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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

宝暦の大飢饉

2007-10-09 18:21:50 | 遠野
 江戸時代の宝暦4年(1754)の遠野は大洪水による凶作、また翌年の宝暦5年は冷害による凶作と2年続けての凶作となったと記録されている。

 宝暦年中(1751~1763)の遠野は、各方面ともに順調な発展を遂げ、人口も2万人弱、約19,400余人、家屋数約3,500軒との記録である。(紫波佐比内村含む)

 宝暦5年は遠野領空前絶後の大凶作といわれ、春の田植時期は寒く綿入れを着たまま、さらに近くに焚き火をして手を暖めながらの田植作業と伝えられる。

 初夏の頃は毎日のように霧雨が降り、太陽は隠れたままで、盛夏になりようやく暑い日もあったと伝えられますが、細いながらも幾らかの穂が出、初夏までの低温での遅れを完全挽回に至らずとも、このまま暑い日が続けば家族でなんとか食べていける程度の収穫は期待できると皆でホッとしかけた矢先、8月16、17日、二日続けて霜が降りたという・・・。

 米は全くという程採れず、稗、粟、豆といった雑穀類も同様、まさに大凶作となり、米、雑穀の類の価格が急騰、宝暦4年当時の人口約1万9千余人の内、救済を受けた者7千5百人余、餓死者は、3千人と記録されている。
 また領内から出奔した男女5百人弱、主を失った空家が目立ち、また疲弊していたところに労力が足りず、さらに宝暦6年も凶作、7年も凶作となり田畑は不毛の地と化したともある。


 さらに後年の天明、天保時代にも大凶作が発生、宝暦の大飢饉をも凌ぐ甚大な被害となった。




 松崎字洞の里・・・・現松崎町光興寺宮代
 飢饉無縁塔



 飢饉の碑ともいわれますが、別説として他領から流れついた人々がこの地で亡くなり、その無縁仏を鎮魂する碑ともいわれますが、遠野古事記には3千人前後の餓死者(遠野旧事記には40名弱、ここでは遠野古事記を採用)とあり、いかに大飢饉だったかを物語ものでもあり、無縁塔は遠野領内各地から食を求めた人々が彷徨い力尽きて亡くなった方々の霊全てを鎮魂するものであったと私は認識しております。

 私も含み現代人には、到底想像も出来ない凄惨な場面があったのだろう・・・。

 
 今年は台風直撃かと心配される災害も発生しましたが、なんとか大きな被害は免れ、米も平年作といわれております。
 しかし、米価は年々下落、しかも美味しく、かつ安全なお米でなければ競争には打ち勝てないという時代となり、小規模農家にとっては実入りの少ない分野となっております。

 
 




 松崎町松崎・・・遠野市内でも米処である松崎町


 余談となりますが、十数年前の平成の大凶作、私の母親なんかは、餓死だと騒ぎ、うどんや蕎麦を食べなければならない、配給される米では足りないと騒ぎたててましたが、今だから言いますが、我が家には古米、古々米はある程度備蓄されておりやんした・・・汗

 今考えれば凶作が数年も続けば、それこそ飽食の時代どころではなく、現代人はどうなるのだろう、私のように魚介類が苦手とか偏食人間が言うことではないが、母親のように強かに食に関しては考えなくてはと思いますし、基幹産業は農、これ人間の根底にあるもので最も大事なことではないでしょうか、つくづくこの歳になり考えるようになりました。




 松崎町駒木




 もうひとつ・・・

 10月17日(水)は福泉寺秋の大祭であります。
 このお祭りでの役割を決めるため、檀家筆頭家の面々が集まり取り決めました。

 今回は、檀家役員での事務局長的な方が先月亡くなられ、大きな穴が空いたようでもありましたが、我家の本家的な家のご当主様をお迎えして、なんとか滞りなく取り決めることができました。



 今回も最年少は親父年齢の私です・・・笑
コメント (13)
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