「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

あやおり

2008-04-30 18:12:20 | 遠野
 遠野バイパス、綾織の桜並木も色あせて辛うじて花を残すといったところですが、桜に代わって国道396沿いには名物の芝桜が見頃を迎えております。







 通りすがりの車が結構頻繁に停車、デジカメやら携帯電話のカメラで撮影して行く光景やら、向かいの消防屯所に駐車させて、直接見学する方々と賑わっておりました。

 街道沿い数軒の家々では芝桜やチューリップ・・・季節の色とりどりの花々で彩られております。
 

 綾織といえば、こちらも定番・・・・。











 おまけ



 山羊が定番の遠野ですが、羊がつながれております。(小田沢)



 前から気になっていたバス停・・・ブキミーワンダーランド

 季節限定かもしれませんが本物のバス停なようです。


 さらにおまけ

上京すると何故か頼んでしまうホッピー



 これが結構効くんだよな・・・汗
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どこだりかごだり

2008-04-29 15:27:29 | 遠野
 風が強かった昨日、散り始めの段階である遠野の桜もさらに舞い散ったという印象がありましたが、それでももう少しだけ、楽しめる雰囲気もあって、好天に誘われて近場を走り回ってきました。

附馬牛









続いて地元松崎町駒木


 気になっていた下駒木のしだれ桜を観に行ったら、赤い何かが微かな目に入った。
 あるお方と接触、今日で4日目の遠野散策、ラストを飾るべく元気に画像取材されておりました。
 願わくば今週末の再来援も実現できるようにと懇願いたしました。
 おそらく、来るでしょう・・・笑


 バイク軍団も本格的稼動で正に春本番・・・。


 おやっ・・・ここでも・・・笑


 けしょ(海上のお稲荷さん)



 土淵町山口

 これは遠野ブログ画像展に使えそうだっ・・・汗
 これよりも良い写りの画像は別家ブログへ掲載




 街にも行きました。

 鍋倉山頂より









 鍋倉城跡公園は遠野名物ジンギスカンの匂いで一杯・・・笑
 休日と好天で、三の丸と南部神社の平場は地元会社等や団体のお花見で大いに賑わっておりました。
 しかも、そのほとんどが遠野ジンギスカン・・・笑

 以前は職場でも鍋倉に陣取って、花見の宴をしておりました。
 無論、ジンギスカンが定番で、酒類が足りなくなると、若い者を下に走らせて、酒屋が山頂に配達といった場面もしばしば・・・急斜面を転げ落ちる先輩もいたなぁ・・・笑

 最近は、花見らしい花見に無縁で懐かしく思いました。


 我が家から

 福泉寺の桜も盛期は過ぎて散り始めておりますが、それでも後2~3日は楽しめるかもしれません。



 別な色もということで・・・・

 
 ほんの小さな出来事に 愛は傷ついて・・・・

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福泉寺の桜・最終章

2008-04-27 15:59:11 | 遠野
 日曜日は雨模様との天気予報、しかし、朝から陽も射し青空も見える天気となり、満開を迎えている遠野の桜、ラストチャンスとばかり午前中に近所であり菩提寺福泉寺の桜を楽しんで来た。


 満開というより散り始めといったところで、時折の強い風で花弁が舞ったり、一気に桜が咲き出して、あっという間の満開劇で、じっくり楽しむこともできずに遠野の桜は終りを告げようとしている。













大観音堂の桜


 昨年は鷽の被害で3分咲き程度で御終い、一昨年は例年にない爆咲でテレビ岩手の取材が来るほど綺麗に咲いておりましたが、今年は鷽の被害も少なく花付きが良く、まずまずといったところです。








五重塔


 あんなに待ち遠しかった桜の季節、今年は例年よりも1週間も早く咲き出し、あっという間に満開状態、黄金週間と桜といったイメージがある遠野ですが、今年は葉桜の中の連休後半となりそうです。



 そんな中、某日に所用のため、上京しておりました。

銀座・・・なんとか銀座商店街ではない・・・笑



用向きはこちらの方



 用向きの方は、かなりの手応えがあったのですが、今回は時期尚早ということで、またの機会となりそうです。


 その後、家事用務も済ませ、夜のイケフクロウへ・・・。



 ネットで30年ぶりの再会となり、今回の上京に併せて実際に30年ぶりの同級生との再会を果たしてきた。
 戦うビジネスマンの雰囲気が感じられるも、それでも30年前の面影を残し、昔話に花を咲かせました。
 しかし、今回の上京での飲み会、後半部分が記憶に無く、気がついたらホテルの自室で寝ていたという状況・・・汗

