「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

藤原秀親譲状と遠野

2009-07-06 17:43:57 | 遠野史阿曽沼時代
 これから記述する内容が遠野郷土史家の先生方や学者先生方にどれほど検討論議されたのか、また批評されたものなのか、その展開が小生にとっては未だ不明という状態であり、さらにある程度の評価を得て遠野郷土史、特に阿曽沼時代といわれる遠野中世期における通説が書き換えられた、或いはそれに近い内容が識者の間で取り入れられ史実として語られているものなのか?いやっ、全く論外との位置付けで黙殺されたのか?・・・・小生の印象では論外との位置付けでその後の展開に影響なしとした雰囲気が感じられ今日に至っているものと思われます。


 さて、1990年代初頭、古書「阿曽沼家乗」を含む古書の解説を遠野市から依頼された某学者先生による論説が残されている。
 遠野郷土史界にとっては驚愕する内容が多数含まれ、異説と捉える先生方も多数存在したのではないだろうか?
 しかし、何度その論説を読み返しても説得力があると言いますか、理論付けもしっかりしていると小生は感じられ、賛同する場面も多々あります。

 古文書というよりその地域の歴史やら武家の歴史を著す古書の多くは、編纂した側の思い込みや時には故意に操作された内容も多数あると指摘され、それがイコール史実ではないということは皆さんも感じていることだと思いますので、どの古書がそうだとかはここでは記述はいたしませんし、小生のような浅学といいますか学識を持たない素人が言うことでもありません。

 そんな事も踏まえまして僭越ながらも下記の内容について記述したいと思います。






 上記の譲状について、まずは「遠野市史1」での見解は・・・
 結論から言えば、小山氏(藤姓小山氏、藤原秀郷流で阿曽沼氏とは同族・関東の大族)の譲状であり、観応年間は南北朝争乱の時代で北朝方(足利)の小山氏、南朝方(宮)の阿曽沼氏が隣接同士で争い、名目上小山氏は阿曽沼氏所領を自領と称したものとしている。

 後に別見解が示され、概ね次の通りの説が主流となっているものと思われますが、小生もこの説を一応支持している。
 
 この譲状は小山文書の中に入っていたため長らく小山秀親の譲状とされてきたが、譲状の冒頭に「一所、下野国阿曽沼郡内阿曽沼郷・・・」とあること、さらに「陸奥国遠野保・・」とあり、この内容は阿曽沼氏惣領家、すなわち阿曽沼秀親の譲状と史家達が見解を示したものと思われる。
 阿曽沼氏歴代や伝えられる一族に秀親なる名は散見されないとされるが、下野国本貫地には阿曽沼主家が顕在であり、その庶流一族が全国に散らばる阿曽沼氏所領に移り代官として統治していたとする見解で謎の部分も若干残るも概ねこの説で説明がつく内容でもあると考える。(栃木県史研究第12号)(佐野市史)


 しかるに某学者先生の説は・・・

 小山氏の譲状としたうえで、譲状の「陸奥国遠野保・・・」条の次に「同国江刺郡角懸郷・・・」とあることから前出の条は即遠野(岩手県遠野)の事と妄解したためとしている。
 
 小山氏文書陸奥国の条・「嫡子所領分之事」に・・・
 「一、陸奥国菊田庄<加湯竈郷定>遠野保地頭職事。江刺郡内角懸郷半分地頭職事。」とあり、ここでいう遠野保とは福島県いわき地方の遠野と指摘している。
 確かに福島県に遠野という地名を確認といいますか、以前研修旅行で名称変更されていますが・・・笑・・・常磐ハワイアンセンターに行った際に遠野高校が近隣にあった記憶が・・・ホント。

 小山文書の遠野保関連の条は書籍等では未確認ですが、確かに某学者先生の説は説得力があるように思えますが、そうなると下野国阿曽沼郷・・・や佐野庄も小山氏の所領であり、阿曽沼氏は何処に居たのか?阿曽沼氏の一族は安芸国(広島)にも分流があることは知られておりますが、既に下野国の阿曽沼氏は没落していたのか?そして遠野保とは小生の住む遠野のことではないのか?

