にいれなければと思うところです。

 遠野市内のしし踊り、全演目が今に伝えられてるのだろうか?、そして全てを踊ることができているのだろうか?また笛太鼓も・・・・亡き親父は全ての演目をマスターしていたと聞く、晩年はだらしのないただの酒好き親父であったが、それでも今となっては尊敬する場面も多く見出している、単純ながら今になって尊敬という二文字が覆いかぶさっている、そんな現状でもある。


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六神石神社例祭(青笹しし踊)

2008-09-23 20:29:43 | 遠野
 青笹町中沢の六神石神社例祭に行って参りました。
 本エントリーは神社の祭りやその雰囲気を伝える内容ではなく、郷土芸能遠野郷しし踊での青笹しし踊が観たいがためだけに行って来たが本音で、遠野祭り等でしばらく青笹しし踊を観ていなかったこと、遠野郷しし踊での雄といいますか、遠野を代表するしし踊というイメージの青笹しし踊と小生の地元駒木しし踊との相違点なんかを確かめてみたかった、そんな思いが強かった理由でもあります。


 午前11時、現地到着・・・

 六神石神社(ろっこうし)






○六神石神社
 遠野三山のひとつ、六角牛山の麓に鎮座し、例祭日は、旧8月15日であったが現在は9月23日。
 大同年間に草創といわれ1千2百年と伝えられる。
 後に住吉三神を祀り、御祭神は表筒男命 中筒男命 底筒男命 息長帯姫命 大己貴命。
 住吉の社との俗称。
 明治維新後、神社名を六神石とし、山の名を六角牛の字を充てている(ろっこうし)
 その由来等詳細は検索サイトで「六神石神社」でヒットしますので、そちらをご参照願います。

 
 境内到着後、上郷板沢しし踊がスタンバイ中、間もなく本殿への奉納、続いて青笹しし踊が奉納となった。

青笹しし踊





 さて、ここからが長い・・・汗・・・境内の一角ではお祭りでの仮ステージが設けられ、地元の方々の手踊り、平倉神楽、板沢しし踊、よさこいソーラン(霞会)、佐比内しし踊・・・途中、お楽しみ抽選会があったりと、なかなか青笹しし踊の出番が来ない、聞くところによると一番最後とか、地元でもありこれも致し方なしと諦めて最後まで付き合うことに・・・結局、小雨も降り出し、青笹しし踊が踊っている途中に社を後にしましたが、それでも午後3時半まではおりました。


上郷町板沢しし踊


上郷町佐比内しし踊


 上郷町のしし踊とくれば、もうひとつ細越しし踊がありますが、今回はお休みということなそうです。



 境内には約1千人の人出とか?・・・抽選券が1000番まで配布、フランクフルトが早々に1千本売れて売り切れということから・・・・でも抽選会では600番台は呼ばれたが、それ以後の番号が呼ばれた記憶がない?・・・笑

 抽選会の後は餅まき・・・
 おそらく本日のお祭りでの最大人数ではないのか?・・・・




 さてここからが本題・・・・

 遠野郷しし踊は、駒木しし踊を代表とする駒木系と長野しし踊を代表とする小友系に大別されるという。
 
 青笹、上郷のしし踊りは、その踊方等をよく見れば同系統というイメージが強いものとなっている。
 
 上郷の板沢しし踊は由来の一説によると明治初年頃に駒木しし踊を習い覚え、地域に伝えたものといわれている。
 別説でも駒木との関りが語られ、駒木系のしし踊ということになりますが、上郷町内のしし踊は板沢しし踊が本家という位置付けなようです。

 ところがその踊り等はテンポも含めて激しく躍動的で、駒木しし踊とは対照的である。
 これは伝わった後に、その地域で伝承されていく過程で大きくアレンジしたものだろうと推測されますが、調査不足でもありますから、これ以上は多くは語れません。

 一方青笹しし踊も躍動的で力強い印象ではあるがどこか優雅な雰囲気が感じられる。
 これは私の個人のイメージということでもありますが、さらに何処か落ち着いた風格があって安心して観てられる、そんな雰囲気でもあります。