 



 おまけ

 遠野ぶれんど東北支部長さんが来遠。
 急遽であったが私を含めて8名で歓迎会を催しました。
 来月3日は関東支部の面々も遠野入り、これに併せて東北支部長も再来遠となるようですので、5月4日に第2弾、歓迎会を予定しております。

 場所、時間は未定ですが、前日までには親びんのところか当方のところでお知らせいたしますので、ご参加ください。




 


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福泉寺桜情報

2008-04-24 15:25:48 | 遠野
 雨の遠野、ここ近日の陽気で遠野市内の桜も一気に満開モードへ突入しております。
 
 



 遠野では開花が遅い部類の福泉寺の桜も、昨日の陽気で大観音のある山頂で満開となっており、花付きも良好といった具合です。
 昨年は鷽という鳥に芽を食べられ、3分咲き程度のまま葉桜となってしまいましたが、今年は綺麗に咲いているようです。


 参道の桜


 8分咲きといったところですが、本堂寄りは開花も早かったせいか満開となっております。




 雨に濡れた桜の花びらもまた良い味わいがあります。



 断言しよう・・・笑・・・遠野桜の名所のひとつ福泉寺は26日の土曜日、27日の日曜日が最高の見頃かと思います。
 
 ズバリ!天気がよければ、なおさらでしょう・・・・!まるお・・笑



 ◆お知らせ

 遠野ぶれんど、ノモー是カタロウ是のお知らせ

 26日に開催予定ですが、小生、わけあって今夜から土曜日昼までPCを見ることができません。
 参加人数も把握できない環境となりますので、ご参加、お問い合わせの方はメールをください。
 メールには携帯番号をお記願います。(悪用はしません)
 
 当日、夕方までに携帯で直接ご連絡申し上げます。
 小生の番号をご存知の方は、やはり夕方までにご連絡ください。
 ただし、メールを開けるのは当日午後となります。
 場所、時間等をお知らせします・・・汗


 メールは
jengo2@mail.goo.ne.jp
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旬の桜

2008-04-22 15:59:32 | 遠野
 例年よりは1週間は早い桜の開花、うれしいやら、もう少し遅くてもいいのにと複雑な心境ながらも、やはり咲いてしまったものはしょうがない、陽春を告げる桜を少しだけ追ってみました。


 バイパス日影橋~風の丘

 



 日影橋寄りが5分咲、全体的には3分咲といったところ。
 満開となると見事な桜街道となります。



 遠野では早い開花となる法務局の桜・・・満開モード突入









 お向かいの桜・・・新町界隈





 我家の庭から





 おまけ

 猫・・・風の丘のキティ河童




 我家の猫・・・ネネ


 毛が焦げた箇所がまだ消えませんが、今日も外の陽気に関係なく昼寝中です・・・笑
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春の徘徊

2008-04-21 16:06:51 | 遠野
 遠野ぶれんどメンバー各位のブログエントリーは桜開花によって、一気に桜話題、春話題真っ盛りといったところですが、拙ブログも遅れじと旬の画像と共に遠野の一部をご紹介となります。


 梅は盛期といったところか?・・・下駒木から



 先週後半に早咲き含み、比較的早めに咲く桜が遠野でも開花、今週末から連休前半が見頃となりそうですが、遠野の桜の名所では遅めの開花となる福泉寺の桜も遂に開花、部分的には8分咲の桜もみられますが、全体的には2分咲程度となっております。
 こちらも見頃は今週末~29日頃までかと思います。

 菩提寺福泉寺の桜・・・4月21日午後現在



 8分咲の桜



 しかし、全体的には・・・



 我家の水仙もいい感じに咲いております。
 たまには黄色の画像も・・・・。



 その後、用足しに出かけましたが、しっかりと車内にはデジカメを乗せて、某峠を走っていると・・・・。

 アオすす登場



 少し遠回りした甲斐があったというべきか、偶々ながらも、上手く画像に撮ることができました。

 
 そして用向きである街場に行くと、駅に列車が止まっている。
 一度、桜木橋から撮るも、用足しをして穀町を通るとまだ停車している。

 どうやら臨時列車か試運転か?・・・材木町の亀の湯裏に進入して間近にカメラに収めた。




 今週末には遠野の桜のピークを迎え、天気が良ければ、まさに春爛漫で桃源郷のような光景となりそうです。
 やはり天気の崩れもありそうですから26日辺りから遠野入りした方が良いのではないでしょうか?・・・笑