 ただ結論からいえば、やはり遠野南部家文書にある建武元年8月3日付の国宣、すなわち「阿曽沼下野権守朝綱代朝兼申遠野保事・・・・」この教書は北奥羽検断職であった南部師行に送達された北畠顕家の教書であり、北奥羽管轄であった南部師行が磐城地方(現福島県)の争乱対応の命令を受けることは考えられないことでもあり、やはり遠野は建武年間以前から遠野と呼ばれていたことは間違いないこと、そして阿曽沼・・・とあるように阿曽沼氏に縁のある土地であったことは史実といえます。


 そして阿曽沼の起こりは下野国ではなく、福島の阿沼郡としているが、藤原秀親の譲状が観応年間のものとするならば、下野国阿曽沼郷・・・とあるように以前から阿曽沼という地名ではなかったのか?




 松崎町駒木・・・阿曽沼館跡






 天然の堀と成したと伝わる大沢川




 いずれにしても、どの説も今一度仕切り直しといいますか、さらに詳しく精度の高い研究が求められる内容でもあって、この分野も難解と感じているところです。

 この某学者先生、この後、あまり芳しくない風評やら噂が出て参りますが、このことを以て論説を否定するものではありません。
 ただやり過ぎた印象は否めませんがね。


 
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大槌孫三郎・大槌氏 弐

2009-03-05 19:07:32 | 遠野史阿曽沼時代
 大槌氏
 中世~近世初頭、三陸沿岸の大槌一帯を領した武家で、江戸初期には北は現在の下閉伊郡山田町の豊間根、南は気仙郡境の釜石市平田、西は遠野境の山間地までの広大な沿岸地域を勢力範囲とし、3千石ともいわれる。
 南部藩政時代初頭、元和3年、太守南部利直により、罪あって断家となり滅亡・・・とされる。



大槌城跡本丸



 大槌氏は所伝によると遠野阿曽沼支族と語られ、大槌を含む釜石地域は遠野郷の内ともいわれ、遠野阿曽沼領であったともいわれている。
 果たしてどうであったのか?大槌氏は阿曽沼氏の家臣的立場の武家であったのか、さらに大槌地区は遠野領であったのか?確たる証は今のところ見つけ出すことはできず、推測やら伝承の類といった内容に頼るほかは手立てが薄いといっても過言ではないことでもある。



○大槌氏歴代の謎と、その出目

 大槌氏は一説には、遠野領主、阿曽沼親綱(鎌倉初期)の二男、遠野次郎が大槌地域を分地されたのが始まりと伝えられる。
 また、別説でも阿曽沼朝綱(鎌倉末期~南北朝初期)の二男、次郎が大槌地方に分族したのが始まりとも語られる。





 近世における各歴代当主の没年等に不審はあるが、伝えられる系譜としては大方、系図①のように伝えられている。





 さらに詳しくまとめられた系図が大槌町史に掲載されているが、それを私なりに若干抜粋した系図が上記の系図②である。


 大槌での最初が南北朝期の前半部分といった印象でもあるが、ここでも阿曽沼氏の血縁、支族といった内容である。
 ただし、系図の歴代共に語られる歴代当主は、次郎、孫三郎、孫八郎・家政、広信、政貞のみで、大槌氏280年と伝えられる中にあって、歴代当主不明、空白年代があるのは何故なのか、三陸沿岸の大族との位置付ながらも謎の部分があまりにも多いのが事実でもある。


 敗者の歴史は語られず・・・江戸初期、南部氏によって断家、いわゆる取り潰しの憂き目となった史実があり、これによりその事績は徹底的に闇に葬られた、或いは人々が口に出すことも叶わず、これにより、その多くが伝えられなかった、消えた歴史といった内容もあったものと推測はされますが、それにしても謎の部分、時代があることは否めない。