○遠野郷青笹しし踊
 慶長年間、遠野阿曽沼時代に山城国(京都府)から伝来した鹿子踊に当地方の豊年踊りや御神楽での山の神舞を融合させて鹿子踊りを構成したものと伝えられている。
 以後、糠前、中下・中沢の三系統があったが、青笹しし踊りとして昭和39年統合してひとつとなった。


 亡き親父は長年、駒木しし踊りでの大夫(太鼓)をしていた。
 駒木しし踊りは遠野での元祖で、何処の踊りにも負けるものではない。
 しかし、青笹のように皆うち揃って立派に踊る様は見事で、なかなか適うものではない。
 駒木も青笹をみて何くそという思いで踊らなければ、みんなから駒木の踊りも落ちたな・・・なんて言われてしまう・・・としし踊りを引退する間際話していたことを思い出す。

 青笹しし踊り、少し本日はお疲れ気味といった印象はありましたが、それでも流石といった思いでみておりました。
 ご苦労さまでした。


 青笹しし踊





 青笹しし、第一のしし(六角牛山)



 職場後輩が被るしし頭





 ということで、プロガーウォッチング

 ブログ四季彩空間遠野の ksuzさん(画像中央)
 今回はしっかりと一眼デジにて撮影されておりました・・・笑




 そしてこちらは・・・・
 お子さんと・・・・笑・・・・一如さん(ブログ 開く・築く)


 ドロン如さんご夫妻、お子様も・・・しっかりと高台より見ておりましたよ・・・笑
 
 お疲れ様でした。



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ジンギスカンバケツ

2008-09-21 19:47:08 | 遠野
 数週間前、某テレビ局で放映のなんとかのけんみんショーで遠野市民の岩手県民は・・・で取り上げられたジンギスカン話題、一時的とはいえ、かなりの反響があったらしく、テレビで紹介されたジンギスカンバケツを扱っている市内の大手ホームショップの支店では、翌日にはジンギスカンバケツが売り切れとなったとか・・・。
 しかも遠野市外からわざわざ買いに来た方々が多かったとか・・・メディアの影響は大きいですね・・・笑


 ということで、少し前の画像ですが・・・・。




 噂のジンギスカンバケツ・・・市内某金物店
 言わずと知れた発売製造元、ジンギスカンバケツの元祖といえます。



 ジンギスカンバケツに関しては、過去に遠野の各ブログでもご紹介されておりますし、遠野ジンギスカンに関しての歴史やら何故遠野でジンギスカンなのか・・・は検索サイトで「遠野ジンギスカン」でかなりヒットしますので、そちらをご参照ください。



・遠野市民とジンギスカン

 テレビで紹介されていた内容、あながち大袈裟ではない。
 春から秋にかけては、屋外でジンギスカンという場面は結構あり、PTA行事の後、何かのイベントの打ち上げ、職場や地域での懇親会、花見、知人や仲間が集まった際・・・等・・・別に今日、今無性に食べたいと思うこともありますが、それ以外は「やるが」「やるぺ」・・・といった具合でジンギスカン喰いが始まる場合も多々見られます。
 隣の家もジンギスカン、その隣も・・・夏場ならあり得ないわけでもない。
 ただ、法事にジンギスカン・・・あまり聞いたことはないが、遠くの親戚なんかが久しぶりに家に来た際に併せて親戚、御近所の方々とジンギスカン、これもあるかもしれません。

 羊肉の消費は北海道並とか、個人的には年に10回前後かと思いますが、ひとり当たり200~300gが一度当たりの一人分といわれますので、小生は遠野では平均的ということになりますかね。






 久しぶりにラーメンが食べたくなって、暇していた末娘を連れて某店へ・・





 あっ・・殲滅画像を撮るのを忘れてしまった・・・汗
 
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金成淵跡

2008-09-20 19:52:47 | 歴史・民俗
 本日のエントリー関連のとある場所にまずはお参り・・・。

谷地館跡(遠野市綾織町)・・・遠野遺産




○宝徳合戦と金成右京大夫政実・・・金成淵

 谷地館主、宇夫方守儀の時代、宝徳2年(1450)隣国葛西領気仙郡東山の金成政実が率いる軍勢が突如として綾織谷地館を攻撃する。
 谷地館の宇夫方氏は遠野でも富裕の武家であり一族郎党も多く、不意の攻撃をよく凌ぎ、さらに鱒沢氏、宮森氏が谷地館救援の援軍を差し向けたので、葛西勢は攻めあぐねて籠城戦となった。
 