 おまけ

 またまた親馬鹿ですみません。

 19日開催の岩手県弓道選手権大会1部の結果


 1部は高校男子、149名の参加で4射して4中の9名が決勝を行い、長男が4位に入賞となりました。
 高校に入ってから始めた弓道、僅か1年ですが、ここまで成長しているとは思いもしませんでした・・・涙



 

 
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斯波御所と遠野・弐

2008-04-19 19:16:19 | 歴史関連コラム?
 高水寺城の帯郭・・(紫波町)

 ひとつひとつの平場、帯郭は私が探訪する遠野郷内の館跡に残されるものとは桁違いの大きさ、また遠野の主城クラスの鍋倉城や横田城の比でなく、紫波郡一円と岩手郡の南部地方を領し、斯波御所と呼ばれた斯波氏の隆盛をみることができます。

○紫波、斯波氏の系譜

 斯波御所と呼ばれた斯波氏の祖は、源姓足利一族、足利家氏とされている。
 鎌倉期、紫波郡の何処かに尾張守の領地があったと伝えられ、家氏も含み歴代は尾張守であったので、おそらくそれであろう。
 
 時代は下り、建武親政が崩壊、武家方棟梁、足利尊氏により斯波家長が陸奥守、管領となって宮方、北畠顕家に対抗の図式として斯波郡へ派遣されたといわれる。
 顕家18歳、家長15歳、ミーハー的南北朝ファンにはなんともいえない組み合わせであるが、先にも記したように家長が奥州へ入っていたという痕跡は皆無であり、関東に居て盛んに南朝方の撹乱工作やら有力武家を北朝方に誘うといった工作をしていたものと思われる。

 斯波家長は北畠顕家に率いられた西上軍との戦いで若い命を散らしたといわれ、この時、家長は17歳の青年武将、子がいた形跡はなく、おそらく斯波一族の誰かが家長の跡を継承し、後に斯波郡へ下向したものと考えたいが別説も存在し、家長を名乗る一族の誰かがいたのではないのか?という説も存在している。

 さて、斯波御所の直接の系譜は、南北朝時代の初頭に足利尊氏によって任命された奥州探題、斯波家兼から始まる説が有力でもある。
 今の宮城県北部、大崎市(古川辺り)を本拠としていた大崎氏がそれである。
 
 大崎氏の歴代は北の鎮台という意味合いで奥州に威を示し、室町幕府の奥州での権威でもあったが、後に西に最上氏を分族、そして斯波に斯波御所と呼ばれる一族を配したのである。

 斯波御所の斯波氏は河東の河村氏を圧迫し、その傘下に治め、岩手郡南部地域を勢力下に置き、さらに西北の雫石地方も制圧して一族を配して、隆盛を極めたと伝えられている。


 北方、旧都南方面・・盛岡市


 現在の盛岡市、雫石方面を勢力下に置いた斯波氏、室町時代の後期になると津軽地方をほぼ勢力下に治めた三戸南部氏が岩手郡へ南下してくる。
 天文年間といわれるが、おそらくは盛岡近郊で両勢力は激突、いよいよ岩手郡をめぐって南部、斯波の両雄が対決といった時代となる。

 天文9年(1540)三戸南部の南部高信(石川高信)が南部勢を率いて岩手郡の地勢力を帰順させ、さらに雫石を攻略、これは斯波氏にとっては大きな脅威で、すかさず反撃に転じ、岩手郡の一部を回復したと伝えられる。
 一進一退の攻防の中でも斯波氏が優勢であったことも語られますが、徐々に守勢となる場面も多かったのではないのかと思われます。


 矢巾方面



○斯波氏と遠野阿曾沼氏
 
 実質の本題はここからとなりますが、前置きがかなり長くなってしまいました。

 三戸南部氏の南下攻勢に対し、斯波氏は和賀氏、稗貫氏、そして遠野阿曾沼氏に武力援助の申し入れを行い、これら諸氏が斯波氏に加勢していたという見解が示されている。

 特に後の斯波氏の家臣団の構成をみれば、和賀氏一族やら稗貫一族、さらに遠野阿曾沼氏一族と思われる名が散見されている。

 これら諸氏の武力援助によって三戸南部氏へ対抗できたともいえる内容も考えられますが、紫波町史や滝沢村史に記述される内容、すなわち遠野阿曾沼氏と紫波の関係等は遠野ではほとんど伝えられておらず、僅かに阿曾沼一族である鱒沢広勝の妻が斯波氏出であるといった内容で、多くは語られていない。