 謎の一族、大槌氏・・・・
 遠野阿曽沼氏との関連を否定する何かは今のところ見当たらない、むしろ何かしらの関係があったのだろうということが脳裏から離れることはないが、以前に別サイトでも記しておりますが、南北朝時代の前後、遠野は領主権を持つ本国下野国(栃木県佐野市)阿曽沼氏と現地の統治を任された代官職の阿曽沼庶流家があって、その代官職の執権が宇夫方氏、或いは宇夫方氏そのものが阿曽沼庶流の家柄であったものかもしれない。

 南北朝争乱も落ち着いた時代、遠野領の主権を持つ阿曽沼主家が遠野へ下向、主家による本格統治の時代へとなると、かつての代官職を持つ庶流は、家臣化への道を歩まざるを得ない状況に陥り、これを嫌った一派は海岸方面、すなわち大槌へ移動したのではないのか?そして近隣の気仙郡内の豪族含む菊池一族や閉伊郡の閉伊氏一族との婚姻等で力を貯え、ある程度の勢力を有するようになったのではないのか?
 永享9年、遠野横田城が気仙勢と大槌孫三郎に攻められた事件が語られますが、大槌孫三郎はかつての本拠地、遠野奪還の大義名分により遠野横田城を攻めたのではないのか?妄想ながらもそんな思いがいたします。

 結局は永享年間の事件では、伝承によれば三戸の南部守行、義政父子が遠野へ来援、気仙、大槌勢は散々に敗れて撤退、大槌城は南部勢、遠野勢に囲まれ、籠城戦となるも、攻め手の大将南部守行が流れで瀕死の重症となり陣没。
 南部勢、遠野勢は兵を引いたとされるが、何故にこれに対する南部方の報復がなかったのか?これもひとつの疑問でもあり、事件そのものが果たして史実であったのか、それとも年代が違っていたのか?


南部勢本陣とされる古廟坂方面




 
 遠野での伝承に土淵角城館主の沢村氏は大槌孫三郎の兄といわれている。
 その事績は全く伝えられていないし、その関係を図る資料もなく具体的な言い伝えも実はされていない。
 ただし、土淵は大槌への道での遠野側の玄関口といった位置付でもあり、その方面に大槌氏或いはかつての代官職を持っていた庶流の一派が根付いていた、これも少しではあるがあり得た内容とも推測される。
 遠野全体を阿曽沼主家が抑えていたといった雰囲気が感じられない思いもあるのも事実で、このことについては徐々に確かめるように調べを進めて参りたいと思ってます。

 
 余談になりますが、土淵町角城館下の家々に前川姓のお宅が何件かある。
 その昔、角城館は沢村氏が館主であった時代と前川氏が館主であった時代があったと推測しております。
 前川氏といえば豪商吉里吉里善兵衛の本姓でもありますが、まさに大槌の豪商・・・善兵衛に関わる前川氏が角城館縁の前川氏との確証はなく、時代も違いますが、大槌との関わりを少し感じる思いでもあります。
 単なる小烏瀬川の前に住んでいたから前川では小生の妄想はそれで終わりではありますが・・・。



 次回は「参」として孫八郎を記してみたいと思ってます。
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大槌孫八郎・大槌氏 壱

2009-03-03 18:42:46 | 遠野史阿曽沼時代
 大槌城・・・城山公園












 本丸(主郭)




 主郭から二の郭方面




 3月3日、世間では雛祭りの日であるが、前日のエントリーにもあるように、特別に何かをするということもないので、久し振りに湯っこでも堪能しようということで、暖かそうな沿岸部を目指して釜石方面へ・・・湯っこといえば、釜石方面では大槌の「マストの湯」しか思い浮かばなかったので、一路大槌町を目指す。

