「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

小田沢

2006-03-31 17:56:45 | 遠野
 弥生三月も間もなく終わり、新年度のスタート、4月となろうとしているのに時折の雪模様・・・冬タイヤから夏タイヤへの交換時期ながら、なかなか交換に踏み切れない、いや・・今少しは様子をみなければならない・・・なかなか陽春はやって来ない・・。

 「こだじゃ」小田沢・・・松崎町駒木 小田沢
 
 野田渡橋からみた小田沢・・・
 猿ヶ石川と早池峰、前薬師のコントラストとなるはずが、あいにくの空模様・・・。

 
 小田沢の石碑群・・・県道から外れているため、一般の観光客の目に触れることはない。
 近くに点在のものを一箇所に集めたものと思われる。

 
 小田沢バス停・・・
 以前は数十メートル附馬牛寄りの精米所付近にあったりと、若干の移動があったのだが、現在は此の場所で落ち着いている・・。

 滝の家・・・屋号「たぎ」

 南部曲屋の立派なお宅であるが、萱葺をトタン葺に、さらに外壁を一部改修しているものの、往時の雰囲気は十分残されている。
 小田沢地区でも屈指の旧家である・・・。

 

 松崎町駒木 小田沢集落
 松崎町駒木地区を形成する中の十数戸の集落・・・「こだじゃ」と地元ではよんでいる。(松崎町の北端・附馬牛町との境)
 駒木地区でも早くから開けていた地域とされ、坂の上遺跡が発掘され、古代東北、蝦夷時代の遺跡とされる。
 この場所は西側は眼下に蛇行する母なる川、猿ヶ石、北には霊峰早池峰を望める絶好の場所であり、蝦夷たちが集落を営んでいた雰囲気を味わえるも、その痕跡はなかなか探し出せない・・・。
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2006-03-29 19:00:15 | その他
 お隣で、しかも「まぎ」(同系)のおばあさんが亡くなり、前日は、陸尺(ろくしゃく・棺担ぎ・今年一年は他の親戚等での葬儀では陸尺はできない)の役目で火葬。
 本日、葬儀~忌明け会食までの案内ということで、ほぼ一日を過ごしました。

 まずは昨年春から一年間で3度目の山稼ぎ(墓穴堀り)を早朝こなして、葬儀後の埋葬(骨入れ)の後始末、寒の戻りか横殴りの雪の中、鼻水を垂らしながらの作業・・・。

 さて、画像は忌明け会食の「ごっつぉ」(ご馳走)・・。
 田舎者、さらに貧乏人の性か・・・とにかく此処(とあるホール)の「ごっつぉ」は品数が多くて、その辺の高級温泉リゾートホテル以上の膳と感じてしまう。
 無論、冷めた料理は美味いとはいえない、しかも見ているだけで満腹感、流石に全部は食べきれない・・・・。
 しかし、会費の元は取り返す或いはそれに近い何か・・と錯覚させられる料理といつも思ってしまう。

 (画像は携帯電話内蔵カメラにて撮影)

 忌明会食では一番の上席、「ご本家さん」と私を知らない方々のお酌を受けるも、本家であって本家でない、しかも分家であって分家でない・・なんとも言いようのない立場であり、話せば長くなる長年の燻りもあって今は多くは語れません。

 余談になりますが、冠婚葬祭での席順、これを頑なに気にする方々も居られます。
 気にしないという方、無頓着な方も居られますが、これってかなりシビアで家と家との関係、すなわち本家、分家の成立過程とか、婚姻による昔の結びつき等、かなりややこしく、下手すると長年のしこりを残しかねない問題でもあります。
 
 今時ナンセンスという方もいるかもしれません。また「たかが席順、されど席順・・」ながら自分の家系に誇りを持つ意識、私個人としては失ってはいけないと考えます。
 
 
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御所湖

2006-03-25 19:03:35 | その他
 夕方の御所湖・・・





 御所湖・・・盛岡市つなぎ温泉からの画像

 子供達が春休みということで、まずは今月3日に無事に高校を卒業した長女の卒業祝い、また「おしょすはなすだども・・」結婚19年、来年は20年の節目という意識を持つためも併せ、結婚記念の意味合いも兼ねて家族で盛岡つなぎ温泉に一泊で出かけてきました。