 遠野は南で接する葛西氏との関わりが多く語られるも、北の威、斯波氏とも何らかの関係もあったことは推測できますし、有力一族やら家臣同士の婚姻等の結びつきもあったのだろうと想像もできます。


○遠野綾織一族

 斯波氏へ派遣された武将に綾織広行という名が登場する。
 阿曾沼支族とも記されているが、遠野側では見られない武将である。

 南部氏との合戦で目覚しい功績を挙げ、斯波氏から賞賛され乞われた一族、綾織氏、広行の子とされる綾織越前広信が軍事顧問的な立場で斯波氏に仕え、雫石城の改修、さらに越前堰といわれる滝沢村地域の農業用水をもたらした工事で名を残し顕彰される人物として今も語り継がれている。

 おそらくは遠野の綾織地方を領していたかつての遠野西方盟主、宇夫方一族であろうと想像できる。
 弘治年間、宇夫方氏主筋の西風館氏が葛西勢といわれる一団に夜襲を受け、壊滅的な打撃を受けて遠野の歴史からひとまず消え去る事件が発生したといわれ、没落した宇夫方一族は斯波氏への加勢に活路を見出したのではないのかと私は考えている。

 他に阿曾沼支族とされる太田民部秀武の名も散見されますが、北の権威、斯波御所をめぐっての関係は遠野にも大いにあって、無関係ではなかったということ、これだけははっきり言えると思っております。

 いずれ、この方面もしっかりと紐解くこと、これも懸案事項として取り組んでみたいと思ってます。




◆遠野桜情報





 ボケていてすみません。

 早咲の桜、遠野でも早めに開花する桜はほころび始めております。
 本日(19日)は雨降で肌寒い天候でしたが、天気が回復し、陽気が戻れば一気に咲き誇る場面かと思います。

 福泉寺の桜も天候の回復で一気に開花となりそうです。

 画像は伝承園付近の桜




 ●おまけ

 朗報・・・・

 


 長男は、中学時代は剣道をしておりましたが、高校生になってからは弓道をしております。
 本日、岩手県下の高校生を集めての弓道大会が盛岡市の岩手県武道館でありましたが、160名余の選手が参加した個人の部、見事4位に入賞したとのこと・・・涙


 本日は家族で見学に隠れて行くつもりでしたが、息子からは恥しいので来るなと再三釘を刺されてまして、結局行かないでしまいました。

 情けない親なんですが、なんの大会なのか、それも知らされておりませんし、今までも大会等の応援へ行った事がありませんでしたが、好成績を収めて帰宅したこと、まずは家族で喜びあっております。

 将来は乗馬も覚えて、遠野南部流鏑馬保存会にでも入れていただいて、遠野郷八幡宮神事、遠野南部流鏑馬の射手奉行でもと密かに望んだりして・・・・汗


 賞状は学校預かり・・・とのこと。

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紫波御所と遠野・壱

2008-04-17 20:48:33 | 歴史関連コラム?
 紫波高水寺城・・・紫波郡紫波町(城山公園)

 南側から


 北側から



 本丸





        ◆紫波の歴史◆

○斯波氏と紫波

 斯波氏は上の説明板に記述されるとおり、足利氏(源氏)の有力分族である。

 斯波郡(紫波郡)は奥州平泉時代は平泉藤原氏の一族、樋爪氏が統治していたが、鎌倉勢に平泉が滅ぼされると、斯波郡の河東(北上川東)は鎌倉御家人の河村氏(河村四郎秀清)に与えられ、河西は引き続き藤原一族の樋爪俊衡に安堵されたとある。

 河西の樋爪俊衡亡き後、樋爪氏がどうなったかは不明であるが、河西は大方の見解では足利一族である斯波氏に与えられたのではとのことである。
 鎌倉期と推測されますが「尾張弾正左衛門尉」の所領が郡内のどこかにあったものとの見解もあって、斯波氏と紫波郡との関係は割と古いものなようです。

