「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

遠野の菊池姓探究 壱 遠野士族名簿から

2016-02-01 19:29:42 | 遠野の菊池姓探究シリーズ

 菊池一族の岩手流入、そして遠野への移住については九州は肥後の国(熊本)からの菊池氏落人説が一般的ですが、はっきりいってこれといった文献の存在があるわけでもなく、一部、ほんの僅かに旧家に残された系図とその地域で語られる言い伝えのみという現実でもある。

この乏しい内容からではあるが、識者や研究者により調査もある程度行われ、大方の説等は出尽くした感じさえもします。

そんな状況ではありますが、あえて今一度、じっくりと私なりに調べてみたい、精度は低いかもしれませんが、時間はかかるかもしれませんがシリーズとして今現代に近い時代から遡る方式であれこれ考えてみたいと思います。

 

第1回目は江戸期、(南部藩)盛岡南部家の家臣で遠野地方を知行していた遠野南部家(約1万2千5百石)の家臣団、明治維新後に遠野士族となり、その士族名簿から少し考えてみたいと思います。

遠野士族名簿(コピー)から

 

遠野南部家家臣は所謂陪臣(ばいしん)、盛岡南部家の家臣が遠野南部氏であり、その家臣は盛岡の家臣ではなく遠野南部家の家臣ということで陪臣となります。

陪臣たる遠野の武士達は明治維新の後、奉還禄公債ももらえず、それどころか当時唯一の名誉でもある士族にもなれずでしたが、明治30年(1897)遠野南部家当主の南部行義が男爵となり華族に列せられたことから遠野の旧臣達による嘆願で士族となることができた。

これにより明治33年(1900)遠野士族名簿が編纂されたとある。

 

〇菊池姓家臣は下級家士 

さて、肝心な菊池姓であるが、遠野士族名簿等によると240名の士族中、菊池姓は25名となっている。

全体の1割強が菊池姓、これが多いか少ないかといえば、やはり多いというべきと思います。

菊池の次に多い姓は小笠原姓14名

次に多いのが工藤姓と松田姓それぞれ10名

 

ということは、江戸期から菊池姓の家臣がけっこう居たということになります。

ただし、菊池氏の家々は、ほとんど下級家臣ばかり、30石と20石の遠野でいえば中士クラスが4家のみ、17石が1家、10石が2家で、後は5石以下の家々となります。

ですから内職やら百姓もしながらで生計を維持していただろうと推測されます。

明治の新姓で遠野では、おそらく一気に菊池姓を名乗ったこと、そして広がったことは間違いないのですが、その地域に君臨した菊池姓の武家が存在したという形跡も無く、また肝煎りというべき菊池姓縁の庄屋クラスの家々も数多く存在したということもない雰囲気でもある。

 

ただ、菊池姓そのものを名乗る家々のみならず旧姓を菊池と称する家々の存在の実はあるようで、例えば駒木氏・・・遠野南部家家臣でも駒木氏は6家確認できる。

このことは続編というか江戸期関係の章でご紹介したいと思います。

 

 

遠野の菊池姓は

遠野市小友町

遠野市青笹町

遠野市上郷町

上記の3地域が特に繁華な地でもある、今回の遠野士族名簿では明らかにならなかった感じはいたしますが、その士族達の旧知行地或は出身地、縁のある地域等を調べられれば、何かしら得るものもありそうです。

 

遠野士族、240名と記しましたが最終的には400名近い内容となっております。

中には肝煎りや商人といった遠野南部家に献金等を行い名字帯刀を許されたり俸禄をいただいた家々、人々もあり、この中にも菊池姓関連があるものと推察されます。

ですからこの時代でも菊池姓は遠野に関わりがあり深かったという結論に至るものと私は考えております。

 

参考図書  遠野市史1~4  遠野士族名簿   遠野南部家物語・新遠野物語(吉田政吉)

 

コメント (12)
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