 いずれ、子供達と何処かへ旅行へ行くとか・・今後このような機会は滅きり減ることかもしれない、そう考えると少し寂しいことでもありますが、行ける時に行く、家計のこともあるけど旅行のみならず家族全員で楽しめること、今後も何かしら考えて続けていけたら・・・と思います。



 南部片富士 秀峰岩手山



 今回の宿・・・・
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成吉思汗

2006-03-24 11:37:32 | 遠野
 ジン・ジン・ジンギスカン・・へーハダ、ホーハダ・・ナントで・・
  ジン・ジン・ジンギスカン、ナントかナントかで・・・・・
   ・・・・ア・ハハハハ・・・オ・ホホホホ・・・・

 歌詞はよくわかりませんが、ジンギスカンというディスコ調の曲が昔流行って、思わず遠野名物ジンギスカンを焼きながら、口ずさんでしまう、そんな美味しく、楽しい一時を過ごしました。



 まずは、専用のジンギスカン鍋を程よく熱して、万遍なく脂を溶かしながら「ぬったぐって」・・・鍋の天辺に脂一個をのせます。

 次に鍋の下部周囲に野菜(キャベツ、もやし、玉葱等・・)を敷き詰めます。
 上部付近に肉をのせて焼く・・・・



 ジンギスカンに生ビール・・・・「クッ~・・効く、うんめ・・・ブファ・・」

 ジンギスカンは片面を焼いたら、ひっくり返して少し焼いたら食べるが一般的だと思ってます。
 外側は「カリッと」中は「ジューシー」・・。
 
 両面をじっくり焼いて食べるという方もおりますが、無論、個々によって食べ方は違いますが、両面しっかり焼き派が一切れ口に運ぶ間に片面派は3切れは食べている。
 そのうち、両面しっかり焼き派は自分の陣地を構築して、他の侵入を許さず、陣地内に3切れ前後を確保して、しかも箸で早く焼けるよう交互に押さえつけている・・・そんな光景がジンギスカンでは見られます・・・笑

 さて、ジンギスカンの本場、北海道では道民一人当たりのジンギスカン消費量が2.4キロとか・・・。
 しからば遠野は、市民一人当たりの年間消費量2.1キロ・・・決して負けてはいない、この数値は本州一なそうです。
 一回の一人当たりの量は、俗に200グラムといわれているが他に野菜やら御飯も一緒に食べる場合である。
 肉だけなら成人の男性でビールを飲みながら300グラムともいわれてもいるが、遠野では年間10回前後、ジンギスカンを楽しむ計算になります。

 いわれてみれば、私個人をみても年に10回は食べている。花見に夏のPTA行事やら子供会、近所でのバーベキューパーティ、さらにキノコ狩りやスポーツ交流会等、他に職場での懇親会や自宅で家族と・・・また、遠野以外からお越しの来訪者の接待なんかで専門店で・・・・考えれば結構食べておりますな・・・。

 遠野では名物ジンギスカンを大きく宣伝しているわけではない、駅に降り立ってもジンギスカンの町を彷彿させるような看板もないし、一部バイパスには元祖店やら精肉店での看板はあるけど、ラーメンなんかで全国に売り出している地域のように街道沿いのドライブイン全てがのぼりやら大看板でアピールということはない、あくまでもさり気なく、地域に根ざしたジンギスカンの町であるといっても過言はないものと考えます。

 ところで、今回は職場での定期の異動内示が発表され、寝食を共にした当直仲間、同僚達との離散会でとあるジンギスカン専門店で美味しくいただきました。

 最後は・・・


 焼肉店の冷麺・・・・をいただいて帰宅いたしました。
 
 焼肉の仲間であるジンギスカンをいただいて、さらに〆は遠野での老舗焼肉店に移動・・・流石にカルビとかロースといった焼肉は食べませんでしたが、冷麺はまた別腹・・・汗・・・「こっつも、うんめがったじぇ」
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彼岸の中日

2006-03-21 15:00:28 | 遠野
 昨日(20日)は仙南からのお客様をお迎えしての懇親会・・・今回で3度目、新面子さんも加わって、また新たな1ページが・・・・そんな思いがいたしました。
 まずは、遠野ネタの仕入れ等が滞りなく終って、ご無事のご帰還をご祈念いたします。



 さて、明けて21日、彼岸の中日であり午前中に家族でお墓参りをいたしましたが、風が強いのなんの、線香も点けられない、春一番にしては風もかなり冷たい、ご先祖様には申し訳なかったのですが、早々に手を合わせて帰宅といったところでした。