 籠城戦となるや葛西勢は山谷川をせき止めて館を水攻めとするが、達曽部民部、稗貫大迫の大迫掃部が大軍を率いて来援すると谷地館側も力を得て反撃に移り、寄せ手の大将金成右京政実は討ち取られ、葛西勢は散散に敗れて敗走したといわれる。

 この時、政実の嫡子、松千代は13歳の初陣であったという・・・・。
 敗走途中に遠野方に討ち取られてしまったという。土地の人々はその死を憐れみ墓を作って弔ったという・・・。

 後日、その母親が松千代の墓参りに来たというが、悲しみのあまり猿ヶ石川の淵に身を投げたと伝えられる。


 猿ヶ石川・・・綾織町札場橋から上流方向



 さて、金成右京大夫政実の奥方が身を投げたという淵は・・・・ということになりますが、小生の母親や叔父の話によると、アイオン台風で水害が出る前までは、猿ヶ石川は現在の堤防の南側を流れていたそうで、日影橋の南側袂を流れ、山際を通って現在のゴミ処理場辺りも川原であったという・・・。

 母親の母(私からすれば祖母)は新田の出身で、母親が子供の頃に新田に行く際は、山道の下部に猿ヶ石川を見ながら新田に行ったそうです。
 途中、流れが渦巻く淵があって、その場所が地元では金成淵と呼ばれていたそうです。

 この淵の上部山中には戦いで亡くなった武士の鎧を埋めた塚があるとか、一説には寄手の大将、金成政実の鎧ともいわれている。


 綾織町新里日影地区・・・山際を川が流れていた。


 旧河川跡

 
 綾織町新里、西風館・・・右手の道路は旧国道283号
 ビニールハウスの辺りは猿ヶ石川が流れていた。

 その名残




 ということで、ここまで来たので遠野遺産である「西風館跡」はどうなっているのかと気になり訪ねて参りました。



 遠野遺産ということで、若干人が出入りしただろう雰囲気がみられますが、小生のような城館跡マニアや研究者、そして地元の山稼ぎの人達のみ、年間10名未満が訪れるだけではないのかな・・・なんて思ったりして・・・。




 標識のある場所は館跡の東端部分ですが、本来は・・・・


 こちらが正面といいますか、力攻めの場合はこちらから・・・冬枯れの季節、早春の頃は斜面に張り付く幾えもの段差、帯廓が見えると思います。




 さて、本来は本日、こちらへお邪魔しようかな・・・と考えておりました。





 松崎町光興寺宮代・・・元八幡宮例大祭
 こちらのお祭りに行こうと思ったのですが、どうせならイカ焼きを肴に生ビール片手に郷土芸能やら出し物を楽しみたいが本音、しかし、嫁さんは仕事で送迎は叶わず、では歩いていくべ・・・と思うも面倒になって取りやめといたしました・・・汗・・・来年は是非にお邪魔したいと思ってます。


 宮代ついでに・・・
 宮代ご出身でフランスにお住まいの女性からお土産をいただく・・・謝

 なんでも仏国の鯖缶で、マスタード味とか、白ワインと合いますよということで・・・・。




 でっ・・・たまたま白ワインがありました・・・笑



 「う~ん・・・こまんたれぶっ~★■●▽△らセーヌ・・・おっぉぉシャンゼリゼ・・・」・・・なんともいえないはじめての味・・・これは行ける・・・そこで母親にも勧めると・・・・

 「ありゃ、いい色っぺの粕漬けだごと、鯖の粕漬け、こりゃいい・・・」
 「フランスに粕あるわげねぇべ」
 「ほだじぇなぁ・・・奈良漬だなこりゃ・・・」・・・大汗

 大騒ぎな夕食となりました・・・笑
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遠野郷・釜石村

2008-09-19 20:50:51 | 遠野
 台風の影響で曇り空となるのか?なんて思っていると、本日も朝から晴れ渡り少し気にかかることがあって綾織へ・・・・。