 しかし、いつの時代から紫波郡が完全に斯波氏の領有することになったのか、さらに斯波氏の定住は、また河東から岩手郡内に勢力を持つ河村氏との関係は・・・まだまだ不鮮明な内容も多く、さらなる史実への紐解が必要かと思ってます。


 北上川東側(河東)


○河村氏 
 河東の大巻城を本拠に紫波郡東側から岩手郡内南部(盛岡、玉山)まで勢力下としていた河村氏は、建武親政下において、遠野南部氏の祖、南部師行と共に陸奥守北畠顕家の幕下として遠野南部家文書に名がみられる。(河村又次郎入道)

 後に宮方と武家方と国内を二分する争乱、南北朝時代の興国年間(1340前後)、八戸の南部政長(遠野南部氏先祖・師行実弟)が南軍を率いて岩手郡に南下、雫石川下流域(盛岡市厨川)で北軍と激突、この時、河村六郎なる人物が南軍側へ加担を申し入れている。
 南部政長による河村氏への勧誘が成功した内容とも考察され、以後河村氏は南朝方となっている。
 
 この合戦ではかつて共に北畠顕家の下にあった戸貫出羽前司(中条氏・稗貫氏)が北朝方となり紫波郡内の稗貫党を率いて出撃したが出羽前司は討死、南軍が盛岡近辺まで勢力を拡大することになる。


 大巻城(紫波町)


 中世山城といった雰囲気抜群の城跡(未踏)


 後に河村氏は、紫波郡に本格入部しただろう斯波氏に圧迫され、南北朝の争乱が北朝側に優勢に傾く中、各地の河村氏一族が徐々に斯波氏の家臣化の経過を辿り、斯波氏の配下となったものと解釈されている。


 しかし、不明な点も多いのは確かで、斯波氏がいつの時代に紫波に入ったものか、おそらくは当初は河村氏同様斯波氏も代官を以って本領から遠隔統治をしていたものと推測されます。

 南北朝期、北朝側の斯波氏といった印象はそのとおり大きいものですが、遠野南部家文書等の当時の史料には北軍の大将格、それも北奥羽方面での争乱に斯波氏の名は出てこない。

 北畠顕家と対峙する斯波家長が足利尊氏によって斯波郡へ派遣され奥州北朝側の総司令官といった位置付けに語られるも、家長が斯波郡はおろか奥州に下ったという痕跡は皆無である。
 斯波家長は関東方面で奥州への工作活動を行っていたものと考察され、奥州への工作活動責任者といった雰囲気が感じられます。
 家長は関東管領という職にあったとも語られますが、東北、関東方面の総大将は足利直義であるのは疑いのないことです。


 紫波の斯波氏は、南北朝後半或いは室町初期に本格下向した斯波一族で、斯波家長に繋がる一族が当初入り、大巻城の河村氏を圧迫しながら徐々に紫波郡全体に勢力を拡大していく過程があったものと私は推測しております。

 さらに1500年前後、奥州探題の大崎氏(斯波氏)による一族の分族化があり、その際に出羽の最上、さらに紫波に一族を派遣、このことが紫波御所と呼ばれる高水寺城の斯波氏の始まりであろうと考えていますが、この時にかつての斯波氏に何かしら後継が絶たれる問題等が発生したのではないのかと私は考えておりますが、さらなる研究やら調査も必要であり、識者の今後の研究成果に期待しつつ、小生も機会を捉えながらこちらも懸案として取り組めたらと思っております。

 
 参考資料等・・・紫波町史1・遠野南部家文書(八戸根城南部家文書)・北斗太平記全二巻、奥州南北朝秘史・岩手県史等・・・





 おまけ・・・桜

 紫波町は所によって7~8分咲き、城山公園は2分咲き

 城山公園



 国道396号、花巻市大迫某所

 8分咲きですかね。



 そして遠野では比較的早く開花する法務局の桜



 もう少し先ですかね・・・?