 今朝はさほどの二日酔いもなく、墓参りを済ませたら、今年の第一弾、城館跡めぐりの予行演習を兼ねて、地元の舘跡、海上の八幡沢舘でも見てこようと考えていたが、空はスカイブルーに晴れ渡るも、時折の突風・・・また次回ということで、本日は諦め、ただコタツに入って野球をみておりました。

 
 強風で木々がなびいております。空はスカイブルー

 
 早池峰山と薬師岳

 毎年、同じ場所からこの時期顔をだす「バッケ」・・・他に5つ程確認・・・なんか土が妙に汚い感じがして、今年はバッケの天ぷらもバッケ味噌も別場所で採ったバッケでしたいと考えている。

 
 バッケ・・・・ふきのとう

 さて、次回の記事は遠野名物「ジンギスカン」の画像を予定しております。
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盛岡ブルース

2006-03-20 14:23:04 | その他
 朝の冷え込み、さらに横殴りの雪、時折の突風が吹き荒れる一日、春の嵐にしては寒い・・・・。

 「盛岡ブルース」・・

青い灯が揺れる 盛岡の夜に
     君と歩いた中の橋
      今夜の二人 素敵だわ
       ロマンチックです
        ああ・・思い出の 大通り





 さて、去る18日(土)・・・盛岡市大通りにて、昨年暮れの忘年会につづき、新年会の意味合いを込めた(暦の上では新年会ではない)懇親会を旧南部藩内に住むサイト仲間達と開催いたしました。

 忘年会は八幡町、今回は大通り・・・青江みなの盛岡ブルースではございませんが、青い灯がゆれて、野郎同士で歩いた思い出の大通り・・となりました・・笑

 今回は、忘年会時に是非に新年会も・・・ということでしたが、なかなか皆さんとの調整がつかなく、3月にずれ込んだ内容ですが、新年会というより今後の史跡、神社仏閣、城館跡の探訪計画を話し合ったというのが正しいものでもあります。
 いずれ、紫波のぱぱれもんさん、盛岡のボンネットバスさん、BADさん、八戸の睦月庵さん、そして遠野の私(とらねこ)、南部人会のような集まり、今回も濃い中身と共に各分野満遍なく色々とお話しを伺えたり、話したりと有意義な時を過ごせたと考えております。

 幸に一次会のお店では、隣客がおりませんで、いつもは南部家がどうだ、弘法大師に道元禅師、九戸政実に二階堂、小笠原の系統がどうしただの、阿弥陀如来に飛鳥寺・・・なんの集まりかと勘繰られずに済みました・・・汗・・・でも本人達はいたって真面目なんです。

 次回は江刺探訪やら遠野古刹めぐりとジンギスカン、はたまた八戸訪問と色々と今後の希望や予定も決まりかけておりますが、南部人による南部人のための集まり・・・今後も定期に集まり懇親を深めること変わりはない。

 皆さん、ご苦労様でした。

 さて、二次会まで流れて三次会は盛岡冷麺・・・「うめがったども、くるすがったじぇ」・・・食べ過ぎた感じでしたが、共に大満足の一夜でした。

 
 
 男五人の集まり・・・歴史やら宗教やら堅い内容ながら、女性のメンバーがいればまた雰囲気も変わるんだろうな・・・南部の歴史、文化、民俗に興味がある方、求む南部美人・・・汗

 
 
 中の橋のつもりが実は画像の橋は「下の橋」・・・汗


 下の橋から中の橋方向・・・・中津川


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間もなく・・・

2006-03-18 11:27:19 | 福泉寺・伝承等
 雪融けも進み、春3月・・・彼岸の入りである。
 菩提寺である福泉寺にもお墓参りの方々がちらほら・・・・



 画像は本堂方面・・・

 今月末には、春の観光シーズンへの備え、参拝者が気持ちよく入山できるようと境内全域の大掃除が行われます。


福泉寺五重塔・・・残雪が少しございます。


霊場三十三ヶ所の石仏



 我家からみた天ヶ森と高清水


 桜開花まで約一ヶ月ちょっと、間もなく陽春がやってきます。

 管理人はこれから盛岡まで出かけてきます。
 次回の更新は20日となります。
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伝承行事「春祈祷と菩提寺」