 午前10時過ぎに到着・・・なな・・・なんと湯っこは午前11時開店ということで、少し時間があったので、大槌城址、城山公園にて時間潰しのつもりで移動する。






 今回で4度目の訪問、大方の探訪調査は終えているつもりであるが、最奥部である本丸への道が解放されている。
 これはチャンスとばかり、車で頂上まで・・・ラッキー・・・歩きですと道は舗装され良いものの一汗掻かずには済まないキツイ登りの城跡であり、遠野の鍋倉城よりも長い登りでもありますので・・・汗






 ○大槌城
 遠野阿曽沼支族、大槌氏の居城。
 本丸から東側尾根沿いに二の郭、三の郭、四の郭と設けられ、他の尾根にもいくつかの砦的な郭を持つ堅固な山城で、その規模は上閉伊郡最大ともいわれる。
 
 まさに難攻不落といったイメージでもあり、小生が探訪する館といわれる遠野の山城とは比較にならない規模でもある。

 



 大槌氏の通説は説明板の通りでもあるが、次回のエントリーでは「弐」として大槌氏の考察をしてみたいと考えております。
 推察が妄想に・・・そんな場面になり得るかもしれませんが、遠野とも歴史的に関りある大槌、そして大槌氏、その際はお付き合い願います。



 大槌城跡探訪の後は湯っこを堪能して、大槌町図書館へ・・・・。
 
 大槌氏関連の地元でしか見られない資料を閲覧と目論むも、これといった資料に出会えず・・・若干ではあるが、考察に必要な最低限の内容は把握いたしました。


 釜石市、遠野市のコーナーが充実しておりました。
 やはり以前は上閉伊郡の仲間といった大槌町との親密さが伺われました。


 遠野書籍コーナー





 おまけ


 先週土曜日、結婚記念日ということで嫁さんと乾杯・・・肴としたもので一番高かったのがイカ・・・汗・・・笑
 


 いがった・・・イカった・・・笑
 
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妄想遠野史弐・阿曽沼館

2008-05-20 16:02:13 | 遠野史阿曽沼時代
 文治5年(1189)、源頼朝による奥州平泉の藤原氏征討により、黄金文化に彩られた奥州藤原氏の栄華は幕が降ろされる。
 
 鎌倉方の武将として奥州の戦陣にあって、その戦功により下野国(栃木県)の住人、阿曽沼広綱に遠野保が恩賞として与えられ、地頭職に補せられたことにより遠野は阿曽沼氏の統治することになったと伝えられている。

 遠野に隣接する地域や奥州各地も和賀氏、葛西氏等・・・鎌倉御家人に分け与えられたことになっている。

 源頼朝により遠野が阿曽沼氏に与えられたという史料による確証は見当たらないが、伝承として長らく語られていただろうと推測される点、慶長年間までの俗にいう遠野阿曾沼時代といわれる長き時代に於いて、領主、或いはそれに近い存在で阿曽沼を名乗る武家が代々語られる点、また建武元年北畠顕家から北奥羽権断職であった南部師行宛の国宣(遠野南部家文書)に「阿曽沼下野権守朝綱代、朝兼申。遠野保事・・・・」とあるように遠野と阿曽沼氏の関係が極めて深いことが伺われる。


阿曽沼館跡・・・松崎町駒木(下駒木)



 阿曽沼広綱は同族で重臣であった宇夫方広房を代官として遠野へ派遣、下野本国からの遠隔統治をしていただろうという考察がなされている。

 
 宇夫方広房が遠野へ下り、その第一歩として落着いた先が松崎町駒木の地であったと伝承されている。



 下駒木・・・阿曽沼館跡のあった一部

 集落を流れる東~南は大沢川を天然の堀となし、西は猿ヶ石側を、北は大沢川から分かれた小川や段差を利用する工作をしたものと推察されますが、大沢川の片岸が当時を偲ばせる雰囲気が若干残されているのみである。


 何故、阿曽沼氏代官とはいえ、阿曽沼館と伝え語られているのだろう・・・宇夫方館でもよさそうなものですし、伝承では横田城が築かれた建保年間までの20数年のみ在館と語られている。