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糠森館跡(上郷)

2008-04-16 19:36:27 | 歴史・民俗

 中央奥に頭だけみえるところが館跡

「糠森館」・・・山城

 遠野市上郷町細越地内
 標高480メートル・比高95メートル
 館主・築時代不明


 帯郭

 上部に5段、北寄の中腹下に5段確認。


 空掘


 こじんまりとまとまった館跡という印象ですが、館全体を囲むように一重の空掘が残され、館の背部の峰を2重の堀で断ち切っている。
 館跡の一番高い部分には土塁らしき遺構が確認でき、斜面に張り付く段差もよく原型を留めている。

 堀切と土塁


 2重堀


 2重目空堀


 
 館主不詳、館築年代は不明といった見解ながらも安倍時代とも考察されてますが、背部の堀切こそ2重ながらも斜面に張り付く帯郭等、その造りは遠野型規格をコンパクトにしたといった印象で、その遺構の残存度も良好であります。

 本姓を菊池と伝えられる内城氏、その居舘は上郷細越の内にあったといわれる内城館で、その場所は何処なのか?、そんな思いから此処糠森館跡が怪しいのではないのかという思いで探訪をいたしましたが、館跡そのものは阿曾沼時代といった雰囲気がヒシヒシと感じられ、その遺構の残存度からも感じられます。

 しかし、主郭部とされる館跡の高い位置は、館主等が生活できるようなスペースがなく、全て斜面となっている。
 斜面の帯郭的な平場は幅2メートル程度と狭く、戦時に詰めるといった館跡だったかもしれません。

 館跡下部は開けた平場が確認でき、近年に開墾されたものか?畑やら草地として利用されていた雰囲気も感じられますが、この場所に館主一家等が暮らした屋敷があったかもしれません。


 館山下の平場



○糠森について

 遠野の館跡を調べ上げた先人郷土史家によると、糠とは何かにくっついていて、それを取り去ったもの、すなわち玄米についているのが糠であり、砂には砂金やら砂鉄がついている。
 さらに館跡の西方集落は「火尻」という地名であり、産鉄と関りある一族が住み着いたところではないのかと考察されている。
 そして何よりも産金、産鉄の関りある伝承を残す館跡には樺の木があるとか、此処糠森館も大きな樺の木が館跡を示す目印と資料には記述されていますが、20年以上も前の調査時のこと、今回、大きな樺の木は確認していない・・・というか忘れておりました・・・汗

 そしてもうひとつ・・・
 先日、小友町の新谷館を探訪しましたが、資料には遺構に糠森とあり、主郭前面やら背部に庭園のような石を配置させた跡がみられましたが、このような部分を糠森という・・・と記述されております。
 この石等はかつては産鉄、金の熔解炉としての役目があったものか、それについては記されていない。


 館跡への入口付近から

 左の山野は細越氏のかつての居舘「林崎館跡」・右の山野は本姓を菊池と称する切掛蔵人の居舘「大寺館跡」、同じ山野続きにはやはり菊池姓、平倉氏の居舘「刃金館跡」が残されている。
 中央の集落は火尻、中央奥は物見山。

 いずれ菊池一族は産金やら産鉄にも優れた一族であったとも語られ、本姓を菊池と称する内城氏もまたこれらに関りがあったものなのか?糠森館との関連は未だに不明ですが、その範囲は少しずつ狭まっていると感じております。




○おまけ・・・攻城記

 上郷八日市のバス停からは右手一番奥の山野に一際目立つ山があり、そこが糠森館に違いないと考えていた。
 また地形図やら空中写真でも確認済み、勢い勇んで山野に分け入り斜面を進むも、館跡らしい痕跡は皆無。
 既に大汗を掻いて額の汗は滴り落ちるほど、さらに奥まった高い尾根を目指すもまたもや空振。
 北側にはさらに高い山野が控え、まさしくそこに違いないと目指すも、斜面もきついが、辺りは背丈以上の笹藪だらけ・・・・良くみると至るところの笹竹が下方に向って倒れている箇所が多数ある。
 獣が下った跡、獣道か?・・・・上郷の山城はこんな場面が結構あって、歩き難いのなんの、佐比内の太田館、来内の来内館、平倉の大寺館、細越の森下館・・・なんで上郷の山はこうなんだっ・・・と思いながら難儀して登っていると、何やら獣臭い・・・汗

 脳裏をよぎるのは・・・・熊公だっ、熊公たちは笹薮に入って寝ているともいう・・・ここは撤退か、いやっ、間もなく山頂といったところ、此処まで来て・・・・。


 倒れている笹竹

 

 これはやばいかな?・・・なんて考えていると一際大きく周囲の笹竹が倒れているちょっとした平場に到着、此処はさらに獣臭い・・・なにやら動物の毛が落ちている・・・・汗

 思わず・・・「し・ろ・く・ま・・・だっ」と叫んでしまった・・・汗・・・ホント・・・大汗


これ↓


 割と固めの毛、白熊なはずはないですよね・・・笑・・・鹿類ですよね、カモシカか?