 千葉家南部曲屋






 綾織に行ったついでに千葉家付近まで足を延ばしてみましたが、本題は釜石村・・・。
 この釜石村とはいったい何処を指しているのか?ちょっと確かめたくて綾織地内と市立図書館をまがってみてきました。



 釜石村
 寛永4年3月19日 南部利直 墨印 拾戸遠野村付の目録

 釜石村・・・99石232合

 寛永11年 八戸家諸士の俸禄
 釜石村は新田弥市郎(新田義実)の知行所


 釜石村とくれば沿岸の釜石(釜石市)を思い浮かべてしまいますが、先人郷土史家の中にも当初、沿岸の釜石を連想された方々もいたのだろうと推察されます。

 慶長6年、遠野騒動(旧主阿曽沼広長気仙落)での主要人物、3番手柄といわれる平清水駿河(本姓菊池)が釜石を含む遠野郷内に1千石を南部利直より賜る・・・という記述からも伺われますが、現釜石市との関連は平清水氏の血縁といわれる荒谷肥後が釜石狐崎館の守将として居たこと、そんなことから釜石に縁ある平清水氏に与えられたのだろう・・・という思いもいたします。
 史実として釜石(沿岸)が平清水氏の知行地だったかもしれませんが、未確認である。
 江戸初期、遠野阿曽沼氏没落後は釜石は大槌氏の領分ではなかったのか?無論それ以前から・・・?・・ここでの釜石村とは綾織の釜石村ではないのか?


 ということで、史料で出てくる釜石村とは、閉伊郡釜石村、現遠野市綾織町の一部に釜石村が存在したこと、これは前段で記載の南部利直より八戸弥六郎(直義)に与えられた墨印でも記述され、存在した村でありました。

 綾織村誌、遠野市史4では、陸中国閉伊郡新里村は釜石村と明治9年合併して一村となる・・・とある。
 すなわち釜石村は現遠野市綾織町新里地内の内にあったことになりますが、以前の記憶が曖昧ながら、誰の言葉かこれも忘れましたが、確か中宿の辺りが釜石村だったと聞いたような・・・。
 ですから中宿界隈を中心とした地域が旧釜石村というイメージが先行していたこともあって、時折、釜石村に関してエントリーする際はと中宿辺りの風景やら画像を少し撮り貯めておりました・・・。


 綾織出身の母親の裏覚えの記憶によると、新里根岸の辺りに釜石という大石があったと聞いたことがあるという・・・早速、図書館にて郷土資料をめくると、確かに古地図(手書・綾織村誌)、根岸と寒風の中間辺りに釜石と書いてある。
 なんでも釜形の大石が山中にあって、下部からは冷泉が湧き出ているとか・・・この釜石の大石がある下の地は釜石前ともいわれていたようです。

 本来の釜石村は根岸辺りが主で、この辺りから南西側に伸びて宿辺りまで、現在綾織町新里の地名となっている範囲ではないのか?と想像しております。

 旧新里村は猿ヶ石側の南側、我丸、西風館、日影・・・か?・・・いずれ地元の詳しい方からお聞きすればその全容は明らかになるものと思います。
 
 今宵はこれまでといたします・・・・笑


 綾織町新里 根岸集落


 画像右側の山野は阿曽沼時代、みさ崎氏の居館跡「西門館跡」




 ときたま夕焼けハンター・・・笑







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遠野南部流鏑馬08

2008-09-18 20:09:33 | 遠野
 遠野郷八幡宮例大祭では、市内各地の郷土芸能や神輿等の奉納、さらにこれら団体が行う馬場廻りと共にもうひとつ、それは流鏑馬であろう・・・・。
 何を隠そう、その流鏑馬を観ること、そしてカメラ撮影することも、小生の楽しみのひとつでもありました。

 小生は第3の的付近と最終地点の間辺りの前列に陣取ることができましたが、周りは各メーカーの高機種カメラが三脚に固定され高価な望遠レンズ装着、凄いの一言に尽きる場面で、ある意味お見事としか言い様のない雰囲気でもありました。