2006-03-16 08:58:10 | 福泉寺・伝承等
 平日ながら、我家の伝承行事、第一弾「春祈祷」を行いました。
 宗教的な絡みもあって春祈祷そのものの詳しい説明は省きますが、要するに春の農作業を前に、今年の豊穣、事故なく農作業等に従事できること、さらに家内安全、家族の健康等を神仏にお祈りするといった内容です。

 我家の伝承行事は・・・
 2月~3月の間に「春祈祷」・7月「愛宕神社宵宮、祭礼」・11月「ごし」
 その他・・8月「大沢不動宵宮」・9月「中秋の月見」・・・等

 さて、今年は福泉寺住職様が所用で出かけていたため、副住職様をお迎えしての春祈祷となりました。

 



 神棚にお経・・・・これぞ神仏習合の極み・・・特に真言宗やら天台宗の密教系にみられる光景ですが、幼い頃からの習慣、まったく違和感はない。

 お経の後は御神酒を回して、いよいよ宴のはじまり、今回もご近所の「はやちね食堂」のご夫妻をご案内して、夜遅くまで楽しみました。
 
 我家にいたっては農業はほとんどしておりませんが、伝承行事としての春祈祷、今後も続けて参ります。


 

 3月15日現在の福泉寺・・・



 春祈祷をはじめ、我家の伝承行事全てが菩提寺福泉寺との関わりが深いものとなっております。
 というより宗教的意味合いが強いものと受け取られますが、まさにその通りでもあります。
 我家と福泉寺との関係を考えれば、福泉寺開山以前からの関わり等によるものでもありますし、今や近所付き合いも含めまして檀家筆頭的立場と親戚以上の付き合いといっても過言はございません。

 福泉寺は開山百年に満たない新しい寺院でもありますが、遠野の古刹、早池峰山妙泉寺再興の願いが込められたお寺さんであること・・・無論、歴史有る妙泉寺の流れを伝えるお寺さんではありません。

 福泉寺の檀家さんは、附馬牛の小出の方々がほとんどでもあります。それに地元駒木の方々・・・他をあわせて60戸余り、現在檀家さんとして機能しているのは40戸とのこと・・・。

 開山当初は他宗派のお寺さんからの批難中傷、遠野の人々からの迫害・・・厳しい時代もあったようです。
 それは真言宗という宗派に一般庶民は馴染みがなかったせいもあるようです。
 真言宗は祈祷寺といわれるように昔は檀家を持たず、武家や公家達の祈祷寺として機能していた時代が長かったからでしょう・・・。
 真言宗といえば空海が開祖、日本での仏教の根本を成す宗派、他の宗派は基は天台や真言の教えから分かれたに過ぎないながら、その教え等複雑でもあり仏教の世界は難しいですね。

 いずれ、誹謗中傷の中、徐々にその名声も広がり、遠野に福泉寺ありといわれるまでになりましたが、それでもたまに福泉寺でも葬儀一切をやれるのか、とか、まともなお経読むんだろうな・・・とかの声が聞こえるときもあります。
 
 全くもって偏見であり、観光寺としてのイメージ、祈祷寺としてのイメージが与えることによるものと私は解釈しておりますが、福泉寺は立派なお寺さんです。
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379年前

2006-03-12 21:05:25 | 歴史・民俗
 寛永4年(1627)3月12日、八戸から遠野へと村替えとなった八戸弥六郎直義一行が遠野入りした日が379年前の今日ということになります。
 とはいえ、当時は旧暦ですので、実際は一ヶ月後の4月10日(9日)頃ということになると思います。

 寛永4年3月9日、早朝・・午前7時頃、先祖代々の居城である八戸根城を出立、八戸の領民達は三戸境まで八戸主従を見送ったとされ、俗にいう建武年間から寛永4年までの290年余の長きにわたり八戸を治めた八戸氏の最後の姿でもあった。
 後に八戸氏は遠野八戸氏、遠野南部氏となるのである。


 青森県八戸市新井田・新田城跡(新田八幡宮)
 根城八戸氏一族で重臣の新田氏(にいだ)の居城

 昨年秋、新井田祭りが開催、遠野からも市民が参加したようですが、取材に行くつもりが仕事で行けなくなった経緯がございました。
 遠野南部氏の八戸出立の再現パレードが行われたそうです。