 とにかく山頂にたどり着くも笹薮が酷くて南側へ少し下ると、空掘跡を発見、笹竹に覆われ写真には上手映らなかったが、まさしく空掘跡でした。
 本日はこれで良しにして、来た斜面を下山していると先に林道を発見、どうせ帰るなら楽な道をと思い先を進むと開けた場所に出る。
 そこが4枚先の画像のところ。

 その上に山野があって、斜面をよく見ると段差が結構確認でき、それで今回の糠森館を発見といった経緯です。

 なんのことはない、笹薮だらけの山頂を北側に下って50メートルも行けば館跡背部の2重の堀切に至ったはず・・・・是より下は杉林で結構歩きやすかった。
 大汗掻いての上り下り、さらに獣の気配に恐怖しながら、最後は遺構ひとつを見つけるも探訪したことにしての撤退が思わぬ方向へ・・・・いずれにしましても大変疲れました。
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上柳ぶるーす

2008-04-13 16:55:05 | 遠野
 穏やかな日曜日、盛岡でも桜の開花宣言が出され、いよいよ遠野郷も間もなく春本番の季節となりそうです。


 附馬牛町小倉から


 見える範囲の田畑では農作業に勤しむ皆さんが多数見受けられた一日でもありましたが、小生はちょっと思うところがあって附馬牛へ・・・・。


上柳(附馬牛町)





 上柳といえば小生にとっては、ちょっとだけ憧れの地といいますか、幼き頃のなんとも言えない思い出なんかも残る地でもあります。


 街場から少し離れた在郷に生まれ育った小生、遠野の街は都会そのもの、近場では小さいながらもちょっとした町場の雰囲気が漂う土淵の本宿、似田貝といった通りもございますが、附馬牛の上柳は、遠野の街に次ぐ町らしい町と感じていた頃がございました。

 洋品店や商店、郵便局に旅館、そして映画館・・・まさに私にとっては町そのものでもありました。



 元郵便局、さらにそれ以前は村役場



 元某旅館



 小学生の頃、附馬牛小、東禅寺小、そして母校駒木小の3校で市内小学校対抗野球大会の予選会をしておりました。
 3校で地区予選を行い勝ち残った1校が遠野小学校で行われる決勝大会に進出できるのですが、母校はどうしても附馬牛小に勝てず先輩達は涙を呑んでおりました。
 
 その後、野球からソフトボールに変更となりましたが、小学4年生の時、補欠としてユニホームを着ることができ、この大会で初めて附馬牛小学校へ行きました。その時、路線バスで降り立った上柳は、まさに町場そのものに映った記憶があります。
 その後、遠足も含めて6年生まで数度、上柳に来たり通過したり、その度に町に来た・・・そんな思いでもありました。

 結局、ソフトボールは一度も附馬牛小に勝つことは叶いませんでしたが、最後の大会、6年生の時は東禅寺小を撃破して、附馬牛小と雌雄を決する試合、最終回7回裏まで7―6でリードしながら、同点とされ、さらに二死満塁、2ストライク3ボールという場面で押し出しファボールでサヨナラ負けを喫し、もの凄く悔しい思いをした思い出も蘇ります。
 
 皆で泣きながら上柳のバス停まで歩いて来ましたが、言葉少なくホント悔しかった・・・。
 
 その時、ふと映画館が目に入り、そこに貼られた映画ポスターだけは鮮明に覚えております。
 確か「クレオパトラ」だったと思います。
 エリザベス・ティーラーが主演だった映画・・・・ここからが記憶が定かではないのですが、親父に頼んで上柳の映画館でこの映画を観た記憶があるんです。
 確かにクレオパトラを小学生ながら映画館で観たんですが、遠野街の映画館なのか上柳なのか?
 バスで揺られて行った記憶は上柳なんですがね・・・・?


 映画館跡の建物





 銀幕が降ろされた後は、自動車整備工場だったと記憶しております。
 

 いずれ、上柳の町並みに少しだけ驚愕しながらも憧れがあったこと、そしてソフトボール大会で惜敗して涙ながらにバス停に向かい無言でバスに皆で乗ったこと、その際に映画ポスターを観て、何故かこの映画を観てみたいと思ったこと、そしてホントに観に来たこと・・・・幼き頃の記憶が残る場所でもあります。



 おまけ

小倉の田圃の中(猿ヶ石川沿)
コメント (20)
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