 続々と馬場の北側にはカメラマンやら見物客が増え出すと、いよいよ流鏑馬神事「遠野南部流鏑馬」のはじまりである。


 清めの儀


 この開会に係る神事から総奉行による馬場、的の点検、そして開会宣言たる「遠野南部流鏑馬はじめませ~」までの間がなんともいえず好きといいますか、ワクワクする時間でもあります。

 ということで、遠野南部流鏑馬に係る由来やら歴史的逸話等は昨年9月20日付けの当ブログ、下欄に記載しておりますので、是非にご参照ください。
こちら


 
 さて、今年も昨年同様の射手奉行3名の方々が務められました。

 一の射手奉行
 小生と同級生、松崎町光興寺在、NK氏



 二の射手奉行
 最速の貴公子、松崎町駒木出身 YH君



 三の射手奉行
 安定した流鏑馬、松崎町駒木在 TI君


 昨年と同様の顔ぶれ、全て松崎町に関わる御仁ということ、しかも私と同郷の松崎町駒木の方が二人、そして同級生も・・・やはり小生としては鼻高々であーる・・・。



 ということなのですが、意気込んで陣取ったは良いですが、撮った内容が不本意な画像があまりにも多かったこと、腕の悪さもそのとおりながらカメラの知識不足もこれまたそのとおり、しかし使用したカメラは自慢ではないですが、割と高機種に位置付けられる代物であることを考えれば、あのカメラでこの程度か、ということもあって、とてもお見せできるものではない・・・汗
 よって、今年は三の射手奉行のみの画像となります・・・汗










 命中・・・
 昨年は、流鏑馬保存会が出来て以来最高の出来だったとかで27射中24射命中、今年は、でだしこそ振るわなかったが、慣れてくるにしたがって的を射抜くようになっておりました。
 いずれお見事でした。


 「よう射たりや~」・・・介添奉行

 
 今回もこちらの画像が少ないですが、来年からはこちらの介添奉行3名も随所に登場できるようしたいと思ってます。



 ○北奥羽最古の流鏑馬「遠野南部流鏑馬」

 リンクしました昨年の流鏑馬記事をご覧いただきましたでしょうか?北東北の神事としての流鏑馬に関しては、ここ遠野郷八幡宮、八戸市の櫛引八幡宮、そして盛岡八幡宮で行われております。
 歴史的、言い伝えでは櫛引八幡での流鏑馬が一応最古という内容ですが、これを受け継いでいるのが遠野南部流鏑馬ということになり、しかも江戸時代は遠野から八戸へ出張して旧8月15日に行われておりました。
 
 ちなみに今年は9月14日が旧8月15日で遠野郷八幡宮での流鏑馬の前日に八戸櫛引八幡で奉納してきたことになり、さぞ流鏑馬関係者はお疲れだったことでしょう・・・ご苦労さまでした。

 話はまた戻して、明治時代になって戦後の昭和28年まで流鏑馬は廃れておりましたが、有志によって復活、故事にならい八戸にも出張して現在に至っております。

 記録には遠野南部氏は遠野郷八幡宮に流鏑馬の他、騎馬打球、乗馬野試合も共に奉納したようですが、流鏑馬以外は断絶している。
 これらの復興もいつか期待したいところではあります。


 遠野南部流鏑馬は、由来によると建武3年8月15日、南部師行(遠野南部家先祖第4代)が櫛引八幡に奉納したことを創始としているが、このことが史実とか違うとは別として、いずれ脈々と受け継がれ、寛永4年に八戸根城から遠野へ移ってきた八戸氏(遠野南部氏)によって、はじめ松崎宮代の八幡宮で奉納されたであろうと推測されますし、宮代から現在の地へ八幡宮が移されたのが寛文元年(1662)、少なくてもこの頃が遠野での創始であろうと思われます。

 南部本家である盛岡南部家は、延宝9年(1681)盛岡八幡宮の造営に併せての創始と伝えられ、このことからも遠野での流鏑馬が最古であるということになります。

 別にどちらが古いとか、凄いとかそういうことを言うものではありませんが、遠野の流鏑馬は古い歴史を伝えるすばらしい行事であること、遠野市民は自慢と誇りに少しくらい感じても良いものと私は思いますし、身近な流鏑馬、これからも楽しみたいと思っております。