 さて、3泊4日の行程、初日は福岡泊(二戸)、二日目は巻堀泊(盛岡市玉山区)・・遠野南部家の飛地だった。
 3日目は佐比内(紫波町佐比内)・・佐比内も飛地。
 4日目はいよいよ新天地遠野入り、上宮守で昼食、夕刻遠野城下、さらに鍋倉城入城となったと伝えられている。

 
遠野さくら祭りでの遠野南部氏入部行列のひとコマ

 3月12日に遠野入りした人員は大よそ50名、二日目の巻堀に着いたのは夜、難所の奥中山峠越えでは一行難儀したとされ、翌朝の出発に支障をきたすほどだったとか、さらに3日目の佐比内泊まりも夜もだいぶ遅くなっての到着、途中の盛岡での宿泊に変更しようという声も多数あったと伝えられますが、予定通り佐比内泊、長旅の、それも徒歩での者達の遠野城下入りは、入部行列での華やかさとはうってかわって、夜になって到着する者達も居て、難儀した様子が伺われる内容でもある。

 盛岡からの遠野街道、しかも遠野城下入りは綾織から下組町へと入るものと思われがちだが、当時は猿ヶ石川に愛宕橋は架けられておらず、通常は綾織砂子沢へ入って、附馬牛東禅寺に出て、駒木を通過しての城下入りだった。
 直義一行を遠野の領民の代表者達が駒木で出迎えして、それから一行も隊伍を整えて入城といわれますが、私が思うに駒木といっても矢崎から松崎、或いは忍峠から松崎に出ての城下入りだったのではと推測もしますが、これは今後の調べで明らかにしたいと思います。

 整然と遠野城下に入ったのは八戸直義他13騎だったといわれている。

 13騎
 新田内匠・作田主水・是川豊前・小笠原大蔵(13歳小姓)・四戸伝内(医師)
 類家勘左衛門・橘甚兵衛・工藤四郎左衛門・長崎藤兵衛・澤里主膳・新田正兵衛・中館兵部少・比巻沢市兵衛(松崎大学・総指揮者)

 皆様のご先祖様の名があるかもしれません・・・。
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勤続25年か・・・

2006-03-10 19:22:44 | ファイヤー
 まずお断り・・・
 画像と文章の内容はほとんど無関係です。

 朝礼時、勤続25年の賞状をいただいた。が・・・実質は26年になろうとしているも、顧みるにベテランといわれる領域も既に板に付いたと思われがちですが、日々変化する社会情勢に我仕事を取り巻く環境もかなり採用当時とは違っている。

 新人の頃、階級制度に年功序列が幅を利かせていた時代、仕事といえばお茶汲みに掃除、夕食時の下働き一切・・・鬼軍曹的な先輩、上司にどやされ、気合を入れられる毎日、市民からは暇でいつも車を洗っている職場だとか、夜の親不孝通りは○所と農○、○防○の人間が多いと陰口も囁かれた時代でもありました。
 IT化が進み、仕事もパソコンをある程度こなせなければ進まない、さらに多様化する災害、救急件数の増加、これらの対応に追われる日々に比べれば、新人当時の方がある面では楽でもあり、のんびりしていたかもしれません。

 職場もまた取り巻く環境も変化していますが、基本は何ら変わりなく、二周りも違ういわば娘や息子に近い年代の若者と寝食を共にし、四十肩にしかめ顔しながら梯子を担いで訓練やら点検に勤しんでいる、根本は全く変わっていない・・・汗



 画像は3月8日の笛吹峠頂上・・・
 野暮用があって山田町に出かけてきましたが、この日は降雪があって峠は圧雪、少し怖いと思った。

 20数年前、当時の先輩(故人)が2月の早朝、大槌からの帰りとか・・・遠野側の峠道で車がスリップして70、80メートル下の沢へ転落・・・どうみても中の人間は助からない・・・が、しかし、先輩は体中複雑骨折をしているにも関わらず、断崖を腕力だけで這い上がってきたといわれ、たまたま通りかかった土木事務所のパトロールカーに発見され、救助された・・・。
 当時の新聞には「奇跡の生還・・日頃の訓練、体力練成の賜もの・・」と絶賛された記憶があります。
 
 十年近く前までは谷底の先輩の車、確認できましたが今はどうだろう・・・



 裏六角牛山・・・笛吹峠から・・。
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