 かなりの推測も含まれますが、大方現下駒木の下村~上駒木バス停上方付近までが範囲と推測しております。 


 さて、ここからが妄想なのですが、宇夫方氏や阿曽沼氏の本格下向での考察は次回以降となりますが、宇夫方氏が当初駒木に築いた阿曽沼館、この後に宇夫方氏は綾織の谷地館を築いて松崎の地から移動、駒木には阿曽沼の名を持つ主家に連なる一族か庶流が下向したものではないのか、宇夫方氏が領内の政治、軍事全般を司り、駒木にいた阿曽沼氏は形ばかりの代官職だった可能性があるのではないのか、このことが後の時代、建武年間での国宣で知られる事件へ繋がる何かがあるような・・・・駒木の阿曽沼館、かなり後の時代に阿曽沼館と名付けられた雰囲気がひしひしと伝わりますが、当地には館に関連する姓名、屋号も現存し、割と長い間、館として機能していたものと思われます。


南方面の大沢川


 川はコンクリートで固められ、その流れも結構変わってしまいましたが、それでも幼き頃の記憶を紐解けば、随所に館跡としてみた場合の遺構なんかもあったような思いもあります。
 今はただ妄想、想像といった分野にて一人その時代を偲ぶのみかもしれません。
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妄想遠野史・壱

2008-05-13 20:57:51 | 遠野史阿曽沼時代
 時折、遠野阿曾沼時代の通説を妄想交じりで考察して参りたいと思います。

 第一回は、「横田城」


 その前に、昨夜もジンギスカン。


 同僚達と少し遅い花見の宴
 街場の○まんにて



 こちらも遠野を代表するジンギスカンの名店、やはり美味かった。


 ジンギスカンの後は・・・・。



 アニメソングも少し新しいものを開拓しなければならないようだっ・・・笑


 翌日(13日)・・・


 午後から雲がさらに多くなり小雨もポツポツと・・・天候の回復は木曜日以降の予報とか。





◆妄想遠野史・・・横田城(護摩堂館)序章

 横田城址のある山野・・・松崎町光興寺



阿曽沼興廃記には・・・
 奥州平泉藤原氏征討の功により阿曽沼広綱は遠野郷を給され文治5年(1189)に築城とある。

阿曽沼家乗には・・・
 広綱の子、親綱が建保年間(1213~19)に築いて移住したとある。


 しかしながら築城年代も含めてこの時代の遠野における阿曽沼氏に関しては判然としていないが、伝承等含めて、最初は踊鹿山(八幡)を見出したが水の便が悪く、鶴音山麓の光興寺の護摩堂に築城したと伝えられている。
 城の背後の山は鶴音山と称されたが、清水が湧き出るところから高清水山と後に称されるなったとのこと。

 前面に猿ヶ石川が流れ天然の堀と成し、背後は鶴音山が控え、まさに要害といった場所柄でもあったと史家達は見解を残している。


 鎌倉時代、近年の見解では代官宇夫方氏を以って遠野を遠隔統治していたという説が主流となっており、私もその説を一応に支持はしているが、代官宇夫方氏は下駒木に仮館を築いて当初の遠野統治の拠点としたとされ、後に下向した宗家親綱と共に横田城を築いて本格的統治が始まったかのような通説になっている。

 遠野の中世期に築かれただろう館跡を探訪調査しているが、空掘やら土塁、段差のある平場をみても横田城は、室町期後半から戦国期にかけて築かれたと考察される他の山城とその基本的な構えは大差は感じられない。

 駒木にあったと云われる阿曽沼館、そして宇夫方氏が鎌倉期に築いたとされる綾織の谷地館は、平城の類で鎌倉武士団特有の館の構えであると考察しておりますので、横田城は後の時代の築、これでおそらく間違いないものと考えております。

 この続きは弐として、代官宇夫方氏の下向、阿曽沼氏の動向として詳しく見解を示したいと考えております。


主郭部分に建つ薬師堂


 



 
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