 さてさて、自己責任という範疇かもしれませんが、もし事故があればやはり主催者の責任は何かしら発生することだと思います。
 向い側に陣取るということは、それなりに良い写真は撮れるだろうという予想はつきますが、マナー違反であること、気持ちは大いにわかりますが、少し今後の対策は必要ではないのか?当方が言うことでもないし、他人のことは言えませんが、警備の方々や関係されたスタッフの注意もなかったこと、半分向い側に陣取られることうらやましくも思いましたが、やはり少しだけ残念です。

 市広報の腕章の担当者が強くこちらには入らないように促しておりましたが、聞く耳は持ち合わせていなかったようです。



 まっ堅い話はこれくらいにして・・・・

 今年は遠野流鏑馬界の貴公子、Y君の勇志はお見せできませんでした・・・涙
 後姿だけでも・・・・汗


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08遠野郷八幡宮例大祭・駒木しし

2008-09-16 18:16:05 | 遠野
 遠野祭り及び郷社八幡宮例大祭の最終日、八幡様の祭りでの実質的なメインといえる15日、朝から青空が広がりまさに祭り日和、カメラ撮影にも好条件ということで、勤務を終えて直に帰宅して着替え、カメラバックを携えて地元郷土芸能「駒木しし踊」が待つ市民センターへ向かった。


 あえりあ遠野で一節ご披露

 あえりあ玄関先で、遠野ぶれんどメンバーたま千代さんと遭遇、どうやら昨晩はあえりあ遠野にご宿泊のご様子、先に八幡様へ行っておりますとのご伝言をいただく。


 駒木しし踊はこの後、2班に分かれて別々に門かけしながら八幡宮を目指すことになりましたが、小生は双方を行ったり来たり、何をするでもありませんが、カメラ撮影に夢中でありました・・・汗


 門かけ風景





 八幡宮へ向かう他団体等・・・



 なかなか地元郷土芸能団体の付き添いをしていると他団体の踊等を観ることは少ないものである。
 唯一、我々と同じく門かけをするしし踊りや神楽団体の一部は間近に観ることはできますが、前へ前と即進むということで、じっくりとはいかない・・・。

 個人的には南部囃子、山口さんさ、青笹しし踊りをカメラで捉えればと思ってましたが、なかなか遭遇もできず、今回も他団体の画像は諦めた結果となりました。
 ただ、上組町南部囃子が丁度出発するところで、南部囃子では唯一画像に少しですが収めることができました。
 
 鮮明画像は分家ブログ「遠野発信・MAYAKUSYAず!」にエントリーしております。こちら




 駒木しし踊は早瀬橋たもとのコンビニで再集結、休憩を入れた後、国道左右に分かれて八幡様を目指す。
 長男、末娘が居る班は歩みが案外早く、八幡宮入りしている雰囲気が、小生一人八幡宮を急ぐ。



 参道はご覧のとおり、神輿団体やらしし踊り等、さらに見物客でごった返し、なかなか前に進むことができない・・・汗

 なんとか本殿前の石段にたどり着くと既に先発隊の奉納は終わっていた・・・涙


 こちらは本殿下の広場でご披露している早池峰しし踊(張山)



 昼食場所に割り振られた箇所を確認後、時刻をみると正午になろうとしている。
 もうひとつのメインイベント「遠野南部流鏑馬神事」が行われますので、急いで最終的地点に陣取る。
 高価なカメラ、大砲レンズ、三脚を立て居並ぶカメラマンが続々と増えてくる。
 場所取りが良い画像を得るかの分かれ道でもある・・・笑・・・最終地点に山猫さんを発見・・・笑・・・画像の昨日のものをご参照ください。


 流鏑馬撮影では連射撮影、700枚程度の画像を撮ったことになりますが、なかなか良い出来の画像は皆無に近かった・・・涙・・・ピンぽけはなかったが色飛びといいますか、あまり良い色合いがでなくて、不本意でもあります。
 後日のエントリーで良いものを選定して流鏑馬特集としてご紹介したいと思ってます。


 流鏑馬も終了、昼食場所に戻ると、皆さん食べ終わって馬場廻りの準備をそろそろ始めようかという場面、小生の弁当は?・・・無いとの返事・・・涙・・・代わりに缶ビール一本をいただいてチビチビと寂しくいただく・・・辺りを見渡すと、隣は某神輿団体、一気飲みが始まっていたが、通路側に見慣れた方々が・・・・。

 遠野ぶれんどメンバーの方々・・・
romiさん、たま千代さん、宝飯爺さん、hanaさん、山猫さん、馬場ではアバウトさんに出会ったし、同じ団体の付き添いには楽夢音屋さんもいるし・・・まだまだ境内には遠野プログ仲間が居たはずだけど、今回は7名、この場所では6名・・・。

 再会を祝し、また遠野ブログ画像展開催に向けて景気付けを行う・・・笑




 皆さんと話込んでいると既に駒木しし踊は馬場廻りのために整列場所に移動、この場はお暇して小生も移動・・・・。
 
 そしていよいよ、クライマックスへ・・・。










 2008年、間もなく八幡様のお祭りでの踊りも終わりといった最終地点、少しだけ寂しい思いが・・・。






 境内を後にすると、本祭りでの最後、農協グリーンセンターで最後の踊りをご披露・・・・。
 
 お花は長男が受取、まさに有終の美といった雰囲気・・・涙



 遠野で一番熱く、賑やかであったお祭りが終了・・・ご苦労さまでした。


 ひきつづき、一旦帰宅後、地区コミュニティセンターで反省会兼御苦労さん会に参加。

 地区や付き添われた女性の方々による手料理を主に宴が催された。






 保存会会長曰く・・・
 地域に残されている伝統芸能を継承し、将来につなげる、このことが一番大事ではあるが、しし踊りにより地域づくりに役立てる、これも重要である。
 今の時代、地域では、子供を見てもどこの家の子供なのか、誰の子、孫なのか、全く分からない場面も多い、しし踊りを通じ老若男女の交わり、これができるというメリットも大きい・・・・・。

 全くその通りと頷く自分、郷土芸能に個人的には大きく関わってはいないが、それでもこういう形で地域活動に少しでも関わることができるということ、今後も陰ながら少しでも関わって行けたらと思っております。


 宴もたけなわ、反省会という名目もあり、踊りでの場面で意見の対立みたいな雰囲気もありましたが、なんとか好きなしし踊りへの思いということで、事なきを得たようでもあります。

 そんな中、一緒の場にいたはずの楽夢音屋さんご一家が居ない?お帰りになられたかな・・・なんて思ってましたが、たまたまのぞいた携帯電話に着信履歴あり、それも二度程、早速掛けてきた相手に電話すると・・・・「なにっ、ある会だ開催中・・・」ひとつ返事で参加表明、すぐに嫁さんを呼んで街場に移動・・・汗


 
 指定のお店に着くと・・・・汗・・・・むむむ・・・女性プロガーが多い、そういえば15日に玉千代さんを迎えての秘密会議があるような記事があったことを思い出す・・・。

 はなっからかでられねがっだ・・・涙・・・・。


 しかも楽夢音屋さんもいる・・・・涙
 同じ会場にさっきまでいたのに・・・汗


 まっ、思い出したかのようでも、連絡をいただきましたので、うれしかったです。


 かんぱ~い・・・






 女性プロガーだけの大奥ぶれんど・・・・おもしぇがったすっ・・・笑
コメント (21)
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祭り終了

2008-09-15 15:38:45 | 遠野
 数回に分けて遠野祭り(遠野郷八幡宮例大祭)に関してエントリー予定です。

 さて、遠野祭り、そして八幡様のお祭りも終了、参加された皆さん、そしてお祭りに関わった皆さん、見学された皆さん、たいへんご苦労さまでした。

 とりあえずまずは触りだけ本日はエントリーといたします。
 地域での反省会兼御苦労さん会もあって、詳しいお祭りの模様は後日といたします。


 駒木しし踊りを主に・・・・


 馬場廻りにいよいよ出陣






 流鏑馬にて・・・
 最終コーナーにて発見・・・笑
 間もなく遠野を離れるとか、たいへんご苦労さまでした。
 次回の来遠時には楽しく懇親の宴をやりましょう・・・次回は紅葉の頃とか?お待ちしております。




 戦い終わって・・・・



コメント (2)
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